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2016/02/21

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十九)

     十九

 

 鎌倉攬勝考には所謂權五郎社に關して次のやうな説を掲げて居る。此社もとは鎌倉の西北なる梶原村に在つた。幕府で崇敬して居たと云ふのも其時分のことである。權五郎殿の一門に梶原權守景成と云ふ人、平氏の始祖葛原親王を神に齋ひ、之を葛原の宮とも御靈の社とも稱へて居たのが始まりである。其後鎌倉權八郎景經と云ふ人があつて、此社に先代の權五郎景政を合せ祀ることになつた爲に、却つて權五郎の社を以て呼ばれるやうになつたが、これは正しく無い云々。

[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考」幕末の文政十二(一八二九)年に植田孟縉(うえだもうしん 宝暦七(一七五八)年~天保十四(一八四四)年:本名、植田十兵衛元紳。八王子千人同心組頭、同書序文には八王子戍兵学校校長ともある)によって編せられた鎌倉地誌。全十一巻(本篇九巻・附録二巻)。植田は「新編武蔵風土記稿」「新編相模国風土記稿」の地誌編纂作業にも深く関わっている。以下、私の「鎌倉攬勝考卷之三」の当該箇所を私の注(ここでは一部に新たに追加した)とともに総て引いておく。

   *

五靈ノ社 長谷村より西南の方にあり。神主小坂氏、別當は極樂寺村にて、普明山成就院、古義眞言宗、同國手廣村靑蓮寺末なり。例祭九月十八日。權五郎景政を祀れりといふこと、【保元物語】にしるしたるより、普く人の稱する社號なり。されど其事のたがへるいはれ有。次第は葛原ケ岡の條にしるせり。合せ見るべし。【東鑑】に、文治元年八月廿二日午ノ刻、御靈の社鳴動し地震の如し。此事先に爲怪の由、大庭平太景能申之。仍て二品〔賴朝〕參り給ふ所、寶殿左右の扉破れたり。是を解謝の爲に、御願書御奉納のうへに、神樂等を行はるゝとあり。建久五年正月、八田右衞門尉知家御使として奉幣の事あり。當社、もとは梶原村にあり。いつの年にか此地に勸請しける。祭禮の時は、梶原村より神主出會して神事を修す。神主小坂氏も、景政が家從の末孫といふ。されば古へ社檀鳴動せしは、梶原村にての事なりしと、里老語れりといふ。

[やぶちゃん注:この手の考証が入ると、植田は俄然、オリジナリティを発揮し始める。本項に被差別民であった非人に関わる伝承を持った面掛行列(はらみっと行列)の記載がないのは残念であるが、これは明治の神仏分離令までこの行列が鶴岡八幡宮放生会(八月十五日)で行われていたからであろう。

「權五郎景政を祀れりといふこと、【保元物語】にしるしたるより、普く人の稱する社號なり。されど其事のたがへるいはれ有。次第は葛原ケ岡の條にしるせり」は、「鎌倉攬勝考卷之九」の「葛原岡」の記載の以下の部分を指しておく(全文はリンク先を参照)。

里老の語るを聞に、むかし梶原景時が先祖、鎌倉權守景成は、鎌倉幷梶原村邊を領しけるころ、此葛原が岡も梶原村の地にして、其頃までは、名もなき萱はらにて有しが、權守景成は、桓武平氏にて、葛原親王より出たれば、其親王を氏神に崇め奉り、宮社をいわひ、葛原の宮とも御靈の社とも稱し、此岡に鎭座なし奉りけり。文字は同じけれど、唱へを替てくづはらの御靈社と申せしより、此岡をくずはら岡とぞ土人稱しければ、竟に地名とは成にける。其後玆の宮を、梶原村へうつしてよりは、御靈の社とのみ唱ふ。されば社號は御靈權現にて、祭神は葛原親王を崇め祀れる事にぞ。又其後、鎌倉權八郎景經が代に至り、權五郎景政が靈を、御靈社に合せ祀れりといふ。是平氏の祖神なり。然るを、御靈の社といへば、權五郎景政を祀りし事とおもふは、尊卑を知らぬ誤りなり。御靈社へ景政を配しまつれる事をしるべし。既に朝廷にても、八所の御靈と稱し祀らしめ給ふは、崇德院・後鳥羽院、或は親王・攝家・大臣のたゝりをなし給ふを、八所の御靈と稱し、祀り給ふを以て知るべし。

「葛原親王」(かずらわらしんのう 延暦五(七八六)年~仁寿三年(八五三)年)は桓武天皇の第三皇子で桓武平氏の祖。但し、私はここで植田の主張する考えに従うことは出来ない(後注参照)。

「文治元年八月廿二日」は「廿七日」の誤り。以下に示す。文治元(一一八五)年八月二十七日の条を示す。

〇原文

廿七日丁丑。午剋。御靈社鳴動。頗如地震。此事先々爲怪之由。景能驚申之。仍二品參給之處。寳殿左右扉破訖。爲解謝之。被奉納御願書一通之上。巫女等面々有賜物。〔各藍摺二段歟。〕被行御神樂之後還御云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日丁丑。午の剋。御靈社、鳴動す。頗る地震のごとし。此の事、先々怪たるの由、景能、之を驚き申す。仍りて二品參り給ふの處、寳殿の左右の扉、破れ訖んぬ。之を解謝せんが爲に、御願書一通を奉納せらるるの上、巫女等、面々に賜物〔各々藍摺二段(あゐずりにたん)か。〕有り。御神樂を行はらるの後、還御すと云々。

この鳴動は何だろう。もしや、あの御霊神社の下には断層帯でもあったものか? はたまた、海浜に直近でもあり、一種の液状化現象によるものででもあろうか?――それとも――ここを支配管理していた、「前々から何かおかしいと思って御座った」と言っている大庭景能(大庭氏の一族が景政の鎌倉氏でもある)が、本社を頼朝の目に掛けてもらわんがため、大力の家来にでも命じて、社殿をこっそり鳴動させ、扉も打ち壊したものか?……などと考えてみるのも面白い。

「解謝」神の憤りや怒りを解いて謝まること。

「當社、もとは梶原村にあり。いつの年にか此地に勸請しける」とするが、「されば古へ社檀鳴動せしは、梶原村にての事なりしと、里老語れりといふ」も併せて、私には俄かには信じ難い(「鎌倉市史 社寺編」でもこれらは否定されている)。但し、ここで神主が祭儀に際して出張して来るという事実の記載は見逃せないのであって、何らかの江戸時代の鎌倉の氏子支配構造や、鎌倉に於ける被差別民の歴史と関係がありそうである。御霊社は全国に数多くあり、ある時、ある人物の御霊信仰が爆発的に伝染し、各地に共時的に祭祀が分立したと考える方が自然な気が私にはするが、如何か。梶原にある御霊神社は梶原景時の屋敷跡が同地に比定されることから、同じ鎌倉平氏である勇猛な武将鎌倉権五郎景政を氏族の祖神として祀ったと考えてよい。現在、この坂ノ下の御霊神社の方は、それ以前の平安後期の建立と推定されており、御霊は実は五霊で関東平氏五家の鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭各氏の祖霊を祀った神社が元であったとされている。それが後の御霊信仰の伝播に伴い、鎌倉権五郎景政の一柱となったと考えられているのである。

……因みに、私はこの神社が大好きである。御霊信仰に纏わるそのルーツの伝承から、力石(ちからいし)伝説、江戸時代の滝沢馬琴の長男にして幕府医員であった種継(たねつぐ)に纏わる父馬琴の涙ぐましい息子の売り込みを感じさせる某人失明事件解明のエピソード、更に国木田独歩が棲んだ近代文学の足跡に至るまで、この神社で語れることは尽きないからである。もう、何年も行っていないけれど……]

   *

 この最後の箇所などは、書きたいことは山ほどあるという私の気持ちのよく現われているところで、ひどく懐かしい。]

 自分はこんな言譯見たいな由來談に對しては、容易にさうですかを言はぬのである。又無造作な新説ではあるが、御靈は昔から神とか社とかの語を添へずに呼ぶのが常である。然らば鎌倉の御靈殿を、鎌倉權五郎殿と聞き誤り覺え誤つたとしても、平民等なら些かも不思議は無いでは無いか。兎に角兩方ともえらい御方なのだから、願を掛けたら聞いて下さるだらうと有難く思つたのである。

 御靈を五郎と間違へて居た例は幾らもある。岩代耶麻郡三宮の三島神社境内の五郎神社は加納五郎の靈を祀ると言ひ、中山道美濃の落合には落合五郎兼行の靈社あり、信州高遠の五郎山には仁科五郎信盛の首なき屍を埋めたと傳へて、其處に在る祠を五郎の宮と稱し昔の城主なのに呼捨てにして居る。更に南して同じ上伊那郡赤穗の美女森の社の神を五郎姫神と謂ひ、即ち日本武尊に侍かれた熱田の宮簀姫の御事だと申して居るが、是などは姫神を五郎と云ふので殊に珍しく感ぜられる。

[やぶちゃん注:「岩代耶麻郡三宮の三島神社」「耶麻」は「やま」と読む。現在の喜多方市上三宮に鎮座する三島神社(旧耶麻郡は現存するが、ここは離脱して喜多方市に編入されている)。

「五郎神社は加納五郎の靈を祀る」個人サイトと思われる『呆嶷版「会津事典」』の「み」の「三島神社」に、『祭神は大山祇命』(おおやまつみのみこと)で、『社伝によれば、佐原義連の孫である佐原加納五郎盛時が加納荘を領し、東山端三宮の地に青山城を築いた際、義連の遺言によって伊豆国より三島神社を勧請したものであるという。ときに』承久三(一二二一)年『のことと伝えられる』とある。この三浦盛時(生没年未詳)というのは三浦氏佐原流の鎌倉幕府御家人(以下はウィキの「三浦盛時」をから引く)。嘉禄三(一二二七)年七月、法然の弟子で浄土宗多念義派の祖隆寛律師が奥州に流罪することが決定した際、奥州に所領を持つ佐原盛時預りとなっている事実から、盛時は本家三浦氏一族が滅ぼされる宝治合戦(宝治元(一二四七)年六月五日)以前に既にここ会津郡耶麻郡の加納庄を領していたことが判る(彼が主家につかなかった理由は後掲する)。『これが史料上の初見で』、『宝治合戦後の京都大番役の再編の際には三浦介として御家人役を分担』、建長四(一二五二)年に『宗尊親王が鶴岡八幡宮に参詣した際には後陣の随兵として名が見える』。彼の『母の矢部禅尼は最初北条泰時に嫁いでいたが、離縁して佐原盛連に再縁したという経緯を持つ。両者との間に北条時氏・盛時ら兄弟を儲けており、盛時は時氏と異父兄弟の関係にあった。それゆえ得宗との血縁的な結びつきが強かった』。『のためか、宝治合戦では嫡流の泰村らとは袂を分かち、佐原流三浦一族を率いて甥の北条時頼に与した。合戦に先んじて、時頼は盛時を陸奥国糠部五戸郡の地頭代に任命しており、既に盛時は時頼に懐柔されて得宗被官になっていたという』。『宝治合戦の直前、津軽の海辺に「人間の死骸のような」魚が漂着するという事件があった。盛時はこの顛末を時頼に報告し、更に、奥州合戦の直前にも酷似した現象があったことから、合戦の予兆であるとも指摘した。この話は『吾妻鏡』に収録されており、盛時が宗家の泰村の「征伐」を時頼に教唆したことを示すものではないかとも解釈されている』。『合戦当日、盛時の兄弟を含む佐原一族は時頼の与党と共に時頼の館に結集したが、盛時自身は何らかの事情があって参戦に遅刻したらしい。遅れた盛時は屋敷の塀を乗り越えて時頼の館に到着し、この行動に感嘆した時頼から盛時は鎧を賜っ』てもいる。『宝治合戦で三浦一族が滅びると、三浦介に任命され、三浦宗家の家督を継承した。盛時は三浦介、三浦家棟梁としての扱いを受ける一方で、将軍の鶴岡八幡宮参詣や放生会などでは随兵の役目しか回されず、宝治合戦で滅びる前、三浦氏がまだ隆盛していた頃の厚遇を受けることはなかった。三浦介となり、三浦宗家を継承したが、待遇そのものはあくまで佐原氏時代のものが踏襲されたという』。弘長三(一二六三)年に『時頼が没すると、兄弟の蘆名光盛・会津時連と揃って出家し、浄蓮と号した』。

「美濃の落合」岐阜県の旧恵那郡落合村。今は中津川市落合で現在の中津川市東部に位置する。

「落合五郎兼行の靈社」落合兼行(平治二・永暦元(一一六〇)年?~治承八・元暦元(一一八四年)についてはウィキの「落合兼行」から引く。源義仲の重臣で信濃国との国境美濃国恵那郡落合村(現在の中津川市落合)に館を構えて落合五郎兼行と称した武士で木曽義仲家臣で四天王の一人。樋口兼光、今井兼平の弟。巴御前の兄又は弟。『源義仲に対して、兄の樋口兼光、今井兼平と共に忠臣として仕え』治承四(一一八〇)年の『義仲挙兵時より参戦し、白鳥河原の勢揃、横田河原の戦い(『源平盛衰記』)、倶利伽羅峠の戦い、篠原合戦などに参戦した。義仲敗死後については諸説があり』、一説に『義仲の死去前後に討死にしたとする説』がある一方、『木曾谷に逃れて萱ヶ平に隠れたという説』、『更級郡の今井に逃れ、その子の兼善が親鸞の弟子となったという説などがある』とする。館については『信濃国佐久郡の落合という説もある』「源平盛衰記」では(以下引用では表記を恣意的にリンク先のそれを変更してある)、『信濃國には根井小彌太、其子楯親忠、八島行忠、落合五郎兼行……木曾黨には中三權頭とあり、兼遠が子息、樋口次郎兼光、今井四郎兼平……』『とあり、根井行親の子であって、さらに木曽の住人ではないとされている』。大正時代に成立した「西筑摩郡誌」によると、『兼遠は「其子樋口兼光、今井兼平、姪(=甥)落合兼行等に義仲に臣事せしめ」たとあり、佐久郡の記録によると母は中原氏となっており、母が中原氏、父が根井氏という』とする。『信濃国との境である美濃国恵那郡落合村に、西からの備えのため館を構えていたと言われている。現在、岐阜県中津川市落合には、落合五郎兼行之城跡の碑があり、地元では「おがらん様」の名で親しまれている』。『中津川市落合には、おがらん四社(落合五郎兼行神社、愛宕神社、山神神社、天神社)があり、境内には寛延年間に建立された石灯籠と兼行顕彰碑がある』。『江戸時代の『木曽名所図会』には、落合五郎霊社という記述があり、『新撰美濃誌』には「落合氏宗氏跡は駅の西の路傍にあり、老杉三、四株生え茂りうらに愛宕神社あり」とある』とも記す。この「おがらん四社」の「落合五郎兼行神社」というのが「靈社」と考えてよいだろう。これらは総て現在では纏められて中津川市中津川与坂(よさか)にある。

「信州高遠の五郎山」「ごろうざん」と読む。現在の長野県上伊那郡高遠町にある、高遠城址南の小高い山。同名の山が多いので確認には注意が必要。

「仁科五郎信盛の首なき屍を埋めたと傳へて、其處に在る祠を五郎の宮と稱し昔の城主なのに呼捨てにして居る」「伊那市観光協会公式」ホームページ内の「五郎山」に、天正一〇()年に『織田軍に攻められて城中で壮絶な死を遂げた城主仁科五郎盛信。勝間村の農民が焼け跡にその屍を探し、火葬してこの山に埋葬し』たとある。地図上では山頂から北へ七百メートルほどの位置に「仁科五郎の墓」とある。仁科盛信(弘治三(一五五七)年?~天正一〇(一五八二)年)戦国・織豊時代の武将。武田信玄五男。永禄四(一五六一)年に父の意向で仁科家の名跡を継いだ。信玄の死後、兄の武田勝頼を助けて信濃高遠城を守ったが、織田軍の攻撃を受けて自刃、ウィキの「仁科盛信によれば、『首級は信忠のもとに届けられ、長谷川宗仁によって京の一条通の辻に武田勝頼・武田信勝・武田信豊らと共に獄門にかけられたが、盛信を敬慕する領民によって胴体は手厚く葬られた』とある。御霊に相応しい猛将である。柳田は「呼捨て」と憤っているが、敗将であって表だって敬することを民草が憚った、通称で親しく呼ばれているのだ、ととって何ら不自然とは私には思わない。

「上伊那郡赤穗」。現在の長野県駒ヶ根市赤穂。天竜川以西にあたる。

「美女森の社の神」「五郎姫神」これは同赤穂にある現在(というより柳田は何故か述べていないが当時も)の大御食(おおみけ)神社に日本武尊とともに祭られている宮簀姫(みやずひめ:尾張国造(くにのみやつこ)の祖先で日本武尊の妃。尊東征の帰途に草薙の剣を媛に預け、姫はその神剣を祀って熱田神宮の元を創ったとされる)別名、五郎姫である。

「侍かれた」「そばづかれた」。ウィキの「大御食神社」によれば、『創建は、当社蔵の「美しの杜社伝記」によると』、『大足彦忍代別天皇の御代四十八年(よそじまりやとせ)、御食彦御蔭の杉の木の下(もと)御安楽居(みやすらい)しその仮宮を神の御殿(みあらか)に見立て、日本武尊を祝い祀りて大御食ノ社(おおみけのやしろ)と御名を附け奉りき』。『とあり、日本武尊が当地に立ち寄った際に饗応した里長が「御食彦(みけつひこ)」の名を賜り、後に日本武尊を祀った当社を創建したものという』。景行天皇四八(一一八)年の創建と伝わる(「神社明細帳」では景行天皇五十一年とする)。『建御名方命が愛で、日本武尊が「奇び杉なりや」と誉めた古杉を御神木(御蔭の杉)としている』(現在の木は三代目)。『別名の「美しの杜」の名は、社伝記に、「宮簀姫またの名は厳郎姫を迎えまつりて、所の名を美しの杜と御名負はせまつる」とあることによる。 現在氏子らは「美女ヶ森(びじょうがもり)」と呼んでいる』。祭神の日本武尊は景行天皇四八(一一八)年の創祀とされ、宮簀姫は応神天皇三八(三〇七)年に『熱田ノ宮より草薙ノ剱の御霊代とともに迎えられた』。他にその後に石清水八幡ノ宮より勧請した八幡大神も祀られてある。『日本武尊が東国平定の帰路に信濃国赤須の里へ滞在した。そのとき赤須の里の長赤須彦は御影の杉のもとに仮宮を立て尊を饗した。それにより赤須彦は日本武尊より御食津彦の名を賜った』。

『また日本武尊は赤須彦の娘・押姫を愛で、赤須の里に三夜滞在した』(以来、赤須彦の子孫である神官宅を【采女邸(うねめやしき)】と呼ぶようになったとする)。景行天皇四八(一一八)年に『赤須彦は日本武尊を祀』って『大御食ノ社を創建』した。[やぶちゃん注:中略。]『神社には、神代文字(阿比留草文字)で書かれた社伝記が伝えられている』。『社伝記は、代々の神主が引き継いだ際』、三十七日間の潔斎して後に開いて見たが、『異形の文字で読めなかった』。 明治二(一八六九)年正月、『伊那県庁より管下の諸社に、社の由緒を書き上げ提出せよとの令があり、社伝記を持参した。当時、伊那県庁を訪れていた落合直澄(一平)が解読した。「美しの杜社伝記」の奥書に以上の経緯と謝意が記されている。落合は著書「日本古代文字考」において、『神官小町谷氏を責めて古記録を出させ 意を解釈することができた。是より「美女神字世ニ現レタリ」』と記している』。『落合は、社伝記を「美社神字録」、それを解読した自稿を「美社神字解」と名付けた』。昭和一一(一九三六)年に『赤穂村(現駒ヶ根市)金子金作が『美社神字解』を出版』、『宮崎小八郎は、著書『神代の文字』』(昭和一七(一九四二)年発行)『の中で「美社神字」と記し』、『吾郷清彦は「日本神学」誌上で解読文を紹介し、改めて「美しの杜物語」と名付けた。また著書『日本超古代秘史資料』』(昭和五一(一九七六)年)の『中で『美社神字解』を古代和字文献として紹介している』。『駒ヶ根市誌(現代編下巻)では、「神代文字社伝記」と記す』。その「美しの杜社伝記(うつくしのもりしゃでんき)」『では以下のように伝えている』とする。『建御名方命は国の巡りの時「奇(くしき)杉なり」とこの杉を愛で、日本武尊はこの木の元で饗応を受け大いに悦び「この杉はや、弥栄えて丈高し、奇び杉なりや。」と誉めた。以来この杉を「御蔭の杉」というようになった』とあるという(駒ヶ根市誌自然編では本杉樹は樹齢三百年と比定している)。本社の祭事に「獅子練り」というのがあり、九月の例祭では、『氏子が獅子練りを行う。祭典の中心祭事とされ、毎年、年番耕地の若衆が取り組む。お練りは、氏子がおかめ・ひょっとこなどと悪魔払いの獅子の機嫌を取りながら神社にお詣りをし、最後に獅子の頭を切り取り』、『奉納する。この行列に神主は同行せず、祭神三種の名を書いた幣束を捧げた少年三人(現在は大人)が裃を着用し、陣笠を頂いて加わっている』とある(下線やぶちゃん)。なかなかそそられる祭儀ではないか。]

 又何の五郎であつたか知らぬが、作州勝田郡池ケ原の熊野權現の山に義經大明神と云ふ社があつて、而も此地は義經が平家の殘黨五郎丸なる者を攻めた陣場の跡と傳へて居る。近江甲賀郡松尾村には五郎王樣と云ふ社あり、俗に曆の神樣だと云ふのは面白い。尾張では東春日井郡櫻佐村の五龍社を、俗に五郎宮と云ふと張州府志にあり、又知多郡藪村には弓取塚と稱して小さな弓矢を奉納して瘧の平癒を禱る塚を、人の爲に殺された花井惣五郎と云ふ者の首を埋めた處と、傳へて居たことは有名な話である。花井と云ふは泉の傍で神を祭つた風習を暗示する名稱であるかと思ふ。

[やぶちゃん注:「作州勝田郡池ケ原の熊野權現の山に義經大明神と云ふ社」現在の岡山県津山市池ケ原。現在も義経大明神として地図上に現われる。

「平家の殘黨五郎丸」不詳。しかし、位置的に見て義経が平家の残党狩りをした場所とは思われないのだが。

「近江甲賀郡松尾村」現在の滋賀県甲賀市水口町(みなくちちょう)松尾。

「五郎王樣と云ふ社あり、俗に曆の神樣だと云ふ」同松尾地区には中央部に八幡神社があるのみである。「五郎」「暦」などでは検索に掛からない。現地の識者の御教授を乞う。

「東春日井郡櫻佐村の五龍社を、俗に五郎宮と云ふ」は愛知県春日井市中南部に位置する桜佐町(さくらさちょう)に八龍神社というのを現認出来るが、「五郎」の事蹟は不詳。但し、これは「五郎(ごらう)」と「五龍(ごりやう)の音の類似が妙に気になる。」

「張州府志」尾張藩最初の官撰地誌。元禄年間(一六八八年~一七〇四年)の編で、完成は宝暦二(一七五二)年。

「知多郡藪村」現在の愛知県東海市養父町(やぶまち)。

「弓取塚」「花井惣五郎」「東海市」公式サイト内「養父町の民話」の「藪城と惣五郎塚」でやっと発見出来た。『国道百五十五号線を横須賀町から養父町ヘ向かって南下すると「城之内」』(しろのうち)『という交差点があります。そのあたり一体を養父町城之内というのは、かつて、そこに藪城があったからだといわれています。しかし、いまは人家が建ち並び、城跡をはっきりさせることはできません』。『いまから五百年ほど前のことです。応仁元年)(一四六七)に応仁の乱がはじまりました。そのあと、この動乱の舞台は京都から地方に移り、全国が乱れ、約百年の間、戦国時代とよばれる戦乱期をむかえることになりました。戦乱がつづいた戦国時代には、実力をもった下の者が、実力のない上の者をたおす下克上の風潮が、社会の潮流となりました』。『そのころ、いまの東海市には、北から平島城、清水城、富田山中城、木田城、横須賀城、藪城などと呼ばれるいくつかの城がありました。藪城はそのうちの一つで、花井惣五郎という豪族が築いたものだと伝えられています』。『尾張の国には守護として土岐頼康がおり、その下に、富田、花井と名のる二名の守護代が仕えていました。花井惣五郎はその守護代花井氏の血統をひく一族のものだったのです。家来が主君の上になる時代です。かつては守護代として守護土岐頼康に仕えていた花井一族も、いつの間にかその中の一人が実力をつけて、藪城を築き、勢力をほしいままにする地位にのし上がっていたのです。すぐとなりの知多市八幡には堀之内城(寺本城、花井城)があり、花井播磨守信忠、勘八の父子二代が住んでおり、花井一族がこの地方一体を支配していたものと思われます』。『そのころ今川義元は知多半島方面へ進出しはじめました。これに対して織田信長勢は、今川方に通じているとみられた花井氏の堀之内城を攻めて火を放ちました。はなしはこのときのことです。織田勢が藪城へも押し寄せてきました。惣五郎以下よく敵を防いで戦いましたが、城内で裏切りがあって、惣五郎は弓矢をとらないままにあえなく討たれてしまいました。その最期に際して』、『「弓矢さえ持っていたならば、このようにむざむざ討たれはしなかったものを」』『とうらみの言葉を残したといいます』。『こうして、藪城はまたたく間に落城してしまいました。このあと、織田信秀の五男、信治(信長の弟)が野夫城の城主となりました。信治は元亀元年(一五七〇)九月十九日、姉川の戦いで戦死しました』。『惣五郎の遺骸を葬ったところを「惣五郎塚」または「弓捉塚」といいます。以前には、この花井惣五郎供養のための五輪塔が北堀畑の畑の中にありました。そのそばに植えられている松の木は伸びるままにしてあったので、よく茂っていました。また、小さな弓矢を塚に供えると病気が治ると信じられていました。いまは民家の裏庭に小さなお堂が作られ、その中にまつられています』とある。

「花井と云ふは泉の傍で神を祭つた風習を暗示する名稱であるかと思ふ」唐突に出る解釈で信じそうになっちゃうけど、アブナイ、アブナイ。これじゃ、前のしっかりした伝承の守護代の「花井」からなんからみんな嘘になっちゃうよ!]

 下總では或は御靈を千葉五郎と云ふありさうな勇士の名に託した例もあるが、印旛郡誌を見ると同郡千代田村大字飯重(いひしげ)の舊無格社五郎神社等、祭神を曾我五郎の靈とするもものが二三ある。相模足柄下郡の曾我谷津村の五郎社の如きも、本場であるから無論祭神は曾我五郎になつて居る。曾我兄弟の祠又は石塔は緣も無さそうな遠國に何十ケ所も有る。或は大磯の虎尼となつて廻國し、或は鬼王團三郎來り住むなどゝ言つて、何とかして本源を究めようと土地の人たちは骨折つて居るが、あまり數が多いのでいつも思ふやうに行かぬ。是も御靈が双神であると傳へた場合に、そんなら五郎十郎の兄弟かと云ふことになつたので、大磯の虎と云ふのも實は御靈にかしずいた只の尼樣だらうと思つて居る。

[やぶちゃん注:全集版では最後の「只の尼樣だらうと思つて居る」の箇所は『只の尼樣だらうと私は思つて居る』となっている。

「印旛郡誌」大正二(一九一三)年刊の千葉県印旛郡役所編輯「千葉県印旛郡誌」であろう。

「同郡千代田村大字飯重(いひしげ)の舊無格社五郎神社」現在の千葉県佐倉市大字であるが現在は飯重(いいじゅう)と読んでいる。誤まりか呼称変更かは不明。牛飼はじめ氏のブログ「天満宮巡拝(私の天満宮)」の816大宮神社(飯重・佐倉市)がそれである。「祭神」の項に曾我五郎霊が含まれてある(序でに言うと、強力な御霊も菅原道真も括弧書きながら入っている)。同「由緒」には『字兎内鎮座の五郎神社を』明治四三(一九一〇)年九月に合祀したものとあるから、この立地と他の祭神及び神社の由緒自体とは無関係と考えるべきであろう。私の感じと同じく、『五郎→御霊→菅原道真と連想しているようだ』とも注されておられる。

「相模足柄下郡の曾我谷津村の五郎社」位置としては神奈川県小田原市曽我谷津に鎮座する宗我(そが)神社であるが、この神社自体は曽我の地の人々が小澤大明神を崇拝して祀ったのを始まりとし、長元元(一〇二八)年に大和国の宗我都比古神社の神主宗我播磨守保慶が祖先の宗我都比古命と武内宿祢命を祀って社を創建、寛治元(一〇八八)年には源義家が奥州下向の際に参詣したが、その後に平家によって灰燼に化されたものを、永万元(一一六五)年に曾我兄弟の養父曽我祐信が再興したものあって兄弟との直接の関係はない。前に引かせて貰ったサイト「龍学」の師長行:小田原に、無関係性を述べられた上で、『本社殿の真後ろの石祠群の中に「御霊社」がある。どれだかもう分からなくなっているのだが、その「祠」は明治十七』(一八八四)『年頃、曽我原東方の山腹から掘り出され、ここに遷祀されたのだという(『曽我の里』草壁芳村:昭和九年)。建久六年に曽我兄弟の三年忌に祐信と鬼王丸(曽我兄弟の弟・五郎の家臣)が勧請した御霊大権現であると伝わる』。『その掘り起こされたところからは人骨や直刀なども出たという話で、すわ曽我兄弟の(本当の)墓ではないかとも騒がれたようだが、今となっては何ともいえない。また『新編風土記』にも五郎を祀る「五郎社」があるとあるが、曽我「五郎」からの御霊神社があったということではあるだろう』。『また、縁が深い中村一族の総守護の五所八幡宮や秦野堀之郷正八幡宮も本社殿真後ろに色々祀るのだが、その位置に祖霊社に相当するものを祀るという共通する形態があったのじゃないかともあたしは思っている』。仇討に成功したが兄は仁田忠常に討たれ、弟曾我時致(ときむね)は斬首されているから、御霊の資格は充分である。

「大磯の虎」大磯の遊女で、曽我兄弟の兄曾我祐成(すけなり:享年二十二)の愛人。仇討以後、箱根に於いて祐成の供養を営んで出家、信濃善光寺へと赴いた。時に十九。

「鬼王團三郎」既注。]

 下總の序に言へば、あの佐倉惣五郎なども大分此方へ近いものである。堀田樣こそ好い迷惑で、段々聞いてみると大勢で作り上げた只の話であるやうだ。略緣起には靈堂に父子五人の靈像を安置すと言ひ、境内別に五靈堂あり、宗吾と事を共にして追放の刑に處せられた五人の庄屋たちの像を本尊として居るとも言ふが、しかも嘉永五年の二百囘忌と云ふ時の位牌を見ると、父と一處に殺されなかつた娘までの名を加へて五人にして居る。勿論信徒たちが聞いたら何か反證があらうから、自分は唯まづ「らしい」と迄言つて置く。

[やぶちゃん注:「佐倉惣五郎」(慶長一〇(一六〇五)年?~承応二(一六五三)年九月二四日?)は江戸前期の下総国印旛郡公津(こうづ)村(現在の千葉県成田市台方(だいかた))の名主で姓は木内氏、俗称を宗吾と称した。ウィキの「佐倉惣五郎によれば、『下総国印旛郡の堀田領内佐倉城下に生まれ、本名を木内惣五郎という』。『肥後国五家荘には、五家荘葉木の地頭・緒方左衛門の子で、下総の木内家の養子になったという伝承がある』。『年貢の取り立てが年々厳しくなるにつれて、佐倉藩領を代表して殿様への直訴を申し出』、この時の『公津村は佐倉藩領で、惣五郎は藩主である堀田氏の苛政を、藩や江戸役人、幕府老中にも訴えたが聞き入れられなかった。このため惣五郎は』承応二(一六五三)年に『上野寛永寺に参詣する四代将軍の徳川家綱に直訴』、『その結果、藩主の苛政は収められたが、惣五郎夫妻は磔(はりつけ)となる一方、男子も死罪となってしまった』という知られた義民の英雄である。『しかし、こうした伝承がある一方、資料上では惣五郎が一揆や直訴を行ったという記録はない』とある。

「堀田」下総佐倉藩第二代藩主堀田正信(寛永八(一六三一)年~延宝八(一六八〇)年)。ウィキの「堀田正信によれば、慶安四(一六五一)年に父が第三代将軍『徳川家光の死に伴い殉死』したため、遺領の下総十二万石(十万石或いは十五万石ともされる)を『相続。藩主在任中に佐倉惣五郎事件が発生し』たことになってはいる。万治三(一六六〇)年十月八日、『突然幕政批判の上書を幕閣に提出し、無断で佐倉へ帰城した。幕法違反の無断帰城について幕閣で協議がされた。正信の上書や行動に同情的意見もあったが、老中・松平信綱の唱えた「狂気の作法」という見解で合意がなされ』、同年十一月三日には『処分が下り、所領没収の上、弟の信濃飯田藩主・脇坂安政に預けられた。正信が佐倉へ無断帰城した動機については、信綱との確執や正室の叔父の松平定政が起こした出家遁世事件との関係も指摘されるが、不明』。寛文一二(一六七二)年には『安政の播磨龍野藩への転封に伴い、母方の叔父の若狭小浜藩主・酒井忠直に預け替えられる。しかし』延宝五(一六七七)年には『密かに配所を抜け出して上洛し、清水寺や石清水八幡宮を参拝した。これにより嫡男・正休と酒井忠直は閉門、正信は阿波徳島藩主・蜂須賀綱通に預け替えられた。配流中には「忠義士抜書」「楠三代忠義抜書」「一願同心集」などを著し』ている。延宝八(一六八〇)年五月、第四代将軍『徳川家綱死去の報を聞き、配流先の徳島で鋏で喉を突き自殺した。遺骸は江戸へ入ることを許され、菩提寺の金蔵寺に葬られた。正信を預かっていた徳島藩主・蜂須賀綱矩(綱通の従弟)は閉門、正休は正信の自殺で蟄居していたが、やがて両者は罪を許され、正休は後に近江宮川藩』一万石の『大名に取り立てられて、子孫は明治まで続いた』とあり、ご覧の通り、彼の改易の直接理由は、所謂、一種の狂気の沙汰のためである(但し、ウィキの「佐倉惣五郎によれば、これを惣五郎の怨霊によって祟られたためと解する説が後に横行した)。寧ろ、ウィキには注で異常行動の動機としては、『先に弟の正俊と従叔父の稲葉正則が幕閣に登用された焦りもあったと見られる。正信の狂気ということで改易されたため、両者と他の兄弟への連座はなかった』ともある。

「嘉永五年」一八五二年。

「靈堂に父子五人の靈像を安置す」千葉県成田市の真言宗鳴鐘山東勝寺にある宗吾霊堂。]

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