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2016/01/18

カロ三代   梅崎春生

カロ三代   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和二七(一九五二)年十月号『小説新潮』に掲載されたが、単行本には収録されなかった。小説というよりは実在の人物が実名で登場するエッセイに近い実録市井物で、実際に梅崎春生の猫好きは有名であった。この当時は世田谷に住んでいたかと思われる。「カロ」と言えば、「輪唱」「猫の話」に登場する猫の名であるが、あれは先立つ四年前昭和二三(一九四八)年の九月号『文芸』に発表されている。当時、春生三十七歳。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第三巻を用いた。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 結構、残酷なので猫好きの方は読まない方が無難であろう。

 以下、先に簡単な注を附しておく。

 「今年の六月二十四日か五日頃」本篇時系列から発表の昭和二七(一九五二)年六月。

 「岩崎栄」フル・ネームで出しているので、作家岩崎栄(さかえ 明治二四(一八九一)年~昭和四八(一九七三)年)であろう。岡山県児島郡琴浦町(現在の倉敷市)の農家の次男として生まれ、岡山商業学校(現在の岡山県立岡山東商業高等学校)を卒業後、郷里の商工学校で教えたりした後、上京、早稲田大学予科及び明治大学中退で帰郷、『岡山新聞』『大阪時事新報』支局の記者を経、大正九(一九二〇)年に『大阪毎日新聞』に入社、昭和三(一九二八)年には『東京日日新聞』社会部に転じ、社会部副部長を務め昭和一四(一九三九)年に退社した。その間、昭和九(一九三四)年に「佐山栄太郎」のペン・ネームで『改造』に発表した「天保忠臣蔵」が翌年に片岡千恵蔵によって映画化されて評判となった。当初は「広田弘毅伝」(昭和一一(一九三六)年)などの政治家伝などを書いていたが、戦後はエロティック歴史小説に手を染めた。代表作は「徳川女系図」シリーズなど(ウィキの「岩崎栄」に拠る)。

 「悠容迫らず」通常は「悠揚(ゆうよう)迫らず」で「ゆったりとしてこせこせしないさま」を意味するが、「悠容(ゆうよう)迫らず」の表記もネット上には散見する。但し、これは思うに、「危急の際でも慌てて騒いだり焦ったりせずに落ち着いているさま」を意味する「従容(縦容)(しょうよう)」(一般の慣用句では「従容として」と使う)の「従(從)」と何となく漢字も音も類似していることから、それを「悠揚」と混同して「迫らず」にうっかり繋げてしまった慣用句のようにも見受けられないではない。まれに見受ける「従容として迫らず」という表現は如何にもヘンで、「それって『悠揚迫らず』じゃないの?」と言いたくなるからである。

 「毒団子」殺鼠用のものと思われるが、「猫いらず」などの黄燐、リン化亜鉛や硫酸タリウムの急性毒性の強いものが仕込まれたものであったのだろう。

 「三尺」約九十一センチメートル弱。

 「縞蛇」爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata。全長八〇センチメートルから大型個体では二メートル近くなるものも稀にいる。無毒。私は昭和三二(一九五七)年生まれで、幼稚園の頃は練馬の大泉学園に住んでいたが、近くの弁天池やその向うに広がっていた田圃近くには無数のシマヘビがいてよく獲ったものである。

 「吉田時善」(ときよし 大正一一(一九二二)年~平成一八(二〇〇六)年)。小説家。鹿児島県生まれ。東京商科大学卒業。戦後に大地書房(春生の単行本「桜島」の出版社)に勤め、和田芳恵と『日本小説』を創刊、昭和二五(一九五〇)年に『新潮』に「鍾乳洞」を発表した。他に「地の塩の人 江口榛一私抄』(昭和五七(一九八二)年)など(江口榛一は春生の「桜島」の初出誌『素直』の編集長でもあった)。文脈から判ると思うが、『隊商』は彼の所属した同人誌名である。

 「斎藤茂吉の『自動車に轢かれし猫はぼろ切れか何かのごとく平たくなりぬ』」これは恐らく、茂吉の第十歌集「白桃(しろもも)」(昭和一七(一九四二)年刊)の昭和九(一九三四)年のパートにある(引用は一九五八年岩波文庫刊山口他編「斎藤茂吉歌集」を参考に漢字を恣意的に正字化した)、

 

    一區切をはりたれば人麿評釋の筆を

    おきてしばらく街上を行かむとす

街上(がいじやう)に轢かれし猫はぼろ切(きれ)か何かのごとく平(ひら)たくなりぬ

 

の記憶違いであろう。

 「アサクラ山椒」ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ品種アサクラザンショウ(朝倉山椒)Zanthoxylum piperitum forma inerme 。サンショウの棘のない栽培品種である。

 「鯨尺」かつて主に布を計るのに用いられた物差し。鯨尺の一尺は、通常使われた曲尺(かねじゃく)の一尺二寸五分で現在の約三十七・八センチメートルに相当するから、鯨尺「三尺」は百十三・四センチメートルであるから、尻尾まで入れてとしても確かに「巨大な猫」と言える。

 「当歳の男児」昭和二六(一九五一)年五月に誕生した春生の長男知生(ともお)。「当歳」は「とうさい/とうざい」で、ここはその年生まれの数え一歳の意であるから、このシーンのロケーションは同年末か。

 「画家の秋野卓美」(大正一一(一九二二)年~平成一三(二〇〇一)年)「立軌会」同人。元「自由美術協会」会員。後で「画伯は若い」と出るように、春生(大正四(一九一五)年生)より七つ年下である。作家色川武大とは麻雀仲間。

 「誰かの小説に、猫の耳を見ていると、切符鋏でパチンと穴をあけたくなる、というようなことが書いてあった」梶井基次郎の「愛撫」(リンク先は私の古い電子テクスト)。

 「鱸(すずき)」脊椎動物亜門条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus 。肉食性の沿岸性大型海水魚であるが、河川のかなり上流域にまで棲息する。出世魚として知られるが、海水魚の多くがこのスズキ(パーチ)目Perciformes に属することはよく知られているとは思わないので、特に注しておく。

 「コイコイ」花札の二人遊びのゲーム。手札の花と場札の花を合わせてそれを自分の札とし、獲得した札で出来役を成立させ、得られる得点を競うもの。花札では最も代表的な遊び方であるが、流行は昭和以降。役が出来れば、勝負を終わらせてもよいが、まだ手札が残っていて、より上位の役が出来ると思った際、「来い! 来い!」と相手を煽ることに由来する。
 
 「無防備都市」一九四五年製作公開のイタリア・ネオレアリズモの名作、ロベルト・ロッセリーニ監督作品
Roma città aperta(原題の意は「開かれた都市ローマ」)。日本公開は昭和二五(一九五〇)年十一月。第二次世界大戦末期のドイツ軍が制圧中のローマでのレジスタンスを描く。作中、主人公のレジスタンス指導者マンフレーディはゲシュタポの拷問を受けて絶命する(ここはウィキ無防備都市を参考にした)。因みに、連合軍によるローマ解放は一九四四年六月五日。]

 

 

    カ ロ 三 代

 

 

 私の家は、猫運にめぐまれていない。

 この三年ばかりの間に、三匹猫を飼い、三匹とも次々に死んで行った。三匹と言っても、一時に三匹飼ったのではない。一匹が死ねば、次にまた一匹補充するという具合にして、つまり三代にわたって、飼ったわけである。名前も、最初のやつをカロと言ったから、二代目三代目も、それを引継いで、同じ名前のカロ。この三代目のカロが死亡したのは、ついせんだって、今年の六月二十四日か五日頃と推定される。それ以後、私の家は、猫を飼わない。

 妙なもので、初代二代目カロの毛並や顔かたちを、私はもう覚えていない。全然忘れてしまっている。憶い出そうとすると、すぐ三代目の風貌にかさなってしまう。

 初代のやつは、近所の岩崎栄さんの家から、生れたばかりのを貰ってきた。べつだん可愛がろうと思って貰ったのではなく、家に鼠が跳梁(ちょうりょう)して困ったからだ。実際その頃、家には鼠がたくさん棲んでいた。その鼠族の首領みたいな老鼠などは、大きさも仔猫ほどもあり、そいつが平気で、寝ている枕もとなどを歩き廻ったりする。悠容迫らず、一種の威厳さえ具ええいた。私はこの老鼠を憎んだ。どうにかして捕えたいと思ったが、こいつはなかなか智能が発達していて、鼠捕器などには、絶対にかからない。素手でとらえようなど、動作のにぶい私には、不可能のことである。私たちはこの老鼠を、『猫もどき』という渾名(あだな)で呼んでいた。軀(からだ)が大きく、猫ほどもあるからである。この猫もどきを頭(かしら)にいただく鼠聯隊(れんたい)や予備隊が、日毎夜毎、柱をガリガリ齧(かじ)り、押入れの壁に穴をあけ、食物や衣類などをめちゃめちゃにしてしまうのだ。机の上の、原稿用紙を齧られたことさえある。苦心してやっと書き上げた小説を齧られては、私でも腹が立つ。

 初代カロが、この猫もどきを仕止めたのは、家に来て半年後である。日記にまでつけてあるところを見ると、私もよほど嬉しかったのであろう。「近来の快事なり」などと記してある。

 猫もどきが死んで以来、鼠族の跳梁は頓(とみ)に減少し、間もなくすっかり居なくなったようである。初代カロは、実に機敏な猫であったし、また首領を殺された関係もあって、天井裏の聯隊は、赤城山の忠次一味みたいに、思い思いの方向に四散して行ったのだろう。鼠というものは、不利な環境には、絶対に棲まない動物である。

 その初代カロは、それから一年後、近所で仕掛けた毒団子か何かを食べたらしく、物置の中で斃死(へいし)していた。遺骸は庭のすみに、私が埋葬した。墓などはたててやらない。埋めただけである。今はそこに、蕗(ふき)を植えているが、よく育つし味もいい。遺骸が地下で分解して、肥料の役目を果たしているのだろうと思う。

 それから直ぐ、また猫を飼った。これは雌猫で、あまり特徴がなかった。ヘビやトカゲが大好物らしかったが、家の中に持込んで来るのには困惑した。三尺ばかりの縞蛇(しまへび)を、書斎にくわえ込んできて、私の眼の色を変えさせたこともある。その縞蛇はまだ生きていて、私の方に鎌首をもたげ、赤い舌をチロチロと出した。

 この二代目は、やがて妊娠し、どういう関係からか流産して、古行李(こうり)の中で死んだ。死んだのは、昨年の二月。縁側に出した古行李の中で、ケイレンを繰返しながら、死んで行った。丁度(ちょうど)その時、『隊商』の吉田時善君が遊びに来ていて、私と話しながらも、その方が気になるらしく、横目でチラチラと古行李の方をにらんでいた。最近号の『隊商』に、彼はこう書いている。

 「わたくしは、かつて或る人を訪ねた時、縁先に出したやぶれ行李の中で、その家の猫が流産をして、きたない毛布にくるまって、ひくひくと鼻を動かしながら、のこりすくなくなった生命のうつろいにじっと耐えているのを見たことがあった。わたくしがそこにいるあいだに、猫は、死んだ。さらに、わたくしには、斎藤茂吉の『自動車に轢(ひ)かれし猫はぼろ切れか何かのごとく平たくなりぬ』という歌にあらわれた猫のはかない生命のことも、自然に想い出された。すくなくとも、生命の充実感がいかに見事な印象であろうとも、一匹の猫に羨望をいだくほど、無意味なことはないにちがいない。(中略)猫はやはり猫にすぎないのだが、そのことに気がつくまで、すこし時間がかかった」

 青田君は文学青年だから、こういう文章を書く。のこりすくなくなった生命のうつろいに、じっと耐えていたかどうか、よく懐い出せないけれども、カロがやはり猫にすぎず、猫らしく死んだのは、事実であろう。遺骸は、死産児もろとも、初代カロの隣りに、穴をほって埋めた。やはり墓はつくらず、その代りに、山椒(さんしょう)の木を植えた。これも発育がよくて、現在は三尺ばかりの高さとなった。野生のそれでなく、アサクラ山椒という、香の高い山椒である。近頃では、朝飯の味噌汁などに、浮かせて食べる。この葉は、駆虫の功も果たすと言うから、まことに重宝(ちょうほう)な植物だ。

 

 この二代目カロが死亡して三日目に、どこからともなく仔猫が二匹、私の庭に迷いこんできた。一匹は黒猫で、一匹は赤トラ。家人が物好きに、二匹とも上にあげて、一晩過させたところ、黒猫の方は、畳の上に放尿する習癖があることが判り、これは落第。赤トラの方が、三代目カロを襲名することとなった。黒猫は、近所の原っぱに捨てた。

 

 カロは見る見る大きくなった。こんな成長の早い猫を、私は今まで見たことがない。半年ほども経つと、近所中で一番巨大な猫になってしまった。雄猫で、尻尾も長い。いつか畳に押えつけて、鯨尺(くじらじゃく)で計ってみたら、鼻の頭から尻尾の先まで、大体三尺ばかりもあった。体軀もそれに応じて、ぼったりとふくらみ、あぶらぎっている。動作も、わざとやっているみたいに、にぶく重々しい。ある種の代議士の動作に似ている。

 ほとんど一日中、台所とか縁側などに、じっと寝そべっている。何にもすることがないみたいだ。

「何というヤクザな猫だろうね」

 と私は、家人相手に、嘆いたこともある。

「これはもう、猫というより、豚だね」

 実際カロは、一日中、食べることばかり考えているように見えた。人間が近づくと、細い目をあけて、ニャアと啼きながら、こちらを観察する。手に皿とか鍋とかを持っていると、急いで起き上って、台所のすみにかけてゆく。そこにはカロ用の皿が、置かれてあるのだ。そして、ニャアニャアと啼きながら、食事をうるさく催促する。そういう時だけは、動作も素早かった。根っから動作がにぶいわけではないのである。

 カロはなかなかの美食家であった。家人が餌をやりすぎていたせいもあるだろうが、たとえば、鰹節(かつおぶし)をかけた飯を与えると、上にかけた鰹節だけを食べる。あとは見向きもしない。近所の猫が、忍び込んで食べるのに、まかせている。どうも腹が減っていても、他に旨いものが食えそうな予感がする時は、食べるのを辛抱しているような様子さえあった。

 前に書いたように、動作が重々しいので、子供たちの相手には好適であった。当歳の男児が、カロをかまうのが好きで、ごそごそ這って行って、カロの耳を引っぱったり、毛をむしったりする。カロはそれに抵抗は全然しない。迷惑そうな表情で、なすがままに任せている。義理でお相手をつとめているような風情(ふぜい)がある。五分間ほども相手をしていると、もうこの位でよかろうといった顔で、のそりと歩き出す。子供に爪を立てないのは、一応感心ではあるが、その表情や動作が、いつからか私の気に喰わなくなっていた。

 

 カロに対して、何かなおざりに出来ないような、ほっとけないような感じを、私が持ち始めたのは、いつ頃からだったか、どんな動機からだったか、もう憶い出せない。はっきりした動機はなく、自然とそういう具合になったのだろうと思う。

 猫をかまったり、こらしめたり、いじめたりするには、竹の蠅叩(はえたた)きが一番有効であることを、私は発見した。棍棒(こんぼう)とか箒(ほうき)では大げさ過ぎるし、第一座右には置いとけない。と言って、火箸か何かでは短か過ぎて、急場の役に立たない。蠅叩きが一番適当なのである。これなら相当力が入るし、もっと腹が立った場合には、先端の丸い部分を、平らにではなく、横にして叩く。この方法は、相当な利(き)き目がある。これは私が、自分の膝や臑(すね)を実験台にして、試みてみたことだから、確実である。当り場所によっては、呼吸がとまるほど痛い。

 私はこの蠅叩きを、五本ほど買い求め、居間に三本、書斎に一本、台所に一本、常備して置いた。もちろんカロを打擲(ちょうちゃく)するためである。蠅を叩くためには使用しない。蠅のためには、も少し安物の蠅叩きを使うようにした。蠅とカロを一緒に叩いては、カロに悪いという気持でもあったが、第一には兼用では、意味が薄れると思ったからである。カロが死ぬまでに、このカロ叩きは二本が完全に破損し、使用出来るのは三本だけになっていた。頻繁(ひんぱん)に使用したせいもあるが、あまり頑丈に作られていなかったためでもある。もっとも蠅を叩くだけなら、もっと保ったに違いない。だからこれは、製造した職人の怠慢とは言えないだろう。

 

 画家の秋野卓美君が、時々私の家に、遊びにやってくる。さすがに画家だから、いろんなものの形に興味を持つようだが、カロに対しては特に興味を覚えたらしく、椅子の上に乗せて、写生を試みたりする。

 カロは、赤ん坊からかまわれる時と同じように、迷惑そうな表情で、ポーズをとっている。ポーズは秋野君がつけるのだ。かなり乱暴なやり方で、肢を引っぱったり、顔をねじ向けたり、尻尾を曲げたりする。カロは厭な顔をしているが、それでも一応言うなりになって、指定されたポーズを保っている。しかしそれも、五分ぐらいの間だ。もうこれで義理を果たしたという恰好(かっこう)で、のそりと体をおこす。

 「こらッ」

 と秋野君が怒る。怒ったって、カロは平気なものだ。つかまえようとすると、ヒラリと手をすりぬけて、庭へ飛び出し、あとは悠々と歩く。他の猫みたいに、一目散に遁走(とんそう)するということはしない。人間が追ってくる範囲や限界だけを逃げて、あとは自分のペースであるくのだ。体力や神経の無駄な消費を、極度に避けているように見えた。

 また秋野君は時々、カロをつかまえて、頭に袋をかぶせてみたり、またあおむけにして、後肢を左右に開き、そこらあたりを忠実に観察したりもしていた。絵を画くには、先ず観察が第一であるし、その点において、私は秋野君の勤勉に一応の感服をする。あまりしばしば観察をするので、カロは秋野君の顔を見ると、命ぜられもしないのにひっくりかえって、肢を開いて見せたことさえある。

 カロは顔に紙袋をかぶせられても、他の猫のように、絶対に後退りはしない。じっとしているだけである。眠ってしまったかのように動かない。ついに人間の方が根負けをして、袋をとってやる。

「このカロは、実にあなたに似てるですなあ」

 ある時、秋野君が感嘆したように、そう言った。

「まあ飼い猫というやつは、その主人の性格に、そっくり似るものだそうだけれど」

「そうかねえ」

 どういう点が似ているか、訊ねてみようかと思ったけれども、止しにした。もうその頃は、私はカロを放って置けないような心境になっていたし、猫叩きも盛んに使用していたので、似ているところをハッキリされては、すこし困るのである。秋野君は内心では、私とカロの類似点をあげたかったらしいが、私がふくれたような顔をしているので、それきり黙ってしまった。

 

 そんなに腹を減らしている筈はないのに、我が家の食事時になると、カロはのそのそとあらわれる。私にはカロの心事が、ちゃんと判っている。食卓にどんなものが並んでいるか、それを偵察に、またあわよくば、かすめ取ろうという魂胆なのだ。実際に、私が座にいなくて、子供たちだけの時など、カロはしばしば卓上のものをくわえて逃げた。

 しかし、私が坐っている場合は、食卓をねらっているのではない、ただ部屋を通り抜けるだけだ、という表情と物腰で、のそりのそりと歩く。その際でも、カロは、ちらと横目を使って、卓上をぬすみ見ることは忘れない。それが私を怒らせる。私の右手は、もう私自身が気が付かないうちに、猫叩きをつかんで振り上げている。

 私があまり打擲(ちょうちゃく)するものだから、ついにカロは、私の眼の前では、黒豹か何かみたいに、肢を曲げ、背中を極度に低くして、すり足で歩くような習慣になってしまった。私が猫叩きを摑(つか)むと、パッと電光のように走って逃げるのである。そうなればそうなったで、私はますます癪(しゃく)に障ってくる。最初の頃は、何か理由があった時、つまりカロに何か落度があった時しか、猫叩きを使用しなかったのに、しだいに私は、随時それを使用するようになってきた。随時と言っても、私は心の中では、ちゃんとその理由を見つけている。つまり、一昨日魚をくわえて逃げたではないか、とか、一週間ばかり前に泥足で上ってきたではないか、とか、本日叩く理由はちゃんと持っている。その折叩きそびれたから、後ればせながら、今こらしめる訳である。そういうやり方を、家人はしばしば非難した。

「猫が一々、二日も三日も前のことを、覚えているもんですか。可哀そうだから、よしなさい」

 しかし、猫にどの程度の記憶力があるのか、家人も実証的に調べたわけではない。だからその抗議には、私はとり合わない。カロが覚えているかどうか、もちろん私も知らない。それはカロのみが知っていることだ。しかし、カロが悪事を働いたことを、私が覚えているからには、私は猫叩きを使わないわけには行かないのだ。

 台所の棚の辺で、カタリと音がする。食事中でも、仕事中でも、また来客中でも、私は猫叩きをつかんで、台所にかけてゆく。家人は呑気(のんき)な性質で、猫がいるというのに、平気で棚の上に、むき出しに魚や肉を乗せて置く。もしその犯人がカロであったら、私は怒り心頭に発して、カロを追いかけるのだ。カロの逃走するコースは、決っている。台所の土間から、風呂の焚(た)き口をくぐって、風呂場に逃げる。焚き口は小さくて、私が通れないということを、ちゃんと知っているのである。そして風呂場で、私を嘲るように、ニャアと啼(な)く。私は大急ぎで風呂場のガラス扉へかけ戻り、それを押し開く。するとカロは、水の流出口から表へ逃げるか、また焚き口をくぐってまた台所へ戻る。カロがその二つのどっちを選ぶかは、私の怒りの質量によって決定される。つまり、私がはなはだしく怒って、あくまでカロを追う決心の時は、表へ逃げる。私の怒りが中ぐらいの時は、カロは焚き口から台所へ戻る。私がしっこく追跡するかしないかを、カロは私の顔色や動作で、チャンと計算し判断してしまうのだ。私がカロを放って置けない原因の一半は、カロのそういう横着な計算力なのである。先代、先々代のカロには、こんな狡猾(こうかつ)な計算力はなかった。もっと愚直であった。

 そういう狡猾なカロでも、食卓上のものをぬすみ取る時は、さすがに気が動転して、冷静を欠くらしかった。大あわてして事を遂行しようとする結果、御馳走が並べてあるのにタクアンや芋の煮ころがしをくわえて遁走したりする。一升瓶のキルク栓をくわえて逃げたことさえある。しかし、おかしなことに、カロは、くわえて逃げたものは、必ず食べてしまうのだ。その心事が、私にはよく判らないが、キルク栓だって、半分ほど齧ってしまったのである。苦心してかすめ取ったからには、食わねば損だと思ったのかも知れない。

 

 そういうカロに対する私の態度は、家内ではあまり評判がよくなかった。

 秋野画伯までが、一緒になって、私を非難する。

 秋野君のカロヘのやり方は、はなはだ気紛れであった。ひどく可愛がってみたり、私の真似をして、猫叩きで追っかけ廻したりするのだ。

 秋野君は、私の家にやって来ると先ず、勝手知ったる食器戸棚から、鰹節箱をとり出す。二十分ぐらいかけてゴシゴシ削り、ケズリ節を山のようにつくる。私は横目でそれをチラチラと見ている。

 それから秋野君は、カロを呼びよせ、台所に連れて行き、山なすケズリ節を、ごそりとカロ皿に盛ってやる。この秋野君のサービスを、カロが喜んで食べることは勿論である。

 秋野君がカロを残して台所から立ち去るとどこからともなく、猫叩きを手にした私の姿が、台所にひっそりと現われる。忍び足でカロに近づいて、その背中に一撃をあたえる。カロはケズリ節を放棄して、横っ飛びに飛んで、焚き口から風呂場へ逃げる。なぜ私が打擲するかと言うと、猫のくせに不当の贅(ぜい)を尽しているからである。

 しかしカロは、ケズリ節に未練があるので、焚き口からちろちろと顔を出し、台所の様子をうかがっている。ところが私が、三分毎ぐらいに姿を現わして、猫叩きをビュツと振って示威を試みるから、カロといえどもやすやすと出て来るわけには行かない。私が根負けするのをじっと待っているだけだ。

 そんな時、たまたま秋野画伯が、台所にやってくる。ケズリ節がほとんど残されているのを見て、画伯は激怒する。せっかく削ってやったのに、食べないなんて、猫のくせに贅沢だというのである。カロが贅沢だという見解においては、私も別の意味において同感なので、私と画伯はそこで一致して、めいめい猫叩きをふりかざし、カロを追っかけ廻すことになる。画伯は若いし、体力も走力もあるので、カロにとっては大敵である。懸命に逃げ廻って、松の木にかけ上ったり、屋根にかけ上って行ったりして、大騒ぎである。

 一度、家中が皆留守で、私一人が家に残ったことがある。いつもカロに逃げられているので、今日は万全の策を講じようと思い、扉から窓から全部しめ切った。風呂場の焚き口も、煉瓦(れんが)を積み重ねて、出入り出来ないようにして、それからカロを追いにかかった。私が扉や窓をしめている間、カロは縁側にねそべって、横目で私のやることを眺めていたのである。狡猾だといっても、やはり猫のかなしさで、私のたくらみを見抜けなかったらしい。

 猫叩きをふりかざした私の血相を見て、カロは狼狽した。飛び上って、風呂場の焚き口にかけつけたけれども、そこはダメ。ちゃんとふさがれている。カロは必死となって、私の足の下をすり抜け、玄関にかけて行く。玄関も窓も、どこにも隙間はない。うろうろしているところを、猫叩きが落下する。泣きたいような気持だっただろうと思う。また私の足をすり抜けて、疾走する。

 二十分ほども、私とカロは、家中を縦横無尽にかけ廻った。私も疲れたが、カロも疲れたらしい。焚き口の煉瓦のそばにうずくまって、とうとう動かなくなってしまった。眼だけはらんらんと光らせ、じっと私を凝視している。猫叩きでひっぱたいても、低くうなるだけで、身動きもしない。立たせようと思って、猫叩きを腹の下にさしこみ、ぐっと持ち上げようとすると、猫叩きがしなうだけで、カロの体はびくとも動かない。いろいろやっているうちに、私を凝視しているカロの眠が、だんだん青味を帯びてきた。そして、今まで出したこともないような奇妙な声で、ギャアアと一声啼(な)いた。あんまり不気味な声だったので、私はぞっとして、思わず猫叩きを投げ捨てて、書斎に飛んで帰った。やはり逃げ途をつくってやらねば、追っかけることの意味がないことを、その時しみじみと痛感した。

 このことは、家人にも秋野画伯にも、とうとう話さないでしまった。話すことが、なんだか忌々しい気がしたからである。やがて家人が帰ってくると、カロは不断のカロに立ち戻って、ふつうの声でニャアと啼き、食物を催促したりした。私は、ほっと安心したような、また腹だたしいような気分で、その声を聞いた。

 こういう沈着にして横着なカロでも、さかりの時期になるとソワソワと、落着かなくなってくる。

 他の猫でもそうだと思うが、さかりの期間は、カロはほとんど食事をしない。家に居付かなくて、そこらをうろうろ歩き廻り、れいの妙な声を出して、雌猫と啼き交す。あの声は、私にとっては、ガラスを爪で引っかく音の次ぐらいにイヤな声なので、もしその声が近くであれば、私は猫叩きを両手につかんで、その現場に走ってゆく。遠くであるならば、その方向に石を投げつける。

 カロはこの界隈(かいわい)で、一番巨大な体を持っているのに、喧嘩はあまり強くなかった。私の観察するところでは、猫の世界では雌猫の方が雄猫よりも、ずっと強い。強いだけでなく、兇暴である。鼠などを取るのは、大てい雌猫である。カロは、その弱い雄猫の中でも、また比較的弱い方であった。これは、食事はカロ皿に潤沢にあるから、闘争してまで食事を獲得する必要がない。つまり、争闘の経験や習慣に乏しいのである。だから、そこらの野良猫に、かなうわけがない。軟弱にして、性根がヤワなのだ。

 それはまた、カロがしばしば鬚(ひげ)を切られたせいであるかも知れない、とも思う。前に書いたように、カロは一見おとなしくて、子供たちの相手には好適であるから、近所でも子供たちに存分にかまわれていたらしい。誰にもそういう心理があると思うが、あの猫の顔に、白い鬚がピンと張っているのを見ると、つい鉄でチョキンと切り落したくなるものだ。誰かの小説に、猫の耳を見ていると、切符鋏でパチンと穴をあけたくなる、というようなことが書いてあったが、これと類似の心理である。ことに子供たちのことだから、そういう衝動を、すぐ実行に移すのにちがいない。カロの鬚は、しばしば刈り取られ、満足に伸びきっているのを、見たことがなかった。ことわっておくが、私はカロの鬚を切ったことは一度もない。暴力をもって体の一部を毀傷(きしょう)するような、そんな野蛮で残酷な行為は、私は好まないのである。鬚を切ったのは、近所の子供たちだと書いたが近所の大人たちかも知れない。また、近所だけでなく、もっと近くにもいたかも知れない、と思う。ある日、午前中カロの鬚がチャンと生えていたのに、午後になると、それがすっかり刈り取られていたことがあった。私が見た範囲では、カロはその間、一歩も家から外に、足を踏み出さなかった。とすれば、髪切り犯人は、家の中にいるか、家の中に入ってきたということになる。もちろん私は切らないし、家人も切る筈はない。だからその犯人は、秋野画伯であるとは言わないけれど、その時画伯が遊びに来ていたのは事実である。四つになる子供の証言によると、画伯は鋏をチョキチョキ鳴らしながら、縁側で自分の爪を切っていたと言う。カロはたしか、そのすぐ傍に、寝そべっていた筈である。

 まあ誰が切ったって同じことだけれど、鬚を切られると、猫はとたんに軟弱になり、闘争心を失うのだ。平衡感覚を失ってしまうらしいのである。

 そういう軟弱なカロであるから、さかりの時期、雌猫争奪戦において、カロはいつも敗北するらしい。恋敵からひっ掻かれて血を出したり、ドブに落っこちて泥だらけになったりして、しょんぼりと戻ってくる。こういう猫だから、雌描からも愛想をつかされていたのではないかと思う。これは私の想像だけであるけれども。

 二日に一度か三日に一度、そういう風にしょんぼり戻ってくると、俄然(がぜん)食慾が戻ってくるらしく、カロはがつがつと餌を食う。この時はもう、彼はさすがに美食家でなくなっている。汁かけ飯でも、パンの耳でも、何でもかでも、がつがつと食べる。カロ皿に何も乗ってなければ、野菜籠のジャガ芋や人参などまで齧ったりする。あさましいものである。そして、私からだけでなく、家人からも追っかけられて、逃げまどうのである。

 

 今年の六月二十三日。

 この日も、そういうさかり明けの日であった。カロは朝から、何となく落着かぬ風(ふう)で、台所や縁側をうろうろしていた。丁度(ちょうど)秋野画伯が遊びに来ていて、紙袋をかぶせられたり、尻尾を洗濯バサミではさまれたりしていた。画伯が、カロの尻尾を洗濯バサミではさむのは、何もカロをいじめるつもりではなく、絵の構図として研究していたのかも知れない。

 その日、知合いの人から、大きな鱸(すずき)を貰った。家中大喜びで、今夜はひとつこれをアライにして食べようと言うわけで、台所で三枚におろした。秋野画伯も大の魚好きで、昼飯をぬいて、夕方になるのを待ちかねていたのである。

 その三枚におろしたボッタリした大きな一切れを、ちょっとの油断を見すまして、カロがくわえて逃げたのである。私は丁度(ちょうど)その時居間で画伯相手に、花札のコイコイをやっていたのだ。画伯は下手糞のくせに、大の花札好きで、いつも私のいいカモなのである。台所の棚のあたりで、ガタンと音がした瞬間、画伯はハッとした風に花札をほうり出して、立ち上った。私も思わず膝を立てた。

「カロの奴だー!」

 二人が勢いこんで台所に走り入ると、カロはそれをくわえて、焚き口のところでぐいと振り返ったところである。大きな一片だから、口でくわえて、その端は土間にひきずっているのだ。私と画伯の血は、逆流した。

「こら待てっ!」

 私たちの手には、何時の間にか、それぞれ猫叩きが握られていた。板の間を踏みならして、追っかけ、裸足で外に飛び出した。カロは鱸(すずき)を地面に引きずりながら、懸命に其の方にかけてゆく。私たちは夢中で走ったが、もう一息というところで、カロは竹の四ツ目垣をくぐり、隣りの庭に 逃げ入ってしまった。隣りだって何だってかまわない。私たちはメリメリと、四ツ日垣をまたぎ越え、追っかけに追っかけた。しかしカロの脚の方が、ちょっとばかり速かった。

 カロはそれをくわえたまま、隣家の床の下にもぐり込んでしまったのである。蜘蛛(くも)の巣だらけの低い床なので、もう私たちは断念する他はなかった。

 腹が立って仕方がないけれども、床の下にもぐり込んで鱸を取返しても、もう食いものにならないにきまっている。

「あ。あそこで食べてやがる」

 画伯が指差したので、私もしゃがんで見ると、床下の奥の方で、カロが眼をキラキラ光らせながら、ピチャピチャと音を立て、旨そうに鱸を食べていた。画伯の胃のあたりで、ググウと鳴る音が聞えた。

 

 一時間ほど経って、カロは前肢で口を拭いたりしながら、台所に戻ってきた。ケロリとした表情をしている。画伯が近づいて、がっしとその頸(くび)根っこを押えた。カロはじっとして、なすままにされている。気のせいか、何時もよりもボックリと、腹がふくらんでいるように見えた。

 私が猫叩きを持とうとすると、画伯がそれを制した。

「カロのことは、私に任せて下さい」

 それから画伯は、頸をつまんでぶら下げて、茶の間に入った。すぐ出て来て、今度は、ゴム紐(ひも)や、罐(かん)切りやビールの栓抜き、タワシ、胡椒(こしょう)に七味唐辛子、マッチやペンチ、そんな品々をあつめて、再び茶の間に入り、襖(ふすま)や障子を全部しめ切った。それから十五分ほどの間、この密室の中で、どんなことが行われたか、私は知る由もない。

「きっと秋野君は、『無防備都市』みたいなことをやったんだよ」

 と、あとあとになって、私は家人と話し合ったのだが、十五分経って、画伯とカロは、茶の間から出て来た。カロはげっそりしたような顔で、後肢はかすかにピッコを引いている。毛もあちこち、引き抜けているのが認められた。画伯は、やっと恨みをはらした人のように、にこにこしていた。カロは私たちの足の間を、よろよろとすり抜けて、台所の方に歩いて行った。

 

 カロの姿が見えなくなったのは、その夜からである。翌日も翌々日も、カロは私たちの面前に、姿を見せなかった。

 六月二十六日の朝、隣りのH氏がカロがH家の天井裏で死んでいると、知らせに来て呉れた。

 天井板から、片足をつき出して、死んでいたそうである。天井から足がぶら下っていては、H氏も仰天したに違いない。

 遺骸は即座に引取った。

「あんたがあまりいじめるから、カロは自殺したのよ」

 と家人は私を責めた。

「カロがいなくったって、平気なんでしょ」

「いや、とても気にかけてたんだ。日記にも書いている」

 私は私の日記を、家人に示した。そこには、こう書いてある。

『六月二十五日。カロの姿終日見えず。心配なり。

 六月二十六日。カロ、H氏天井裏にて、死亡しありし由。哀悼に堪(た)えず。涙数行下る』

 家人はその日記の頁を、日に透かして見たり、こすって見たりして、なじるような調子で言った。

「これはインキの色が同じよ。二十五日のは、死んだと判って書いたんでしょ。カロがいなくて、心配する柄ですか」

 私は黙して語らなかった。

 カロの死骸は、秋野画伯に埋めさせようと思って待っていたが、その日もその翌日もやって来ない。

 止むなく、私がシャベルをふるって、穴を掘り、カロを埋めた。場所は、先代カロの隣りである。

 二三日して、画伯はやって来た。カロの死を告げると、画伯はすこしも騒がず、

「そうですか」

 と言っただけである。そして、少し経って、

「じゃ今日は、カロ追悼の意味でコイコイをやりましょう」

 そこで私たちは、花札を取出して、追悼コイコイをやった。画伯は下手くそだから、何時ものことながら、私が大勝したのは、言うまでも無い。

 カロの霊、安かれ。

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