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2016/01/01

梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (5)

 病院の二階の突き当りに、付添婦たちの詰所があり、炊事所や粗末な寝所があった。その手前に梯子段(はじご)があって、物干台に通じている。五郎が入院して一週間後、梯子を登ろうとすると、台上に二人の姿が見えた。一人は大正エビで、片手を頰に当てて泣いていた。夕方なので、逆光の中の輪郭だけが見える。二重に見える。大正エビをなぐさめているのは、看護婦であった。すすり泣きは断絶して聞えて来たが、会話の内容は判らなかった。五郎は高い台での展望を求めて来たのだが、段の途中で足が動かなくなる。なぜ大正エビが泣いているのか。家に戻りたいとでも言っているのか。

 逆光線のために看護婦の白衣が透けて、体の形が見えた。女体の輪郭が黒く浮き上っている。それが突然五郎の情感をこすり上げる。眺めるのに絶好の位置だったし、女が体軀を動かすにつれて、肉や皮膚のすれ合いが、自分自身の感触のようになまなましく感じられた。そういう情の動きは、この一年ほどの間、全然五郎にはなかった。

〈これだな。医者が言ってたのは〉

 抑圧がとれると、押えたものが露出して来る。入院して日が浅いから、どの看護婦か判らない。五郎は気持を押えようとした。医者の予言した通りに、あるいは薬の言うままになってたまるか! 入院の時から、五郎は心の片隅で決心していたのだ。

〈おれはそこらの人間とは違う。ふつうの人間と同じ反応は示してやらないぞ!〉

 五郎は力んでいた。無用の力みで入院して来た。やがて気持をもて余しながらも、ねじ伏せるようにして、そろそろと梯子段を降りた。部屋に戻ると、古い週刊誌を読んでいた中年の付添婦が、五郎の顔を見て言った。

「どうしたんです。眼がへんですよ」

「今朝からものが二重に見えるんだ」

 五郎はベッドにもぐり込みながら答えた。

「お薬のせいですよ」

付添婦はふつうの声で言った。

「もっとちらちらして来ますよ」

五郎は毛布を額まで引き上げて、眼をつむっていた。欲情と嫉妬が、しきりに胸に突き上げて来た。彼は毛布の耳をつかみながら、低くうめいた。瞬間、彼は瀆(けが)れた。――その後もっとひどいことがあった。ほとんど昏迷の域にあったので、詳細の記憶はない。

「ぼくの写真をとって呉れませんか」

 畠を背景にして立って、丹尾はカメラを五郎に手渡した。

「ただそのポッチを押せばいいんです」

 五郎はカメラを眼に持って行き、ファインダーの真中に丹尾の姿を置いた。そして姿を片隅にずらした。ポッチを押す。丹尾の顔の半分と、広漠たる畠が写ったと思う。それから位置をかえて三枚とる。丹尾はあまり面白くなさそうにカメラを取り戻した。

「あんたも写して上げよう」

「御免だね」

 五郎ははっきりと断った。

「こんなとこで写してもらいたくない。君はこんなとこを写して、どうするんだ?」

「兄貴にやるんですよ」

「兄貴? 生きているのかい?」

「ええ」

 丹尾が先に車に這い込んだ。

「何だか運よく他の基地に廻されてね、その中戦争が終ってしまった。今は武生(たけふ)でペンキ屋をやっています」

 車が動き出した。特攻隊からペンキ屋か。ふん、という気持がある。でも誰にもそれをとがめ立てする権利はない。そうと知ってはいるが、五郎はかすかに舌打ちをした。

「幸福かね?」

 ぎょっとしたように、丹尾は五郎の方を見た。

「幸福に見えますか?」

 丹尾は表情を歪(ゆが)めていた。

「一箇月前にね、妻子を交通事故でうしなってしまった。都電の安全地帯にいたのに、トラックの端っこが引っかけたんだ」

 丹尾は笑おうとしたが、声が震えて笑いにはならなかった。

「それで元のもくあみさ。以来酒びたりだよ。それで会社に頼んで、本社勤めをやめ、南九州のセールスマンに廻してもらった。いや。廻されたんだ。なぜぼくが羽田で、あんたに興味を持ったか、知らせてやろうか?」

「誰のことを言ってんだね?」

「あんたのことさ。あんたは自殺をする気じゃなかったのかい?」

「おれが?」

 五郎は座席の隅に身体を押しつけた。丹尾の眼は凶暴に血走っていた。

「そんな風に見えたのか」

 しばらく五郎は丹尾の眼を見返していた。

「おれは自殺しようとは全然思っていない。おれとは関係がない何かを確めようと思ってはいるけどね。しかし、奥さんを死なしたのは、君のことか?」

 丹尾は怪訝(けげん)な表情になった。

「ぼくのことじやなかったのか?」

「そうだよ。君のことなんか聞いてやしない」

 五郎は警戒の姿勢を解かなかった。他人の気分に巻き込まれるのは、今のところ心が重かった。

「武生のペンキ屋さんのことだ」

「ああ。あれか」

 がっくりと肩を落した。

「あれは幸福ですよ。兄嫁との間に四人も子供をつくってさ。しかし兄貴が幸福であろうとなかろうと、今のぼくには関係ない」

「誰だって他の人とは関係ないさ」

 五郎はなぐさめるように言った。四人も子供を産んだ中年の女を考えたが、索漠として想像までには結ばなかった。

「他の人と何か関係があると思い込む。そこから誤解が始まるんだ」

 運転手は会話を耳にしているのかどうか、黙ってハンドルを動かしている。赤い両掌で丹尾は顔をおおった。十分ほどそうしていた。五郎は窓外を眺めていた。丹尾は掌を離した。

「鹿児島一円を廻ったら、熊本に行く。阿蘇に登るつもりです」

「阿蘇にも映画館があるのかい?」

「阿蘇にはありませんよ。山だから」

 丹尾は言った。

「あんな雄大な風景を見たら、ぼくの気分も変るかも知れない。そうぼくは思う」

「うまく行けばいいがね」

 

[やぶちゃん注:「二重に見える」複視である。付添婦が後で言うように、使用薬剤の副作用である。ただ、ここで「五郎は高い台での展望を求めて来た」とあり、大正エビが泣いており、それを看護婦が慰めているのを垣間見て、「段の途中で足が動かなくな」っている。寧ろ、外的理由からそこで止まって、そっと彼らに気づかれないように音を立てずにゆっくりと病室へ戻ったのは寧ろ幸いであったと言える。複視が発生すると、遠近や段差の目測が出来なくなり、階段の昇降やただの段差であっても歩行困難に陥り、転倒の危険性が頗る高まるからである。直後に病室で付添婦が五郎に「眼がへんですよ」と言いかけ、「お薬のせいですよ」と述べているところから、付添婦も多くの患者で見慣れていることが知れる。ただ、付添婦の「眼がへんですよ」というのは、見た目の左右或いは片方の眼球位置が激しい斜視を起していることを意味しており、これは眼を動かす各種神経の麻痺症状である。現在、スルホナールは薬剤として使用されることが少ないようで、薬学サイトの詳細データをダウンロードして確かめたが、副作用の「複視」の記載はない。但し、古い資料に「眩暈(めまい)」を明記しており、催眠療法に用いたスルホナールの一般的副作用と考えてよいであろう。

「逆光線のために看護婦の白衣が透けて、体の形が見えた。女体の輪郭が黒く浮き上っている。それが突然五郎の情感をこすり上げる。眺めるのに絶好の位置だったし、女が体軀を動かすにつれて、肉や皮膚のすれ合いが、自分自身の感触のようになまなましく感じられた」夕方なので、逆光の中の輪郭だけが見える」ここは直接には前段の丹尾の特攻兵であった兄の妻の妄想にによってフラッシュ・バックしたものであるが、私はこれが「白衣」の「看護婦」、白衣の天使、であることから、実は次の章「白い花」に出る「エンゼルズトランペット」――それを示す女――への秘かな伏線であると強く感じている。

「これだな。医者が言ってたのは」これは直後の「抑圧がとれると、押えたものが露出して来る」というのを直接には指すが、寧ろ、前段で五郎の言葉として語られた、恐らくの医師のインフォームド・コンセントであったろう、「抑圧がとれると、物忘れしやすくなるのだ。と同時に、色情的になる。酔っぱらいが酒場で醜態を見せると同じことだ。その点ではズルフォナールは酒よりも強く作用する」を指すと考えた方が「色情的になる」とあって遙かに具体で腑に落ちる。

「おれはそこらの人間とは違う。ふつうの人間と同じ反応は示してやらないぞ!」私は九年前の夏、真鶴で総合学習の海岸生物観察の指導中、岩場で転倒して右手首の骨を粉砕(右橈骨遠位端骨折)し、二度の全身麻酔の手術を受けた(一回目は失敗)。麻酔をかけられる際、『俺はそう簡単にゃ眠らせられないぞ!』と思ったものだが、「三つ、数えて下さい。」と言われ、二度の手術とも「三」を数える前に図らずも口惜しくも――眠っていた。

「瀆(けが)れた」「そういう」性的欲情「は、この一年ほどの間、全然五郎にはなかった」のに、ここで突然、図らずも口惜しくも――エレクトして射精してしまった――のである。

「五郎はカメラを眼に持って行き、ファインダーの真中に丹尾の姿を置いた。そして姿を片隅にずらした。ポッチを押す。丹尾の顔の半分と、広漠たる畠が写ったと思う」このシーン、実に映像的である。太宰なんかより、遙かに映画芸術的で慄っとするほど素敵な、五郎のファインダーの中の構図ではないか!

「武生」丹尾の出身地として既出既注。

『「幸福かね?」/ぎょっとしたように、丹尾は五郎の方を見た。/「幸福に見えますか?」』この以下のやり取りでは五郎が健常者で、丹尾の反応が奇異であることが読者によく判るように描写されている。しかし直後にチグハグな応答をした丹尾の地獄が明示されることで、読者はそちらに吃驚する(それによって丹尾への読者の違和感は寧ろ急激に緩められ、五郎に対するのと同等或いはそれ以上の同情や憐憫が人によっては五郎の分身である丹尾には齎されるように、作者によって仕組まれているのである。

「一箇月前にね、妻子を交通事故でうしなってしまった」丹尾の挙動の不審さがここで初めて理解される。五郎同様、丹尾もやはり聖痕(スティグマ)――心傷(トラウマ:trauma)としての「死」のスティグマを持っているのである。

「おれは自殺しようとは全然思っていない。おれとは関係がない何かを確めようと思ってはいるけどね」「おれは自殺しようとは全然思っていない」これは言葉通りにとってよい。彼は精神変調を起して始めた初期も「ふっと気がつくと、考えていることは『死』であった。死といっても、死について哲学的省察をしているわけでない。自殺を考えているのでもない。ただぼんやりと死を考えているだけだ」と述べており、自殺願望を匂わせるようなものは、ここまで一ヶ所もないと言ってよい。但し、「おれとは関係がない何かを確めようと思ってはいる」というのは丹尾への警戒心が負荷としてかかっている慎重な隠蔽である。五郎は自分の精神の変調の濫觴にあるものを捜し求めに来たのであって、謂わば今の「おれ」という、惨めに狂人のレッテルを貼られ、人間扱いされていない「おれ」という存在の、正当な真実を、明らかにして呉れるはずの、あるもの――ある記憶を――「確めようと思ってはいる」のである。

「誰だって他の人とは関係ないさ」「他の人と何か関係があると思い込む。そこから誤解が始まるんだ」五郎の名言集の一つである。

『「阿蘇にも映画館があるのかい?」/「阿蘇にはありませんよ。山だから」』面白い会話である確かに阿蘇「山」には映画館はないに決まってる。私は「元炭鉱があったから、阿蘇「周辺」には映画館はそれなりにあったろうに?」と呟いたのだが、その「元炭鉱があった」というのは、実は大好きな「空の大怪獣ラドン」(東宝昭和三一(一九五六)年公開)の設定が阿蘇山にある大規模な炭鉱だったからであった。ところが! 阿蘇に炭鉱はなかった! 江島達也氏の「アトリエ隼 仕事日記」の『「空の大怪獣ラドン」のロケ地だった鹿町炭鉱』に『阿蘇の近くにある鉱山から、ラドンが孵化するという設定なのですが、実際には阿蘇近郊に炭鉱等がなかった為、ロケ地として、長崎県北松浦郡の鹿町炭鉱がロケ地として選ばれています』とある! なお、同炭鉱があった北松浦郡鹿町町(しかまちちょう)はもとは「ししまち」と読み、「しかまち」と読みを変えたのはこの「ラドン」公開の二年後であるから、厳密には鹿町(ししまち)炭鉱と読むべきと思われる、なお、江島氏によれば同炭鉱は昭和三八(一九五三)年に閉山、町からは映画のような賑わいは失われたとある。なんとなく淋しい。なお、「FORBIDDEN KYUSHU」の「佐世保市:日鉄鉱業鹿町炭鉱 #3[ラドンに見る鹿町炭鉱の風景]」も必見!(すまないが私は特撮オタクなんである)]

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