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2016/01/27

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (12)謎の富士の刻印の茶器

 最近私は富士の記号のある茶碗を発見したが、これについては日本の専門家達が、大きに迷った。古筆はそれを二百年になる清水の仁清だというが、このような刻印は見たことが無く、柏木は古い大和の赤膚だと鑑定し、安藤は大和の萩だといい、増田は古薩摩といい、前田は摂津の浪華であるかも知れぬと思い、更に別の、名前を忘れたが、一専門家は、それは尾張の志野だといった。私はこの一事を、日本の鑑定家達の意見がかくも相違することを示し、判らぬ品を鑑定するという仕事が如何に困難であるかを示すために、ここに書くのである。

[やぶちゃん注:「古筆」多出の好古家古筆了仲。

「二百年になる清水の仁清」「仁清」は既注の江戸前期の陶工野々村仁清(ののむらにんせい 生没年不詳)。彼は明暦二(一六五六)年か翌三年頃より本格的な色絵陶器を焼造し始め、その典雅で純日本的な意匠と作風の色絵は粟田口・御菩薩池(みぞろがいけ)・音羽・清水・八坂・清閑寺などの東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし、後世の「古清水(こきよみず)」と総称される色絵陶器が量産されるようになった(その結果として京焼を色絵陶器とするイメージが形成されたと平凡社「世界大百科事典」の「京焼」にはある。以上もそれを引いた)。単純計算で当時(明治一六(一八八三)年)から「二百年」前は天和三(一六八三)年となるが、ウィキの「京焼」を見ると、清水焼は寛永二〇(一六四三)年までには『存在が確認されている。これに続いて御室焼、御菩薩池焼(みぞろがいけやき)、修学院焼なども作られ』、このような中で慶安三(一六五〇)年五月二十五日に『金森重近(宗和)が参加した茶会に関する記述の中で、絵付を施した御室焼の登場が確認されている。さらに翌年か翌々年には赤色系の上絵付を施した御室焼が野々村仁清によって初めて作られた。調合・焼成の困難な赤色系の絵付を』十七世紀に『成功させたのは、磁器を国内で初めて製作した伊万里焼(有田焼)以外ではこれが唯一の例であり、かつ陶器では国内初であった』とある。仁清には「古清水色絵蓮華式香炉」(京都法金剛院蔵・京都国立博物館寄託)がある。

「柏木」既出既注の好古家柏木貨一郎。

「大和の赤膚」「赤膚」は赤膚焼(あかはだやき)のこと。ウィキ赤膚焼によれば、現在の奈良県奈良市・大和郡山市に窯場が点在する陶器で、『草創は判然としないが、桃山時代に大和郡山城主であった豊臣秀長が、五条村赤膚山に開窯したと伝えられる』。『江戸時代後期には藩主、柳沢保光の保護を受け、幕末には名工、奥田木白が仁清写しなどの技術を披露し、世に広めた。小堀政一(遠州)が好んだ遠州七窯の一つにも数えられている』。『文政年間には五条山に三窯あり「東の窯」「中の窯」「西の窯」と呼ばれていた』とある(明治以降のパートは省略した)。

「安藤」不詳。

「大和の萩」原文も“Ando said it was Hagi, Yamato;”であるが、不詳。これはもしや「長門(ながと)の萩焼」と安藤なる好古家が言ったのをモースが聞き違えたか、メモした“Nagato”から起こす際に誤読した結果かも知れない。因みにモースの悪筆は超有名である。

「増田」不詳。

「古薩摩」初期の薩摩焼で、江戸初期に朝鮮半島からの渡来人によって鹿児島の帖佐(ちょうさ)などの窯で焼かれたものを指す。

「前田」不詳。

「摂津の浪華」難波焼(なにわやき)。延宝年間(一六七三年~一六八一年)頃より大坂高津附近で産した陶器。初めは雑器を焼いたが、後に茶器をも産出した。「なんばやき」「高津焼」とも呼ぶ。

「尾張の志野」志野焼(しのやき)。美濃焼の一種で美濃(現在の岐阜県)で安土桃山時代に焼かれた白釉(はくゆう)を使った焼物。ウィキ志野によれば、『室町時代の茶人・志野宗信が美濃の陶工に命じて作らせたのが始まりとされ』、可児(かに)市久々利(くくり)から土岐市泉町久尻(いずみちょうくじり)にかけて『産出する、耐火温度が高く焼き締りが少ない五斗蒔粘土やもぐさ土という鉄分の少ないやや紫色やピンク色がかった白土を使った素地に、志野釉(長石釉)と呼ばれる長石を砕いて精製した白釉を厚めにかけ焼かれる。通常、釉肌には肌理(きめ)の細かい貫入や柚肌、また小さな孔が多くあり、釉のかかりの少ない釉際や口縁には、緋色の火色と呼ばれる赤みのある景色が出る』とある。]

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