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2016/02/02

柳田國男 蝸牛考 初版(19) 都府生活と言語

 

       都府生活と言語

 

 問題の幾分か複雜になり、從うて又諸種の異説と獨斷とを招き易かつた原因は、個々の昔の方言領域が、外部の競爭者の侵略を受けて、次第に退縮すべき傾向を持つて居たゞけで無く、内にもまた往々にして新らしい異稱が起つて、それに押分けられて相互の脈絡が絶え、各自思ひ思ひの進化の道を、歩まなければならなかつたことである。蝸牛には幸ひにして、カタツブリの如く、曾て京都を占領して今は邊隅に餘喘を保つ例があつたからよいが、若しタマグラとツダラメとの對立だけであつたら、中々斯う容易には比較を進めて見ることも出來なかつたであらう。ましてや新語發生の中心が一方に偏在して、所謂方言圈の他の周邊が、遠く無人の海又は沙漠に消え去るやうな場合には、事によると僅かに片端に殘つた舊語を以て、外から來て附いたものゝ如く、或は又古調が此方面のみに保存せらるゝが如き、裾模樣式浸潤觀を抱かせぬとも限らぬのである。此危險の殊に多かつたのは沖繩の列島であり、しかも最も早くその誤謬に心付かれたのもまた彼地であつた。單に遠近を地圖の上から見れば、勿論誰とても内地の影響が、より多く北境の大島々群に及ぶべかりしことを想像するが、事實海上の交通の主として舵を向けたのは、島尻の一角即ち那覇から牧港がまでの海岸であつた。それ故に今でも言語の敷波は、略此地點を中心として、南北にその波紋を擴げていて、宮古は國頭の山村と相應じ、八重山は所謂道の島々と遙かなる類似の痕を持つて居たことが、追々に發見せられんとして居るのである。是と同種の傾向が、弘く日本全體の上にも現れて居なかつたといふことを、斷言し得る者は決して無い筈である。たゞ今日ほまだ調査が周到で無く、且つ稍大なる島の陸續きに於ては、一段と相互の交渉が込み入つて居た爲に、是を簡明なる法則に導くことが出來ぬのであるが、それには又別に一個の觀察點の、我々の整理を助けんとするものがあるのである。

[やぶちゃん注:「大島々群」「おほしまたうぐん(おおしまとう)」と読んでいるか。現在の南西諸島の本土と最も近い、北部の奄美諸島の島々を指して言っているのであろう。

「牧港」は「まきみなと」或いは「まちなと」と読む(改訂版は「まきみなと」とルビする)。現在の沖縄本島南部西岸の沖繩県浦添市北部の地名。十四世紀には沖繩最古の貿易港としての記録が残る。但し、河川からの土砂が溜まり易い上に海底も浅く、大きな船舶が停泊し難かったために南方の那覇港にその役目を移した(ウィキの「牧港」に拠った)。

「道の島々」柳田が「道の島」と言った場合は奄美諸島を指す。]

 

 是を言語の文藝的進化と名けることは、少しく耳馴れぬ稱呼ではあるが、恐らくは實地に當つて居ると思ふ。古人が好い言葉又面白い言葉として、採つて在來の用語にさしかへるほどのものは、假令我々の鑑賞からは眉を顰めるやうなものであらうとも、必ず其昔なり形容の機警なり又聯想の新奇なりに、當時の人心を動かすの力があつて、一囘の選擇は即ちまた一囘の技巧であつた。中には世情の變遷によつて、輕しめ忘れられた場合も無いと言はれぬが、少なくとも精より粗に複雜より單純に戻るといふことは無かつたわけで、さうすると國の端々に殘り留まるものゝ如何なる過去を談ずるかも、大よそは豫想することが出來るといふ結論になるのである。そこで差當つての一つの問題は、奧州のタマグラ九州のツダラメが、古いといふことはどの位古いのか。それがマイマイやカサと複合して、今の各地の方言を作つた事實は、假に此語が前からあつたことを示すとしても、果してそのもう一つ以前が、單なる無名であつたかどうかゞ、答へられなければならぬのである。それには前章にも試みられた如く、やはりそれぞれの方言領の、邊境現象を見て行くのが一つの手段である。カサ・マイマイ其他の新語が、既に九州の周邊に入つて居ることは之を例示した。ところがツグラメの方はそれと反對に、今尚その中央山嶺の周圍に一團の版圖を有し、それが又南北に進出するにつれて、少しづゝの轉訛を見ようとして居るのである[やぶちゃん字注:底本は最後の「のである」が次の「附標にも」に続いているが、誤植であるので改訂版に従って特異的にかく訂した。]。附表にも載せてあるがもう一度爰に列擧してみると、

   ツグラメ       肥後阿蘇郡

   ツグラメ、ツクラメ  豐後南北海部郡

   ツングラメ      日向東臼杵郡

   ツングラメ      豐前宇佐郡

   マメツングリ     筑後三瀦郡

   ツンツングラメ    同 上

   メエメエツングラメ  肥前佐賀附近

   ツングラメ      同 上

   ツブラメ       壹岐島

   ツルマメ       肥前平戸

   ツッガメ       同五島各地

   ツッガメジョ     同上三井樂

   ツグラメ       肥後葦北郡

   ツグラメ       鹿兒島

   ツグラメ       薩摩甑島

   ツンナメ       大隅種子島

   ツンナメ       七島寶島

[やぶちゃん注:「豐後南北海部郡」大分県にあった旧南海部(みなみあまべ)郡(現在の佐伯市の大部分)と旧北海部郡(現在の津久見市の全域及び大分市の一部・臼杵市の一部)のこと。両郡を合わせると大分県の南と南東部沿岸をカバーされる。

「日向東臼杵郡」東臼杵(ひがしうすき)郡は現存する宮崎県の郡であるが、当時は現在の門川町(かどがわちょう)・諸塚村(もろつかそん)・椎葉村(しいばそん)・美郷町(みさとちょう)以外に、延岡市全域・門川町全域・美郷町全域及び日向市の大部分をカバーし、宮崎県の北端の三分の二を占有し、しかも前の大分県の南海部郡とも接していた。

「豐前宇佐郡」大分県北部にあった旧郡。現在の宇佐市の大部分と豊後高田市の一部。

「筑後三瀦郡」「みずまぐん」或いは「みづまぐん」と読む福岡県に現存する郡。現在は大木町(おおきまち)一町しかないないが、当時は大川市全域及び久留米市の一部・柳川市の一部・筑後市西牟田を含む有明海側の広域県域の一つであった。

「メエメエツングラメ」改訂版では『メェメェツングラメ』。

「三井樂」長崎県南松浦郡(現存)にあった三井楽町(みいらくちょう)。現在は同郡からは合併離脱して五島市内。

「肥後葦北郡」「あしきた」と読む。現存する熊本県の郡。当時は現在の芦北町(あしきたまち)・津奈木町(つなぎまち)以外に、水俣市全域と八代市の一部を含む、熊本県南部八代海沿岸部の広域であった。

「七島寶島」「たからじま」と読む。吐噶喇(とから)列島の有人島では最南端。同列島は「上三島(かみみしま/かみさんとう)」と「下七島(しもしちとう/しもななとう)」に分かれるので(読みはネット検索に拠る)、この「七島」は一応、「しちたう(しちとう)」と読んでおく。]

さうしてこの中間には蝸牛をナメクジといふ地域を包圍し、そこには又ツウナメクジ・ツウノアルナメクジ等の名を生じて居るのだから、只の殼をツウといふ點までは、是も亦同じ配下に立つものと見られる。しかも此地方では、單なるツグラは「懷」のことであり、又は蛇のトグロのことであつた。蝸牛の方には悉くメの音が附添して居る。それを伊豆などのカサンマイと同樣に、後に現れ來たりしマイマイの影響と見るか、但しは又今一つ以前のミナ若しくはニナといふ名稱が、ここにも殘存して「ツブラ蜷」といふ、一種の複合を生じたものと見るか。はた單なる動物呼稱、たとへば栃木縣や八丈島の「蛇め」「牛め」の類と見るべきであるか。この判斷は頗る重要となるので、それには更に我々の觀測を、もう少し外側に向つて伸展する必要があるのである。

 

 薩摩の一隅のツグラメが又一つの海を越えて、種子・寶の島々のツソナメとなつたことは前に見えて居る。それから南の方も系統はよそ一つかと思はれて、

   チンナン        首里那覇及び周圍

   チンナミ、チンナンモォ 沖繩本島名護

   チンニャマァ      奄美大島北部

   チンダリ        同上大和村

   チンダリイ、チンニャマ 同上古仁屋

   チンダル        加計呂麻島各地

   チンタイ        沖永良部島

   ツンミャウ       喜界島

[やぶちゃん注:「奄美大島」「大和村」鹿児島県大島郡大和村大和村(やまとそん)。奄美大島の中北部に当たる。

「同上古仁屋」「こにや」と読む。奄美大島の一番南に位置する瀬戸内町の中心地。

「加計呂麻島」「かけろまじま」と読む。奄美大島の南で大島海峡を挟んで直近にあり、鹿児島県大島郡瀬戸内町に属する。

「沖永良部島」「おきのえらぶじま」と読む。奄美群島南西部にある。鹿児島県大島郡に属し、九州本島からは南へ五百五十二キロメートル、奄美大島からは徳之島を挟んで南へ約百キロメートル、沖縄本島からは北へ約六十キロメートルの位置にある。現在は和泊町(わどまりちょう)と知名(ちな)町の二町から成る。]

などの例がある。ナ行とダ行との通用は、此比較によつても想像せられ、一方ダ行がラ行の代りをすることは、熊本・鹿兒島兩縣下の普通であるから、ツングラメが一旦種子島その他のツンナンと爲り、更にチンナンを經てチンダルにまで、轉訛して行つたものとも想像せられぬことは無い。ところが其比較を尚押進めて、南の方八重山群島の事實を尋ねて見ると、其想像の幾分か困難になることを感ぜざるを得ないのである。現在知られて居るだけの例では、蝸牛の方言は、

   チダミ、ツダミ     石垣島

   チンダミ        小濱島

   チッヅァン       西表島

   シダミ         黑島

   シタミ         波照間島

   シダミ         與那國島

[やぶちゃん注:「小濱島」「こはまじま」と読む。八重山諸島の一島で、現行では沖繩県八重山郡竹富町に属する。竹富島の西方七・七キロメートル、西表島とはヨナラ水道を隔てて凡そ二・三キロメートル離れた東に浮かぶ。

「黑島」竹富島の南南西、小浜島の南南東に、一辺を八~九キロメートルとする正三角形様の位置にある八重山諸島の一島。八重山郡竹富町に属する。私も南西諸島は与那国まで行ったが、この黒島は未踏である。琉球弧好きの友人はこの黒島が一番好きだと言っていた。]

 

 けだし黑島・波照間島のサ行轉音は、顯著なるこの島々の語音の癖であつて、決して此場合ばかりに限られたことでは無い。例へばキヌ(衣)を沖繩本島の南部ではチン、北部國頭の山村でキンまたはキヌといふに對して、南端の二島では之をシヌと發音して居る。だから簡單に是ばかりの事例に據つて別に蝸牛の名にシタダミの一系統があつたことを、推定することは短慮であるかも知れぬが、類型は遠く飛び離れた伊豆の八丈島にもあつて、彼處では現に蝸牛をヤマシタダミと謂つて居るのである。即ち若し曾て我邦の内に此語があつたとすれば、シダミ・チンナミは九州のツグラメよりも、遙かに此方に近いことを認めなければならぬ。それから今一つの可なり注意すべき事實は、この八重山の諸島の中で、たつた一つの新城の島だけが、古來土器を燒いて隣島と交易して居た。その現存して居る實物を見るのに、無數の細かに碎かれた貝の殼が、其土の中に交へ燒かれて居る。是は全島が珊瑚岩であつて、原料の粘土を得る途が無い故に、多くの蝸牛を共に搗き潰して、其粘液を以て赤土をこね上げ、大きな水甕までを作つて居たのである。是が原始工藝史の重要な一つの問題であること、稀に土器の使用を解する太平洋の小さな島々でも、或は同種の方法に由つたものがあるらしいことは、他日改めて之を説くとして、先つ差當つてはシタダミといふ語が、何か此習俗の間にその起原を持つのでは無いかといふ、想像説だけは提出して置く必要がある。即ちナメクジの「ぬめり」を以て認められたと同樣に、シタダミは即ち「したゞり」に基づいて、此名を負ふに至つたとも、考へられぬことは無いので、假にその推察の通りであつたとすれば、土器との因緣は又一段と古くからあつたわけで、從うてツブラ・ツグラの語が其製法の特徴に出でたといふことも、殊に自然であつたと考へられるのである。

[やぶちゃん注:「ヤマシタダミ」これは陸にいる「シタダミ」の意味である。即ち、この「シタダミ」とは、内海の砂底に多く棲息し、現在も食用とされる腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズガイ超科ニシキウズガイ科の小型の巻貝類を総称する語であることに注意されたい。具体的には、

ニシキウズガイ科サラサキサゴ属キサゴ Umbonium costatum

サラサキサゴ属ダンベイキサゴUmbonium giganteum

などがよく食されるのであるが(私も好物である)、彼らは「キシャゴ」「ナガラミ」「ナガラメ」「シタダミ」とも呼ばれ、しかも「扁螺」とも書くのである(この「きさ」という語は「木目(きめ)」のことで、木目状の模様のある巻き貝の意味と一般にはされている)。これらニシキウズガイ科の生貝は腹足類の殆んどがそうであるように軟体部に当然の如くぬめりを多く持つ(これらについては例えば私の毛利梅園「梅園介譜」 ダンベイキサゴを参照されたい)。即ち、少なくとも伊豆にあってはこれらの粘液を持ち、食用に供されるところの海産腹足類としての「シタダミ」の方が本家だということである。それを柳田は指摘していないのである。確かに滴(したた)る粘った涎れのような液体を出すものが「シタダミ」ではあろう。しかし、それはまず、古えより親しく食用に供されてきた海産貝類にこそ先に附けられる名であり、カタツムリを濫觴とするとは私には思えないからである。無論、柳田はカタツムリがそうだと言ってはいない。言ってはいないが、どうもここの文脈を見るに、彼はそういう可能性も「アリ」ではないか? と主張したがっているように思われるのである。海産貝類のフリークの私としては、そうだとすれば、柳田に大いに異議を申し立てたくなるのである。

「新城の島」「新城」は「あらぐすく」と読む。八重山諸島内の島嶼で、現在は八重山郡竹富町に属する新城島(あらぐすくじま)。黒島の西約四キロメートル、西表島南東約六キロ強の位置にある。北東のピーナッツ型の上地島(かみぢじま)及び南東の丸い下地島(しもぢじま)の凡そ四百二十メートル離れた二島から成るが、同島は他の島から当該地方の方言で「離れ」を意味するところの「パナリ」或いは「パナリ島」とも呼ばれる(後述も参照)。上地島と下地島の東側はリーフで繋がっており、干潮時には一部が水面上に表れて徒歩で渡ることも出来るとウィキの「新城島」にはあるが、竹富町公式サイト内の「新城島」には、「サンゴ礁に囲まれた人魚伝説の島」と名打ち、『「パナリ」と呼ばれている2つの島の間は干潮時には、徒歩で渡ることができる。上地島は集落があるが、下地島は集落がなく牧場が広がっている』とあり、これを読む限りではウィキの記載とは異なり、「パナリ」の原義は両島の間の海峡様部分を指す呼称と読める(民俗学的にはこの呼称はすこぶる神聖な呼称であったように推理され、事実、この上地島には外には小浜島・石垣島宮良にしか現在は残らないとされている、旧暦六月に豊年祭として行われるところの、仮面と草で装った来訪神(漂着神由来か)の、民俗学ではかなり知られた秘奇祭アカマタ・クロマタが残っている。なお、現在、これらの祭りは通常の観光者には見たり参加したり記録することは出来ないとされている。これについては語りたいことが一杯あるが脱線になるので堪える)。なお、同公式サイトの方には、『昔は両島で人口700人を数えたときもあり、赤土に貝を混ぜてつくるゴツゴツした風合いのパナリ焼を生産していた。かつて島の周辺にはジュゴン(島ではザヌと呼ばれる)が棲息していて、「人魚の肉」を首里王府に献納するように命じられていた歴史があり、現在もジュゴンを祀る御嶽がある。今でも周辺の海は透明度高く、他の島では見られない美しさがある』とあり、ウィキの「旧跡」の項には、『新城島には古琉球から近世にかけての遺跡が多数あ』るとする中に、『タカニク(上地島):かつてはニシヌブシヌヤー(北の武士の居館)があったとされる。八重山式土器や輸入陶磁器が発掘されている』とし、また、『ポーンヤマ遺跡:パイヌブシヌヤー(南の武士の居館)と呼ばれ、砂浜に突き出た岩の上に石垣が築かれている。一辺』三メートルほどの『方形の石積墓が6基あり、やはり土器や陶磁器が見つかっている』とある。更に、『ナーシキ貝塚:八重山式土器やパナリ焼などが発掘された』とし、『伝・ウィスク村跡遺跡:大量の土器と輸入陶磁器が発掘されている』ともある(下線は総てやぶちゃん)。

「原料の粘土を得る途が無い故に、多くの蝸牛を共に搗き潰して、其粘液を以て赤土をこね上げ、大きな水甕までを作つて居た」カタツムリや海産と思われる貝類が焼き物のツナギとして搗き込まれていたという仮説は現遺物に一応の確認はされているようである。幾つかのネット・データがあるが、中でも石垣市教育委員会文化財課の「八重山諸島の考古学」(PDF)がよい。それによれば、尚寧二〇/慶長一四(一六〇九)年の『薩摩の琉球侵攻以降から琉球処分までの間を、「近世琉球」と称しています。ちょうどこの頃に、考古学的にも変化がみられることから、八重山諸島では、この近世期を代表する土器-パナリ焼の名称をとって、パナリ期と呼んでいます。まずは、このパナリ焼という焼き物について考えてみましょう』とあって、以下のように載る。

   《引用開始》

(1)パナリ焼

1)パナリ焼と伝承

新城島と関係の深い焼物に「パナリ焼」(図29[やぶちゃん注:リンク先参照。])があります。考古学編年上の「パナリ期」もこれに由来し、おおむね琉球の近世に重なり、17世紀初頭から19世紀までと位置づけられています。パナリ焼は、一般的に竹富町新城島で19世紀中頃まで焼かれていた土器と説明されています。あわせて、その製作技法にも独特な解説がなされており、『沖縄大百科事典』から「パナリ焼」(新城1983)の項目を引けば、以下のような記載が見られます。

[やぶちゃん注:以下引用は底本では全体が二字下げ。]

 竹富町新城島で1857年(尚泰10)ごろまで造られていた土器質の焼物。新城島をパナリと呼ぶところからこの名称がある。その起源は明らかでないが、一説によると、昔、中国人が新城島に漂着してその技法を伝えたといわれる。その製法は一種独特で、蔓草やタブノキの粘液を土に混ぜて捏ねあわせ、轆轤を使わずに、手びねりで成形し、さらに蝸牛や貝肉の粘液をすり塗って形を整え、露天でカヤやススキの火で日用品のほとんどが造られており、王府時代は貢物として認められていたようである。(後略)

 この解説が、一般的なパナリ焼の一般的なイメージでしょう。しかし、本当に、この説明だけで、遺物としてのパナリ焼が理解できるのでしょうか。

 パナリ焼の「特徴」であり、「特異」な製法に、カタツムリの使用が挙げられます。しかし、仕上げの段階でカタツムリの肉(粘液)を塗ったとする解説や、土に混ぜたという解説など、その利用方法は引用者によって統一されているものではありません。

   《引用終了》

確かに、多くのネット記載は、柳田よろしく、カタツムリを土のツナギとして搗き込んだとか、或いはカタツムリの粘液を釉薬様に用いたりしたなどということを無批判に断定して解説しているが、これを読むと、どうも科学的な検証は今なお実際には行われていないことが判る。これはどうしても一言、言っておかねばなるまい。海産の粘液を多量に出す貝類が何故に主体足り得なかったかったのか? 何故、カタツムリでないといけなかったのか? 寧ろ、正直私が疑問に思うのはそれは本当に――陸生有肺類のカタツムリ――が主体であったのだろうか? という私の素朴な疑問なのである(そもそも先の引用には『蝸牛や貝肉の粘液をすり塗って形を整え』とある。この『貝肉』とは普通に読むなら、リーフのある沖繩なんである。陸生貝類ではなく海産貝類の肉軟体部と読むのが如何にも自然だと思うが如何?)。しかも多くが隆起珊瑚礁で出来た八重山諸島の島で焼き物を作るとするなら、その使用する土自体に既にして死骸の貝類(この場合は圧倒的に海産貝類となる)の殻が混入するのは、人為的にわざわざ入れ込んだとせずとも、これ、ごく当たり前のことではなかろうか? 私の疑義は不当であろうか? 大方の御叱正を乞うものではある。]

 

 沖繩本島の蝸牛は現在はチンナンであり、絲滿人はこれをジンナンとさへいつて居るが、前には寶島や種子島のごとく、ツンナンといつた者もあるらしく、小野蘭山氏の周到なる蒐集の中には、蝸牛、琉球に於てはツンナンといふ。その形扁螺(シタダミ)の如くにして殼薄く碎け易く黶無し。形扁なるものをヒラツンナンと謂ひ、殼厚なるものをバフツンナンと謂ひ、又殼厚くして尾尖り、斑文あり又圓黶あるものをフクツンナンと謂ふとある。是は傳聞であつて必ずしも精確を信じ難く、殊に同じ條下に、一種尾高くして出毛無きものをユフガホと謂ひ、その特に高きものはマキアゲユフガホと稱すとあるのは、或は沖繩の事實で無いかとも思はれるが、しかも此島に於ては夕顏をツブルと謂ひ、現に伊波普猷君の談に依れば、一種山中に棲息する蝸牛にはツブルと名るものもあるといふことで、少なくとも沖繩人は、ツブルが蝸牛の方言の一つであることだけは知つて居たのである。是から推して考へて行くと、若しツンナンがツグラメの轉訛であり、チンダルが假にシタダミの系統に屬するものとすれば、二つの方言領の境は沖繩本島から逆に北へ戻つて、奄美大島と其屬島との間及び同じ大島々内でも北端から約四分の一ほどの處に、一本の堺線が引かれることになる。之とは反對にツンナンも亦シタダミの方の影響だとすると、今度は又九州主島と種子島との間の海を、堺としなければならぬのであるが、何れにしてもそれは想像のしにくいことである。それで第三の私の意見では、當初全然別ものであつた二つの方言が、爰でも其接觸面に於て一種の複合現象を呈し、兩名相牽制して中間にこの特殊の形態を發生せしめたものと解するのである。他の地方の方言邊境にも、デエボロだのツノンダイシロだのゝ如き、音の複合を生じた例はあるが、多數はカサツブレやマイマイツブロと同じく、語形の一部を保存したものであつた。それが海南の島々に於て、專ら音の調和によつて次々に新たなる語形を生じて居るのは、之を果して訛語のうちに算へてよいかどうか。思ふに其原因の主たるものは、前代の單語が甚だしく簡單であつて、之を後世の童詞に利用せられたものに比べると、遙かに符號化することが容易であつた爲では無いか。或は又新語の出現する機會が乏しくして、いつ迄も意味不明なる古語を守つて居た結果、徐々の音變化に向つて比較的無關心であつたからでは無いか。別の語を以て言ふならば、癖とか誤謬とかいふ個人に屬する理由以外、他に尚必然に訛語を發生せしむべき社會的狀勢があつて、それがちやうど方言の次々に出來る理由と、表裏兩端に相剋するものでは無かつたか。假にさういふ推測が成り立つものとすれば、國語の成長を説かうとする人々は、今少しく細密に是と文藝生活との交渉を、省察して見なければならなかつたのである。

[やぶちゃん注:「絲滿人」現在の沖縄県糸満市糸満(いとまん/琉球語:いちまん)附近を生地とする人々。古くは兼城(かねぐすく)間切(まぎり)糸満村(そん)として同間切の海人(うみんちゅ)の町として漁業が盛んであった。

「小野蘭山」既注。以下の「本草綱目啓蒙」の「蝸牛」の項は、この注のために別に『小野蘭山「本草綱目啓蒙」より「蝸牛」の項』を急遽、電子化しておいたので必ずそちらを先に参照されたい。

「扁螺(シタダミ)」私が拘っているのは問題箇所はこれで、実は次の段落で

「黶」これは原本と異なる。改訂版では「えん」とルビするが、これは「えむ(えん)」で、黒子(ほくろ)のことである。リンク先を見て戴ければ分かるが、原本では「厴」で「フタ」と読みを振っている。これはもう所謂、蔕(へた)、巻き貝の殻口を閉じる板状の蓋(ふた)動物学用語では“operculum”(オペキュラム)のことを指す。陸産貝類中ではガス交換をする有肺類であるカタツムリの仲間(有肺亜綱 Pulmonata の基眼目 Basommatophora 及び柄眼目 Stylommatophora)は蓋を持たない。但し、前鰓類に属する種(例えば腹足綱前鰓亜綱ヤマタニシ上科ヤマタニシ科 Cyclophoridae のヤマタニシ類など)は全て蓋を持つ。従って、ここで蘭山の言っている蝸牛の中には現行の狭義のカタツムリ(有肺類)でない陸生貝類が混入していることは言を俟たない。少なくとも「フタツンナン」は有肺類のそれではなく(現在の生物学上は、であって古典的には「蝸牛」の類いではある)、「ユフガホ」及び「マキアゲユフガホ」というのはその尖塔型の形態から見て、腹足綱有肺目キセルガイ(煙管貝)科 Clausliidae の陸生貝類である。但し、こちらは生物学的にもカタツムリの近縁であるから、古典的な「蝸牛」の類いと見る分には全く科学的にもおかしくはないことにはなる。

「此島に於ては夕顏をツブルと謂ひ、現に伊波普猷君の談に依れば、一種山中に棲息する蝸牛にはツブルと名るものもあるといふ」「夕顏」はスミレ目ウリ科ユウガオ属変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida 或いはその仲間を指す。恐らくは花開く前のユウガオの蕾の形状(尖塔形を成し、一種の腹足類の貝殻によく似る)による相似呼称とも思われる。

「デエボロ」改訂版は『デェボロ』。]

 

 そこで立戻つてもう一度、この九州諸島の弘い地域に、何故に單純古風なるツブラ・ツグラが今も殘り、更に其外側には尚一段と古いシタダミが、どうして又痕跡を留めることになつたかを考へて見る。私の説明は或はまだ概括に失して居るかも知らぬが、これは要するに國民の移動定住の樣式如何が、國語そのものゝ形態の上にも、亦無關係であり得なかつたことを意味するものと思ふ。人が都邑の生活を開始するに及んで、始めて心付かれるのは、安逸の價値とも名くべきものであつた。澤や磯ばたに別れ別れに住む者ならば、主たる休息方法は飽滿か睡眠かの他には無かつたらうが、別にそれ以上の色々なる閑暇の利用法があつたことは、經驗境遇の互ひに異なる人人が集まつて、それを比べて見ることによつて始めて學び得たのである。たとへば眼の樂しみよりは耳の愉快の方が、容易且つ小規模に之を求め得られるといふことなどは、それ迄は殆ど知る機會も無かつた。勢力ある階級の我儘なども、實はこの雜居後の發見によつて、始めて大いにそゝのかされることになつたのである。上代から傳はつた莊嚴なる多くの唱へごと語りごとが、次第に年一度の宗教儀式から引離されて、平時にも之を試みんとする者を生じたのも、つまりは酒杯や歌舞の獨立と同樣に、或は又自ら生産せざるものゝ消費と同樣に、何れも都邑群住の花やかなる影響であつたと言ひ得る。それが恐らくは文學の濫觴であり、又諧謔がその信仰上の意義を失うて、凡人平常の退屈を慰めるに至つた原因かとも思ふ。言語を變化あり精彩ある耳の食物たらしめた事業の如きも、其以前には只少數專門の徒の管理する所であつた故に、勢ひ其效果の大を期し得なかつたのであるが、一旦異郷の者が相往來し、又互ひに自ら紹介しなければならぬことになると、其技藝は是が爲に解放せられ、且つ大に進化するの必要があつたのである。是が現代に持續した都府の魅力、所謂都會熟の隱れたる病原であつて、九州奧羽は即ち稍その中心から遠かつたのである。獨り「京わらんべ」のみが都では輕佻であつたのでは無い。新を喜び古きに倦む氣風、機智と練習とを以て物言ひの變化を促さうとする努力が、一般に繁華の土地にのみ尖鋭であつた爲に、其反面から偏鄙と名のつくやうな地方には、多くの古いものが保存せられたのである。單に上世の民族遷移の道筋であつたが故に、袋から物のこぼれる樣に、ほろほろと落散つて居るものと解するのは誤りであらう。若しそれだけの原因からならば、鎭西に稀に皇祖東征の代の單語が、遺留して居た理由にはならうが、それが數十世紀を持ちこたへて居た説明としては不十分である。ましてや鎌倉室町乃至は江戸初期の新語が、分布して居る不可思議を釋くことは到底出來ない。しかも一方には東北の邊土の如く、まだ一度も我々の中堅が足を踏み入れなかつた地域にも、同じ樣な痕跡は見られるのである。是を解説する方法は恐らくは一つしかあるまい。一言で言ふならば、ツダラメ・タマクラでも差支無しと思ふ者ばかり多く住み、それを古臭いとか分らぬとか言つて、嘲り又は嗾かさうとする者が、滅多に遣つても來ず、來ても新らしい語を採用させる途を知らなかつたのである。小兒は勿論大人よりも遙かに、外部の慫慂には敏感であつたらうが、彼等の活躍は通例模倣の外には出でなかつた。群の力がその周圍を押へて居れば、さまで頻繁なる新語の感化を受けずにも居られたものらしい。だから街道の交錯した中部日本の平地のみが、殊に方言の烈しい混亂を經驗し、千船百船の寄り湊ふ海の港などは、案外に在來の統一を保ち得たのであつた。併し是とても勿論程度の問題で、如何に律義にして氣働きの無い村の人たちでも、新たなる事物には新らしい言葉を求めた如く、それ相應に各自の生活の要不要に從つて、變へてよいものは徐々として變へて來た。たゞ其動機が遙かに他の一方のものよりも著實であつて、單に感覺によつて氣輕なる取捨をすることが出來なかつた。それが中央からの距離と比例して、外へ行くほどづゝ單語の壽命が長かつた理由であつて、さういふ邊土の言葉とても、亦決して單に古いから殘つたわけでは無いと思ふ。

[やぶちゃん注:「都邑」「といふ(とゆう)」はここでは都会の意。

「鎭西」九州の古称。

「中堅」改訂版では『中央人』とする。この方が分かり易い。

「嗾かさうとする者」改訂版では『改めさせようとする者』とする。この方が分かり易い。

「千船百船」改訂版では『ちふねももふね』とルビする。

「湊ふ」「つどふ」(集ふ)と訓じていることが改訂版で判る。改訂版は漢字が「集」に変更されている。]

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