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2016/01/06

梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (12)

 

 五郎は追われていた。いつの時か、どこの場所かも定かでない。青年の時だったような気がする。なぜ追われていたか、それもはっきりしない。そんな夢をある時見たのか、あるいは何かのきっかけで生じた贋(にせ)の記憶なのか。

 追われて五郎は砂浜を歩いていた。追う者の正体は判らず、姿も見えなかった。しかし追われていることだけは、確かであった。その実感が五郎の全身にみなぎり、彼を足早にさせていた。

 漁村があった。浜には網が干してあり、屋根の低い粗末な漁夫の家が並んでいる。磯には海藻が打ち上げられている。岩かげなどにとくにたまっている。大潮の時に打ち上げられ、そのまま浪に持って行かれなくなったのだろう。その藻の堆積は腐敗し、絶望的なにおいを放っていた。まことにそれは眩暈(めまい)のするようないやな臭気であった。

〈イヤだな。ああ、イヤだ〉

 五郎はそう思いながら、漁家の方に近づいて行った。水汲場があり、中年の女がせっせと洗濯をしている。五郎はふと放心して、その傍に立ちどまり、洗濯の様子を眺めていた。盥(たらい)の中にあるのは、厚ぼったい刺子(さしこ)である。女は五郎を無視して、しきりに手を動かしていた。女の顔や手や足は、日焼けして黒かった。ぶつぶつ呟いている。

「だめだ。どうしてもだめだ。このままじゃ、だめになってしまう」

 そんな風に聞えた。同じことを繰返し、繰返しして呟いている。砂浜には誰の姿も見えなかった。白い犬が一匹、網のそばに寝そべっているだけだ。

〈へんだな〉

 五郎は思った。何がへんなのか、自分でもよく判らなかった。人気(ひとけ)のないのがへんなのか、自分がここに立っているのがへんなのか、そこがぼんやりしている。やがて五郎は気がついた。彼が眺めているのは、腕や洗濯物でなく、女の脚であった。膝までしかない着物を着ているので、つやつやした浅黒い脚の全貌が見えた。五分ほど経って、五郎は耐えがたくなり、話しかけた。

「小母さん」

 女はびっくりしたように呟きをやめ、五郎を見上げた。それまで五郎が傍に立っていることに、女はあきらかに気付いていなかった。

「何だね?」

 女はとげのある声で答えた。

「あたしゃムシムシしてんだよ。あんまり気やすく話しかけないでお呉れ」

「ぼく、追っかけられているんです」

「誰に? 警察にかい? 悪いことをすれば、追っかけられるのは、あたりまえだよ」

「いいえ。違います」

 五郎は懸命に弁解した。

「悪者に追っかけられているんです」

「悪い者なんか、この世にいるもんかね」

 女はいらだたしげに言いながら、力んで脚をひろげるようにした。五郎はまぶしくて、思わず視線を海の方にそらした。水平線には黒い雲がおどろおどろと動いていた。そのために舟が出ないのだと、五郎は思った。

「いや」

 女は言いそこないに気がついた。「悪くないやつなんて、この世にいてたまるもんかね」

「だから、かくまって下さい」

「だから? だからだって?」

 女はびっくりしたように立ち上って、眼を五郎に据(す)えたまま、刺子(さしこ)をしぼり始めた。刺子はまだ汚れはとれていなかった。厚ぼったい刺子は、しぼりにくそうなので、五郎が手伝おうとすると、女は邪慳にその手を払いのけた。

「余計なこと、しないどくれ」

「ぼくはかくれたいんです」

 五郎は必死になって言った。その瞬間の気持に、うそいつわりはなかった。吹きさらしの、どこからでも見えるこの場所にいるのが、こわくてこわくて、たまらなかった。

女はじろりと五郎を見た。

「そんなにかくれたいのかい?」

 五郎はうなずいた。とたんに涙がぽろぽろとこぼれて来た。女の声は少しやさしくなった。

「じゃそこらにかくれな。ああ、ムシムシする」

 五郎は手で涙を押えながら、その傍の小屋によろよろと歩んだ。小屋の入口には繩筵(なわむしろ)がぶら下っている。それを排して内に入ると、六畳ぐらいの板の間があり、あとは土間になっていた。土間というより砂地に近く、礫(こいし)や貝殻などが散らばっている。五郎は板の間にずり上った。涙はもう乾いていた。

「まだまだ」

 と五郎は呟いて、あたりを見廻した。

「油断出来ないぞ」

 五部はごそごそと這い廻り、小屋の構造を調べ始めた。柱はわりに太かった。しかし砂地なので、土台がしっかりしていないらしく、押すとぐらぐら揺れる。柱は何の木か知らないが、長年の潮風にさらされ、材質のやわらかい部分は風化し、木目だけがくっきりと浮き上っている。板の間の一番奥に、簀子(すのこ)がしいてあり、そこに鏡台があった。鏡台の木質部にも、木目はきわ立っていた。潮風は家の中にまで吹き入るのか。鏡には布がかけてあった。布からはみ出た鏡面も、塩分で黒く腐蝕していた。

〈何が写るか判らない!〉

 その恐怖で、五郎にはとてもその布をめくる勇気が出ない。鏡台には抽斗(ひきだし)がついている。五郎はそれを引出した。

 毛髪がへばりついた鬢付(びんつけ)。貝殻が数個。それにコッペパン一つ。彼はそのコッペパンを食べるつもりで手にとったが、古くて皮がこちこちになっている。口に持って行ったが、歯が立たない。余儀なく元に戻す。貝殻は巻貝や小安貝のたぐい。それを一つ一つ調べていると、裏口から突然足音が入って来た。

「なにしてんだい!」

 ぎくりとして振り返ると、先ほどの洗濯女が土間につっ立っていた。もう半分ほど眼がつり上っている。五郎は返事に窮して黙っていた。すると女は跣(はだし)のまま簀子の上にあがって来た。

「小探(こさが)ししているな。言わないでもわかってるぞ!」

 女は立ったまま、両手で五郎を引きずり倒した。女の腕は太かった。筋肉がもりもりして、男の腕のようだ。五郎は押えつけられながら、あやまった。

「許して下さい。許して下さい。もう絶対に小探しはしませんから」

「許してやらない。許してやらない。絶対に許してやらない」

 女は手をゆるめなかった。小荷物を扱うように、五郎を乱暴にとり扱った。それはまるで器械体操のようなものであった。観念して全身の力を抜いた時、裏山の方から大勢の歌声がかすかに聞えて来た。意味も何も判らない。一節歌い終る度に、はやし言葉のようなのが聞える。

「はん、はん、はん」

「はん、はん、はん」

 そんな具合に五郎の耳には聞き取れた。その歌声がだんだん近づいて来る。――

「だめだ。どうしてもだめだ」

 五郎を強引に処理し終って、女は立ち上り、いらだたしげに言った。

「このままじゃ、だめになってしまう」

 そして五郎を振り返りもせず、せかせかと裏口から出て行った。独りになると、別の恐怖が彼にこみ上げて来た。

〈ここにいたら、たいへんだ〉

 五郎は立ち上り、大急ぎで身づくろいをして、土間に降りた。表の入口の繩筵(なわむしろ)からのぞくと、やはり人影はひとつも見えなかった。沖から風が吹き、黒い雲がしだいに近づいて来る。

「今だ!」

 五郎は砂浜に飛び出した。浜に上げられた漁舟の艪臍(ろべそ)の上に飛び乗り、がたがた歩いて、舟板をめくった。中は小さな舟底になっている。そこに体をすべり込ませ、舟板を元に戻した。そして体を胎児のように縮める。濡れた腿がくっつき合う。低く呟いた。

「これで当分、安心だ」

 舟底は暗かった。かすかな光が縞になって、さし入って来る。やがて眼が慣れて来る。船虫が何匹も這(は)い廻っている。長い触角をぴくぴく動かしながら、しきりに走る。その中の何匹かが五郎の体にとりついて、這い登ったり降ったりする。別に不快な感じではない。ただ顔を這われると、くすぐったい。額や額のは手ではらい落し、唇近くに来たのは、フッと呼吸で吹き飛ばす。しだいに五郎は眠くなって来た。ちぢこまった姿勢のまま、意識以前の状態に戻りかけていた。記憶はそこで跡切れる。――

 

[やぶちゃん注:このパートは「幻化」の中でもエンディングと「白い花」に次いで、私のすこぶる偏愛する部分である。読者の中には、安倍公房の諸作品やら、寺山修司や唐十郎の「前衛」演劇のあれこれを挙げて「その焼き直しじゃん!」などと、したり顔をする愚鈍な連中もあろう。或いは、つげ義春の「ねじ式」などの作品群を想起し、「あれとおんなじじゃん!」などとほざいては哄笑する救いがたいカルチャー・オタクの輩もあろうとは存ずる。しかし私は、それを対照検証する価値を、実は全く以って認めないのである。以上に出した彼らの「シュールレアリスム染みた」(私はそれら総てに対して実はシュールレアリスムだ」とはっきり指弾したいのであるが、それはこの注から逸脱するのでやめておこう)あの――意味あり気に見えて、その実、驚くべき虚しさしかない擬似芸術――とは全く異なるところの、久住五郎の――純粋にして正統唯一の真にシュールレアリスティクな「夢」――として搖るぎないシークエンスと、私は大真面目に大胆に確信しているのである。さても! 文句があるなら、永遠に戦おう! こっちの反論材料は、多分、あんたよりは……豊富だ、ゼ!……♪ふふふ♪……

「刺子(さしこ)」綿布を重ね合わせて、一面に細かく刺し縫いにして縫われたもの。保温力があり、非常に丈夫なので柔道着・剣道着の他、漁師の纏うものなどに用いた。

「毛髪がへばりついた鬢付(びんつけ)」鬢付け油の固形油と思われる。日本髪で髪を固めたり乱れを防いだりするのに用いる固練(かたね)りの油で、生蠟を植物油で練って香料を混ぜた容器に入れられた粘体の固形物であろう。

「小安貝」腹足綱直腹足亜綱Orthogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeidae に属する巻の極めて浅い丸みを帯びた、光沢の陶磁器のような質感の貝類の総称で、漢字の「貝」の字はこれを元に作られた象形文字と考えられており、貝殻の形状が妊婦の腹に似、また下面が女性生殖器を連想させることから、南洋や本邦では古えよりお守りとされた。強く握っても割れぬことからも妊婦出産時の安産のプラグマティクな呪的対象とされ、平時でも原初的な貨幣とされた。但し、普通は「子安貝」と漢字表記する。

「艪臍(ろべそ)」和船の櫓床に設けた小さな杭で、櫓の入子(いれこ)という孔部分をそこに嵌める、櫓を支えるための堅材の小さな突起を指す。

「濡れた腿がくっつき合う」前場面から大腿部が海水その他に濡れている描写はなく、あえて言うならば失禁が考えられるが、実はそんな現実的な整合性はここには全く無縁なのである。――これでいいんである。――次のパートを読めば、それは一目瞭然である。ともかくも――無心に――読み進まれよ。――♪ふふふ♪……

「船虫」岩礁性海岸や人工性海浜護岸ではお馴染みである節足動物門甲殻綱等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目フナムシ科フナムシ属フナムシ Ligia exotica 。]

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