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2016/01/03

梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (7)

 

    白 い 花

 

 床屋に行く気持は、初めから全然なかった。丹尾の後姿がかなたに遠ざかると、五郎は身をひるがえして酒屋に入り、万一の用にそなえて、酒の二合瓶と紙コップを買う。途中で発作がおきると困るのだ。それからバスの発着場に歩き、休憩中の女車掌に声をかけた。

「坊に行くには、たしかあの道を、まっすぐ行けばいいんだね」

「はい。一筋道です」

 車掌は壁時計を見上げた。

「あと二十五分でバスが出ます」

 五郎も見上げてうなずいた。そしてそこらを五、六歩動き廻って外に出た。何気ないふりで、バス道を歩く。すこしずつ急ぎ足になった。

〈誰かがおれを追っている〉

 そんな感じが背中にある。その〈誰〉には実体がなかった。入院の前に、外出すると、いつもその感じにとらわれ、振向き振向きしながら歩いた。その時にくらべると、感じとしては淡いけれども、つけられている気配はたしかにある。

 家並の切れる頃から、人通りはだんだん少くなって来た。おおかたはバスを利用するのであろう。道に沿って、ぼつんぽつんと農家がある。納屋(なや)の土床で子供が遊んでいたり、跣(はだし)の農婦とすれ違ったりする。ふと振り返ると、農婦が足をとめて、じつとこちらを見詰めている。道はだんだん上り坂になる。

〈おれを見張っているのではない〉

 五郎は自分に言い聞かせる。不精髭を生やした背広姿の男が、バスにも乗らず、酒瓶を提(さ)げて歩いている。それを異様に思っているに違いない。

 やがて小さなバスが砂煙を立てて、五郎を追い越した。彼は切通しの崖にくっつき、顔をかくしていた。おそらく乗っていたのは、先刻の女車掌だろう。それに顔を見せたくなかった。砂塵がおさまって、五郎はまた歩き出した。バス代を惜しんだわけではない。この道は、彼にとって、足で歩かねばならなかったのだ。しだいに呼吸が荒くなる。

 忽然(こつぜん)として、視界がぱっと開けた。左側の下に海が見える。すさまじい青さで広がっている。右側はそそり立つ急坂となり、雑木雑草が茂っている。その間を白い道が、曲りながら一筋通っている。甘美な衝撃と感動が、一瞬五郎の全身をつらぬいた。

「あ!」

 彼は思わず立ちすくんだ。

「これだ。これだったんだな」

 数年前、五郎は信州に旅行したことがある。貸馬に乗って、ある高原を横断した時、視界の悪い山径(やまみち)から、突然ひらけた場所に出た。そこは右側が草山になり、左側は低く谷底となり、盆地がひろがり、彼方に小さな湖が見える。

〈何時か、どこかで、こんなところを通ったことがある〉

 頭のしびれるような恍惚(こうこつ)を感じながら、彼はその時思った。場所はどこだか判らない。おそらく子供の時だろう。少年の時にこんな風景の中を通り、何かの理由で感動した。五郎の故郷には、これに似た地形がいくつかある。その体験がよみがえったのだと、恍惚がおさまって彼は考えたのだが――

「そうじゃない。ここだったのだ」

 五郎は海に面した路肩に腰をおろし、紙コップに酒を充たした。信州の場合とくらべると、山と谷底の関係は逆になっている。それは当然なのだ。二十年前の夏、五郎は坊津を出発して、枕崎へ歩いた。枕崎から坊津行きでは、風景が逆になる。五郎は紙コップの酒を一口含んだ。

「ああ。あの時は嬉しかったなあ。あらゆるものから解放されて、この峠にさしかかった時は、気が遠くなるようだった」

 その頃もバスはあったが、木炭燃料の不足のために、日に一度か二度しか往復していなかった。坊津の海軍基地が解散したのは、八月二十日頃かと思う。五郎はまだ二十五歳。体力も気力も充実していた。重い衣囊(いのう)をかついで、この峠にたどりついた時、海が一面にひらけ、真昼の陽にきらきらと光り、遠くに竹島、硫黄島、黒島がかすんで見えた。体が無限にふくれ上って行くような解放が、初めて実感として彼にやって来たのだ。

〈なぜこの風景を、おれは忘れてしまったんだろう〉

 感動と恍惚のこの原型を、意識からうしなっていた。いや、うしなったのではない。いつの間にか意識の底に沈んでしまったのだろう。今朝コーヒーを飲んだ時、突如として坊津行きを思い立ったのではない。ずっと前から、意識の底のものが、五郎をそそのかしていたのだ。それを今五郎はやっと悟った。彼はコップの残りをあおって、立ち上った。

 しばらく歩く。

 やっと風景が切れ、林の中に入る。道はだんだん下り坂になる。すこし疲れが出て来た。一杯の酒のために、体を動かすことがもの憂(う)くなって来た。高揚された気分が、しだいに重苦しく沈んで来る。彼は低い声で、かつての軍歌を口遊(ずさ)んでいた。歌おうという意志はなく、自然に口に出て来た。

  『天にあふるるその誠

  地にみなぎれるその正義

  暗号符字のまごつきに

  鬼神もいかで泣かざらむ』

 替歌をつくったのは、福という名の兵長である。福は奄美大島の出身だが、昭和十八年に一家は沖繩島に移住をした。才気のある男で、いろいろと替歌をつくった。この歌も、

〈天にあふるるこの錯誤。仁にみなぎれるその戦死……〉

 天(てん)も仁(に)も暗号書の名で、天は普通暗号、仁は人事に関する暗号である。しかし五郎の口にのぼって来るのは〈暗号符字のまごつきに〉という部分だけであって、あとは元歌通りだ。五郎は暗号の下士官で、福は彼の部下であった。この替歌をつくった数日後、福は死んだ。

 やがて家がぽつぽつと見え始めたと思うと、その屋根のかなたに海の色があった。さきほどの広闊(こうかつ)とした海でなく、湾であり入江である。その入江を抱く左手の山から、鴉(からす)の声が聞えて来る。それもー羽ではなく、数十数百羽の鴉が、空に飛び交いながら鳴いていた。

 ――冥府(めいふ)。

 町に足を踏み入れながら、ふっとそんな言葉が浮んで来た。湾に沿った一筋町である。家々の屋根は総じて低い。昔は島津藩の密貿易の港であったので、展望のきく建物は禁じられていた。その風習が今でも残っている。戦災にはあわなかったせいで、町のたたずまいは古ぼけている。彼はふと戸惑う。

〈これがおれの軍務に服していた町なのか?〉

 五郎はこの基地に、三週間ほどしかいなかった。吹上浜のある基地からここに移って来て、すぐに戦いは終ったのである。今見る町の様相は、見覚えがあるようでもあったし、ないようでもあった。しかし五郎はたしかにここにいたのだ。二十年前、気力も体力も充実した青年として、ひりひりと生を感じながら生きていた。今は蓬髪(ほうはつ)の、病んだ精神のうらぶれた中年男として、町を歩いている。彼は眼をあちこちに動かしながら、浦島太郎の歌を考えていた。

 ――道に行き交う人々は、名をも知らない者ばかり。

 頭に荷物を乗せた女が通る。女学生、小学生が通る。長い釣竿をかついだ男が通る。夕方になったので、磯釣りを終った土地の男だろう。芭蕉(ばしょう)、フェニックスが生えている。町を通り抜けると、まただらだら坂となる。高くなるにつれて、風景はいよいよ鮮明に立体化して来る。湾内に小島がいくつか見える。島々のために港の入口がせまい。大きな船は出入り出来ない。しかし水路の複雑さのために、密貿易には好適の港だったのだろう。五郎は足を止めた。そして道から斜面に降りて行く。首を傾けた。

〈たしかここらに松林があった筈だが――〉

 あの頃松林の中に、海軍航空用一号アルコールのドラム罐が、三十本ぐらい転がっていた。隠匿(いんとく)されていたのだ。松林なので空からは見えない。ここに来た二、三日後、そのドラム罐のひとつに小さな穴があいていることを、福兵長が発見した。そして五郎に報告した。五郎は笑いながら言った。

「お前があけたんだろう」

「冗談でしょう」

 福も笑いながら答えた。

「自然にあいたんです」

「それ、飲めるのかい?」

「ええ、原料はたしか芋です。水で割れば多分飲めますよ」

「そうか。飲みに行くか」

 五郎は福兵長と、興梠(こうろぎ)という酒好きの二等兵曹をつれて、しばしば宿舎を抜け出て、酒宴を開いた。アルミの食器に一号アルコールを半分ほど入れ、マッチで火をつける。アルコールの毒性は上澄みにあるというのが、宮崎県出身の興梠二曹の説で、いい加減燃えると吹き消し、水で割る。味もにおいもない。ただ酔うだけである。肴が必要だったが、そこはうまいこと烹炊所(ほうすいじょ)にわたりをつけて、罐詰などをもらって来る。味はないが、意外に強く、すぐに酔いが廻った。

 もちろん航空用のアルコールを飲むのは、不逞(ふてい)の仕業であり、見付かれば懲罰(ちょうばつ)ものであった。だから宴は夜に限られていた。

〈あれはどこに行ったのか?〉

 十本ばかりの木がばらばら生えているだけで、昔の松林の面影はほとんどない。その木に交って、白い大きな花をぶら下げた、南国風の木がある。その花の名は忘れたが、色や形にはたしかに見覚えがあった。日はすでに入り、あたり一面は黄昏(たそがれ)である。その花は、冥府の花のように、白く垂れ下っていた。彼はその木に近づき、指で花びらをさわって見た。花はゆらゆらと揺れた。声がした。

「こんばんは」

 五郎は道を見上げた。道には女が立っていた。軽装で、手に団扇(うちわ)を持っている。ちょっと涼みに出たという恰好(かっこう)であった。

「こんばんは」

 五郎もあいさつを返した。女はスカートの裾を押えるようにして、斜面を降りて来た。

「何をしているの?」

 女は人慣れた口調で言った。香料のにおいがただよった。

「さっきから見てたんですよ。あなたはここの人じゃないね」

 五郎はうなずいた。

「遠くからやって来たんだよ。時にこの花、何という名前だったかな」

「ダチュラ」

 女はすぐに答えた。唇には濃めに口紅を塗ってある。商売女かな、と彼は一瞬考えた。

「原名は、エンゼルズトランペット」

「エンゼルズトランペット?」

 五郎は花に視線を据(す)えて、考え込む顔付きになった。入院前に読んだ旅行記、たしか北杜夫という作家の種子島紀行の一節に、

『ダスラ(この土地ではゼンソクタバコと呼ぶ)の白い花などが目につく』

 と書いてあったと思う。

「ダスラじゃないのかね?」

「いいえ。ダチュラ」

 五郎はまだ考えていた。口の中で言ってみた。

「エンゼルズトランペット」

「ゼンソクタバコ」

 音(おん)が似ているじゃないか。彼はもう一度、二つの言葉を発音してみた。たしかに舌の廻り具合が似ている。ゼンソクタバコの方が、原音から訛(なま)ったのだろう。

「なにをぶつぶつ言ってるの?」

「いや。何でもない」

「遠くからあんたは、何のためにやって来たのよ?」

 それは君と関係ないと、いつもならつっぱねる筈だが、時は黄昏だし、女の言葉や態度が開放的だったので、つい五郎は応じる気になった。

「まあ、見物かな」

 五郎は湾の方を指差した。

「あの岩の島の名は、何だったかしら」

「雙剣石よ」

 二つの岩がするどくそそり立ち、大きい方の岩のてっぺんに松の木が一本生えていた。その形は二十年前と同じである。忘れようとしても、忘れられない。

「君はここの生れかい。戦時中、どこにいた?」

「ここにいました」

「じゃ戦争の終りに、この湾で溺れて死んだ水兵のことを、覚えてるかね。覚えてないだろうね」

「覚えてる。覚えているわ」

 女は遠くを見る眼付きになった。

「あたしが小学校の五年の時だった。いや、国民学校だったわね。体は見なかったけれど、棺に入れて運ばれるのを見た。うちの校舎でお通夜があった筈よ」

「そうだ。その棺をかついだ一人が、おれだよ」

「まあ。あんたもあの時の海軍さん?」

 五郎はうなずいた。女は五郎の頭から足まで、確めるように眺めた。

「あの棺の中に、このダチュラの花を、いっぱい詰めてやった。この花は摘(つ)むとすぐにしおれたけれど、匂いは強かった。棺の中で、いつまでも匂っていたよ」

「そういう花なのよ。これは」

「しかしなぜ死体を国民学校なんかに運んだんだろう」

「あそこはもともとお寺だったのよ。一乗寺と言ってね。明治の初めに廃寺になったの。その後に石造の仁王像が二つ、海から引上げられて、校庭に並んでるわ」

「それは気が付かなかった。もっともここには三週間しかいなかったし、学校内に入ったのも、その時だけだからね。二十年ぶりにやって来ると、おれはまったく旅人だ」

「そうねえ。あの頃の海軍さんとは、とても見えないわ」

 女は憐れむような、また切ないような眼で、五郎を見た。

「でも、あたしも小学生じゃない。三十を過ぎちまった」

「君の家は、坊にあるのかね?」

「いいえ。泊(とまり)よ。あの峠を越えて向うの部落なの」

 女はその方向を指した。

「谷崎潤一郎の『台所太平記』を読んだことがある?」

「いや」

「あそこに出て来る女中さんたちは、みんな泊の出身なのよ」

「ほう。女中さんの産地なのか?」

「あたしも行ったわ。学校を卒業して、すぐ東京へ」

 女は両掌で自分の頰をはさんだ。

「ある家に奉公して、そこの世話である男といっしょになって、それからその男と生活がいやになって――」

「戻って来たのか?」

「そう」

 女は笑おうとしたが、声にはならなかった。

「一箇月前にね。出戻りというのは、どうも具合が悪くって。夕方になるとここに来て、ぶらぶらと時間をつぶしてるの。案内して上げましょうか」

「泊にかい?」

「いえ。小学校へよ。あなたはそんなことを確めに来たんじゃない? 二十年前の思い出なんかを」

「思い出?」

 五郎ははき捨てるように言った。

「思い出なんてもんじゃない。そんな感傷は、おれは嫌いだよ。でも、折角のお申出だから、案内していただこうかな」

「ずいぶんもったいぶるわね」

 今度は声に出して笑った。

「じゃ参りましょう」

 五郎は女のうしろについて、道へ上った。夕焼が色褪(あ)せ、薄暗さがあちこちの隅にたまり始めている。しばらく歩くと石段があった。それを一歩一歩登る時、五郎は膝頭や踵(かかと)ににぶい痛みを感じた。石段を登り切ると、校庭になる。石像が二つ、十米ほど離れて立っている。その間に一本の大樹がそびえている。その像も樹も、彼の記憶には全然なかった。五郎は言った。

「見覚えないな」

「これ、ミツギという樹なのよ」

 女は説明した。

「あたしの小学校の時も、同じ大きさで、同じ形で立っていた。ずいぶん古くから生えてるわけね。何百年も」

「そうだろうな。別におれと関係ないことだけど」

 五郎はその樹の下に腰をおろした。女も団扇(うちわ)を敷いて腰をおろす。さっきのダチュラの樹が眼下にあり、湾がそこからひろがっていた。彼は紙コップに酒を充たし、女の方に差出した。

「飲まないか」

「ええ。いただきます」

 女は素直に受取った。五郎は指差した。

「あそこの林は、松の木がもっともっと生えていた。そしてアルコール罐が、いくつも転がっていたよ」

「そう。十年ぐらい前に切り倒して、キャンプ場にしたらしいの」

 女は酒に口をつけた。

「ところがいっぺんあそこにキャンプを張った人は、翌年は絶対に来ないのよ」

「なぜ? 景色もいいし、水もきれいで泳げるのに」

「やぶ蚊(か)が夜出て来て、チクチク刺すのよ」

「ああ。やぶ蚊か。おれたちもずいぶん刺された」

「おれたちって?」

「うん。暗くなるとあそこに行って、アルコールを水で割って、こっそり飲んだんだ。仲間三人だったけれど、福が一番強かった」

「福って、人の名?」

「そう。奄美大島出身の兵長でね。器用な男だった。芭蕉の葉で芭蕉扇をつくって呉れた。それでばたばたあおぎながら、アルコールを飲んだ。皆若かったね。あの頃は」

 五郎は酒瓶を直接口に持って行って、残りを飲み干し、崖(がけ)下に瓶を放り投げた。

「死んだ水兵というのは、福のことだよ」

「そうなの」

 女もコップ酒を飲み干した。

「どうしてその人が溺れたの?」

「うん。アルコールを飲んだ揚句――」

 五郎は指差した。

「あの雙剣石まで、泳ごうとしたんだ」

「雙剣石まで?」

 わずかな明るさを背にして、雙剣石はくろぐろとそびえ立っていた。それは墓標の形に似ていた。鴉声(あせい)は静まり、波の音だけがかすかに聞えて来る。

[やぶちゃん注:「坊」「ぼう」と読む。現在の鹿児島県南さつま市坊津町坊。旧地名を坊津(ぼうのつ)と言い、古代に栄えた港であった。参照したウィキの「坊津」より引く。『古代から薩摩藩政の中盤頃』の享保年間(一七一六年から一七三五年)『の長期に渡って、海上交通上の要地であった。遣唐使船の寄港地としての他、倭寇や遣明船、薩摩藩の密貿易の拠点として栄えた』。『中国明代の文書『武備志』では主要港として、安濃津』(あのうつ/あのつ/あののつ:伊勢国安濃郡(現在の三重県津市)にあった港湾。「安乃津」「阿野津」とも書き、「洞津(あなつ)」とも称した)・『博多津と共に日本三津(さんしん)に挙げられている』。『日本での仏教黎明期の』五三八年に『百済に仕えていた日本人の日羅が、龍厳寺(後の一乗院)を建てる。その後も坊舎や坊主といった仏教と密接な地であったため、「坊津」と呼ばれるようになったと考えられている』。『飛鳥時代から、遣唐使船の寄港地となり、「唐(から)の港」、「入唐道(にっとうどう)」とも呼ばれるようになった』。奈良時代の天平勝宝五 (七五三)年十二月二十日にはかの名僧鑑真が渡日六回目にして、近くの『秋妻屋浦(現在の秋目地区)に上陸している』。『室町時代、倭寇や遣明船の寄港地となり、大陸をはじめ、琉球や南方諸国とも貿易が活発化した。この頃、先の一乗院も大いに栄えるようになる。また、島津氏の中国(明)・琉球貿易の根拠地ともなっていた』。『伝来したキリスト教とも縁があ』って、天文一八(一五四九)年に『フランシスコ・ザビエルが日本でまず最初に上陸したのはこの地であ』り、『江戸幕府のキリシタン追放令で国を出て、ローマで司祭となって戻ってきたペトロ・カスイ・岐部が』寛永七(一六三〇)年に『上陸したのも同地である』とある。「松岡正剛の千夜千冊」の第一一六一夜「『幻化』梅崎春生」に拠れば、実際、梅崎はこの坊津に配属されたのであったが、彼は『自分の任務が何か、ほとんど理解していなかった。行き先に何があるかも知っていなかった。着任してみると、ところが坊津には「震洋」特別攻撃隊の発進基地があったのだ』。『当時すでに艦隊の主力の大半を失っていた海軍軍令部は、アメリカ軍の本土侵攻に備えて、上陸予想地点での魚雷艇部隊の緊急配備に必死になっていた。軍令部のシナリオでは、アメリカ軍は数百隻の輸送船団で大規模な上陸作戦を敢行してくるだろうというものだった。これを迎え撃つには、残る手段は二つしかない』。『ひとつは神風特攻隊が空から体当たりしていくこと、もうひとつは乗員1人か2人の魚雷艇で海から突っ込んでいくことである。この魚雷艇の特攻兵器として考案されたのが「震洋」だった(他に「回天」が別の基地で用意されていた)』。『「震洋」はトヨタのトラック・エンジンを搭載した小型船艇で、ベニヤ板でまわりを固め、艇首に250キロの黒色火薬をつめこんだというだけの自爆兵器である。ちょっとした波にあっというまに横転するような代物だったが、敗戦時まで6000隻が急造された(「回天」も似たようなものだ)。その「震洋」の本土上陸最重要反攻拠点のひとつが、坊津にあったのである』。『梅崎は坊津で異様な日々を体験したあと、谷山基地に戻ったのち、桜島の通信隊に転属していった』のであった、とある。春生が敢えて『消去』したおぞましい、搭乗員が乗り込んで操縦して目標艦艇に体当たり攻撃を敢行するモーター・ボート特攻兵器「震洋」や最初の特攻兵器である人間魚雷「回天」については、春生が少なくとも本篇では完全に『消去』している以上、ここで注することは控え、ウィキのそれぞれをリンクさせるに止めおく(私の『梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注(3)』では注しておいたのでそちらを参照されたい)。なお、梅崎は本作を執筆する二年前の昭和三八(一九六三)年の十月に実際に雑誌『旅』の取材旅行でここ坊津を妻恵津を伴って訪れており、これが「幻化」執筆の機縁となったと底本全集別巻年譜にあり、また『読売新聞』のネット上の二〇一五年十一月二十四日附の山内則史記者の記事『梅崎春生「今はうしなったもの、二十年前には」』には(ここでは再訪を十一月としている)、未亡人恵津さん(取材当時九十二歳)の回想として、『「きれいな所だから一緒に行かないか、カメラマン代わりで、と誘われました。坊津の海があまり美しく、船の陰でもいいから1泊したいと私が言ったら、役場に聞いて宿を見つけてきた。梅崎にとって戦争が終わった解放感と自然の美しさは、一つになっていたのでしょう」』と記し、『坊津の港、沖の島々、東シナ海まで見晴らせる坊津歴史資料センター輝津館で、恵津さんの描いた日本画と出会った。ダチュラの白に照り映える、花の下の乙女。件くだんの紀行文で梅崎は、宿の主人に請われて一筆書いたと記している』。『〈坊ノ津二十年を憶へば/年々歳々/花相似たれども/我れのみ/老いたるが如し〉』。ふと思った。……『船の陰でもいいから1泊したいと私が言った』――この肉声はある意味とても妖艶はないか?!……そうして……実は本篇に出る――ダチュラの女(と私は勝手に呼んでいる)――というのは……実はこの、春生の愛した恵津さんへの、秘やかなオマージュだったのではなかったろうか? 逆算すると恵津さんは大正一二(一九二三)年生まれで、敗戦時の年齢は二十三、ここに五郎の前に幻のように立ち現われるのは、実は「敗戦」の頃の若き日の恵津さんの幻影なのではあるまいか? (春生が女性雑誌『令嬢界』『若草』の編集者であった恵津さんと結婚したのは昭和二二(一九四七)年一月で、この年、彼は三十二、恵津さんは二十五であった) なお、同じく東京本社写真部林陽一撮影になる動画名言巡礼 梅崎春生「幻化」から 坊津界隈は必見! 本パートに出るランドマークを殆んど視認出来る(私は普段、消滅が予想される新聞社の記事はリンクしないことにしているが、これは是非見て頂きたいので特に張っておいた。直近の記事でもあり、暫くは残っているであろう)。

「〈誰かがおれを追っている〉/そんな感じが背中にある。その〈誰〉には実体がなかった。入院の前に、外出すると、いつもその感じにとらわれ、振向き振向きしながら歩いた。その時にくらべると、感じとしては淡いけれども、つけられている気配はたしかにある」ストレスが高まったり、アルコール性精神病や統合失調症などの精神疾患に顕著に見られるところの、所謂、常に誰かから追われているという妄想が働く被害妄想の一種の「追跡妄想」である。但し、五郎の場合は、入院前も現在も、自律的に外出しており、友人と碁なども打っている点を考えると軽度である。統合失調症などのそれでは精神的に激しく追い込まれてゆき、「自分が何者かから命を狙われている」という妄想へと発展して、それを絶対の事実として他者に訴えたり、警察に通報したりする。遂には一切の交流を遮断するという方向に向かって、外出することが不能な状態に陥る(私は高校教師時代、生徒やその保護者から、そうした妄想の愁訴を延々聴かされた体験が実際に複数回ある)。因みに、酷似した症状に、自分が常に監視されているという妄想にとらわれる場合があり、それは「注察妄想」と呼ぶ。五郎は直後に「〈おれを見張っているのではない〉」と思うシーンが描かれており、かくも気のせいだと割り切ることが出来るというのは寧ろ、正常であって、彼が難治性の精神疾患ではない可能性を示唆するものとも言える。

『やがて小さなバスが砂煙を立てて、五郎を追い越した。彼は切通しの崖にくっつき、顔をかくしていた。おそらく乗っていたのは、先刻の女車掌だろう。それに顔を見せたくなかった。砂塵がおさまって、五郎はまた歩き出した。バス代を惜しんだわけではない。この道は、彼にとって、足で歩かねばならなかったのだ。しだいに呼吸が荒くなる。/忽然(こつぜん)として、視界がぱっと開けた。左側の下に海が見える。すさまじい青さで広がっている。右側はそそり立つ急坂となり、雑木雑草が茂っている。その間を白い道が、曲りながら一筋通っている。甘美な衝撃と感動が、一瞬五郎の全身をつらぬいた。/「あ!」/彼は思わず立ちすくんだ。/「これだ。これだったんだな」/数年前、五郎は信州に旅行したことがある。貸馬に乗って、ある高原を横断した時、視界の悪い山径(やまみち)から、突然ひらけた場所に出た。そこは右側が草山になり、左側は低く谷底となり、盆地がひろがり、彼方に小さな湖が見える。/〈何時か、どこかで、こんなところを通ったことがある〉/頭のしびれるような恍惚(こうこつ)を感じながら、彼はその時思った。場所はどこだか判らない。おそらく子供の時だろう。少年の時にこんな風景の中を通り、何かの理由で感動した。五郎の故郷には、これに似た地形がいくつかある。その体験がよみがえったのだと、恍惚がおさまって彼は考えたのだが――/「そうじやない。ここだったのだ」/五郎は海に面した路肩に腰をおろし、紙コップに酒を充たした。信州の場合とくらべると、山と谷底の関係は逆になっている。それは当然なのだ。二十年前の夏、五郎は坊津を出発して、枕崎へ歩いた。枕崎から坊津行きでは、風景が逆になる。五郎は紙コップの酒を一口含んだ。/「ああ。あの時は嬉しかったなあ。あらゆるものから解放されて、この峠にさしかかった時は、気が遠くなるようだった」』「幻化」最初の圧巻のシークエンスである。そうして梅崎春生の「桜島」を読んだことのある者ならば、直ちにここがあの冒頭に出るシークエンスと対応することを痛感する。冒頭パート全文を引く。

   *

 七月初、坊津(ぼうのつ)にいた。往昔、遣唐使が船出をしたところである。その小さな美しい港を見下ろす峠で、基地隊の基地通信に当たっていた。私は暗号員であった。毎日、崖(がけ)を滑り降りて魚釣りに行ったり、山に楊梅(やまもも)を取りに行ったり、朝夕峠を通る坊津郵便局の女事務員と仲良くなったり、よそめにはのんびりと日を過した。電報は少なかった。日に一通か二通。無い時もあった。此のような生活をしながらも、目に見えぬ何物かが次第に輪を狭(せば)めて身体を緊(し)めつけて来るのを、私は痛いほど感じ始めた。歯ぎしりするような気持で、私は連日遊び呆(ほう)けた。日に一度は必ず、米軍の飛行機が鋭い音を響かせながら、峠の上を翔(かけ)った。ふり仰ぐと、初夏の光を吸った翼のいろが、ナイフのように不気味に光った。

 或る朝、一通の電報が来た。

 海軍暗号書、「勇」を取り出して、私が翻訳した。

「村上兵曹桜島ニ転勤ニ付至急谷山本部ニ帰投サレ度(タシ)」

 午後、交替の田上兵長が到着した。

 その夜、私はアルコールに水を割って、ひとり痛飲した。泥酔して峠の道を踏んだ時、よろめいて一間ほど崖を滑り落ちた。瞼(まぶた)が切れて、血が随分流れた。窪地(くぼち)に仰向きになったまま、凄(すさ)まじい程冴(さ)えた月のいろを見た。酔って断(き)れ断(ぎ)れになった意識の中で、私は必死になって荒涼たる何物かを追っかけていた。

 翌朝、医務室で瞼を簡単に治療して貰い、そして峠を出発した。徒歩で枕崎に出るのである。生涯再びは見る事もない此の坊津の風景は、おそろしいほど新鮮であった。私は何度も振り返り振り返り、その度(たび)の展望に目を見張った。何故(なぜ)此のように風景が活き活きしているのであろう。胸を嚙むにがいものを感じながら、私は思った。此の基地でいろいろ考え、また感じたことのうちで、此の思いだけが真実ではないのか。たといその中に、訣別(けつべつ)という感傷が私の肉眼を多分に歪(ゆが)めていたとしても――

   *

私の細かな注釈は梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注(1)を参照されたいが、この部分は強烈にして鮮烈な映像を読者に残す。それが遺作「幻化」で再現される時、私はグレン・グールドがバッハの「ゴルトベルグ変奏曲」で円環を閉じた数奇と一見、同じものを感じたものである。「そして峠を出発した。徒歩で枕崎に出るのである。生涯再びは見る事もない此の坊津の風景は、おそろしいほど新鮮であった。私は何度も振り返り振り返り、その度(たび)の展望に目を見張った。何故(なぜ)此のように風景が活き活きしているのであろう。胸を嚙むにがいものを感じながら、私は思った。此の基地でいろいろ考え、また感じたことのうちで、此の思いだけが真実ではないのか。たといその中に、訣別(けつべつ)という感傷が私の肉眼を多分に歪(ゆが)めていたとしても――」というこの最後の箇所の主人公村上兵曹の感懐が「生涯再びは見る事もない」「訣別」「の坊津の風景」という心象であること、即ち、末期、「死」を強烈に意識した村上の眼に映った時、それは「おそろしいほど新鮮であった」、末期の覚悟の眼で見るからこそ、「私は何度も振り返り振り返り、その度の展望に目を見張った」のであり、だからこそ「風景が活き活きして」見えたのであるとは言えよう。しかし、と、すれば、この、呪われた「死」の実感に捕えられた「桜島」の主人公村上兵曹の、その老いた姿を髣髴させるところの、この「幻化」の、精神を病んで、漠然と「死」の観念に憑りつかれている主人公久住五郎(最初に注した通り、彼の姓は次の次のパートで初めて出る)の、その五郎の「病い」の根を明らかにする或いは治癒させる可能性を開示するに違いない場所として、この坊津の風景が五郎の無意識にあったからこそ五郎はここまで「足で歩かねばならなかったのだ」と感じたのであるとも言い得るであろう。それは、その風景が、「忽然として」「ぱっと開け」るのも、あたかも悟達か禪機のように立ち現われてくることからも判る。それは少し後で『〈なぜこの風景を、おれは忘れてしまったんだろう〉』「感動と恍惚のこの原型を、意識からうしなっていた。いや、うしなったのではない。いつの間にか意識の底に沈んでしまったのだろう。今朝コーヒーを飲んだ時、突如として坊津行きを思い立ったのではない。ずっと前から、意識の底のものが、五郎をそそのかしていたのだ。それを今五郎はやっと悟った」という自己分析からも明らかである。さても、「左側の下に海が」「すさまじい青さで広がってい」て、「右側はそそり立つ急坂とな」って、「その間を白い道が、曲りながら一筋通っている」。この「白い道」こそが、実は青春の「生」の真っただ中にありながら、惨めな「死」を予感し、爺むさい諦念の中に沈潜していた「村上兵曹」=若き日の「久住五郎」が辿った本当の人生としての、瞬間のエクスタシーとしての「生」の「白い道」であったのであると読めてくる。とすれば、ここで五郎の「全身を」「甘美な衝撃と感動が、一瞬」にして「つらぬいた」もの、『「あ!」』と「彼」が「思わず立ちすくん」で『「これだ。これだったんだな」』! 『「そうじやない。ここだったのだ」』! そうして遂には『「ああ。あの時は嬉しかったなあ。あらゆるものから解放されて、この峠にさしかかった時は、気が遠くなるようだった」』と叫ぶ(実際に叫んだとは記されてはいないが)。更に少し後の「体が無限にふくれ上って行くような解放が、初めて実感として彼にやって来たのだ」という五郎の畳みかけられた感懐が意味するものは――「生」=「性」のエクスタシー――である。この「白い道」こそが久住五郎の――再生への道――強烈なエクスタシーを孕んだ「生」の道――であると言える。「桜島」と「幻化」は円環なのでは――ない。「桜島」は確かに「みじめな」若者村上兵曹の人間の実体としての「みじめな死」の「物語」である。そうして「幻化」の久住五郎は、その「桜島」の村上兵曹が、「死」を実感したはずの自らをさえ欺き、「みじめに」戦後をうまうまと生き抜いてゆくうちに、ふと気がついたら、自身が亡霊のような存在となり、精神を病んでしまった存在として冒頭に立ち現われてきたのではあった。ところがそれが、この坊津のランドマークを境に、最後の阿蘇の噴火口に至るまで、漸層的に灼けるような内なるパトスが膨れ上がり続ける。即ち、「幻化」とは「みじめな生」=「みじめな性」/されど「生」でありしかも「性」であるようなものの、再生と昇華が行われる「物語」なのである。事実、梅崎春生(没時満五十歳)はこれが遺作になるという意識は微塵もなかったのではないかと私は思っているのである。なお、ここに出る「峠」とは坊津の東南東一・八キロメートルにある現在の鹿児島県川辺郡坊津町坊の耳取峠(みみとりとうげ:標高百五十メートル)と思われる。『かつては遣唐使船の発着港として「唐の湊」と呼ばれ、藩政時代には琉球を介して行なわれた密貿易の湊として栄えた坊津』『と鹿児島城下を最短距離で結んだ』峠である。明治四二(一九〇九)年に『県道枕崎坊津線ができ、その峠を耳取峠と呼ぶが、古くは約』五百メートル『北の番屋山山麓を越えるものだった。峠を坊津側に越えると』、宣化天皇三(五三八)年に『開かれ、明治初期まで密教寺院として栄えた一乗院がある』。『耳取という名前の由来は』三つあって、『一つは峠道からの開聞岳の眺めが素晴らしく、「みとれ」てしまうことからという説。一つは海からの風を正面に受けるので「耳がとれるほど寒い」。今一つは密貿易にかかわった罪人の「耳を切り取り追放」したという説があるという』(以上引用は「峠データベース」の「耳取峠」に拠った)。ここまで枕崎駅から実測で測ってみると、六キロメートルはある。上り坂があるので病院から逃げ出してきた五郎の足では最低でも二時間はかかったものと思われる。

「その頃もバスはあったが、木炭燃料の不足のために、日に一度か二度しか往復していなかった」木炭バス。後部に積載した木炭ガス発生装置で不完全燃焼に発生する一酸化炭素ガスと僅かに発生する水素の合成ガスを内燃機関の燃料として走ったバスで、一九二〇年代(大正九年~)から戦後の一九四〇年代(~昭和二十四年)にかけて普通に存在したガソリンや軽油を使わないバスである。参照したウィキの「木炭自動車」によれば、特に第二次世界大戦の『戦時体制にあって正規の液体燃料』が軍用に優先されて『供給事情が悪化』したのに伴い、盛んに奨励された。具体には、昭和一二(一九三七)年以降、『日中戦争激化で燃料統制が始まると民間自動車の木炭燃料へのシフトは避けられなくなり、各種のガス発生炉開発推進とも相まって導入例が急増した(商工省補助申請は』前年昭和十一年度十八件であったのに対し、この年には実に五十件を超え、『以後は急速に増加した)』。昭和一三(一九三八)年には『東京都でバスに初導入され』翌昭和十四年には『民間普及促進のため木炭車の全国キャラバンが実施され』、昭和十六年には『民間普及促進のため歌とレコード』さえも作られた。『戦時中は、軍需関連業務でガソリンの特配を受けられる特殊な例外や、地元産の天然ガスを燃料に使用できるガス産地のような例を除けば、日本全国で木炭車が多用された。国産供給可能とはいえ、まとまった量の木炭を入手することは容易でなく、自社で木炭生産の炭焼きを行うバス会社や、木炭に加工されていない薪をそのまま使用する例も見られた』とある。なお、『木炭ガス発生装置を使用する車両の正式名称は「石油代用燃料使用装置設置自動車」と言い、略して「代用燃料車」あるいは「代燃車」と言うが、バスの場合は専ら木炭バスや薪バスと呼ばれていた。木炭以外に、薪や石炭(無煙炭)を用いる事例もあり、いずれも固形燃料を使用して内燃機関動力用のガスを確保するシステムである』とある。

「坊津の海軍基地が解散したのは、八月二十日頃かと思う」本パートのこの後で「五郎はこの基地に、三週間ほどしかいなかった。吹上浜のある基地からここに移って来て、すぐに戦いは終ったのである」とあり、ダチュラの女との会話の中で「ここには三週間しかいなかった」と語るシーンがあるので、五郎がこの坊津にあった海軍の秘密基地に転任してきたのは昭和二〇(一九四五)年の七月三十日前後となる。また「桜島」の村上兵曹は終戦を桜島の海軍秘密基地で迎えたが、「幻化」の久住五郎はこの坊津の海軍秘密基地で迎えたとなっていて、見た目では村上兵曹と久住五郎を全く別人として描いてはいる。また、先に注しておくと、吹上浜は鹿児島県西部の薩摩半島西岸で東シナ海に面した、現在のいちき串木野市・日置市・南さつま市にかけての砂丘海岸で、その長さは凡そ四十七キロメートルに及んでおり、一つの砂丘としての長さでは日本一である。

「五郎はまだ二十五歳」梅崎春生は敗戦時、満二十九歳であった。「桜島」の村上兵曹は「生まれて三十年間」とあり、ほぼ一致していたが、ここでは四歳若く設定して、やはり村上兵曹とのオーバー・ラップを意識的に避けている

「衣囊(いのう)」海軍下士官兵が衣類を整理して入れておくキャンパス製の布袋。底のサイズは約四十センチメートル、長さは一メートル二十、三十センチメートルにも及び、重さは三十キロ以上あった。中には軍服・事業服・作業服・軍靴(ぐんか)に至る主要携帯品総てを納め、転勤などの移動の際に肩に担いで持ち運んだ。黒色の外嚢(がいのう)と白い内嚢(うちのう)があり、普段は内嚢を外嚢の中に格納しておく。ここは、ルビー氏のブログ「太平洋戦争史と死後の世界を考える」の『衣嚢(いのう)と制裁 「蜂の巣」』を参照させて貰った。

「竹島」薩摩半島のこの耳取峠から凡そ五十キロメートル南南西に位置する有人島。以下の硫黄島・黒島と合わせて現在、鹿児島郡三島村を構成し、行政上は鹿児島県鹿児島郡三島村大字竹島である。

「硫黄島」「いおうじま」と読む。同峠からほぼ南に凡そ五十一キロメートルの位置ある有人島。嘗ては硫黄鉱山(昭和三九(一九六四)年閉山)があった。「平家物語」で俊寛らが流されたとする鬼界ヶ島(きかいがしま)の一候補地とされる。

「黒島」同峠から南西凡そ五十四・五キロメートルの位置ある有人島。ウィキの「黒島」によれば、『太平洋戦争末期には、鹿児島などから出撃した特別攻撃隊が時として緊急避難することがあった』とあり、また『島全体が樹木で覆われており、沖から見ると黒ずんで見えることから黒島の名が付いたという。壇ノ浦の戦いに敗れた平家一族が築いたと伝わる平家城跡があり、島民は平家落人の子孫といわれ、民俗芸能「なぎなた踊り」、「矢踊り」などが伝わる。また旧暦の』六月二十三日に島内の十五歳から十六歳までの『女性が祠の掃除をして歌と踊りを奉納する射場どんと呼ばれる行事があるが、別名「処女ためしの神」とも呼ばれており、祠にある』十三段の『階段を「私こそが処女なり」と思う者だけが最上段に登ることができ、男性と交わりの少ない者ほど上段に進めるという奇祭である』とある。ウヘェ! スゴ過ぎ!

彼はコップの残りをあおって、立ち上った。

「軍歌」既注の「楠公父子(なんこうふし)」。

「天にあふるるその誠/地にみなぎれるその正義暗号符字まごつきに/鬼神もいかで泣かざらむ」「楠公父子」の一番の替え歌。元は、

「天に溢(あふ)るるその誠/地にみなぎれるその節義楠公父子精忠(まごころ)に/鬼神(きじん)もいかで泣かざらん」

である(相異箇所に下線を附した)。

「福という名の兵長」「福は奄美大島の出身」「苗字由来net」の【名字】福によれば、読みは「ふく」「とみ」「たからだ」とあるが、ここでは「ふく」であろう。以下、『鹿児島県南部奄美諸島、大阪府、兵庫県に多数みられる。福井県、富山県尚度に地名もあるが、幸福招来の姓。他にも風の強い地域が語源。福井氏、福田氏、冨久氏など「ふく」の関連姓は全国に多い。清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)などにもみられる』とある(下線やぶちゃん)。「兵長」大日本帝国海軍は最下層の「兵」の最上位。

「沖繩島」これも勝手して悪いのであるが、私は「縄」という字が生理的に嫌いである。特異的に本篇では「縄」を「繩」に変えさせて戴く(注でも引用以外は「繩」とする)。私の電子データを剽窃せんとする者はくれぐれも「繩」を「縄」に戻すのを忘れぬように。自分が打ったように盗んだもの発見した場合は、死ぬまで糾弾し続けるので注意されたい。

福兵長の家族は沖繩戦(昭和二〇(一九四五)年三月二十六日から開始されて組織的な戦闘は六月二十日乃至六月二十三日に終ったとされる。以下の回想シーンの時間はまさにそのたった沖縄戦終了か、ら約一ヶ月後以降で敗戦の前、八月の初旬頃のこととなろう)戦禍を受けている可能性が極めて高いことが読者に知れる。それは後に事実として記されることになる。

「天にあふるるこの錯誤にみなぎれるその戦死」「仁」は直後の五郎の解説にから「ジン」ではなく「に」と読むことが知れる。やはり前掲の一番の、

「天に溢るるその誠にみなぎれるその節義

の替え歌。

「天(てん)も仁(に)も暗号書の名で、天は普通暗号、仁は人事に関する暗号である」当時の海軍暗号書は複数あった。特に「呂(ろ)」が主な暗号書であったがそれ以外にも、「伊」・「波」・「登」・「天」(部外)・「忠」・「勇」・「雑」・「略語」・「呼出し符号」・「部外暗号書」が存在したと、原勝洋・北村新三「暗号に敗れた日本 太平洋戦争の明暗を分けた米軍の暗号解読」(二〇一四年PHP刊)にある。「仁」は人事関連暗号であるから「戦死」とくるのである。

「五郎は暗号の下士官」始めて軍人であったことが具体に明示される。因みに梅崎春生も通信科二等兵曹の下士官であり、「桜島」の主人公の村上兵曹も全く同じ設定である。されば、「桜島」の村上兵曹とこの久住兵曹(「兵曹」とは具体に記されないがそう考えてよい)を別人と意識する方が遙かに不自然である。

「島津藩の密貿易」薩摩藩(=島津藩)慶長一四(一六〇九)年に藩の独断で琉球に出兵し、琉球王国を服属させ、苛烈に実質支配した。その琉球を通して清との密貿易(幕府には琉球支配も何もかも隠蔽していた)が莫大な利益を藩に齎した。Tsubu 氏の「西郷隆盛のホームページ 敬天愛人」「薩摩旅行記」の『薩摩旅行記(3)「大陸への玄関口・坊津(ぼうのつ)」』が非常に参考になる。「幻化」のこの後に登場する坊津の豪商森吉兵衛の密貿易屋敷である「倉浜荘」の写真も見られる。必見必読。

「吹上浜」前の「坊津の海軍基地が解散したのは、八月二十日頃かと思う」に既注。

「二十年前、気力も体力も充実した青年として、ひりひりと生を感じながら生きていた。今は蓬髪(ほうはつ)の、病んだ精神のうらぶれた中年男として、町を歩いている」本篇の主題への鍵である。「蓬髪」は長く伸びてくしゃくしゃに乱れた髪、蓬 (よもぎ:キク目キク科キク亜科ヨモギ属変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii)のようにぼうぼうに伸びた髪の謂い。

「浦島太郎の歌」「――道に行き交う人々は、名をも知らない者ばかり」明治四四(一九一一)年の「尋常小学唱歌」に掲載された方の唱歌「浦島太郎」(作詞・乙骨(おつこつ)三郎/作曲者不明)の四番の一節(下線を引いた)であるが、「名をも」ではなく「顏も」である。以下の引く(複数のデータを校合し、やぶちゃんオリジナル正字正仮名版として作成した)。なお、唱歌には先行する別な一曲「うらしまたらう」がある。

   *

一、

昔、昔、浦島は、

助けた龜に連れられて、

龍宮城へ來て見れば、

繪(ゑ)にもかけない美しさ。

 

二、

乙姫樣(おとひめさま)の御馳走に、

鯛や比目魚(ひらめ)の舞踊(まひをどり)、

ただ珍しく面白く、

月日のたつのも夢の中(うち)。

 

三、

遊(あそび)にあきて氣がついて、

お暇乞(いとまごひ)もそこそこに、

歸る途中の樂しみは、

みやげに貰つた玉手箱。

 

四、

歸つて見れば、こは如何(いか)に、

元(もと)居(ゐ)た家も村も無く、

路(みち)に行きあふ人人(ひとびと)は、

顏(かほ)も知らない者ばかり。

 

五、

心細さに蓋(ふた)取れば、

あけて悔しき玉手箱、

中からぱつと白煙(しろけむり)、

たちまち太郎はお爺さん。

 

   *

この相違は梅崎春生が「かほも」を「なをも」と誤って覚えていた可能性が強いように私には思われる。意味上の不自然さもなく、第一が発音してみると、これは唄だけを聴いていると誤認し易い部類であると私は感ずるからである。

「頭に荷物を乗せた女が通る」頭上運搬は本邦の民俗学で古くから考証されてきた。昭和五〇(一九七五)年東京堂出版刊(四十七版/初版は昭和二六(一九五一)年刊。この版でも漢字が正字であるのは、本文が殆んど初版時から書き直されていないトンデモ辞典であることが判る。この辞書、大学一年の春、生協の売り子に「国学院に入ったらこれは買わないと」と騙されて買った。それから四十年経った今の野人になってからやっと使い始めた点でも私の中のトンデモ本である)の柳田國男監修「民俗学辞典」の「頭上運搬」によれば、『北は宮城縣江の島から南は沖繩の島々まで點々として廣い分布を示している』が、『今日伝承されているところの大部分は海村である。いずれも男性にはなく、女性のおこなうものである』。『以前家々の水汲み場所が遠く離れ、手桶という便利な道具の普及しなかったころは、頭上運搬が最も便利な運搬法であつた』。それ以外の多様なものや重い物を乗せ、『肥桶までも頭上にのせるところがある。こうして米一俵を運ばねば一人前の女でないと言われるところが多い』ともある(因みに、昔の米一俵は何と六十キログラムある)。

「芭蕉」単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ属バショウ Musa basjoo

「フェニックス」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ナツメヤシ属カナリーヤシ Phoenix canariensis の本邦での通称。アフリカ西海岸のカナリア諸島原産。日本では東京以南で植生し、弓状に下垂する葉先は五メートルにも及ぶ。陽樹で耐潮性に富むが、寒さには弱く、摂氏零下十度が枯死限界。樹高は最大で十二メートルにも達し、幹周りも三メートル程まで生育する。葉は羽状複葉で基部の小葉は非常に鋭い棘となる。鹿児島の隣りの宮崎県の県の木である(以上はウィキの「カナリーヤシ」に拠る)。

「湾内」坊浦。博多浦とも呼ぶらしい。後者は密貿易時代に博多のように栄えたことに由来するらしい。

「海軍航空用一号アルコール」航空用ガソリンの不足を補うために開発された代用燃料であるが詳細は不詳。後の飲用の場面から見ると、サツマイモから作られたエチル・アルコールに飲用を防止するためにガソリンや灯油などを混ぜたものかと思われる。高校時代に戦争経験のある社会科の先生(バタン半島死の行進の話が大好きな先生であった)から聴いた記憶がある。識者の御教授を乞う。

「隠匿」後に「松林なので空からは見えない」とあるから、アメリカ軍の艦載機から見えぬように、の謂いでの「隠匿」である。

「興梠(こうろぎ)という酒好きの二等兵曹」「宮崎県出身の興梠二曹」ウィキの「興梠」によれば、宮崎県の高千穂や五ヶ瀬(ごかせ)、熊本県の阿蘇では比較的多く見られる姓で、「梠」(音は「ロ」)とは「軒」の意味であり、「興梠」とは「軒のあがった家(立派な家)」を指すとされる。また、日本神話に由来するとも言われるとある。私の教え子にも同姓の者がいた。なお、「二等兵曹」である興梠は五郎とこれより後のシーンでタメ口をきいており、五郎は福兵長を「部下」と呼んでいるから、五郎も「桜島」の村上二曹や梅崎春生と全く同様に二等兵曹であることが判る。更に実は、これは梅崎春生自身の桜島の海軍秘密基地での体験に基づくものであることが判る。彼の日記が底本全集の第七巻にあるが、その昭和二〇(一九四五)年七月二十三日の条に以下のようにあるからである。この日記は敗戦直前の梅崎春生自身の心境と驚くべき予言を含むので、全文を示しておく。但し、これに限っては戦前の記載であるので恣意的に漢字を正字化して歴史的仮名遣に改めたので注意されたい。

   *

七月二十三日

 朝六度六分 夕七度一分

 白い粉藥を貰ふ。原因は不判。(昨夜は八度五分)

 看護科に蟋蟀(こおろぎ)兵曹といふ人がいる。

 來てから、病氣つづきで、當直に立たないから、谷山に歸そうかと司令部の掌暗号長が言つた由。

 芳賀檀のかいたもの、ドイツは古代人のやうな、單純な、偉大な文化を志してゐた由。そのやうなものが一朝にして滅びたことは、まことに悲愴である。

 都市は燒かれ、その廢墟の中から、日本が新しい文化を産み出せるかと言ふと、それは判らない。

 しかし、たとへば東京、江戸からのこる狹苦しい低徊的な習俗が亡びただけでもさばさばする。

 平和が來て、先づ外國映畫が來れば、又、日本人は劇場を幾重にも取圍むだらうとふと考へた。

 何か、明治以來の宿命のやうなものが日本人の胸に巣くつてゐる。戰爭に勝つても、此の影は歷然としてつきまとふだらう。それは、つきつめれば東西文化の本質といふ點まで行つてしまふ。

 極言すれば日本には文化といふものはなかつたのだ。

(奈良時代や平安時代、そのやうな古代をのぞいて)あるのは、習俗と風習にすぎない。新しい文化を産み出さねばならぬ。

   *

 

この「蟋蟀(こおろぎ)兵曹」という名の漢字表記が本当に「蟋蟀」であったのかどうかは、やや疑問ではある。「興梠」(こうろぎ)を「こおろぎ」と誤認した可能性を捨てきれない(但し、ネットを調べると、サイト「エンタメハウス」の日本に現在世帯以下しかいない絶滅寸前の「珍しい名字」20」という記事中に現在、一世帯しかない「蟋蟀」という姓が存在するともある)。孰れにせよ、この「興梠二曹」のモデルはこの人物と考えてよいであろう。日記中に出る「芳賀檀」(明治三六(一九〇三)年~平成三(一九九一)年)は「はがまゆみ」と読む、ドイツ文学者(文学博士)で評論家。京都生まれ。国文学者芳賀矢一の子。東京帝大文学部独文科昭和三(一九二八)年卒。ドイツに留学した後、第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部及び岡山大学医学部の前身)教授に就任、昭和一七(一九四二)年退官後、関西学院大学、東洋大学、創価大学教授。『コギト』『日本浪曼派』『四季』同人としてドイツ文学に関する評論を発表、昭和一二(一九三七)年の「古典の親衛隊」が代表作。以後、「民族と友情」「祝祭と法則」などを刊行し、次第にナチス礼賛に傾斜した。他の著書に「リルケ」「芳賀檀戯曲集 レオナルド・ダ・ヴィンチ」「千利休と秀吉」、詩集「背徳の花束」、訳書にヘッセ「帰郷」「青春時代」、フルトヴェングラー「音と言葉」など(ここまでは日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」を概ね参照した)。ウィキの「芳賀檀」には、戦後は『父矢一の顕彰に努めたり、『日本浪漫派』復興を唱えたりしつつ、日本ペンクラブの仕事に精を出していたが』、昭和三二(一九五七)年、『国際ペンクラブ大会の日本招致について批判され、雑誌で、自分が東大教授になれなかった憤懣をぶちまけ』、『その道化じみた様子は、高田里惠子の『文学部をめぐる病い』で揶揄され』たとある。因みに、詩人立原道造の晩年の詩に影響を与えた一人とされる。梅崎春生より十二年上である。「ドイツ」「が一朝にして滅びたこと」という箇所はナチス・ドイツが先立つ二ヶ月前の一九四五年五月に連合国軍によって敗北し、消滅したことを指している。孰れにせよ、海軍二等兵曹であった梅崎春生が桜島の海軍秘密基地で敗戦の二十四日前にこんな感懐を日記に記していることに、少なくとも私は驚嘆せざるを得ないのである

「烹炊所」兵員烹炊所。一般には軍艦の台所を、かく呼称する。

「不逞(ふてい)」自分勝手な行いをすること。道義に反すること。この「逞」は漢和辞典を見ると「快い」「満足する」の謂いで、「快からざる」輩、「満足せざる」輩が「不逞の輩」ということらしい。

「懲罰」海軍懲罰令第九条に海軍軍人の一定の犯行に対して謹慎・拘禁・禁足の規定がある。

『彼はその木に近づき、指で花びらをさわって見た。花はゆらゆらと揺れた。声がした。/「こんばんは」/五郎は道を見上げた。道には女が立っていた。軽装で、手に団扇(うちわ)を持っている。ちょっと涼みに出たという恰好(かっこう)であった。/「こんばんは」/五郎もあいさつを返した。女はスカートの裾を押えるようにして、斜面を降りて来た。/「何をしているの?」/女は人慣れた口調で言った。香料のにおいがただよった』本作の忘れられない妖艶な、ダチュラの女の登場シーンである。非常に映像的で素晴らしい。

「ダチュラ」「エンゼルズトランペット」ナス目ナス科チョウセンアサガオ属 Datura の一年草或いは多年草の有毒植物。英名で“Angel's trumpet”とも呼ぶ。ウィキの「チョウセンアサガオ属」から引く。『学名のカタカナ表記でダチュラ属、ダチュラと呼ぶことも多い。ただし、園芸上「ダチュラ」と呼ぶときは、近縁種のナス科キダチチョウセンアサガオ属を指す場合がある。チョウセンの名は特定の地域を表すものではなく、単に海外から入ってきたものの意味とされる。極東では曼陀羅華と呼ばれ、鎮静麻酔薬として使われていたこともある』。『茎は二叉分枝し、大柄な単葉の葉をつける。花は大柄なラッパ型、果実は、大型でトゲが密生し、成熟すると4裂して扁平な種子を多数散布する』。『世界の熱帯に産し、特にアメリカ大陸に多い。日本には本来は分布しないが、数種類が見られ、それらは江戸時代から明治時代にかけて日本に入ってきた帰化植物である。庭先などに自生する高さ約1メートルの大柄な草である。夏から初秋にかけて白く長いロート状の花を咲かせる』。

『花が美しく香りが甘美で香水に使われることもあるため、エンゼルトランペットなどとともに園芸用として一般に出回っているが、スコポラミンやヒオスチアミン、アトロピンなどのアルカロイドを全草に含有し、有毒なので注意を要する。それについては後述する』。

『チョウセンアサガオをはじめとする本属の植物は同じナス科のハシリドコロ、ヒヨス、ベラドンナと同様にスコポラミン、ヒヨスチアミンなどのアルカロイドを含む。ヒヨスチアミンは抽出するとラセミ化してアトロピンになる。アルカロイドは全草に含まれるが、特に種子の含有量が多い。これらのアルカロイドは抗コリン作用を有するため、分泌腺や平滑筋を抑制し、摂取すると口渇、散瞳、心悸亢進、尿閉、消化管運動の減少などが起こる。過って摂取すると、全身の筋肉が弛緩して脱力感を覚えたり、胃運動が低下して嘔吐を催す。眼球の虹彩括約筋や毛様体筋が弛緩して、瞳孔を散大させる。摂取量が多い場合には、意識混濁、言語障害、見当識障害、譫妄状態、昏睡、記憶喪失などの諸症状をもたらす』。『意識障害が発生すると、一時的に外界からの刺激に対する反応が失われて、他人とのコミュニケーションが取れなくなる。興奮状態になって、過去の出来事や、夢や、未来の願望など、内面から湧き上がるものをもとに、自覚のないまま行動する。その後昏睡状態が十数時間続くことがあり、これらの症状が収まったときには、譫妄状態に陥っていた間の記憶が失われる逆行性健忘症を引き起こすことが知られている』。『この性質を用いて、全身麻酔や自白剤として用いられたことがある。古くは、インドではダツラを用いて相手を酩酊状態にしたうえで強盗などを働く、ダツレアスという犯罪組織が存在した。西洋中世の魔法使いの世界では、無意識のうちに抑圧されている深層心理の世界を探索できる性質が着目され、人格形成に有益であるとして使用されていた』。『スコポラミンには緩和な中枢抑制作用があり』、享和四・文化元(一八〇四)年に『華岡青洲がこの植物から通仙散と命名した麻酔薬を作り、世界初とも言われる全身麻酔下で、乳癌の摘出手術をしたことで有名である。しかし青洲の妻は麻酔薬を完成させる過程で失明している。多量に摂取すると、意識喪失、呼吸停止を起こし死亡することもあるが、消化機能の抑制のため致死量を摂取するに至ることはまず無いといわれている。経口致死量は』四~五グラムとされている。『生薬としてはハシリドコロの根(ロート根)やベラドンナの根が使われ、チョウセンアサガオはあまり用いられない。根をゴボウ、葉をモロヘイヤ、つぼみをオクラやシシトウ、種子をゴマと間違えて食べて食中毒になることがある。根を水に漬けて置くだけでも成分が溶出して、その液体を飲んで食中毒が発生することがある。花を活けた花びんの水を子供が誤って飲む危険性も指摘されている。また全身の粘膜からも成分が摂取されるので、たとえば草の汁が飛び散って目に入ったり、汁が付着した手で目を擦るなどした場合にも、散瞳や調節障害などが起こる。チョウセンアサガオに接ぎ木をした茄子の実を食べて記憶障害を伴う食中毒を起こした事例』もある。また、一九八〇年代には『チョウセンアサガオのアルカロイドの生理作用を麻薬的な酩酊・多幸感作用を持つものと誤解した中学生が、友人等と炊いた白米に種子を降りかけて摂取し、集団中毒事件を起こしたこともあった。日本テレビの伊東家の食卓でもヒルガオの調理法を紹介する際に類似の危険を警告しなかったことから主婦が中毒を起こした例がある』。以下、「主な種」から少し整序して示す。

・チョウセンアサガオ Datura metel

(『葉は全縁か、たまに大きな鋸歯があり、花色は白の他に黄、紫、青がある。別名をマンダラゲ(曼陀羅華)、キチガイナスビともいう』。)

・ケチョウセンアサガオ(アメリカチョウセンアサガオ) Datura inoxia

(『チョウセンアサガオと類似するが枝と茎、葉の上面などに軟毛がある』。)

・シロバナヨウシュチョウセンアサガオ Datura stramonium

(『枝と茎、葉の上面などに軟毛があり、葉に欠刻状の切れ込みをもつ』。)

・「北杜夫」「種子島紀行」この書名、ネット検索に掛からない。私は実は北杜夫は生理的に嫌いで、何も読んだことがない。識者の御教授を乞う。

・「ダスラ(この土地ではゼンソクタバコと呼ぶ)」ネットで調べると、「ゼンソクタバコ」はダチュラの別称とある。後で五郎は「エンゼルズトランペット」が訛って「ゼンソクタバコ」になったという面白い語源説を示しているが、実は調べて見ると、千葉大学医学部呼吸器内科巽浩一郎氏の生活習慣病としての呼吸器疾患という小論(PDF)に、『タバコは呼吸器疾患を含む様々な病態の治療として推奨され』、十七世紀には『抗コリン物質を含有している Datura stramonium(タバコ)』(とあるが、これは上記の「シロバナヨウシュチョウセンアサガオ」の学名である。真正の「タバコ」は同じナス目ナス科のタバコ属タバコ Nicotiana tabacum である)『の葉と根は、喘息の治療として使用。以後、喘息のタバコによる治療は』、一九三〇年代の『アドレナリンの作用機序の解明まで、一般的に行われていた』。二十世紀後半に『なりようやく、タバコは喘息病態の進展・増悪に悪影響を与えることが認識されるようになった。近年の研究により、喫煙は喘息の臨床的悪化をもたらし、喘息治療に対する影響があり、喘息における病態生理的影響もあり、喘息における病理学的影響もあることが判明している』とあるから(下線やぶちゃん)、五郎の推理はハズレのようである。因みに「ダスラ」は「ダチュラ」の別名にある。なお、底本全集の山本健吉氏の解説中に、この「エンゼルズトランペット」について以下の興味深い記載がある。

   《引用開始》

 こんなハイカラな名を、どうしてこの田舎の女に言わせたのか? この名前には私も思い出がある。長崎の大浦天主堂の司祭館前の花園に、この花があって、私を案内したA女史が「エンゼルズトランペット」の名をささやいた。A女史の家は天主堂前の石畳の坂の中腹にあり、梅崎家の親戚筋で、高校時代の夏休みに梅崎兄弟が泊ったことがあった。おそらく彼女は、大浦居留地の庭に多いこの花の名を、梅崎にささやいたこともあったかと思う。その記憶があって、泊の女にこんな花の名を口ずさませたのではなかったか。誰か特定の人にしか分らないいたずらを、作品の中に、ひそかに仕掛けておく茶目っ気が彼にはあった。この花は、ナス科の有毒植物で、蔓陀羅花(まんだらげ)、また朝鮮朝顔と言い、北杜夫氏の言う通り、ゼンソクタバコという俗名もあるらしい。

   《引用終了》

大変、面白いではないか。

「雙剣石」坊津公式サイトと思われる「坊津へようこそ」の「坊津の景勝地」の冒頭に国指定名勝「双剣石」として掲げられてある。一幅の『絵のような絶景を望む坊津の海岸、中でも坊浦の双剣石一帯は国の名勝に指定されています。坊浦の入江に穏やかな波間に対峙するようにそそり立つ鋭く尖った二つの岩が双剣石です。雌雄があり、大小の剣を立てた姿に似ていることからその名がつけられたと云われています』とある。安藤広重の「六十余州名所圖會」に「薩摩 坊ノ浦 雙劍石」の絵がある(shusen氏のブログ「shusenの鳥日記」の「坊津双剣石のミサゴ」記事の中の拡大画像)。

「大きい方の岩のてっぺんに松の木が一本生えていた」前注の「坊津双剣石のミサゴ」記事中に松喰い虫にやられて消失してしまったとある。松が健在だった折りの写真は必見!

その形は二十年前と同じである。忘れようとしても、忘れられない。

「あたしが小学校の五年の時」満十か十一歳であるから(次注参照)、この――ダチュラの女――の生年は昭和九(一九三四)年か十年となる。

「国民学校」昭和一六(一九四一)年三月公布の国民学校令によって、同年四月よりそれ以前の小学校が国民学校という名称に改められた。初等科六年・高等科二年で、他に国民学校の高等科二年の修了者を対象とする特修科一年を置くことも出来た。因みに国民学校初等科五年はそれまでの尋常小学校五年で、現在の小学校五年と同じく、十歳(修了時十一歳)である。後で女は「三十を過ぎちまった」と言っているから遅生まれであろう。

「一乗寺」廃寺(女は「明治の初め」と言っており、これもまたしても例のおぞましい廃仏毀釈による可能性が頗る高い)で記載が少ない。「一乗院」とも。跡が現在の南さつま市坊津町坊の市立坊泊(ぼうとまり)小学校跡(二〇一〇年に旧坊津町内の小学校が統合され、ここが南さつま市立坊津学園小学校となり廃校となったが、その三年後の二〇一三年には坊津町泊の高太朗(こうたろう)公園内に新校舎を建設、南さつま市立坊津学園中学校との鹿児島県内初の施設一体型小中一貫校となった)に隣接する。「やさしい鹿児島スイスイなび」の「一乗院跡・仁王像」によれば、敏達天皇一二(五八三)年百済の僧日羅が仏教弘布のため建立したもので、その末寺は薩摩大隅の国内四十七ヶ寺、坊津だけでも十八ヶ寺もあったと言われ、日羅上人は自ら仏像三体を刻んで、上中下の三坊舎を設け、安置した。それがこの「坊津」とする。他のデータや写真から、勅願寺であって当時の礎石や山門が残るらしいことが判った。

「その後に石造の仁王像が二つ、海から引上げられて、校庭に並んでるわ」先の『読売新聞』の動画を参照。現存する。

「もっともここには三週間しかいなかった」「二十年ぶりにやって来る」既にこれらは私の注で検証済みであるが、春生のこうした時制の確認は非常に懇切丁寧である。そこにこそ梅崎春生自身の戦争体験への拘りが感じられる。

「泊(とまり)よ。あの峠を越えて向うの部落なの」現在の南さつま市坊津町泊、旧川辺郡坊津町(ぼうのつちょう)泊。同町は明治二二(一八八九)年に町村制が施行されたのに伴い、南方郷(外城)の内、明治二年以前の久志秋目(くしあきめ)郷及び坊泊(ぼうどまり)郷に当たる久志村・秋目村・坊村・泊村の四村の区域によって西南方村(にしみなみかたむら)として発足、昭和二八(一九五三)年十月に坊津村に改称、一九五五年十一月に町制施行されたが、二〇〇五年十一月七日に加世田市・大浦町・笠沙町・金峰町と合併、南さつま市となって自治体としての坊津町は消滅した(以上はウィキ坊津に拠った)。現在の小学校校区から見ると、小泊(おどまり)・宇都(うと)・町(まち)・本珠院という地区を現認出来、これらを地図で見ると、女が言うように、坊浦の北で突出している峰ケ崎の根の部分の山を越えた向こう側の泊浦(とまりうら)の海岸域にあることが判る。

「谷崎潤一郎の『台所太平記』」「あそこに出て来る女中さんたちは、みんな泊の出身なのよ」「台所太平記」は昭和三七(一九六二)年十月末から翌年三月上旬まで『サンデー毎日』に連載され、後に単行本として中央公論社から刊行された。私は読んだことがなく、読みたくもないので(私は幾つかの作品(例えば「蘆刈」)を評価はするものの、人間としての谷崎個人は虫唾が走るほど嫌いである)、キネマ写真館 日本映画写真データベースの「台所太平記」の記載から引く。『谷崎自身の家で働く歴代のお手伝いさんをモデルに、時代の変遷とともに顔ぶれが変わる』九人の『お手伝いさんの行状や生態を通して、作者の分身である千倉磊吉の家庭をリレー式に描く』もの、だそうである。ホメロス氏のサイト「Homer's玉手箱」内の鹿児島県南さつま市坊津町の「谷崎潤一郎の碑」の項に『この小説は』『西南方村泊出身の谷崎の自宅のお手伝いさんをモデルにして書かれている。谷崎家では』、昭和一一(一九三六)年頃から『泊出身のお手伝いさんが十数名仕えていたと言う。谷崎家では』同年の夏にここ泊(とまり)『出身の「初」がお手伝いさんになってから次々に彼女をたよっての沢山の女性が谷崎家で青春を過ごしている。特に谷崎(千倉)は』凡そ二十年に亙って『谷崎家で過ごした初がとてもお気に入りで』、『この小説の中でも女中の中心人物として一番紙幅を割いて書かれている。そして「梅」は酒が好きで癲癇もちで、初の弟に嫁いだ。泊まりの裕福な家の出の「銀」はとても美人で結婚した後湯河原のお土産売屋「春吟堂」の女将として活躍し、結婚した後の付き合いまで細かく書かれている。また坊津出身の乙女は学校は出ていないものの』、『料理にしても裁縫にしても金銭感覚、責任感なども』、『とてもよくできた乙女として谷崎夫妻の深い愛情と共に描かれている。谷崎は本の最後に年老いて坊津を訪ねることはできなかったことが残念であると書いている。そして谷崎が彼女たちから聞いた坊津の位置や風俗、歴史、生活、カツオの釣り方など詳細にかかれており、読んでいて懐かしくなった。坊津出身者は是非「台所太平記(中央公論)」は読んでほしい』と記しておられる。

「ミツギ」不詳。このような名の高木木本類は知らない。しかし、巨木であることと、分布域と発音の酷似性から、これはミズキ目ミズキ科ミズキ属ミズキ Cornus controversa ではなかろうか、と私は踏んでいる。先の『読売新聞』の動画の仁王像(現在はこの木の下に直近で並んでいる)の中央に現存する様子である。識者の御教授を乞う。

「芭蕉扇」老婆心乍ら、「ばしょうせん」と読む。唐扇の一種で、バショウ(既注)の葉鞘 (ようしょう:稲などの一部の植物で見られる、葉の基部が鞘状になって茎を包む形態になっている箇所を指す) で作った円形のものを指す。]

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