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2016/01/22

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注 (2)  新奇及び魅力

 

 新奇及び魅力

 

 旅客の筆にして居る日本に關する第一印象の多數は愉快な印象である。全くの處、日本がその人の情緒の上に何等訴ふる處もないと云ふやうな性質の人には何ものか缺陷があるのか、或は其人に何處か苛酷な處があるに相違ない。その心に訴ふる所以は則ち問題解決の端緒である、而してその問題とはこの人種及びその文化の特質を指すのである。

 日本――晴れ切つた春の日の白い日の光の内に姿を現はした日本――に關する私一個の第一印象は言ふまでもなく、普通一般の人の經驗する處と共通な點を多くもつて居た。特に私はその光景の驚きと悦びとを記憶して居る。この驚きと悦びとは遂に消え去らなくて、滯在十四五年後の今でも屢々、何か偶然の機會があれば頭を擡げて來るのである。併しながら恁ういふ感情の起こり來る理由に至つては知り難い――若しくは少くとも攷(かんが)へ難い、何となれば私はまだ多く日本に就いて知るとは言へないのであるから……餘程以前に私の得た尤も良い尤も親しい日本の友人が、その死ぬ少し前に私に言つた事があつた『これからなほ四五年經つて、貴下が全く日本人は了解が出來ないとお考へになるやうになつたら、その時始めて貴下は日本人に就いて幾分かお解りになり始めるでせう』と。この友人の豫告の眞實なる事を實際に感じた後――私は全然日本人を了解し得ない事を發見した後――私は却つてこの論文を試みる資格のある事を感ずる次第である。

[やぶちゃん注:「滯在十四五年」ハーンの来日は明治二三(一八九〇)年四月四日で、本書の執筆は明治三六(一九〇三)年三月の東京帝国大学による不当解雇の後であるから実質は起筆は丸十三年ほど、所謂、数えでなら十四年になるが、翌ハーン没後一ヶ月後の出版(明治三七(一九〇四)年十月)まで引き延ばせば、数えで「十五年」も正当な表現と言える。実は原文は“after fourteen years of sojourn”であるから、戸川氏は公刊時を念頭に数えの十五年と加えたものかも知れない。

「恁ういふ」「かういふ(こういう)」と読む。

「餘程以前に私の得た尤も良い尤も親しい日本の友人」これに最もよく当て嵌まる人物は私は松江中学校奉職時代の校長心得(教頭)であった西田千太郎(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)が有力な候補であるように思われてならない。西田氏は郷里島根県で母校松江中学の英語教師を務め、この明治二三(一八九〇)年九月に着任したハーンと親交を結び、ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。ハーンと出逢って七年後に惜しくも三十六の若さで亡くなっている(「講談社「日本人名大辞典」に拠った)。]

 

 最初に知覺した通り、日本に於ける事物の外觀上の新奇は、(少くとも或る種の人には)敍述しがたい一種異樣な竦動――全く見知らぬものに就いての知覺に伴なつてのみ吾々に起こり來る不氣味の感を起こさせる。我々は普通でない形をした上衣と草鞋とをつけた妙な矮人の澤山に居る異樣な小さい町筋を通つて動いて居る、そして一見したばかりでは、その人の男だか女だかの匹別も出來ない。家は吾々の經驗した處とは全く異つた仕方で建造され、造作をつけられて居る、さらに店舖に竝べられてある無數の品物の用途も意義も、全く考へつかれないのを知りて、吾々は呆然とするのである。何處から來たものか想像もつかないやうな食料品、謎のやうな形をした器具、何か祕密な信仰から來たものである理解の出來ない符牒、神々や惡魔に關する傳説を記念させる面と玩具、なほ怪異な耳をもち顏に笑をたたへて居る神々そのものの妙な姿、すべて斯樣なものを、吾々は歩き廻はるに從つて認める事であらう、よし一方には電柱やタイプライタ、電燈及びミシンを見るに相違ないに。到る處、看板に、暖簾に、又道行く人の背に、驚くべき漢字を見る事であらう、そしてこれ等のものの不思議さこそは光景の主調を成すものである。

[やぶちゃん注:「竦動」「しようどう(しょうどう)」と読み、謹み畏(かしこ)まること、恐れて身を縮めることを意味する。]

 この奇異な世界といよいよ進んで近接しても、その最初の光景に依つて喚起されら新奇の感は決して減少される事はない。人はやがて此人民の身體上の行動すらも珍らしいものである事――彼等の仕事のやり方は西洋のやり方と反對である事を認めるであらう。諸々の道具の恰好は驚くべきもので、それがまた驚くべき方法によつて取り扱はれる。鍛冶工は鐡敷の前に蹲つて槌を揮るふが、其槌は永く練習しなければ、西洋の鍛冶工には使ひ得ないやうな道具である。大工は異樣なその鉋と鋸とを、前に突かずに後へ引く。いつも左側が正しい側で、右が間違つた側である。錠を開閉する鍵は、吾々の間違つた方向と常に考へて居る方に廻はさなければならない。日本人は逆に話し、逆に讀み、逆に書くとパアシヷル・ロヱル氏が言つたのは常を得て居る――而もこれは『彼等日本人の逆行のいろはに過ぎない』のである。ものを逆に書く習慣に就いては明らかに進化論上の理由がある。そして日本の書法には、當然その理由があるので、書家はその筆を手前に引かずに、それを前方に押すのである。併しながら何故に日本の娘は絲を針の目に通す事をせずして、針の目をして絲の尖端を通して行かせるやうな事をするのであるか。反對のやり方の無數にある例の内で、尤も顯著なものは、日本の剱術の示す爲のであらう。剱客は兩手を以つてその一撃を施すのであるが、その打擊の際にその刃を自分の方に引かずに、自分の方から前の方にそれを突きやる。則ち他のアジヤ人のするやうに楔の理窟でせずに、鋸の理窟でやるのである兎に角打擊をするに吾々が手前に引く運動を期待して居る時、突く運動があるのである…………これ等の他いろいろな吾々の知らないやり方があつて、その不思議な事は身體上から言つても、日本人は別世界の人であるかのやうに、吾々とは緣の薄い人間であるといふ考ヘ――何か解剖學上の相違のあるといふ考へを起こさせる位である。併しそんな相違はありさうにも思はれない、それですべてかくの如き反對は、恐らくアリヤン人種の經驗とは全く離れた人間の經驗から來たものではなくて、進化論から言つて吾々の經驗よりもまだ經驗の若い處から來たものであらうと考へられる。

[やぶちゃん注:「いつも左側が正しい側で、右が間違つた側である」平井呈一氏は一九七六年恒文社刊「日本――一つの試論」(私はこの題名の訳こそが正しいと思っている)では、『左がつねに正しい側で、右はギッチョなのである』と訳しておられるが、無論、実際には日本人が左利きなわけではないから、幾つかの道具の用い方が西洋の方式とは反対であることから、八雲は所謂、本邦の信義上儀礼上の「右よりも左が尊位」ということをここで強調しようとしているように私には思われる。大方の御批判を俟つ。

「パアシヷル・ロヱル」アメリカ人天文学者にして日本研究者であったパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell 一八五五年~一九一六年)。ウィキの「パーシヴァル・ローウェル」より引く。『ボストンの大富豪の息子として生まれ、ハーバード大学で物理や数学を学んだ。もとは実業家であったが、数学の才能があり、火星に興味を持って天文学者に転じた。当時屈折望遠鏡の技術が発達した上に、火星の二つの衛星が発見されるなど火星観測熱が当時高まっていた流れもあった。私財を投じてローウェル天文台を建設、火星の研究に打ち込んだ。火星人の存在を唱え』、一八九五年の『「Mars」(「火星」)など火星に関する著書も多い。「火星」には、黒い小さな円同士を接続する幾何学的な運河を描いた観測結果が掲載されている。運河の一部は二重線(平行線)からなっていた』。三百枚に近い『図形と運河を識別していたが、火星探査機の観測によりほぼすべてが否定されている』。『最大の業績は、最晩年の』一九一六年に『惑星Xの存在を計算により予想した事であり』、一九三〇年に『その予想に従って観測を続けていたクライド・トンボーにより冥王星が発見された。冥王星の名』“Pluto”には、ローウェルのイニシャルである“P.L.”『の意味もこめられている』とある。一八八九年から一八九三年(明治二十二年から二十六年で、ハーンは明治二十三年に来日しているから、殆んどハーンと同時期の日本を体験している)にかけて、明治期の日本を五回も訪れ、通算約三年間、滞日したことになる。『来日を決意させたのは大森貝塚を発見したエドワード・モースの日本についての講演だった。彼は日本において、小泉八雲、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・ビゲロー、バシル・ホール・チェンバレンと交流があった。神道の研究等日本に関する著書も多い』(下線やぶちゃん。以下同じ。因みに、私はモースの『日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳』を電子化注しているが、フェノロサとビゲローはモースによって来日したと言ってもよい)。しかし、『日本語を話せないローウェルの日本人観は「没個性」であり、「個性のなさ、自我の弱さ、集団を重んじる、仏教的、子供と老人にふさわしい、独自の思想を持たず輸入と模倣に徹する」と自身の西洋的価値観から断罪する一方で、欧米化し英語を操る日本人エリートたちを「ほとんど西洋人である」という理由から高く評価するといった矛盾と偏見に満ちたものであったが、西洋の読者には広く受け入れられた』とあるものの、『日本語を解するバジル・ホール・チェンバレンはこの説に批判的であり、ローウェルの『極東の魂』を読んで日本に興味を持ったラフカディオ・ハーンもこの没個性論には否定的だった』と注にある。ここで八雲が引くのは、私は当該書を読んでいないが、ローウェルが一八八八 年に刊行した“The Soul of the Far East”(極東の魂)か? 識者の御教授を乞う。

「アリヤン人種」“Aryan”はこの場合、インド・ヨーロッパ語族の諸言語を使う全ての民族は共通の祖先であるアーリア人から発生したものとするアーリアン学説に基づく人種説の一つで、その場合の「アーリア人」は以下に示す狭義のそれよりも遙かに拡大されてしまうので注意が必要である。狭義のアーリア人はインド・ヨーロッパ語族に属する言語を話し、紀元前一五〇〇年頃に中央アジアからインドやイランに移住した古代民族で、現代のヨーロッパやアジアの多くの民族との文化的共通性を持ってはいるが、現行ではあらゆる学術分野からその非科学性が指摘され、アーリアン学説自体は最早、人類学の人種説としての意味を失っている。なお、後にナチス・ドイツが用いた人種分類の一つである「アーリア人」は専ら優勢性を主張するための差別語に過ぎず、起源を異にするセム(ユダヤ)人に対してアーリア人であるゲルマン民族の優越を述べるための非科学的非論理的表現であるが、我々は「アーリア人」という言葉に未だ以って、このヒトラーの亡霊の呪文の呪縛を受けているきらいが十分にあるということを自戒する必要があるように思われる。なお、「アーリア」とは梵語(古代インド語サンスクリット)で「貴い」(ārya)に由来する。]

 併しながらその經驗は決して劣等なものではなかつた。其表現はただ驚かすばかりでなく、又人を悦ばすものである。纎細なる細工の完璧、物象の輕快な力と品位、最少の材料を以つて最上の結果を收めんとするやうになされた力、出來うる限り筒單な方法に依つて機械力の目的を達する事、審美的價値あるものとして、不規則を了解する事、一切のものの恰好及び完全な趣味、着色若しくは色彩にあらはれたる調和の感――すべてこれ等の事は、ただに藝術及び趣味の事に於けるのみならず、又經濟と功利(利用厚生)の事に於ても、吾が西洋はこの遠く隔たつたる文化から學ばなければならぶ處の少くない事を直に納得させられるに相違ない。これ等驚くべき陶器、目ざましい刺繡、漆器、象牙、靑銅の細工等は吾々の知らない方向に想像力を教育するものであるが、其觀者に訴ふる所以は決して野蠻曖昧な空想から生ずるのではない。否、これ等はその範圍内にあつては、藝術家以外には何人も其製作品を批判する事の出來ない位に微妙になつた文化――三千年前のギリシヤ文化を指して不完全と稱する人々に依つてのみ不完全と稱されうる文化の産物である。

 

 併しながらこの世界の根抵に横たはつて居る奇異――心理上の奇異――は眼に見ゆる外觀の奇異よりも遙かに驚くべきものである。西洋で成人になつた者は到底日本の言語を完全に用ふる事の出來ないのを知るに至つて、人々は始めて、此奇異なる事の如何に大なるかを察しうるであらう。東洋も西洋も人情の根本的働き――情緒の基礎――に至つては多くは同じものである、日本の子供とヨオロッパの子供との精神上の相相違は主として、其力の未發的な處にある。然るに其發育と共に此相違は急速に發展し、擴大し、やがて成人に於てはそれが言語を以つては現はし難い程になる。日本人の精神上の構造はすべて放出して、西洋の心理的發達とは何等共通の點なき諸相を構成する、則ち思想の表現は制限を加へられ、感情の表現は抑制せられて、人を惑亂せしめる姿を爲す。日本人の思想は吾々の思想とは違ひ、其情操は吾々の情操とは違ふ、日本人の倫理的生活は、吾等に取つては、未だ探究された事のない、若しくは恐らく永く忘れられたる思想竝びに感情の世界を示すものである。試みに日本人の普通の辭句を一つ取つて、これを西洋の言葉に飜譯して見ると、それは何とも仕樣のない無意味なものになる、尤も簡單な英文を逐字的に日本語にして見ると、ヨオロッパ語を學んだ事のない日本人には殆どそれは理解されまい。日本の字書にある言葉を悉く學ぶ事が出來たとして、さらに日本人のやうに考へる事を學ばない以上――則ち逆に考へ、上と下と、外と内とを、取り違へて考へ、アリヤン人には全く緣のない方向に考へるのでなければ、文學の習得も、諸君の對話を了解さす助けとは少しもならないのである。ヨオロッパ語の習得に就いての經嶮は、それが火星住民の語る言語を學ぶ助けとなすに足らないと同樣に、日本語を學ぶ助けとはならない。日本人が用ふるやうに日本語を用ひうるには、生まれかはり、根抵から頭腦をすつかり改造して來なければならない。日本で生まれ、幼年の時から日本語を用ひなれてゐるヨオロッパ人を兩親とする人ならば、或はかの本能的の知識を後年まで持續し、其精神上の關係を日本の環境に適應さす事が出來るかも知れない、これは可能な事である。事實ブラックといふ日本で生まれたイギリス人があるが、此人の日本語に於ける勘能は、自らはなしかを職業として可なりな收入を得て居たといふ事實に依つて證明されて居る。併しこれは異常な場合である……。文學上の用語に就いて言へば、これを知るのは幾千の漢字を知るよりも遙かに多くの知識を要するとだけ言つて置けばよからう。西洋の人にして、自分の前に提出された文學上の文章を。一見して直ぐに了解しうるものは、一人もないと言つても誇張の言ではあるまい――實際日本の學者でもさういふ事をなし得る人は極めて少數である――そして幾多のヨオロッパ人が示して居る此方面に於ける其學識は、敬嘆に値するものではあるが、何人の著作と雖も、日本人の助力なくして、世界に發表され得たものは一つもないのである。

[やぶちゃん注:ここで言っておくと、戸川の訳のリーダの長さは表記通り、場所によって一定していない。それも再現してある。

「火星住民」ここで火星人が出るのには驚かされるが、これは恐らく前段に登場して貰ったローウェル火星人存在説に引っ掛けた八雲のお遊びであろう。但し、霊の存在を信じていた八雲が火星人の実在を信じていなかったかどうかは断言は出来ぬ。

「ブラックといふ日本で生まれたイギリス人」の「はなしか」落語家・講釈師。奇術師であった初代快楽亭ブラック(一八五八年(安政五年)~大正一二(一九二三)年)のこと。ウィキの快楽亭ブラック(初代)」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『イギリス領オーストラリアのアデレード生まれ。国籍は初め英国、のち日本に帰化している。本名ははじめヘンリー・ジェイムズ・ブラックHenry James Black)、帰化後の日本名は石井貎刺屈(いしいぶらつく)』。『先祖はスコットランド人、祖父の代までは海軍や陸軍の軍人。一八六五年(慶応元年)、日本初の英字新聞『週刊ジャパン・ヘラルド』の記者として日本に滞在していた父・J・R・ブラック(J. R. Blackの後を追い、母とともに来日した。父はのちに『日新真事誌』という新聞を発行して新政府の政策を盛んに批判したため、同紙は廃刊措置となり、日本を見限って上海に渡った。このころ近所に演説好きの堀竜太がおり親しくなり自身も一、二度演説に立ったこともある』。『十八歳になっていた長男ブラックは単身日本に残る道を選び、一八七六年(明治九年)、奇術師三代目柳川一蝶斎の一座に雇われて西洋奇術を披露し始める。同年七月には浅草西鳥越の芳川亭と日本橋南茅場町の宮松亭において、ハール・ブラックの名で西洋手品を興行した記録が残っている。その後の二~三年間は、一説によるとアメリカのシアトルで母と共に生活していたという』。『一八七八年(明治十一年)、再度来日。翌年春、以前から親交があった講談師二代目松林伯圓に誘われ横浜馬車道の富竹亭で政治演説に出演した記録が残っている。同年、正式に伯圓に弟子入りし、英人ブラックを名乗った』(一八八〇年には父が五十三歳で死去している)。『当時の芸人は政府の許可がないと寄席に出ることができなかったため、講釈師三代目伊藤燕凌の仲介で外務省と掛け合い、翌一八八〇年(明治十三年)に許可を取得。以後、本格的に寄席に出演するようになった。ところが親戚や知人の猛反発に遭い、一時は廃業して英語塾を開かざるを得なかったが、結局は演芸の世界に舞い戻る。一八八四年(明治十七年)には三遊亭圓朝・三代目三遊亭圓生らの属する三遊派に入った』(この間の明治二十三年にハーンは来日している)。『一八九一年(明治二十四年)三月より快楽亭ブラックを名乗る。その二年後の一八九三年(明治二十六年)四月に浅草猿若町菓子屋の娘・日本人女性の木村アカと結婚し婿養子となり、日本国籍を取得。本名を石井貎刺屈と改めた、この国際結婚は日本よりも祖国イギリスでの新聞が大々的に報じ話題になった、その後アカとは離婚している。これ以後、ブラックの八面六臂の活躍が始まる。西洋の小説を翻案した短編小説や、それをもとにした噺を書き出したのを手始めに、やがて自作の噺を創作するようにまでなり、べらんめえ調をあやつる青い眼の噺家として人気を博した。また、高座で噺の最中に手品を見せてみたり、歌舞伎の舞台に端役で飛び入り出演してみたり、一八九六年(明治二十九年)には日本初とされる催眠術の実演を行ったりもしている』。『一九〇三年(明治三十六年)に英国グラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグが来日すると、ブラックは積極的に親しい芸人を誘って落語や浪曲、かっぽれなど諸芸を録音円版に録音。これが日本初のレコード録音となる。音質は不鮮明ながら、四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、初代三遊亭圓遊、三代目柳家小さん、浪花亭愛造、豊年斎梅坊主など明治の名人たちの貴重な肉声が残されることになった』(八雲が本書を起筆した年である。即ち、まさに本篇が書かれたのは快楽亭ブラックの絶頂期であったことが判る)。しかし、『一九〇七年(明治四十年)になると人気が凋落し、落語見立で「東前頭四枚目」に落ちる。一九〇八年(明治四十一年)九月二十三日、兵庫県西宮の恵比須座に出演中に亜砒酸で自殺未遂騒動を起こすまでになった。関東大震災の衝撃覚めやらない一九二三年(大正十二年)九月十九日、白金三光町の自宅で満六十四歳で死去、死因は脳卒中。遺骸は横浜外国人墓地の父の隣に埋葬された』。私も若い頃、彼の墓をお参りした。]

 

 併し日本の外面の奇異が飽くまで美を示すと同樣に、その内面の奇怪に至つては又別の魅力をもつて居るやうに考へられる――即ち人々の日常生活に反映して居る一種倫理的の魅力をもつて居る。この日常生活の興味ある情景は、普通の觀察者には、それが幾世紀を積んで得られたる心理上の異樣な發展を示すものであるとは考へられまい、パアシヷル・ロヱル氏の如き科學的精神をもつた人のみが、直に提出されたるこの問題を了解するのである。かくの如き天與の力を多くもつて居ない外國人は、よし生來同情を有つて居るとしても、只だそれを樂しみ、また惑ひ、かくして世界の他方面(西洋)に於ける自分の樂しい生活の經驗に依つて、今自分の心を魅したるこの社會狀態を説明しようと試みる。今かくの如き外國人が、幸にして日本内地の古風な都會に、六箇月若しくは一箇年間住み得たと假定する。すると此滯在の最初から、その人は自分の周圍なる生活に顯はれて居る親切と樂しさとに感銘せざるを得ないであらう。人々相互の關係に於て、竝びに人々の自分に對する關係に於て、その人は餘所ならば全く水入らずの親しい仲間に於てのみ得られるやうな、不變の快心、如才なさ、良い氣心等を、感得するであらう。人は誰れでも他の人に挨拶するに、嬉しさな顏附と樂しさうな言葉とを以つてする、顏はいつも微笑してゐる、日常生活の極めて普通な事件も、教へられずして直に眞心から起こつたと思はれるやうな、全く技巧を加へない、而も全く瑕瑾のない、儀禮のためにその形をかへて立派なものとなつてしまふ。如何なる周圍の事情があつても、外面の快い好機嫌は失はれない、どんな嫌な事が來ようとも――暴風雨でも、火災でも、洪水でも、地震でも――笑聲の挨拶、晴れやかな微笑、しとやかな敬禮、親切な慰問、喜ばさうとの願ひ等は、いつまでも生存を美しくして居る。この日光の内には宗教も陰影を投じない、佛や神々の前で祈禱する時でも人々は徴笑して居る、お寺の庭は子供の遊び場である、そして大きな公共の神廟の境内に――それは莊嚴の場所といふよりも祭禮の場所である――舞踊の舞が建てられて居る。家族の生活は到る處温和といふ特徴をもつて居るらしく、目に見ゆる爭ひもなく、無情な荒ら立つた聲もなく、涙もなく、叱責の聲もない。殘酷といふ事は動物に對してすらないらしく、町に來る農夫は牛馬を側につれて辛抱強く歩きながら、この口をきかぬ相手を助けて荷物を荷ひ、笞その他の剌激物を用ひない。車を曳くものも、極めて癪にさはさうな場所にありながら、道をよけて、のろのろして居る犬若しくは愚かな雛をひくやうな事はしない…………隨分長い間、人はかくの如き光景の間に目を送つて居ても、その生存の樂しさを害ふやうなものを認める事はないのである。

[やぶちゃん注:「瑕瑾」「かきん」と読み、傷の意であるが、一般には、特に全体として優れている中にあって、惜しむべき小さな傷・短所・欠点をいう。

「害ふ」「そこなふ(そこなう)」で「損なう」に同じい。]

 言ふまでもなく、私が言ふかくの如き狀態は今や消失しかけて居る。併しなほそれ等は遠隔の地方には見られる。私の住んで居た地方では窃盜事件が幾百年の間も起こつた事がなく、明治時代新設の監獄は空しく無用物として立ち――人々は夜も晝も同樣に戸締りをしなかつたのである。かくの如き事實は皆日本人の熟知して居る處である。かくの如き地方に於て、外國人として諸君に對して表明される親切は、或は官憲の命令に出たものであると、諸君は考へるかも知れない、併しそれにしても人民相互間の親切は、これを怎う説明出來よう。何等の苛酷も、粗暴も、不正直も、また法の侵害もなく、而もかくの如き社會の狀態は幾世紀間も同樣であつた事を知る時、諸君は全く道德上優越した人間の領土に入つたと信ぜざるを得ないであらう。すべてかくの如き優雅、非難の餘地なき正直、言語動作の明々白々なる親切は、恐らく完璧なる善心から出た行爲と自ら解釋されやう。而して諸君を悦ばすこの素朴は決して野蠻から來た素朴ではない。この國に於ては各人みな教育を受け、各個みな立派に書き且つ語るを知り、詩を作り、作法に從つて己を處する事を知つて居り、到る處淸潔と良趣味とがあり、一家の内は光明に輝き鈍潔であり、日々の入湯は一般普通の事である。あらゆる事は博愛の精神に依つて治められ、あらゆる行爲は義務に依つて動かされ、あらゆる物は藝術に依つてその形を作られて居るやうな、この文化にどうして魅せられずに居られやう。人はどうしてかくの如き狀態に依つて悦ばされないで居られやう。また彼等の『異教徒』として罵られるのを聞いて、憤慨せずに居られやう。而して諸君の心の内にある博愛心の程度に應じて、この善良なる人民は何等外觀上強ひて骨折る事もせずして、自ら諸君を樂しくさせるであらう。かくの如き環境に於ける唯一の感じは平靜な樂しさである、それは夢の中の感じで、夢の中にあつては人々は自分がさう挨拶されたいと思ふやうな風に挨拶され、また聞きたいと欲する通るの事を聞き、して貰ひたいと願ふやうな事を、して貰ふのであるが、丁度その通りを感ずるので――人々は全く平靜な空間を通つて足に音を立てないやうに歩き、すべて雰圍氣のやうな光の内に浴して居るのである。さう――少からぬ時の間、この神仙の民は柔らかな睡眠の至福を與へる事が出來る。併し早晩、諸君が長く、彼等と一緒に住んでゐると、諸君の滿足なるものは、夢の樂しさと共通な處を多く有つて居る事が解るであらう。諸君は決して夢を忘れる事をしまい、――決して忘れまい、併しそれは恰も輝く日の午前中、日本の風光に超自然の美しさを與へる春の霞の如くに、結局は消されるであらう。實際諸君は身體が神仙の國に入つたが故に樂しいのである――實際は現存しないし、また到底自分のものとする事の出來ない世界に入つたが故に。諸君は諸君の居る世紀から――過去の消滅した時といふ洪大な空間をこえて――忘れられた時代、消え失せた時代に――エヂプト若しくはでニネヹの如き古代と云と云つたやうな處へ遡つて移されたのであつた。これが日本の事物の奇怪と美との奥義――これらの事物の與へる竦動の奧義――人民とそのやり方の、可愛らしい魑魅の如き魅力のある奧義である。幸運の人よ、『時間』の潮は諸君の爲めに廻轉したのであるよ。併し記憶せよ、ここの萬事は魔法である、――諸君は死者の魅力にかかつたのである、――光明と色彩と音聲とは萎れて、結局空虛と緘默とに歸さなければならないのてある。

[やぶちゃん注:「私の住んで居た地方では窃盜事件が幾百年の間も起こつた事がなく、明治時代新設の監獄は空しく無用物として立ち――人々は夜も晝も同樣に戸締りをしなかつたのである」「住んで居た」とあり、読者は直ちに松江を想起されるであろうが、私はこれは、彼の隠岐体験に基づくいいであるように思われる。私の「小泉八雲・落合貞三郎他訳「知られぬ日本の面影」第二十三章 伯耆から隱岐ヘ(二十二)」を参照されたい。私の言いが尤もなことがお分かり戴けるものと思う。

「ニネヹ」原文“Nineveh”。現在のイラク北部に位置するチグリス川沿い都市モースルにあった古代メソポタミア北部のアッシリアの都市ニネヴェ。アッシリア帝国後期には首都が置かれた。参照したウィキの「ニネヴェ(メソポタミア)」によれば、紀元前七千年紀から人が居住を始めた非常に古い街で、『新アッシリア王国時代に、センナケリブがニネヴェに遷都して以降、帝国の首都として大規模な建築事業や都市の拡張が行われた。この時期に街は二重の城壁で囲まれ、クユンジクの丘には宮殿が相次いで建設された。アッシュールバニパル王の図書館があったのはこの都市であり、バビロンにあったとされる空中庭園は実際にはニネヴェにあったとする説もある』。紀元前六一二年に『メディアとバビロニアとスキタイの攻撃を受けてニネヴェは陥落し破壊された。その後も小規模の都市として存続したが、かつての重要性は失われ』たとある。近年は過激派組織ISILによって、遺跡の破壊と略奪が行われている。]

 

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 一時でも宜いから。もう消滅した美しいギリシヤ文化の世界に生活し得たらばとは、少くとも吾々の内の或る人の往々希望した處であつた。始めてギリシヤ藝術及びギリシヤ思想の魅力を知り、それに感激した結果は、其古代文化の實狀を想像し得ない内に、早くもさういふ希望が起こつて來るのである。併し若しさういふ希望が實現され得たとしても、吾々は正にさういふ實狀に身を適應させる事の不可能なる事を知るであらう。それは其環境を知るの困難なるが爲めではなくて、三千年前に人々が感じて居たと丁度同じやうに感ずる事の遙かに困難なるが爲めである。文藝復興以來、ギリシヤ研究にあらゆる努力が爲されたにかかはらず、古代ギリシヤ生活の諸相を了解する事は、なほ吾々の難しとする處である、たとへば近代の思想を以つてしても、エデイプスの大悲劇に依つて訴へ得た人民の情操感情等を如實に感得する事は出來ない。而も吾々はギリシヤ文化の知識に關しては、第十八世紀の吾が祖先よりも遙かに進んで居るものである。フランス革命の時代にあつては、ギリシヤ共和政の實狀をフランスに再現し、スパルタ式に依りて兒童を教育する事も出來ると考へて居た。今日に於ては、近代文化によつて育てられたる人が、ロオマ征服前なる古代世界の都市に存立して居た社會主義的專制主義の下にあつて、幸福を得る事の出來ない事は、何人もよく知つて居る處である。よし古いギジシヤ生活が吾々の爲めに再現して來たとしても、吾々はそれと融和する事は出來ない――その生活の一部となる事は出來ない――丁度吾々の自分の精神上の個性を變へる事の出來ないやうに。併し其生活を目睹し得るといふ喜びの爲めには、如何なる勞をも辭さないであらう――-コリンスに於ける祝祭に一度列するといふ樂しみ、全ヘレナの遊戲を目擊するといふ悦びのためにには………。

[やぶちゃん注:「コリンスに於ける祝祭」“festival in Corinth”。綴りが違うが、恐らく現在のギリシア共和国ペロポネソス地方にある都市コリントス(Korinthosのことであろう。ウィキの「コリントス」によれば、紀元前九世紀に『ドーリア人(ドリス人)によって建設され、商業都市として繁栄した。アプロディーテーを守護神としその祭祀で知られ』、『「コリントス」は非ギリシア語源の語とみられ、おそらくドーリア人以前の先住民族の語である。ミケーネ文明の頃にはすでに繁栄していたと推測される。神話ではコリントスの創設者はシーシュポスであり、コリントスの王はその子孫であるとされる。神話ではまたイアーソーンがメーデイアを離婚した土地ともいわれる』。『ペロポネソス半島とギリシア本土をつなぐイストモス地峡に位置するコリントスは、交通と交易の要衝として繁栄し、古典期にはアイギナと並ぶギリシャ世界の経済の中心となった。アテナイやテバイの台頭後も、財力でこれらに並んだ。コリントスのアクロポリスには、街の主神であるアプロディーテーの大神殿が築かれた。複数の文献が、この神殿に雇われていた千人の聖娼(遊女)について伝えている。コリントスはまた四大ギリシア競技会のひとつ、イストミア大祭を開催した』。『バッキアダイによる寡頭政を経て』、紀元前七世紀には『僭主キュプセロス、ペリアンドロス父子により統治され、ふたたび寡頭政に移行した。また、シュラクサイ(現在のシラクサ)を初めとする複数の植民地を建設した。コリントスはペルシャ戦争でのギリシア方の主要ポリスのひとつであったが、後にはこのとき同盟したアテナイと敵対し、スパルタとペロポネソス同盟を結んだ。ペロポネソス戦争の要因のひとつは、コリントスの植民市コルキュラ(現在のケルキラ)をめぐるアテナイとコリントスの争いであった。軍事力に優れつつも経済的には脆弱だったスパルタの戦争継続能力維持を助けたのがコリントスの経済力であったと言われている』。紀元前一四六年、『かねてより対立していた共和政ローマから派遣された執政官ルキウス・ムンミウス率いるローマ軍がコリントスを包囲陥落させ、コリントスは完全に破壊された(コリントスの戦い)』とある。

「全ヘレナの遊戲」“the Pan-Hellenic games”“Hellenic”は「古代ギリシャの」の謂いであるから、オリンピックの起源である古代ギリシャの全祭典全競技の謂いであろう。ウィキの「古代オリンピック」によれば、『オリュンピアで行われるオリュンピア祭は、ギリシアにおける四大競技大祭のうちの一つであった。これらの四つの競技大会は』オリュンピア大祭(開催地はオリュンピアで四年に一度。祭神はゼウス)・ネメアー大祭(開催地はネメアーで二年に一度。祭神はゼウス)・イストモス大祭(開催地はイストモス(現在のイストミア)で二年に一度。祭神はポセイドン)・ピューティア大祭(開催地はデルポイで四年に一度。祭神はアポロン)で、この内、『大神であるゼウスに捧げられるオリュンピア祭が最も盛大に行われた』。『ゼウスが男神であることから、オリュンピア祭は女人禁制であった。そして奉納競技において競技者が裸体となることが関係していたとも考えられる。ポリスの日常生活にかかせない体育競技場においては、男性であっても競技を行わず衣服をまとって入場することがはばかられたほどであった。ただし、戦車競走では御者ではなく馬の持ち主が表彰されたので、女性が表彰された例はわずかにある』。『しかし、女子競技の部ともいうべきヘーライアという祭りが行われていた時代もある。これは名のとおりゼウスの妃ヘーラーに捧げる祭りで、オリュンピア祭と重ならない年に行われていた女子のみの祭典となっている。競技は短距離走のみで、右胸をはだけた着衣で行われたと当時を伝える像から考えられており、現在の夏季五輪のメダルに浮き彫りにされた勝利の女神はこれを着用している。競技優勝者にはオリーブの冠と犠牲獣の肉が分け与えられ神域に自身の像を残す事が許されているが、実際は肖像を壁画に残す等の事が多く行われている』。『なお、オリュンピア祭では体育だけでなく詩の競演も行われたことが伝わっている』とある。

 が、併し消滅したギリシヤ文化の復興を目擊し、――ピタゴラスのその學寮のあつたクロトオナの都を歩き、――セオクリタスの居たシラキユウスを放浪するのは、現在吾々が日本人の生活を研究する機會を與へられて居るその特權に勝さるものとは言はれないのである。否、進化論的の見解から言へぱ、前者の方が却つて特權として弱いものである――何となれば吾々が親しくその藝術文學を知つて居るギリシヤ時代の事情よりも、遙かに古く、又心理的に遙かに吾々とは隔つて居る事情の、生きたる光景を、日本は吾々の眼前に擴げて居るからである。

[やぶちゃん注:「ピタゴラスのその學寮のあつたクロトオナの都」ピタゴラスはイオニア地方のサモス島生まれであったが、後にギリシアの植民都市でイオニア海に面した港湾都市クロトーンでピタゴラス教団を立ち上げている。このクロトーンは現在のイタリア共和国カラブリア州東部にあるクロトーネ(イタリア語:Crotone)の前身で、同市は現在、クロトーネ県の県都である。

「セオクリタスの居たシラキユウス」「セオクリタス」は詩人で前章で既注。ギリシアの「牧歌」の創始者。「シラキユウス」は現在のイタリア共和国のシチリア島南東部に位置するシラクサ(イタリア語:Siracusa)。セオクリタスはシラクサ生まれであったが、シラクサ王の保護を受けられず、後に東方のアレクサンドリアに招聘されてアレキサンドリア王プトレマイオス二世の保護下に入って宮廷詩人として同宮廷に迎えられた。晩年は修業時代を過ごしたコス島に戻った(ここは主にウィキの「テオクリトス」に拠る)。]

 

 吾々の文化よりも進化の度の少く、智力上吾々から懸隔してゐると云つて、或る文化が必らずしもすべての點に於て、吾々のよりも劣つて居ると言はれないといふ事は、強いて諸君の注意を求めるまでもない事である。へレナの文化のその最高期は社會學から見たる進化の初期を代表して居る、而もその發展さし得た藝術は、美に關する吾々の最高のまた近似すべからざる理想を示してゐる。それと同じくこの舊日本の遙かに古風な文化も、吾吾の驚異と稱讃とを十分に値する、審美上竝びに道德上の水準に達し得たものである。ただ淺薄な人――極く淺薄な人のみが、日本の文化の最上なるものを、劣等であると放言し去るのであらう。併し日本の文化は、西洋に比類のないほどに、特徴のあるものとされて居るが、それは澤山の相ついで來た外國文化の積み重ねが、單純なる本來の土臺の上に置かれ、甚だ複雜なる紛糾をなす光景を呈して居るからである。この外來の文化の多分は支那の文化であつて、それはこの研究の主なる題目に對して、ただ間接の關係をもつて居るに過ぎない。不思議でまた驚くべきことには、かくの如き澤山の積み重ねのあつたに拘らず、人民及び其社會の本來の特質は、なほ歷として殘つて居るのである。日本の驚くべき點はその身に纏つた無數の、借りものに――昔の姫君の、色と質とを異にした十二の式服を一つ一つ重ねて、そのいろいろの色をした端の、襟や袖や裾に露はれるやうに着るのと同じやうに――あるのではない、否、眞に驚くべきはその着用者である。蓋し衣裳の感興は、その形や色にあるのではなく、考へとしてのその意義にあるのであるからである――その衣裳をつくり、それを採用した人を表現するものとして興味があるのである。されば古い日本の文化の最高の興味は、それがその人種の特色を示す點にある――明治のあらゆる變化に依つても、なほ全く變はらずに居るその特色を。

 この人種の特色たるや、認知されるのでなくて、直感されるのであるから、その用語も、『表現する』といふよりも『暗示する』といつた方が適當である。その特色に就いては、この人種の起原に關する明晰な知識があれば、了解の助けともなるであらうと思ふ、併し吾々はまださういふ知識をもつて居ない。人種學者は皆一致して、日本人種は幾種かの民族の集つて出來たものであり、その主なる要素はモンゴリヤ種であると云つて居る、併しこの主なる要素は、二つの甚だ相違した型に依つて代表されて居る――一つは纖弱な殆ど女のやうな風采、も一つはづんぐりした力のある姿である。支那朝鮮の要素も或る地方の人の内にあると云はれて居る、またアイヌの血も多分に混入したらしい。マレイ若しくはポリネシヤの要素が、少しでもあるかどうかといふ事は、未だ斷定されて居ない。ただこれだけの事は十分肯定されうる――則ちすべて善良な人種はみなさうであるが、この人種も混成の人種であり、又本來一緒になつてこの人種を形成した幾多の人種は、相混和して永い社會的訓練の下に、可なり統一された型の性格を發達さし得たといふ事である。この特質はその外貌の或る點に於ては、直に認められはするが、容易に説明しがたい幾多の謎を吾々に呈するものである。

[やぶちゃん注:この段では日本人の起源説が問題とされているが、遺伝学や分子生物学の解析によっても現行でも未だ諸説紛々であるからして、ウィキの「日本人」の「成立」の項のみを引いておく。『主要に日本人を形成したのは、ウルム氷期の狩猟民と弥生時代の農耕民といった、日本列島へ渡来した人々である。まずウルム氷期にアジア大陸から日本列島に移った後期旧石器時代人は、縄文人の根幹を成した。そして縄文時代終末から弥生時代にかけて、再びアジア大陸から新石器時代人が西日本の一角に渡来した。その地域では急激に新石器時代的身体形質が生じたが、彼らが直接及ばなかった地域は縄文人的形質をとどめていた。その後、古墳時代から奈良時代にかけて徐々に均一化されていった』。『地理的に隔離された北海道や南西諸島の人々の形態は、文化による変化はあっても、現在なお縄文人的形態をとどめている。近年、最初に日本列島に住んだ後期旧石器時代人(縄文人)は古モンゴロイドであり、新石器時代人(終末期の縄文人~弥生人)は新モンゴロイドであると研究結果が出ている。新モンゴロイドの影響が及ばなかったアイヌや南西諸島住民は、古モンゴロイド的特徴を残していると解されている。これらの分析では、埴原和郎や尾本恵市などが、W・W・ハウエルズの分類によるモンゴロイドの二型(古モンゴロイドと新モンゴロイド)を用いている』。かつては約三万年前に『大陸から渡来して先土器時代・縄文時代の文化を築いた先住民を、大陸から渡来した今の日本人の祖先が駆逐したとする説があったが、現在は分子人類学の進展により否定されている』。以下、抗体を形成する免疫グロブリンを決定する遺伝子である Gm 遺伝子によるバイカル湖畔起源説などは面白いが、統計データやサンプリングが不備な感じはする。

「『表現する』」原文“"Suggests"”。」

「『暗示する』」原文“"expresses,"”(コンマはママ)。

「マレイ」マレー人。『本来はマレー半島、スマトラ島東海岸、ボルネオ島沿岸部などに住んでマレー語を話し、マレー人と自称する人々(民族)のことを指し、マレー語ではムラユ Melayu と呼ぶ。漢字では馬来人と表記した。移住により南アフリカの人種構成にも影響を与えた』。『広義にはマレーシア、シンガポール、ブルネイ、インドネシア、フィリピンなど東南アジア島嶼部(マレー諸島)の国々に住む人々の総称であるが、これは人種的な意味(マレー人種)で用いることが多い』とウィキの「マレー人」には記されてある。]

 さうは言ふものゝ、もつとよくこの人種を了解するといふ事は重要な事になつて來た。日本は世界の競爭場裡に入つて來た、而してその爭ひに於ける一國民の價値は、その兵力に依ると同樣、その特質に依るのである。吾々は日本人種をつくり上げた四圍の狀況の性質を明らかにしうるならば、その特質に就いても多少知る事が出來る――この人種の道德上の經驗に關する大きな一般的な幾多の事實を明らかにしうるならば。而してかくの如き事實は、國民信仰の歷史の内に、また宗教にその根を置き、宗教に依つて發達せしめられた社會の諸々の制度の歷史の内に、或は表明され、或は暗示されて居るのを、吾々は認めるのである。

 

 

Strangeness and Charm

 

The majority of the first impressions of Japan recorded by travellers are pleasurable impressions. Indeed, there must be something lacking, or something very harsh, in the nature to which Japan can make no emotional appeal. The appeal itself is the clue to a problem; and that problem is the character of a race and of its civilization.

   My own first impressions of Japan,— Japan as seen in the white sunshine of a perfect spring day,— had doubtless much in common with the average of such experiences. I remember especially the wonder and the delight of the vision. The wonder and the delight have never passed away: they are often revived for me even now, by some chance happening, after fourteen years of sojourn. But the reason of these feelings was difficult to learn,— or at least to guess; for I cannot yet claim to know much about Japan. . . . Long ago the best and dearest Japanese friend I ever had said to me, a little before his death: "When you find, in four or five years more, that you cannot understand the Japanese at all, then you will begin to know something about them." After having realized the truth of my friend's prediction,— after having discovered that I cannot understand the Japanese at all,— I feel better qualified to attempt this essay.

 

   As first perceived, the outward strangeness of things in Japan produces (in certain minds, at least) a queer thrill impossible to describe,— a feeling of weirdness which comes to us only with the perception of the totally unfamiliar. You find yourself moving through queer small streets full of odd small people, wearing robes and sandals of extraordinary shapes; and you can scarcely distinguish the sexes at sight. The houses are constructed and furnished in ways alien to all your experience; and you are astonished to find that you cannot conceive the use or meaning of numberless things on display in the shops. Food-stuffs of unimaginable derivation; utensils of enigmatic forms; emblems incomprehensible of some mysterious belief; strange masks and toys that commemorate legends of gods or demons; odd figures, too, of the gods themselves, with monstrous ears and smiling faces,— all these you may perceive as you wander about; though you must also notice telegraph-poles and type-writers, electric lamps and sewing machines. Everywhere on signs and hangings, and on the backs of people passing by, you will observe wonderful Chinese characters; and the wizardry of all these texts makes the dominant tone of the spectacle.

   Further acquaintance with this fantastic world will in nowise diminish the sense of strangeness evoked by the first vision of it. You will soon observe that even the physical actions of the people are unfamiliar,— that their work is done in ways the opposite of Western ways. Tools are of surprising shapes, and are handled after surprising methods: the blacksmith squats at his anvil, wielding a hammer such as no Western smith could use without long practice; the carpenter pulls, instead of pushing, his extraordinary plane and saw. Always the left is the right side, and the right side the wrong; and keys must be turned, to open or close a lock, in what we are accustomed to think the wrong direction. Mr. Percival Lowell has truthfully observed that the Japanese speak backwards, read backwards, write backwards,— and that this is "only the abc of their contrariety." For the habit of writing backwards there are obvious evolutional reasons; and the requirements of Japanese calligraphy sufficiently explain why the artist pushes his brush or pencil instead of pulling it. But why, instead of putting the thread through the eye of the needle, should the Japanese maiden slip the eye of the needle over the point of the thread? Perhaps the most remarkable, out of a hundred possible examples of antipodal action, is furnished by the Japanese art of fencing. The swordsman, delivering his blow with both hands, does not pull the blade towards him in the moment of striking, but pushes it from him. He uses it, indeed, as other Asiatics do, not on the principle of the wedge, but of the saw; yet there is a pushing motion where we should expect a pulling motion in the stroke. . . . These and other forms of unfamiliar action are strange enough to suggest the notion of a humanity even physically as little related to us as might be the population of another planet,— the notion of some anatomical unlikeness. No such unlikeness, however, appears to exist; and all this oppositeness probably implies, not so much the outcome of a human experience entirely independent of Aryan experience, as the outcome of an experience evolutionally younger than our own.

   Yet that experience has been one of no mean order. Its manifestations do not merely startle: they also delight. The delicate perfection of workmanship, the light strength and grace of objects, the power manifest to obtain the best results with the least material, the achieving of mechanical ends by the simplest possible means, the comprehension of irregularity as aesthetic value, the shapeliness and perfect taste of everything, the sense displayed of harmony in tints or colours,— all this must convince you at once that our Occident has much to learn from this remote civilization, not only in matters of art and taste, but in matters likewise of economy and utility. It is no barbarian fancy that appeals to you in those amazing porcelains, those astonishing embroideries, those wonders of lacquer and ivory and bronze, which educate imagination in unfamiliar ways. No: these are the products of a civilization which became, within its own limits, so exquisite that none but an artist is capable of judging its manufactures,— a civilization that can be termed imperfect only by those who would also term imperfect the Greek civilization of three thousand years ago.

 

   But the underlying strangeness of this world,— the psychological strangeness,— is much more startling than the visible and superficial. You begin to suspect the range of it after having discovered that no adult Occidental can perfectly master the language. East and West the fundamental parts of human nature — the emotional bases of It — are much the same: the mental difference between a Japanese and a European child is mainly potential. But with growth the difference rapidly develops and widens, till it becomes, in adult life, inexpressible. The whole of the Japanese mental superstructure evolves into forms having nothing in common with Western psychological development: the expression of thought becomes regulated, and the expression of emotion inhibited in ways that bewilder and astound. The ideas of this people are not our ideas; their sentiments are not our sentiments their ethical life represents for us regions of thought and emotion yet unexplored, or perhaps long forgotten. Any one of their ordinary phrases, translated into Western speech, makes hopeless nonsense; and the literal rendering into Japanese of the simplest English sentence would scarcely be comprehended by any Japanese who had never studied a European tongue. Could you learn all the words in a Japanese dictionary, your acquisition would not help you in the least to make yourself understood in speaking, unless you had learned also to think like a Japanese,— that is to say, to think backwards, to think upside-down and inside-out, to think in directions totally foreign to Aryan habit. Experience in the acquisition of European languages can help you to learn Japanese about as much as it could help you to acquire the language spoken by the inhabitants of Mars. To be able to use the Japanese tongue as a Japanese uses it, one would need to be born again, and to have one's mind completely reconstructed, from the foundation upwards. It is possible that a person of European parentage, born in Japan, and accustomed from infancy to use the vernacular, might retain in after-life that instinctive knowledge which could alone enable him to adapt his mental relations to the relations of any Japanese environment. There is actually an Englishman named Black, born in Japan, whose proficiency in the language is proved by the fact that he is able to earn a fair income as a professional storyteller (hanashika). But this is an extraordinary case. . . . As for the literary language, I need only observe that to make acquaintance with it requires very much more than a knowledge of several thousand Chinese characters. It is safe to say that no Occidental can undertake to render at sight any literary text laid before him — indeed the number of native scholars able to do so is very small;— and although the learning displayed in this direction by various Europeans may justly compel our admiration, the work of none could have been given to the world without Japanese help.

 

   But as the outward strangeness of Japan proves to be full of beauty, so the inward strangeness appears to have its charm,— an ethical charm reflected in the common life of the people. The attractive aspects of that life do not indeed imply, to the ordinary observer, a psychological differentiation measurable by scores of centuries: only a scientific mind, like that of Mr. Percival Lowell, immediately perceives the problem presented. The less gifted stranger, if naturally sympathetic, is merely pleased and puzzled, and tries to explain, by his own experience of happy life on the other side of the world, the social conditions that charm him. Let us suppose that he has the good fortune of being able to live for six months or a year in some old-fashioned town of the interior. From the beginning of this sojourn he call scarcely fail to be impressed by the apparent kindliness and joyousness of the existence about him. In the relations of the people to each other, as well as in all their relations to himself, he will find a constant amenity, a tact, a good-nature such as he will elsewhere have met with only in the friendship of exclusive circles. Everybody greets everybody with happy looks and pleasant words; faces are always smiling; the commonest incidents of everyday life are transfigured by a courtesy at once so artless and so faultless that it appears to spring directly from the heart, without any teaching. Under all circumstances a certain outward cheerfulness never falls: no matter what troubles may come,— storm or fire, flood or earthquake,— the laughter of greeting voices, the bright smile and graceful bow, the kindly inquiry and the wish to please, continue to make existence beautiful. Religion brings no gloom into this sunshine: before the Buddhas and the gods folk smile as they pray; the temple-courts are playgrounds for the children; and within the enclosure of the great public shrines— which are places of festivity rather than of solemnity — dancing-platforms are erected. Family existence would seem to be everywhere characterized by gentleness: there is no visible quarrelling, no loud harshness, no tears and reproaches. Cruelty, even to animals, appears to be unknown: one sees farmers, coming to town, trudging patiently beside their horses or oxen, aiding their dumb companions to bear the burden, and using no whips or goads. Drivers or pullers of carts will turn out of their way, under the most provoking circumstances, rather than overrun a lazy dog or a stupid chicken. . . . For no inconsiderable time one may live in the midst of appearances like these, and perceive nothing to spoil the pleasure of the experience.

   Of course the conditions of which I speak are now passing away; but they are still to be found in the remoter districts. I have lived in districts where no case of theft had occurred for hundreds of years,— where the newly-built prisons of Meiji remained empty and useless,— where the people left their doors unfastened by night as well as by day. These facts are familiar to every Japanese. In such a district, you might recognize that the kindness shown to you, as a stranger, is the consequence of official command; but how explain the goodness of the people to each other? When you discover no harshness, no rudeness, no dishonesty, no breaking of laws, and learn that this social condition has been the same for centuries, you are tempted to believe that you have entered into the domain of a morally superior humanity. All this soft urbanity, impeccable honesty, ingenuous kindliness of speech and act, you might naturally interpret as conduct directed by perfect goodness of heart. And the simplicity that delights you is no simplicity of barbarism. Here every one has been taught; every one knows how to write and speak beautifully, how to compose poetry, how to behave politely; there is everywhere cleanliness and good taste; interiors are bright and pure; the daily use of the hot bath is universal. How refuse to be charmed by a civilization in which every relation appears to be governed by altruism, every action directed by duty, and every object shaped by art? You cannot help being delighted by such conditions, or feeling indignant at hearing them denounced as "heathen." And according to the degree of altruism within yourself, these good folk will be able, without any apparent effort, to make you happy. The mere sensation of the milieu is a placid happiness: it is like the sensation of a dream in which people greet us exactly as we like to be greeted, and say to us all that we like to hear, and do for us all that we wish to have done,— people moving soundlessly through spaces of perfect repose, all bathed in vapory light. Yes — for no little time these fairy-folk can give you all the soft bliss of sleep. But sooner or later, if you dwell long with them, your contentment will prove to have much in common with the happiness of dreams. You will never forget the dream,— never; but it will lift at last, like those vapors of spring which lend preternatural loveliness to a Japanese landscape in the forenoon of radiant days. Really you are happy because you have entered bodily into Fairyland,— into a world that is not, and never could be your own. You have been transported out of your own century — over spaces enormous of perished time — into an era forgotten, into a vanished age,— back to something ancient as Egypt or Nineveh. That is the secret of the strangeness and beauty of things,— the secret of the thrill they give,— the secret of the elfish charm of the people and their ways. Fortunate mortal! the tide of Time has turned for you! But remember that here all is enchantment,— that you have fallen under the spell of the dead,— that the lights and the colours and the voices must fade away at last into emptiness and silence.

        *    *     *    *     *

   Some of us, at least, have often wished that it were possible to live for a season in the beautiful vanished world of Greek culture. Inspired by our first acquaintance with the charm of Greek art and thought, this wish comes to us even before we are capable of imagining the true conditions of the antique civilization. If the wish could be realized, we should certainly find it impossible to accommodate ourselves to those conditions,— not so much because of the difficulty of learning the environment, as because of the much greater difficulty of feeling just as people used to feel some thirty centuries ago. In spite of all that has been done for Greek studies since the Renaissance, we are still unable to understand many aspects of the old Greek life: no modern mind can really feel, for example, those sentiments and emotions to which the great tragedy of Oedipus made appeal. Nevertheless we are much in advance of our forefathers of the eighteenth century, as regards the knowledge of Greek civilization. In the time of the French revolution, it was thought possible to reestablish in France the conditions of a Greek republic, and to educate children according to the system of Sparta. To-day we are well aware that no mind developed by modern civilization could find happiness under any of those socialistic despotisms which existed in all the cities of the ancient world before the Roman conquest. We could no more mingle with the old Greek life, if it were resurrected for us,— no more become a part of it,— than we could change our mental identities. But how much would we not give for the delight of beholding it,— for the joy of attending one festival in Corinth, or of witnessing the Pan-Hellenic games? . . .

   And yet, to witness the revival of some perished Greek civilization, — to walk about the very Crotona of Pythagoras,— to wander through the Syracuse of Theocritus,— were not any more of a privilege than is the opportunity actually afforded us to study Japanese life. Indeed, from the evolutional point of view, it were less of a privilege,— since Japan offers us the living spectacle of conditions older, and psychologically much farther away from us, than those of any Greek period with which art and literature have made us closely acquainted.

 

   The reader scarcely needs to be reminded that a civilization less evolved than our own, and intellectually remote from us, is not on that account to be regarded as necessarily inferior in all respects. Hellenic civilization at its best represented an early stage of sociological evolution; yet the arts which it developed still furnish our supreme and unapproachable ideals of beauty. So, too, this much more archaic civilization of Old Japan attained an average of aesthetic and moral culture well worthy of our wonder and praise. Only a shallow mind — a very shallow mind — will pronounce the best of that culture inferior. But Japanese civilization is peculiar to a degree for which there is perhaps no Western parallel, since it offers us the spectacle of many successive layers of alien culture superimposed above the simple indigenous basis, and forming a very bewilderment of complexity. Most of this alien culture is Chinese, and bears but an indirect relation to the real subject of these studies. The peculiar and surprising fact is that, in spite of all superimposition, the original character of the people and of their society should still remain recognizable. The wonder of Japan is not to be sought in the countless borrowings with which she has clothed herself,— much as a princess of the olden time would don twelve ceremonial robes, of divers colours and qualities, folded one upon the other so as to show their many-tinted edges at throat and sleeves and skirt;— no, the real wonder is the Wearer. For the interest of the costume is much less in its beauty of form and tint than in its significance as idea,— as representing something of the mind that devised or adopted it. And the supreme interest of the old — Japanese civilization lies in what it expresses of the race-character,—that character which yet remains essentially unchanged by all the changes of Meiji.

   "Suggests" were perhaps a better word than "expresses," for this race-character is rather to be divined than recognized. Our comprehension of it might be helped by some definite knowledge of origins; but such knowledge we do not yet possess. Ethnologists are agreed that the Japanese race has been formed by a mingling of peoples, and that the dominant element is Mongolian; but this dominant element is represented in two very different types,— one slender and almost feminine of aspect; the other, squat and powerful. Chinese and Korean elements are known to exist in the populations of certain districts; and, there appears to have been a large infusion of Aino blood. Whether there be any Malay or Polynesian element also has not been decided. Thus much only can be safely affirmed,— that the race, like all good races, is a mixed one; and that the peoples who originally united to form it have been so blended together as to develop, under long social discipline, a tolerably uniform type of character. This character, though immediately recognizable in some of Its aspects, presents us with many enigmas that are very difficult to explain.

   Nevertheless, to understand it better has become a matter of importance. Japan has entered into the world's competitive struggle; and the worth of any people in that struggle depends upon character quite as much as upon force. We can learn something about Japanese character if we are able to ascertain the nature of the conditions which shaped it,— the great general facts of the moral experience of the race. And these facts we should find expressed or suggested in the history of the national beliefs, and in the history of those social institutions derived from and developed by religion.

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