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2016/01/11

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (10)大隈重信邸にて

 

 昨日私は大隈氏の学校の開校式で講演するべく招かれた。私の演題は進化論即ちダーウィニズムで私の以前の特別学生の一人である石川氏が、私のために通訳した。講演が終ると我々は、学校のすぐ真にある、大隈氏の別荘へ招待された。これは美しい部屋のある家で、二十年前純日本風に建てられた。部屋は皆大きく美しく、床間もそれに相当した深さを持っていた。私は、大きな部屋の床間が非常に深く、懸物、花瓶、その他の装飾品も、それにつりあって大きいことに気がついていた。床間の前が名誉の席であるということは、興味があろう。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、これは明治一六(一八八三)年一月十一日で演題は「人類の起源」であった。なお、本文中の「招かれた」は底本「招れた」であるが、私の判断で「か」を送った。

「大隈氏の学校」大隈重信(天保九(一八三八)年~大正一一(一九二二)年)が、この前年の明治一五(一八八二)年十月二十一日に創設した東京専門学校東京専門学校で、政治経済学科・法律学科・理学科・英学科を設置、入学生は八十名であった。言わずもがな、早稲田大学の前身である。

「石川氏」石川千代松(ちよまつ 万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年)。既注であるが再掲する。日本の動物学者で進化論学者。明治四二(一九〇九)年に滋賀県水産試験場の池で琵琶湖のコアユ(条鰭綱キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis が陸封された琵琶湖固有のアユ。通常のアユ Plecoglossus altivelis とは遺伝的に異なるが、正式な亜種としては分類されていない。ウィキの「アユ」よれば、アイソザイム分析の結果では通常のアユ〔オオアユというこれと区別する呼称は存在する〕から分かれたのは十万年前と推定されているとある)の飼育に成功し、全国の河川に放流する道を開いた業績で知られる。以下、ウィキの「石川千代松によれば、『旗本石川潮叟の次男として、江戸本所亀沢町(現在の墨田区内)に生まれた』が明治元(一八六八)年の『徳川幕府の瓦解により駿府へ移った』。明治五年に『東京へ戻り、進文学社で英語を修め』、『東京開成学校へ入学した。担任のフェントン(Montague Arthur Fentonの感化で蝶の採集を始めた』。明治一〇(一八七七)年十月には当時、東京大学教授であったモースが、蝶の標本を見に来宅したことは本作にも既に出ており(「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 49 教え子の昆虫少年を訪ねる」)、モースにとってはこの旧知の教え子であった。翌明治十一年、『東京大学理学部へ進んだ。モースが帰米したあとの教授は、チャールズ・オーティス・ホイットマン、次いで箕作佳吉であった。明治一五(一八八二)年、動物学科を卒業して翌年には同教室の助教授となっているとあるので、この時点ではまだ「教授」でも「助教授」でもなかったものと思われる。その年、明治一二(一八七九)当時のモースの講義を筆記した「動物進化論」を出版しており、進化論を初めて体系的に日本語で紹介した人物としても明記されねばならぬ人物である。その後、在官のまま、明治一八(一八八五)年、新ダーウィン説のフライブルク大学アウグスト・ヴァイスマンのもとに留学、『無脊椎動物の生殖・発生などを研究』、明治二二(一八八九)年に帰国、翌年に帝国大学農科大学教授、明治三四(一九〇一)年に理学博士となった。『研究は、日本のミジンコ(鰓脚綱)の分類、琵琶湖の魚類・ウナギ・吸管虫・ヴォルヴォックスの調査、ヤコウチュウ・オオサンショウウオ・クジラなどの生殖・発生、ホタルイカの発光機構などにわたり、英文・独文の論文も』五十篇に上る。『さかのぼって、ドイツ留学から帰国した』明治二十二年の秋には、『帝国博物館学芸委員を兼務』以降、『天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。ジラフを輸入したあと』、明治二八(一九〇七)年春に辞した。「麒麟(キリン)」の和名の名付け親であるとされる。

「二十年前純日本風に建てられた」このモースの叙述が正確ならば、この別荘(というか大隈邸)自体の元を建てたのは大隈重信ではあり得ない(この年、明治一六(一八八三)年で計算しても二十年前は文久三(一八六三)年で大隈重信は江戸にいない)。「早稲田大学学生部『早稲田ウィークリー』」公式サイト内の大学史資料センター助教檜皮瑞樹氏の「大隈会館(旧大隈邸)」によれば、大隈は明治七(一八七四)年に早稲田に別宅を購入、明治十五年に『別宅に隣接する土地を東京専門学校開設のために入手した。大隈は、雉子橋(現在の九段下)にも本宅を有していたが、学校開校以後は早稲田を主な活動拠点とした』とあるから、これは元は江戸時代の武家屋敷ででもあったものか。所持する江戸切絵図集などを見たが、同位置を現認出来なかった。]

M756

図―758

 

 大隈氏は有名な盲人の琵琶弾奏家を雇っていた(図758)。この音楽は他の楽器に依る物と全然異り、ある種の音は哀調に充ち、心を動かした。

M757

図―759

 

 琵琶の絃馬は非常に高く、絃は絃馬と絃馬の間で圧しつけるが、その強弱によって、奇妙な、たゆとうような音色が出される。著しい音の抑揚が、この様にしてなされ、教養のある日本人も、名人の手に抱かれたこの楽器が発する、極めて美しく、そして魂を愛撫するような音色に感動して、涙を流すことさえよくある。撥はその平坦な末端にあっては、確かに一フィートの幅を持っている。しばらく弾奏した後、緑の葉を何枚か入れたコップが持ち出された。彼はその葉の一枚を取り、二本の据で下唇に押しあて(図757)、ある方法でそれを吹きながら、指の圧力を加減することによって、著しく透明な高低音を出した。私は一生懸命になって、このような音を出そうとしたが何も出来ず、しばらくやったあげく、キーツというような音を出すことに成功した。

[やぶちゃん注:後半に出るのは草笛の一種である「柴笛」である。ウィキの「草笛」によれば、『樫や椎、椿の葉の縁を巻き、唇にあてて吹く』とある。

「絃馬」原文は“The bridges”。弦楽器の柱(じ)・駒(こま)ことであるが、これを「絃馬」と漢字表記する記載には遂に巡り逢えなかった。しかし、二胡の場合は「琴馬」ともいうことが判ったから、そこから考えてみれば納得は出来る。

「一フィート」三〇・四八センチメートル。]

 

 この余興が終ると、我々は別の部屋へ案内され、そこで日本料理の御馳走が出た。私は日本で美味な料理を沢山味ったが、この時出たお吸物ほど結構なものは、それ迄に経験したことが無い。野猪の切身を入れたお吸物は、殊によかった。酢につけた生の魚肉も美味だった。私はもう一つ約束があるので、六時半、急いで退去しなくてはならなかった。

[やぶちゃん注:昭和六二(一九八七)年有隣堂刊の磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には、大隈とモースとの面白いエピソードが載る(当該書二八二=二八三頁)。やや分量があるが、長い引用部は著作権満了の石川千代松の文章であるから問題ないと考える。[ ]は磯野先生の補注である。

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]これ以前にモースは大隈邸を訪れたことがあるが、その折とこの講演の後のこととして、石川千代松は次のような話を残した。

 「或る日、私が[モース]先生を御訪問した処、お前はよい処に来て呉れた。これから大隈さんの処に陶器を見せて貰ひに行くのだから、一緒に行つて通弁をして呉れないかと申された。直ぐ先生と御一緒に牛ケ淵[九段下]の大隈さんの御宅へ伺つた。すると、[大隈]伯爵には先生を立派な洋室に通され、陶器を山の様に積んで見せられた。私が通弁をして御話をしてゐる内、伯は何を思はれたか、左様に珍しいものならば此陶器を皆献じませうと申され、其晩、先生の御宅へ車に山の様に載せた瀬戸物を送られた。尤も斯様な事は大隈伯許りでなく、其頃では誰れも先生に何にか御目にかけた時誉められたならば、あげたものと心得ろと云つていた。夫れは先生の誉め方が如何にも上手なので、此時でも先生は伯爵に向つて、一言も呉れろと云ふ様な事は言はれなかつた……[東京専門学校授業開始式でモースが講演をしたあとの宴会で、大隈伯爵が石川に向って]先日お前が通弁として宅に来られた時に見せた陶器は大事なもので、あれ等は決して先生に上げ度くはなかつたのだが、話して居る内にどうしてもあげなくてはならぬ様になつた……」。

   《引用終了》

モース先生は、褒め上手っ!]

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