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2016/01/29

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (23) プエル・エテルヌス――永遠の少年――松浦佐用彦の墓を詣でる

M763

図―763

 

 今日私は上野の墓地を、松浦の墓をさがして歩き、それを見出した(図763)。私は私の書いた碑銘が、どんな風に刻まれたか、見たかったのである。それは頭文字で奇麗に刻んであった。墓石は黒ずんだ粘板岩であった。学生の一人が書いた日本語の碑銘は、考え深く、意味深長である【*】。

[やぶちゃん注:「上野の墓地」谷中霊園。

「松浦」モースの教え子のプエル・エテルヌス松浦佐用彦(まつうらさよひこ 安政四(一八五七)年~明治一一年(一八七八)年七月五日)。是非、第十一章 六ケ月後の東京 34 松浦佐用彦葬儀の私の渾身の注を見て戴きたい。現存する同墓碑の写真(上谷桜池氏のサイト「谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー」のソースフリー画像)も掲げてある。]

 

 

* ロウエル・インステイテュートで講演をしている間に私はこの碑銘を読んだ。すると、あの愛すべき人ウィリアム・ジェームスは大きに興味を持ち、私にそのうつしを一つくれといった。

[やぶちゃん注:「ロウエル・インステイテュート」原文“Lowell Institute”。ボストンにあったアメリカの実業家で慈善家ジョン・ローウェル(John Lowell, Jr. 一七九九年~一八三六年)記念研究所。当時、ここの公開講座は非常な人気を博し、モースの師ルイ·アガシや作家チャールズ・ディケンズやサッカレーなども講義している(英語版ウィキの“John Lowell, Jr. (philanthropist)”を参考にした)。

「ウィリアム・ジェームス」アメリカのプラグマティズムの哲学者で心理学者・生理学者としても知られるウィリアム・ジェームズ(William James 一八四二年~一九一〇年)。「意識の流れ」の理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」などにも影響を与え、西田幾多郎や夏目漱石・有島武郎といった本邦の近代思想家や文学者への影響も計り知れない。幻想小説の傑作「ねじの回転」で知られる小説家ヘンリー・ジェームズ(Henry James 一八四三年~一九一六年)は彼の実弟である。]

 

 

 「彼の姓は松浦で名は佐与彦。土佐の産である。若くして学校に入り生物学の研究に身をゆだねた。精励して大きに進むところがあった。明治九年七月五日、年二十二歳、熱病で死んだ。彼の性質は明敏で人と差別をつけず交ったので、すべての者から敬慕された。彼の友人達が拠金してこの碑を建て、銘としてこれを書く。

 

  胸に懐いていた望はまだ実現されず

  彼は悄れた花のように倒れた

  ああ自然の法則よ!

  これは正しいか、これは誤っているか?

 

 正五位日下部東作記。東京大学有志建。明治十二年七月八日。」

[やぶちゃん注:「明治九年」は西暦一八七六年であるが、お判りのように誤記で(これではモース来日前になってしまう)、佐用彦はモースがアメリカへの一時帰国から戻った二ヶ月半後の明治十一年七月五日にチフスのために亡くなった。モースは「熱病」とするが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に従う。なお、同書には松浦の『家は零落していて、母に死亡通知を送ったが、返事はなかったという』とある。

「年二十二歳」松浦の生年は嘉永六(一八五三)年で(磯野前掲書)、死亡時は数えで二十六であったが、理由は不明ながら(恐らくは級友らに年上と思われたくなかったためと思われる)、彼は年齢を詐称していた。

「悄れた」「しおれた」と読む。

「日下部東作」書家日下部鳴鶴(くさかべめいかく 天保九(一八三八)年~大正一一(一九二二)年)127日)。東作は本名。ウィキ日下部鳴鶴によれば、中林梧竹(なかばやしごちく)・巌谷一六(いわやいちろく)とともに「明治の三筆」と『呼ばれる近代書道の確立者の一人で』、『中国、特に六朝書の影響を受けた力強い筆跡が特徴であり』、『それまでの和様から唐様に日本の書法の基準を作り変えた。加えて数多くの弟子を育成、現在でも彼の流派を受け継ぐ書道家は極めて多い。芸術家としても教育者としても多大な功績をあげたことを称えて「日本近代書道の父」と評されることもある』。『鳴鶴の流派は鶴門と呼ばれ、その門下生は』三千人を『数えたと言われる。また揮毫した碑は』千基とも『言われ、全国に数多く見られる』とある。彦根藩士であった『田中惣右衛門の次男として生まれる。初名は八十八、のちに東作と改め』た。安政六(一八五九)年二十二歳の時、『同じ彦根藩士・日下部三郎右衛門の養子となる』。しかし安政七(一八六〇)年三月七日に『藩主の井伊直弼が桜田門外で暗殺されたため』に、禄は大幅に減って生活が困窮した。しかし、それでも上京し、『書道に専念する決意をしている』。『維新後、新政府が成立すると徴用され太政官に勤める。内閣大書記官となるが当時仕えていた大久保利通が紀尾井坂の変で暗殺された』(明治一一(一八七八)年五月十四日)『ことを機に退官し』て『書道に専念』することとなった(青山霊園にある彼の筆になる大久保の神霊を祀るための勅命碑「大久保公神道碑」は鳴鶴の最高傑作とされる)。『特定の人物に師事してはいない。しかし』、二十代の頃には、『既に亡くなっていた貫名菘翁』(ぬきなすうおう 安永七(一七七八)年~文久三(一八六三)年):儒学者・書家・画家。江戸後期の文人画家の巨匠。特に書は「幕末の三筆」として称揚される)の書に傾倒しており、四十代の頃には、『来日していた金石学者楊守敬のもとで碑学、六朝書、篆隷の研究を行っている』。『その後は中国書法の研究をすすめ六朝書道を基礎に独自の書風を確立し多くの弟子を育てる。また中国に渡航し碑文研究を深めると同時に呉昌碩などの文人と交流し、「東海の書聖」と称されたといわれている。その一方で碑文の揮毫や雑誌の刊行、名跡研究などに努めた』とある。

 ここまでの松浦墓参のパートは、私自身が松浦佐用彦に思い入れがあることから、原文を注も含めて総て以下に示しておく(最初のコーテション・マークの閉じる(”)は原本自体に存在しない)。

   *

 

   I went through the cemetery at Uyeno to-day and inquired for Matsura's grave and found it (fig. 763). I was curious to see how the cutting of the epitaph I wrote had been done. It was finely engraved in capital letters, the gravestone a dark slate. The Japanese epitaph, written by one of the students, is thoughtful and significant. 1

 His family name Matsura and given name Sayohiko. His native province Tosa. Early entering college he devoted himself to study of biology. By diligent labor he made considerable progress. On 5th day, 7th month, of Meiji 9th, aged 22, died of fever. His nature was actively keen; he treated men altogether without discrimination; hence he was lovingly sought by all. His friends subscribed to erect this monument and this is written for the inscription : —

 

 The cherished hope is not yet fulfilled,

             As the faded flower he fell,

             Alas, the law of Nature !

             Is it right, or is it wrong?

 

 Inscription by Shogoi Kusakabe Tosaku. Erected by those of Tokyo Daigaku interested, 8th day of 7th month, 12th year of Meiji.

 

 1 In my course of lectures in the Lowell Institute I read this epitaph, and that dear man, William James, expressed great interest in it and asked for a copy.

 

   *]

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