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2016/01/19

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注 始動 / (1) 難解

小泉八雲「神國日本」 “Japan: An Attempt at Interpretation”   戸川明三譯

 

[やぶちゃん注:本訳書の英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニューヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された。則ち、八雲は上梓された本書を手にすることなく、逝ったのであり、さればこそしばしば本書は彼を殺したとも言われるのである。題名は訳すなら、「日本――一つの解釈の試み」であるが、原本中扉には書名冒頭の“JAPAN”だけが大きなポイントで記され、その上に一行、右から左へ「神國」(「神」はママ)と書かれてあるので、本訳書もそれを踏襲し、且つ、副題を省略している。私は個人的にはこの原文にはない「神國」というのが生理的に厭であるが、訳者自体がそう訳している以上、それに従うこととした。また、彼の元名を標題に記さないのは、本作執筆時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、既に帰化(ハーンは明治二八(一八九五)年の秋頃に妻子の将来を考えて帰化手続をして「小泉八雲」と改名したが、帰化手続完了は翌明治二九(一八九六)年二月であるから戸籍上の正式な改名はそこになる)した日本人「小泉八雲」であるからである。

 底本は昭和六(一九三一)年第一書房刊「小泉八雲全集 第八卷」(全篇が本書)の戸川明三(とがわめいぞう)訳を国立国会図書館デジタルコレクションの同巻の画像を視認して活字に起こした。

 戸川明三は英文学者で評論家としても知られる戸川秋骨(明治三(一八七一)年~昭和一四(一九三九)年)の本名である。彼の著作権は既に満了している。

 私のオリジナル注は、本文が短く、且つ、多くの注を必要としないと判断した章では訳文の最後に、本文が長い場合は、各段の後に配した。本文途中の段落後に投げ込む場合はそのまま挟み込み、最後に配する場合は、訳文との間に行空けを施してある。これは本文の行空けを維持するためである。

 既に電子化した「知られぬ日本の面影」と全く同様に、それぞれの公開分の最後に原文を示した。原文は“Project Gutenberg”“Japan: An Attempt at Interpretation by Lafcadio Hearn”こちらのデータを基本としながら、それを“Internet Archive”の原本画像で一部を校合して誤植を訂したりして、読み易いものに加工したものである(但し、「知られぬ日本の面影」の場合と同じく、一部の記号などは原本とは一致させていない)。

 踊り字「〻」は私が生理的に嫌いなので漢字では「々」に、平仮名では「ゝ」変更してある。傍点「ヽ」はブログ版では太字に代えた。

 因みに、小泉節子夫人(八雲が亡くなった時は満三十六)はその「思い出の記」の中で(節子夫人(慶応四(一八六八)年二月四日~昭和七(一九三二)年二月十八日)も著作権満了。引用は一九七六年恒文社刊『小泉八雲 思い出の記 父「八雲」を憶う』に拠った)、

   *

 『日本』では大層骨を折りました。「この書物は私を殺します」と申しました。「こんなに早く、こんなに大きな書物を書くこと容易ではありません。手伝う人もなしに、これだけのことをするのは、自分ながら恐ろしいことです」などと申しました。これは大学を止めてからの仕事でした。ヘルンは大学を止めさせられたのを非常に不快に思っていました。非常に冷遇されたと思っていました。普通の人に何でもないことでも、ヘルンは深く思い込む人ですから、感じたのでございます。大学には永くいたいという考えは勿論ございませんでした。あれだけの時間出ていて書く時間がないので困ると、いつも申していましたから、大学を止めさせられたということでなく、止めさせられる時の仕打ちがひどいというのでございました。ただ一片の通知だけで解約したのがひどいと申すのでございました。

 原稿がすっかり出来上りますと大喜びで固く包みまして(固く包むことが自慢でございました。板など入れて、ちゃんと石のようにして置くのです)表書を綺麗に書きまして、それを配達証明の書留で送らせました。校正を見て、電報で「宜しい」と返事をしてから、二、三日の後亡くなりました。この書物の出版は余程待ちかねて、死ぬ少し前に、「今あの『日本』の活字を組む音がカチカナと聞えます」といって、出来上るのを楽しみにしていましたが、それを見ずに、亡くなりましたのはかえすがえす残念でございます。

   *

と語っておられる。] 

 

  難 解 

 

 日本に關して書かれた書物は無數にある、然しそれ等の内に――藝術的の出版物竝びに全然特殊の性質を有つた著作は別として――實際價値ある書册は殆ど二十を出ないであらう。この事實は日本人の表面の生活の基礎となつて居るものを認知し、是を理解する事の甚だしく困難なる事に歸せられる。其生活を十分に解説する著作は――歷史的に、社會的に、心理的に、また倫理的に、日本を内部からも外部からも、描いた著作は――少くとも今後五十年間は出來まいと思ふ。此問題は頗る廣大にまた錯綜して居るので、幾多の學者の一代の勞力を合はせても、これを盡す事は出來ず、またそれは甚だ困難な問題で、これが爲めにその時を捧げる學者の數も常に必らず少いに相違ないのである。日本人その人の間にあつてすら、自國の歷史に就いての科學的知識はまだ得られない――何となればかくの如き知識を得る方法がまだ出來て居ないからである――よし其材料は山ほど集められてあるとしても。近代式の方法の上に立つた立派な歷史のない事は、實に幾多不利なる缺陷のその一である。その社會學的研究の基礎となるものは、まだ西洋の研究家の手には入らない。家族及び氏族の古い狀態、諸階級の分派發達の歷史、政治上の法則と宗教上の法則との分離の歷史、諸々の禁制拘束の事、及び習俗に及ぼしたるその影響の歷史、産業の發達に於ける、取締り及び協力の事情に關する歷史、倫理及び審美の歷史――これ等のすべての事、その他の事柄はみな不明である。

 私のこの論文は、日本に關する西洋の知識に對しての寄與として、只だ一方面に於てのみ役に立ちうるものである。併しこの一方面は必らずしも重要ならざるものとは云へない。從來日本の宗教に關する問題は主としてその宗教に對する仇敵の手になつたものであつた、また中にはこの宗教を殆ど全く無視したものもあつた。併しそれが無視され、誤り傳へられて居る限り、日本に就いての實際の知識は得られないのである。凡そ社會の狀態に就いて少しでも眞實の理解を得んと欲するならば、その宗教の事情を皮相的でなく、十分に熟知する事を要する。人民の産業上の歷史すら、その發達の初期に於ける産業上の生活を支配する宗教上の傳統と慣習とに就いての多少の知識がなくてはそれを了解する事は出來ない……また藝術の問題を取つて見る。日本に於ける藝術は宗教と密接な關係を持つて居るので、その藝術が反映して居る信仰に就いての廣い知識をもたずして、それを研究せんとする事は、たまたま時を浪費するに過ぎないのである。ここに藝術と私の云ふのは、ただ繪畫や彫刻の事をいふのではない、あらゆる種類の裝飾、大抵の種類の繪畫の如きもの――男の子の凧、女の子の羽子板に描かれてあるもの、漆ぬりの手箱、若しくは琺瑯をかけた花瓶――お姫樣の帶の模樣と共に職人のもつ手拭の繪――佛教の山門を護る大きな仁王の姿と共に、孩兒の爲めに買ふ紙製の犬若しくは木製のガラガラ…………を云ふのである。又日本の文學に就いても、其研究が、ただに日本人の信仰を了解する事が出來るのみならず、又少くとも吾が大古典學者達が、ユウリピディス、ピンダア及びセオクリタスの宗教に同感すると同じ程度に、それに同情を有しうる學者に依つて爲されるまでは、正常にこれを評價する事は正に出來ないのである。西洋の古代竝びに近代の宗教に就いて些少の知識をも有せずして、イギリス、フランス若しくはドイツ、イタリヤの文學をどれほど十分に了解しうるであらうか、それを先づ吾々は自分に尋ねて見よう。私は必らずしもはつきりした宗教的な作者――ミルトン若しくはダンテの如き詩人――の事をいふのではない、併しただシェイクスピヤの戲曲の一でさへも、キリスト教の信仰或はそれ以前の信仰に就いて、少しも知る處のない人に取つては、それは全く了解されないに相違ないといふ事實をいふのである。或る一つのヨオロッパの國語に眞實に熟達する事も、ヨオロッパの宗教に就いての知識がなくては不可能である。無學者の言語すらも、宗教上の意義を澤山にもつて居る、貧民の俚諺、家庭の用語、街路にきく歌謠、工場の言語――それ等はすべて人民の信仰に就いて知る處のない人には、思ひつかれない意義を、その内に含んで居るのである。これは日本に居て、吾々のとは全然異つて居る信仰をもつて居り、吾々とは全く異つた社會上の經驗に依つて作られた倫理をもつて居る學生に、英語を教へるに多年を費やした人の、何人よりもよく知つて居る處である。

[やぶちゃん注:「孩兒」「がいじ」と読む。幼な子。乳飲み子。

「紙製の犬」犬張子(いぬはりこ)。犬の立ち姿の張り子細工。江戸時代に出来た子供の玩具及び妊婦や子どものお守り。犬は一回に複数頭の子供を生み、出産も他の動物に比べて軽いことなどから、安産及び広く男女を問わず、子どもの健康を祈念するお守り・魔除けとして用いられ、一般には宮参り・雛祭りの贈物などに使われた。

「ガラガラ」子をあやすのに用いる玩具でんでん太鼓(だいこ)のこと。雅楽で用いられる「振鼓(ふりつづみ)」を真似たものとされる。

「ユウリピディス」アイスキュロスとソポクレスと並ぶ古代アテナイの三大ギリシャ悲劇詩人の最後の一人で、知られた戯曲「メディア」「アンドロマケ」「エレクトラ」などの作者エウリピデス(紀元前四八〇年頃~紀元前四〇六年頃)。神話伝説の世界を現実の人間的レベルで描こうとした(「大辞林」)。厳しい性格で非社交的にして哲学的新思想の持ち主であった。「舞台の哲人」と呼ばれた(ウィキエウリピデス)。

「ピンダア」ギリシャ最大の抒情詩人ピンダロス(紀元前五一八年頃~紀元前四三八年頃)。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、名門の家に生れ、アテネに学んで各地の貴族や僭主に招かれて注文に応じてエピキニオン(epinikion:競技祝勝歌。古代ギリシャの合唱隊歌の一種)を作った。ペルシア戦役には故郷テーベの方針に倣って中立を守ったが、戦後に運動競技が再び盛んになると、昂揚する思想と大胆な比喩と崇高な言葉によって優勝者をたたえる彼のエピニキオンは争って求められたという。

「セオクリタス」ギリシャの詩人。牧歌の創始者テオクリトス(紀元前三一〇年~起源前二五〇年頃)「ブリタニカ国際大百科事典」その他によれば、多様な形式の詩篇をよくし、なかでも彼の名を不朽にしたのがシチリアの田園風景の中で歌い戯れる牧人たちを描いた牧歌で、彼によって「田園詩・牧歌」という文学ジャンルが創造されたとされる。]

 

 

Difficulties 

 

A THOUSAND books have been written about Japan; but among these,— setting aside artistic publications and works of a purely special character,— the really precious volumes will be found to number scarcely a score. This fact is due to the immense difficulty of perceiving and comprehending what underlies the surface of Japanese life. No work fully interpreting that life,— no work picturing Japan within and without, historically and socially, psychologically and ethically,— can be written for at least another fifty years. So vast and intricate the subject that the united labor of a generation of scholars could not exhaust it, and so difficult that the number of scholars willing to devote their time to it must always be small. Even among the Japanese themselves, no scientific knowledge of their own history is yet possible; because the means of obtaining that knowledge have not yet been prepared,— though mountains of material have been collected. The want of any good history upon a modern plan is but one of many discouraging wants. Data for the study of sociology are still inaccessible to the Western investigator. The early state of the family and the clan; the history of the differentiation of classes; the history of the differentiation of political from religious law; the history of restraints, and of their influence upon custom; the history of regulative and cooperative conditions in the development of industry; the history of ethics and aesthetics,— all these and many other matters remain obscure.

   This essay of mine can serve in one direction only as a contribution to the Western knowledge of Japan. But this direction is not one of the least important. Hitherto the subject of Japanese religion has been written of chiefly by the sworn enemies of that religion: by others it has been almost entirely ignored. Yet while it continues to be ignored and misrepresented, no real knowledge of Japan is possible. Any true comprehension of social conditions requires more than a superficial acquaintance with religious conditions. Even the industrial history of a people cannot be understood without some knowledge of those religious traditions and customs which regulate industrial life during the earlier stages of its development. . . . Or take the subject of art. Art in Japan is so intimately
associated with religion that any attempt to study it without extensive knowledge of the beliefs which it reflects, were mere waste of time. By art I do not mean
only painting and sculpture, but every kind of decoration, and most kinds of pictorial representation,— the image on a boy's kite or a girl's battledore, not less than the design upon a lacquered casket or enamelled vase,—
  the figures upon a workman's towel not less than the pattern of the girdle of a princess,— the
shape of the paper-dog or the wooden rattle bought for a baby, not less than the forms of those colossal Ni-Ō who guard the gateways of Buddhist temples. .
. . And surely there can never be any just estimate made of Japanese literature, until a study of that literature shall have been made by some scholar, not only able to understand Japanese beliefs, but able also to sympathize with them to at least the same extent that our great humanists can sympathize with the religion of Euripides, of Pindar, and of Theocritus. Let us ask ourselves how much of English or French or German or Italian literature could be fully understood without the slightest knowledge of the ancient and modern religions of the Occident. I do not refer to distinctly religious creators,— to poets like Milton or Dante,— but only to the fact that even one of Shakespeare's plays must remain incomprehensible to a person knowing nothing either of Christian beliefs or of the beliefs which preceded them. The real mastery of any European tongue is impossible without a knowledge of European religion. The language of even the unlettered is full of religious meaning: the proverbs and household-phrases of the poor, the songs of the street, the speech of the workshop,—all are infused with significations unimaginable by any one ignorant of the faith of the people. Nobody knows this better than a man who has passed many years in trying to teach English in Japan, to pupils whose faith is utterly unlike our own, and whose ethics have been shaped by a totally different social experience.

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