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2016/01/28

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (18) 名奉行板倉勝重の逸話

 高嶺が私に、第一代将軍の時代の有名な裁判官、板倉に関するよい話を聞かせてくれた。彼は証言を聞く時、衝立の後に坐り、同時に茶を挽いた。石白はまったく重く、茶を適宜にひくためにはそれをゆっくり廻さねばならぬ。彼は偏見を持つといけないので証人の顔を見ぬように衝立の後に坐り、また感情を抑制していなければならなかった。つまり、興奮して、石臼を余り速く廻せば、粉末茶を駄目にして了うからである。

[やぶちゃん注:「高嶺」何度も登場している高嶺秀夫。既注

「第一代将軍の時代の有名な裁判官、板倉」とは初期の江戸町奉行・京都町奉行として活躍した名奉行板倉勝重(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)のこと。ウィキ板倉勝重によれば、『優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行と言えば誰もが勝重を連想した』とある。『板倉好重の次男として三河国額田郡小美村(現在の愛知県岡崎市小美町)に生まれる。幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。ところが』永禄四(一五六一)年に『父の好重が深溝松平家の松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟の定重も』天正九(一五八一)年に『高天神城の戦いで戦死したため、徳川家康の命で家督を相続した』。『その後は主に施政面に従事し』、天正一四(一五八六)年には『家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行』、同一八(一五九〇)年には『家康が関東へ移封されると、武蔵国新座郡・豊島郡で』一千石を給され、『関東代官、江戸町奉行となる。関ヶ原の戦い後の』慶長六(一六〇一)年、三河国三郡に六千六百石を『与えられるとともに京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。なお、勝重が徳川家光の乳母を公募』、『春日局が公募に参加したという説がある』。慶長八(一六〇三)年、『家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下・伊賀守に叙任され』、同一四(一六〇九)年には『近江・山城に領地を加増され』て一万六千六百石余を知行、『大名に列している。同年の猪熊事件』(複数の朝廷の高官が絡んだスキャンダルで、公家の乱脈ぶりが暴露されただけでなく、直後にウィキに述べられているように、江戸幕府による宮廷制御の強化や後陽成天皇の退位の契機ともなった事件である)『では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した』。慶長一九(一六一四)年からの『大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件』(同年七月二十六日に家康が豊臣氏滅亡を狙って挑発した謀略。豊臣秀頼が家康の勧めで方広寺大仏を再建した際、同じく鋳造した鐘の銘文中「国家安康」の字句が家康の名を分割し、身を切断する象徴と見做して徳川氏を呪詛するものと指弾、「君臣豊楽」の文字は豊臣家の繁栄を祈願しているとして非難、大仏開眼を延期させて豊臣方を憤激させた事件である)『では本多正純らと共に強硬策を上奏。大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった』。元和六(一六二〇)年、『長男の重宗に京都所司代の職を譲った』。『勝重と重宗は奉行として善政を敷き、評価が高かった。勝重、重宗の裁定や逸話は『板倉政要』という判例集となって後世に伝わった。その中には後の名奉行大岡忠相の事績を称えた『大岡政談』に翻案されたものもある。三方一両損の逸話はその代表とされる。また『板倉政要』も、明の『包公案』『棠院比事』などから翻案された話が混入して出来上がっている』。但し、「板倉政要」の成立は元禄期とされ、『成立の経緯には、名奉行の存在を渇望する庶民の思いがあったと』され、『公明正大な奉行の存在を望む庶民達の渇望が、板倉勝重、重宗という優良な奉行に仮託して虚々実々を交えた様々な逸話を集約させ、板倉政要を完成させた』ものであるとある。]

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