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2016/01/11

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (8)辻占煎餅

M754

754

 

 米国にもあるが、日本にはある種の格言を入れた菓子がある。図754は三角形の菓子の中に入ったものを示す。これは糖蜜で出来ていてパリパリし、味は生姜の入っていないジンジャースナップに似ていた。格言を意訳すると「決心は巌(いわお)でも徹(とほ)す、我々が一緒になれぬことがあろうか」となる。これを訳した同氏は私に、これ等の格言が普通恋愛や政治に関係があることと、これは昔から行われつつあることとを話した。私は子供の時米国で、恋愛に関する格言を入れた同様な仕掛を見たことを覚えている。

[やぶちゃん注:これは「辻占煎餅(つじうらせんべい)」と呼ばれる、御神籤(おみくじ)を中に挟み込んだ巻き煎餅である。現在でも各所に残っていることがネット検索で判るが、モースのスケッチに最も近いと思われるのは、例えば miwadorami 氏のブログ「どすこいスイーツ道場」の「新年の縁起菓子 辻占(つじうら) 金沢」かと思う(画像有り)。『金沢のお正月用の縁起菓子です。辻占(つじうら)と言います』。『花のような形をしたせんべいの中に小さな札が入っているんです。桃、白、黄、抹茶もち米せんべい』で、『縁起の良いもの、教訓的なもの、艶がかったものが、謎かけめいた絵や文字で刷られています。中には一見しただけでは分かりにく』い『ものもありますが、どのような意味があるかは、自由に解釈すればよいのだとか』とある。ブログ主もそこで述べておられるように、アメリカ合衆国・カナダの中華料理店において食後に提供されることが多い、御神籤入り菓子の「フォーチュン・クッキー」(fortune cookie)と呼ばれるものと同じであるが、参照したウィキフォーチュン・クッキーによれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、これは『中国本土では見られなかった習慣であることから、日本の江戸時代の菓子が移民によってアメリカに持ち込まれたとする説が有力だが、第二次大戦時の強制収容によって日系移民の店が姿を消したことから、中国人経営の店で引き継がれ、アメリカ全土に広まったため、アメリカ文化のひとつと言える』とある。『二つ折りにして中に短い言葉を表記した紙を入れた形状は、日本の北陸地方などにおいて新年の祝いに神社で配られていた辻占煎餅に由来するもので、神奈川大学日本常民文化研究所の研究によると、一九一〇年から一九一四年』(明治四十三年から大正三年)『の間に、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・パーク内にある日本庭園(ジャパニーズ・ティー・ガーデン)を設計・運営した庭師の萩原眞によって持ち出され』、『アメリカに普及させられたとされている』。『ジャパニーズ・ティー・ガーデンは、一八九四年に開催された国際見本市のアトラクションとして建設され、その後恒久の庭園となった。庭園やその敷地内の茶屋を運営していた萩原は、訪れた客にお茶請けとしてこの煎餅(英語ではJapanese cookieという)を提供した。萩原は鋳物の型を使って生地を手焼きし、自分たちで英語の占いを書いた紙片を入れていた。萩原とその家族は特に金儲けのことは考えていなかったので、このフォーチュン・クッキーに関する一切の特許を取っていなかった。一九一五年、サンフランシスコで開かれたパナマ万国博覧会に出品され一般に知られた。萩原は、一九一八年に菓子屋の「Benkyodo」に製造を任せ、第二次世界大戦勃発まで同店がジャパニーズ・ティー・ガーデンでのフォーチュン・クッキーの提供に当たった。キャサリン・ダテという日系女性の証言によると、一九二〇年ごろ、彼女が中華料理店で日本のフォーチュン・クッキーを開けて友人と談笑していると中国人にそれは何かと尋ねられて答えたところ、その数週間後、その中国人がリトルトーキョーの菓子店「Shungetsudo」でフォーチュン・クッキーを買い占めたことを知り、その後、中華料理店で食後にフォーチュン・クッキーを出しているのに気が付いたという。一九二四年にロサンゼルスで創業した煎餅屋「Umeya」ではフォーチュンクッキーの大量生産を始め、戦前まで市内百二十~百五十軒の日系の飲食店に卸していた。こうした娯楽的な占い付きの菓子は、日本では江戸時代から酒席や宴会によく出されるつまみのひとつだった』。『第二次世界大戦後、いくつかの中華料理店がこの煎餅を取り入れ、フォーチュン・クッキーが一般的なものとなった。フィッツアーマン・ブルーの研究によると、アメリカ全域で行われるフォーチュンクッキーサービスは、第二次世界大戦直後のチャプスイレストランから始まったとされるが、戦前には日系移民によるチャプスイ店も多く、上述のUmeyaなどが占い付き菓子を納品していた(チャプスイとは、肉と野菜を炒めてとろみをつけたアメリカ風中華料理で、当時人気だった)。第二次大戦の日系人強制収容によりこうした日系チャプスイ店は閉鎖されたが、フォーチュンクッキーのサービスはその他のチャプスイ店で残り、戦時中にサンフランシスコに駐屯した兵士たちが帰郷後、それぞれ地元の中華料理店に伝え広まったと言われている』。『また、機知に富んだフォーチュン(おみくじ)を、ふたつ折りの菓子で包む欧米式フォーチュンクッキー(Fortune Cookies)の原型は、中国の広東地方にみられる。ヨーロッパの大都市にある中国レストランも、砂糖・ココナッツ・アーモンドの入ったこの「広東式」クッキーを供するところから月平餅の表面に「二重の幸運」の文字を型で写す習慣があった。一般の者に対し、フォーチュンには現在のアメリカでよく見られる様な紙に印刷したものが、また高貴な者には、銀の鈴に刻印されたものが使われていた。今日の中国では、文字の意味する内容は様々になったものの、型で文字をつけるという伝統は今でも受け継がれている』。『二〇一〇年代現在では多くの飲食店で、食事後の口直しとしてフォーチュン・クッキーが出されるようになった』とし、『元々は日本の文化を取り入れたフォーチュン・クッキーであったが、上記のような経緯から、中国の習慣であると誤認しているアメリカ人も少なくない。ただし、中国ではフォーチュン・クッキー自体知られていない』とあるが、これは全く以ってアメリカには同様な習慣はもともと全くなかったという書き方だが、本当にしれは正しいのだろうか? 百三十四年前の同国人モースは、見たことも聴いたこともない珍しいものだとは言っていない。寧ろはっきりと、『私は子供の時米国で、恋愛に関する格言を入れた同様な仕掛を見たことを覚えている』と言っているではないか。なお、図754の下の御神籤は「第七十七吉」で、

 

 おもふねんりき

  いハをもとほす

 そふてそハれぬ

  ことハない

 

と私は判読する。

「ジンジャースナップ」底本では直下に石川氏による『〔生姜入の薄い菓子〕』という割注が入る。“gingersnap”(原文)はショウガで香りをつけたパリパリした丸いクッキーを指す。]

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