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2016/01/29

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (19) モース先生、謠を習う

M761

図―761

 

 今日の午後、私は日本の歌の最初の稽古をした。紹介状を持って私は――というより、私の人力車夫が――浅草南元町九番地に住んでいる、梅若氏の家にたどりついた。彼は能の歌と舞との有名な先生で、彼の家に接して、能の舞台がある。竹中が通弁としてついて来た。我々はお目通りをゆるされた。梅若氏は非常にもてなし振りがよく、外国人が謡を習うということを、よろこんだらしく見えた。竹中は、私がいろいろすることがあるので、すぐ稽古を始めねばならぬのだと説明した。梅若氏は私のために本を一冊持ち出し、私がこれから習う文句を、ゆっくり読んでくれ、私はそれを出来るだけそれに近く書き取った。私は日本風に、両脚を真下にして坐らねばならなかった。この坐り方は、外国人にとっては、初の間は、やり切れぬものであるが、今では私は一時間半、すこしも苦痛を覚えずに、坐っていることが出来る。彼は私の前に、小さな見台を据え、扇子をくれた。これを私は脚の上にのせて、持つのである。彼が一行歌うと私が彼を真似てそれを歌い、そこで彼が次の一行を歌うという風にして、この歌の十一行を歌った。それをこのようにして二度やってから、我々は一緒に歌った。私は彼の声が、如何にも豊富で朗々としていることを知った。また、彼の声は、すべて単一の音調子でありながら、高低や揚音で充ちているのに、私のは、如何につとめても平坦で、単調であるのに気がついた。私は私が行いつつある、莫迦気きった失敗を感じて、居心地悪くも面食い、一月の寒い日であるのに、盛に汗を流した。最後に死者狂になった私は、すべての遠慮をかなぐり棄て、何にしても彼の声音を真似てやろうと決心して、一生懸命でやり出した。私は下腹を力一杯ふくらませ、鼻から声を出し、必要な時には顫音発生装置をかけ、その結果数名の人々が、疑もなく絶望の念にかられて、襖の聞から、このような地獄的な呶鳴り声で、名誉ある場所を冒瀆しつつある外国人を、のぞき見することになった。何はとまれ、私の先生は初めて私の努力に対して賞賛するように頭を下げ、私が最初の稽古を終った時私をほめ、そして、多分はげます積りであったろうと思うが、私に一ケ月もすれば能の演技で歌うことが出来るだろうといった。図761は先生と生徒との態度を示す。私は茶の湯や謡の実際の稽古をして、日本人の見解から、多くの事を知ろうと思うのである。謡の方法は横隔膜を圧し下げ、腹壁を太鼓のようにつっぱらせ、それに共鳴器の作用をさせるにある。だが声を酷使することは甚しく、歌い手は屢々歌っている最中に咳をする位である。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、これは明治一六(一八八三)年一月二十九日のことで、『この日を含めて五回梅若のもとへ通』ったとある(本文でも「数回」と後述される)。また、『モースは後々までこのとき習った謡を忘れなかったらしく、彼の最晩年に訪れた人々がそのことを記している』(アメリカのセーラムで老生物学者モース先生の謠の声が響いた!)とある。

「日本の歌」原文は“Japanese singing”。以下で“singing”をそう訳している通り、これは所謂、能楽の詞章に曲節をつけた「謠(うたい)」である。

「浅草南元町」現在の台東区蔵前及び桂町・三筋一丁目相当。

「梅若氏」観世流シテ方能楽師五十二世梅若六郎(文政一一(一八二八)年~明治四二(一九〇九)年)。明治五(一八七二)年以降は初世梅若実を名乗った。明治期の能楽復興の功労者で宝生流シテ方能楽師第十六世宝生九郎及び金春流シテ方能楽師桜間伴馬(さくらまばんま)とともに明治三名人と称された名人。モースが彼に入門したことは梅若実自身の日記(公刊本第三巻)に記されてある。

「彼の家に接して、能の舞台がある」梅若六郎はこの浅草南元町の家で生まれている。三浦裕子論文初代梅若実と近代能楽――時代を越えた能役者――(PDF)によれば、慶応元・元治二(一八六五)年四月(この四月七日に改元)、当時は子のなかった六郎(当年満三十七歳)が長女津留子の婿養子として観世銕之丞家四世観世清済の次男源次郎を迎える(後、実に二人の実子(後の初世梅若万三郎と二世梅若実)が生れたため、既に五十三世梅若六郎を相続襲名していた源次郎は観世家に戻って観世清之を名乗り、後の矢来観世家として分家した)『直前に初代実は自宅に稽古用舞台である敷舞台を建てている。この敷舞台のうち』、本舞台の部分は二間四方と定寸の三間より『かなり狭いものであった。正式の能楽を上演することは難しく、初代実はのちに「村芝居にも劣るような始末」』『と安普請を振り返っている』が、梅若家のその舞台は明治四(一八七一)年に『篠山藩旧藩主の青山家の能舞台の譲渡を受け、この敷舞台に取って替わ』ったとある。

「必要な時には顫音発生装置をかけ、」原文は“put the tremulo stop on when necessary,”であるが、この“tremulo”(ママ。原本確認)は“tremolo”であろうから、ここは、

――必要に応じて、(師匠の声を真似んとしてつい)トレモロがちになる声を意識して震えないようにし、――

という謂いではないか? 少なくともド素人の私でも「顫音発生装置」とは訳せない(というより、意味不明、というより、私の考えるのとは反対)ように思うのだが、如何? 大方の御叱正を俟つものではある。

「一ケ月もすれば能の演技で歌うことが出来るだろう」残念ながら、モースはこの十六日後の翌二月十四日に、三度目にして最後の日本を去っている。]

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