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« 「笈の小文」の旅シンクロニティ――旅寢して見しや浮世の煤はらひ 芭蕉 | トップページ | 梅崎春生 詩 「春」   (初出形復元版) »

2016/01/15

梅崎春生 詩 「時雨」   (初出形復元版)

 

   時  雨

 

          梅 崎 春 生

 

 薄明の道。落葉たたいて葬列のごと傷ましくも時雨が降つた。私は一人の旅人となり、すずかけの並木道に蹌踉と行き暮れた。さうして谷をわたり野をはしる時雨の姿に、も一度私の感光紙を用意した。三脚の上で、私はも一度私の視野を固定した。ああ、私の季節のアルバムに、かくも打煙る空白の蠟板。――――

 

 いつの日か渡鳥のひとみして生きて居た少年の頃から、汪洋として時間の流れが空間にしぶいた。その流れよ、私は座標を失ひ、大虛の星座に位する一個の暗黑星であつた。軌道を外れ、絶望の光茫を放ちながら地平に落下する一個の流星であつた。

 

 記憶の底で私は汽車となり、月夜の曠野を北に奔つた。季節の忍びやかな去來に、涙が多くなつた頃であつた。錆ついたナイフかざして空しく死を想ふ日があつた。さうして情熱を失つても猶生きて行かうと唇歪めて獨語する私であつた。

 

 行き暮れて私は此處に時雨の音を聞いた。樂しみなき、苦しみなき、喜びなき、惱みなき、白い生活の映寫幕に、私の日記は空虛な影像となつて打ちふるえた。しかしその時、私の胸の中に打ちたてられて居た一つの洋館の、蔦茂る西の窓に、幾年古ぼけた洋燈があかあかと點つた。

 

 さてこそ昨日まで足の下を白く流れて居た此の道が、蕭條たる時雨の中にくろぐろとその跡を絶つた。そうして蒼白い額して喪心する私の眼のコダツクに、かくも茫漠として薄明の風象が沈下して行つた。――

 

 薄明の道。落葉たたいて葬列のごと傷ましくも時雨が降つた。私は一本のすずかけの木の下に、海盤車のやうに默然とすわつた。私は私の迷走神經の上を紙魚のやうに走り去る一つの戰慄を知つた。やがて私は聞くであらう。苔の花のやうに戰いて居た私の心臟が、轟然と音立てて靑空の彼方に崩れる音を。

 

[やぶちゃん注:昭和九(一九三四)年十一月二十五日第五高等学校龍南会発行『龍南』二二九号に所載された初出形(発行日は「熊本大学附属図書館」公式サイト内の「龍南会雑誌目次」により確認)。底本は「熊本大学学術リポジトリ」内の同初出誌誌面画像229-006.pdfを視認、活字に起こした。第四段落(第四連)の「映寫幕」は底本では「映射幕」であるが、映画のスクリーンをこうは書かない。春生の誤記か誤植であろうと思われ、読むにいらぬ躓きを起こすため、ここは昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第七巻所収の同詩篇の「映写幕」により、かく補正した。同「打ちふるえた」はママ。第五段落(第五連)「そうして」はママ。

 「蠟板」原義は、ローマ人の発明した、木や象牙で作った小さな板の表面に蠟を引いてスタイルス(stylus)という尖った棒状の筆記用具で蠟を搔き取って書く書写材(ノートやメモ帳として十八世紀末までヨーロッパで使用された)を指すが、ここは「感光紙」「三脚」「視野を固定」「アルバム」の語句から、春生は写真湿板、コロジオン・プロセス(Collodion process)のことを指しているのではないかと私は思う。ウィキの「写真湿版」によれば、「コロジオン湿板」或いは単に「湿板」とも称し、古い写真撮影で『用いられた感光材料の一種で、ヨウ化物を分散させたコロジオンを塗布した無色透明のガラス板を硝酸銀溶液に浸したものである。湿っているうちに撮影し、硫酸第一鉄溶液で現像し、シアン化カリウム溶液で定着してネガを得る』。一八五一年に『イギリスのフレデリック・スコット・アーチャー(Frederick Scott Archer)が発明した。露光時間が』五〜十五秒と短いこと、一枚の『ネガから何枚でもプリントできたことからダゲレオタイプ』(Daguerréotype(フランス語):銀板写真のこと。一八三九年にフランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(名は彼の名由来)によって発明された世界初の写真技法。銀鍍金された銅板上にヨウ化銀を塗布することで感光性を付与して水銀蒸気によって写像を現像する技法。金属板の表面に直接像を焼き付けるために複製不可能な一枚限りの写真となる。また、感光面から鑑賞するために左右反転画像となり、また、見る角度によってはポジ或いはネガ像になったりする。参照したサイト「アートスケープ」の「アートワード」の小原真史氏のこちらの記載によれば、『鏡のように魔術的な輝きを放つダゲレオタイプは「記憶をもった鏡」とも呼ばれ、主に肖像写真として欧米を中心に流通した。像が非常にデリケートなため、専用のケースや額に入れられ、指紋や外気に触れないように表面はガラスで保護されて鑑賞された』とある)『を駆逐したが、撮影直前にガラス板を濡らし、乾く前に現像する必要があるため、乾板の登場とともに市場から姿を消した』とある。

 「汪洋」「わうやう(おうよう)」と読む。原義は、水量が豊富で水面が遠く広がっているさまで、そこから、広義にゆったりとしたさま、広々と大きいさまになるが、ここは時間の流れの空間への飛散浸透という特異な比喩で、原義の使用である。

 「大虛」「太虛」とも書き、「たいきよ(たいきょ)」で、原義は古代中国の宇宙観に於ける宇宙の真の本体とされる「気(き)」の根元的な形態を指し、「気」が遍く散じて全一な空虚になっている状態を指すようであるがが、ここはそこから派生した広義の虚空・大空の謂いと採ってよかろう。

 「洋燈」沖積舎版は「ランプ」とルビする(根拠は不明)。

 「コダツク」世界で初めてロール・フィルム及びカラー・フィルムを発売したメーカー、イーストマン・コダック・カンパニー(Eastman Kodak Company)の通称社名と商標。写真や映画の代名詞としても一般に用いられた。ウィキの「コダック」によれば、一八八〇年(明治十三年相当)に『ジョージ・イーストマンによって写真乾板製造会社として創業』一八八八(明治二十一)年には『ジョージ・イーストマンが「コダック」の使用を開始。同時に「あなたはボタンを押すだけ、後はコダックが全部やります」という触れ込みで市場に参入』、一八九二年(明治二十五)年には『「イーストマン・コダック社」を設立』した。一九〇〇(明治三十三)年には。子供をターゲットとした、ロールフィルムを用いた「ブローニー」を一ドル『発売し、大衆に写真を一気に普及させた』。一九二一(大正十)年には、『シネコダックとして、小型映画の規格』「十六ミリ・フィルム」を発表、一九三二(昭和七)年には『「シネコダック8」として、のちに「ダブル8」と呼ばれる小型映画の規格を発表』していた。即ち、この「コダック」は「写真」ではなく「シネ・キャメラ」を指す換喩であることが判る。さればここで春生の言う、「さてこそ昨日まで足の下を白く流れて居た此の道が、蕭條たる時雨の中にくろぐろとその跡を絶つた。そうして蒼白い額して喪心する私の眼のコダツクに、かくも茫漠として薄明の風象が沈下して行つた」の部分、いや、それ以前の映像も含めて(写真印象の強い初段(初連)を除いて――但し、これも写真機を持ち出す「私」を動画として写していると考えれば最初から、である――第二段落(第二連)以降のそれ、或いは少なくとも「映写幕」の出る前段(前連)とここ)、その総てのイメージが映画フィルムの映像として詩人によって確信犯で動画処理されているのだと読むべきことが判明すると言える。

 「風象」聴き慣れぬ単語であるが、全時空間を含むところの、風景・形象、さらには詩人の心内に投射される全印象(イメージ)の謂いであろう。

 「海盤車」「ひとで」と読む。棘皮動物門星形動物亜門 Asterozoa のヒトデ類である(中国の本草書以来の呼称であるが、これには中国でも日本でも古くから混乱があり、実際にはヒトデだけではなく、ウニ類のタコノマクラ・カシパン・ブンブク類、ヒトデ類ながらヒトデには見えない面妖なイソノテヅルモヅル類の呼称でもあるが、フリークの私がそれを語り出すと大脱線のエンドレスになるので、グッと我慢の私となることとする)。

 「迷走神經」脳神経の一つで、副交感神経や咽頭・喉頭・食道上部の運動神経、腺の分泌神経などを含み、延髄を起点とする。脳神経でありながら、体内で多数に枝分れして複雑な経路をとって腹腔内にまで広く分布を持つことから、かく名が附せられた。内臓に多く分布していて体内の環境をコントロールしているが、強い痛みや精神的ショックなどが原因で迷走神経が著しく刺激されると同神経系が過剰に反応し、心拍数及び血圧低下や脳貧血などを惹き起こして失神などの症状を呈する(以上は看護師求人転職サイト「看護roo!(カンゴルー)」の「看護用語集」にある迷走神経を参考にした)。但し、春生は単にこの「迷走」という呼称に惹かれ――多分に神経症的な感じで――体内の隠れた隅々のあらゆる感覚へ瞬時に伝わる神経系統を漠然とイメージしているように思われる。

 「紙魚」老婆心乍ら、「しみ」と読む。本を食うとされた昆虫綱シミ目 Thysanura に属するシミ(紙魚)類に擬えた和訳である。シミ類は、やや偏平で細長い涙滴形形状や体表面に銀色の鱗片が一面に並んでいる点、そして古くから本を食害すると思われていたことから「紙魚」と書かれる(英語では“silverfish”)。人家に生息する種は確かに障子や本・和紙の表面を舐めるように食害はするものの、目立った食痕は残さない。実際に書物に縦横のトンネル状の孔をあけて食い荒らすのは、鞘翅目多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科Anobiidae に属するシバンムシ(死番虫)類である(以上は概ねウィキの「シミ目」に拠った。因みに、気になる方のために。ウィキの「シバンムシによれば、和名「死番虫」は『死の番人を意味するが、これは英名のdeath-watch beetleに由来する。ヨーロッパ産の木材食のマダラシバンムシ』属Xestobium 『の成虫は、頭部を家屋の建材の柱などに打ち付けて「カチ・カチ・カチ……」と発音して雌雄間の交信を行うが、これを死神が持つ死の秒読みの時計、すなわちdeath-watchの音とする迷信があり、先述の英名の由来となった』とある)。なお、ここで春生が「私は私の迷走神經の上を紙魚のやうに走り去る一つの戰慄を知つた」と言っているのは病跡学的には非常に興味深いと私は思っている(なお、シミ類はまさに神経に入り込んで素早く走りそうに見える実際の形態と生態を持つことは事実ではあるから、この比喩対象自身は奇異ではない)――奇体な魚のような形をした奇体な「虫」が神経を走って逆(さか)撫でする――のである。「虫」を幻視するのは精神疾患としてはオーソドックスなもので、知られる一般的なものでは、統合失調症や常習的な酒の過飲によるアルコール依存症及びそれが進行したアルコール性精神病にしばしば見られ、春生の遺作「幻化」の主人公久住五郎も虫幻視の症状に苦しめられている。後年の梅崎春生自身にも実際の症状としてあったものと考えてよく、ここは詩のイメージに過ぎないものの、十九歳当時のイメージの中にこうした精神的な違和感が実際にあった可能性も排除は出来ないからである。

 なお、この号も梅崎春生が編集人として参加している。彼の「編輯後記」も電子化しておく。

   *

詩、歌、俳句は、その選を上田先生にお願ひして、掲載の諸篇を選び出すことが出來ました。上田先生に深く感謝致します。併せて投稿された諸兄の勞を多とし、且つ將來の精進を期待するものです。   (梅崎)

   *

今までもそうなのであるが、本誌の掲載作品は五髙の教授らによって選ばれて掲載されてきたものである。さればこそ、梅崎春生も自身の詩がずっと載り続けていることへの抒情詩人然とした自負心は当然の如く、あったのである。なお、「上田教授」というのは、別入手の資料からは、当時の英語担当であった上田良吉教授のことと思われる。]

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