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2016/02/28

生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(5) 四 死の必要

     四 死の必要

 

 食ふのは産まんがためで、産むのは更に多く食はんがためであると前にいづれかの章で述べたが、生物の動作を見ると、無意識ながら徹頭徹尾自己の種族を維持し發展させんがめに働いて居る。食ふのは他種族の物質を自己の體内に取り入れ、これを同化して自己の物質とすること故、直接に自己の種族をそれだけ膨脹せしめたことに當る。また産めば自己の種族の個體の數が殖え、これが打ち揃うて食へば益々他種族の物質を取つて自己の種族に併合することが出來る。即ち食慾も色慾もその根抵は無意識の種族發展慾にあるが、數多くの種族が相竝んで各々膨脹しようと努めるから、互に壓し合ひ攻め合ふことを免れず、少しでも力の強い方は膨れて他を壓迫し、少しでも弱い方は他に壓迫せられて縮小せざるを得ぬ。そしてその際壽命の長さも種族の消長に關係し、最も適當な長さの壽命を有する種族でなければ忽ち滅び失せねばならぬ運命に陷ることは、ほゞ次の如き理由による。

[やぶちゃん注:「食ふのは産まんがためで、産むのは更に多く食はんがためであると前にいづれかの章で述べた」例えば「第九章 生殖の方法」の序の部分を参照。]

 

 抑々動物個體を成す細胞は發生の進むに隨うてその間に分業が行はれ、各種特別の任務を分擔して專門の仕事にのみ適するやうになると、始め持つて居た再生の力が次第に減ずるもので、終には新な細胞を生ずる力が全くなくなる。例へば神經細胞とか赤血球とかいふものになつてしまへばその分撞の仕事は十分に務めるが、更に分裂して新な細胞となることは出來ぬ。換言すれば、細胞にも年齡があり、老若の別があつて、專門の仕事を務めた細胞は既に老細胞と見倣さねばならぬ。個體は細胞の集まりであるから、古くなるに隨つて老細胞の數の割合が自然多くなり、各部の働も鈍くなり、再生力も減ずることを免れぬ。身體内で絶えず新な細胞が出來ては居るが、その割合は老若によつて非常に違ひ、胎兒の發生中の如きは實に盛に新細胞が出來るに反し、老年になると古い細胞が長く留まつて働いて居る。それ故若いときには傷口なども速に癒えるが、老年になるとなかなか手間がかかる。また物を覺えるのでも若いときには容易く出來るが、年を取つた後はとても難かしい。自轉車の稽古でも大人には八囘も教へぬと覺えぬ所を八歳の子供ならば僅に三囘で濟む。「八十の手習」といふ諺はあるが、その半分の四十を過ぎては外國語の學習の如きは殆ど絶望でゐる。かやうな次第で、老いたる個體は壯年時代の個體に比べて生活上種々劣つた所が生じ、老の積るに隨ひ、益々著しく劣るやうになるから、一種族の中に老いたる個體の多くあることは他種族と對抗するに當つては確に不得策である。假に敵と味方との個體の員数が相均しいとすれば、老いたる個體を多く有する組の方が敗ける心配が多い。壽命が短過ぎて種族維持の見込みの立たぬ間に親が死ぬやうでは、その種族は勿論生存が出來ぬが、また壽命が長きに過ぎて種族維持の見込みが確に附いた後に、老者が長く生存して若い者の占むべき坐席を塞ぐやうでも、他の種族との競爭に勝てぬから、昔から長い間の種族間の競爭の結果、丁度適當の長さの壽命を有するもののみが生き殘り、各種類に種族生存上最も有利な長さの壽命が自然に定まつたのであらう。

[やぶちゃん注:「八十の手習」この諺は晩学の自己謙遜の表現としてしばしば用いられるものの、元来は、学問や習い事をするのに年齢の早い遅いなどはない、晩年に始めても遅過ぎるということなどは如何なる対象に対しても、ない、という意を含むものである。年齢の「八十」は「六十」「七十」でも構わないが、現行の日本人の寿命の長さから考えると、「五十」はちょっと不自然で(使う人はいる)、「四十」以下では誤使用の嫌いがある。但し、丘先生の言うように、「手習い」を文字通りの、修得時期が若いほど有効であるとされる母語でない外国の言語の「語学」の意で採ると、自己卑下と実際の習得の困難さから見れば「四十の手習」はアリ、という気は個人的にはする。]

 

 非業の死を免れた個體も適當な時期に達すれば必ず死ぬことが、その種族の維持繼續のために必要であるが、今まで健康なものが即刻死ぬといふことは困難であるから、死ぬにはまづ以て身體に少しづつ變化が起り、變化が積つて遂に死に終るのが常である。尤もこの變化が起り始めてから死までの時の長さは、動物の種類によつて非常に違ひ、短いものは僅に數秒に過ぎず、長いものは二十年もかかる。例へば蜜蜂の雄が死ぬのは交尾の將に終らうとする瞬間で、雌に交接器の根元を食ひ切られ、雌の體から離れて地上に落ちる頃には已に死んで居る。これに反して人間の如きは四十歳か四十五歳以上になると、僅かづつ變化が始まり次第に變化が著しく進んで七十歳位になつて死んでしまふ。かく緩々と變化の進む動物に就いてその變化の模樣を詳細に調べて見ると、身體の諸部に種々の異なつた變化の起ることが知れるが、これに基づいて死の原因に關するさまざまの學説が唱へられた。老衰は身體に一定の變化が起つて終に死の轉歸を取るもの故、昔はこれを以て一種の病氣と見倣したこともあるが、一種の病氣と見倣す以上は何らかの手段によつてこれを治療することが出來る筈と考へ、不老不死の方法の研究に苦心する人もあつた。また老衰を以て一種の慢性中毒と見倣し、もしその毒を消すことが出來たならば老衰は避けられると論じた人もある。一時世間に評判の高かつたメッチニコフの新養生法の如きはその一例であるが、その要點を摘んでいふと、人間の大腸の内には澤山の黴菌が居て、その生ずる毒のために動脈の壁が硬くなり彈力を失ひなどして老衰の現象が起り、それが積つて終に死ぬのである。それ故何らかの方法で腸内の黴菌の繁殖を防ぎさへすれば老衰は避けられる。黴菌の發生を防ぐには乳酸を用ゐるのが最も宜しいが、食物としては牛乳をブルガリヤ菌で乳酸化させたヨーグルトが一番その目的に適うて居る。ヨーグルトさへ食つて居れば老衰する氣遣ひはないとの説で、議論としては實に筒單明瞭なものである。その他老衰は身體内に石灰が溜り過ぎるために起るとか、血管壁の硬化のために起るとか、または内分泌の狀態の變化のために起るとか、さまざまの説があつていづれも有名な醫學者によつて熱心に唱へられて居るが、著者の考によると、これらは皆原因と結果とを轉倒して居るのでゐつて、動脈の硬くなるのも、組織が彈力を失ふのも、石灰分が溜るのも、決して老衰を起す原因ではなく、寧ろ老衰のために生ずる結果と見倣さねばならぬ。前にも遠べた通り、各種動物の壽命はその種族維持のために長過ぎず短過ぎず丁度最も有利な所に定まつて居るが、これは古代から今日までの長い間の種族間の競爭の結果として生じたことでその根抵は各個體を形成する細胞の原形質の深い處に潜んで居るから、原形質までを造り直すことが出來ぬ間は、壽命の長さを隨意に延長したり短縮したりすることは難かしからう。蠶の蛾が産卵後一兩日で死ぬのも、人間が末の子供の生長し終る頃に壽命の盡きるのも、蠶の體の長さが約七六糎を超えず、人間の身長が平均一・六米位に止まるのと同じく、何千萬年かの間に自然に定まつた性質である。そして壽命の盡きたときに急に死ぬ種類では、恰も急性の心臟麻痺か卒中かで死ぬ如くに特に老衰と稱すべき時期がないが、生殖後死ぬまでに手間の取れる動物ではその間に漸々體質が變化して、一歩一歩死に近づいて行くから、老衰の狀態が著しく顯れる。即ち組織の再生力が次第に減じ、古い細胞が多くなれば、各組織の働も鈍くなつて、或は彈力がなくなるとか、硬く脆くなるとか、或は石灰が溜まるとか分泌が十分でなくなるとか、その他なほさまざまの變化が明に見える。廣く生物界を見渡して諸種の異なつた生物を比較することを忘れ、たゞ人間のみを材料として老衰期に起る身體上の變化を調べると、とかく或る一種の變化を以て老衰の唯一の原因と見倣し、それさへ防げば老衰は避け得られるものの如くに思ひ誤る傾がある。著者は或るとき五歳ばかりの幼兒を連れて、散歩の途中に半鐘を指し「あれは何をするものか」と尋ねた所が、「あれを敲くと火事が始まるのでせう」と答へたので大に笑つたことがあるが、動脈の硬化を以て老衰の原因と見倣すことは幾分かこの幼兒の答に似て居るやうに思はれる。前に遠べたメッチニコフの長壽論の如きも、一部づつに離せば恐らく皆正しからう。即ち大腸の内に多くの黴菌が居ることも、乳酸によつて黴菌の發生を止め得ることも、年を取れば動脈壁の硬化することも。皆決して間違ではなからうが、これを繫ぎ合せてヨーグルトさへ食つて居れば老衰が避けられる如くに論ずるのは、最も大事な所で原因と結果とを轉倒して居るから、半鐘さへ敲かねば火事は起らぬ如くに考へるのと同樣な誤に陷つて居るのである。

[やぶちゃん注:現在の細胞遺伝学では真核生物の染色体の末端部にあって、見た目、染色体末端を保護するキャップ状構造の箇所を「テロメア(telomere)」、「末端小粒」と呼んでいる(ギリシャ語の「末端」の意の「telos」+「部分」の意の「meros」の合成語)が、実はこの部分には細胞の分裂回数を制御する働きがあるらしい。体細胞組織から取り出した細胞には分裂回数に一定の制限(「ヘイフリック限界」)があり、それを越えると細胞は増殖を停止し、その状態を生物の「個体老化」に対して「細胞老化」と呼称するようになったが、後の研究によって細胞老化状態にある細胞では、そのテロメア部分が短くなっていることが観察されている。これから、テロメアの長さが細胞の分裂回数を制限していると考えられた。後に不死細胞である癌細胞のテロメアが有意に短いことなどが分かり、テロメアとテロメアの特異的反復配列を伸長させる酵素テロメラーゼ(telomerase)の研究からヒトは遂に不老不死の禁断の領域探究に足を踏み入れてしまった。マッドな科学者の癌への興味は実は最早、制圧されることにあるのではなく、不老不死を手に入れることにあるとも言えるのだと私は思っている。

「蜜蜂の雄が死ぬのは交尾の將に終らうとする瞬間で、雌に交接器の根元を食ひ切られ、雌の體から離れて地上に落ちる頃には已に死んで居る」「四 命を捨てる親」で既注。

「緩々」は「くわんくわん(かんかん)」と音読みも出来、「ゆるゆる」と訓でも読め、孰れも「ゆっくりしたさま」である。「ゆるゆる」と訓じておく。

「メッチニコフ」ロシアの微生物学者で動物学者イリヤ・イリイチ・メチニコフ(Ilya Ilyich MechnikovИлья Ильич Мечников 一八四五年~一九一六年)は、特に白血球の食菌作用の研究で一九〇八年のノーベル生理学・医学賞を受賞した(パウル・エールリヒと共同受賞)ことで知られる。参照したウィキの「イリヤ・メチニコフ」によれば、『ミジンコやナマコの幼生の研究から、それらの動物の体内に、体外から侵入した異物を取り込み、消化する細胞があることを発見した。たとえば、ミジンコの体内に侵入して増殖し、ミジンコを殺してしまう酵母の』一属(菌界子嚢菌門メチニコビア属Metschnikowia)が『いるが、彼は、場合によっては侵入を受けたミジンコが死なず、侵入した胞子がそこへやってきた細胞に取り込まれ、消化されることを発見した。そこで、彼は、この細胞に食細胞と命名し、この細胞の働きが、動物が病気にならないためのしくみ、つまり生体防御のしくみを支えるものだと判断し』、「食細胞学説」を提唱した。白血球などの動物体内で組織間隙を遊走して食作用をもつ細胞の総称である「食細胞」、「phagocyte」(ファーゴサイト)『(ギリシア語のphagein=「食べる」とkytoscell「細胞」から)や』、白血球の一種であり、生体内をアメーバ様運動する遊走性の食細胞で特に外傷や炎症の際に活発に機能する「macrophage」(マクロファージ)『はメチニコフに由来する』。『当時、免疫は専ら血清中の液性因子(抗体や補体)によるもの(=液性免疫)だけと考えられていたが、メチニコフの提唱した学説はこれとは異なる、血球細胞による免疫機構(=細胞性免疫)の存在を支持するものであった』。『また晩年には老化の原因に関する研究から、大腸内の細菌が作り出す腐敗物質こそが老化の原因であるとする自家中毒説を提唱した。ブルガリア旅行中の見聞からヨーグルトが長寿に有用であるという説を唱え、ヨーロッパにヨーグルトが普及するきっかけを作ったことでも知られる(ブルガリアのヨーグルトも参照)。自身もヨーグルトを大量に摂取し、大腸を乳酸菌で満たして老化の原因である大腸菌を駆逐しようと努めた』。『彼は食細胞の働きを生体防御の働きと見て、そのために液性免疫の役割を否定した。そのために、従来の研究者たちと対立し、激しい論争が行われたと伝えられる。ちなみに、この』二つの『働きの関係は、最近まで明らかにならなかった。近年まで、教科書には生体防御と言えば、白血球によるものと体液性免疫によるものが、ほとんど無関係に、並列的に記述されていた。この両者が密接に関係を持って一つの生体防御のしくみをなしていることがわかったのは、個々のリンパ球の働きなどが明らかになってからのことである』。『彼は死の寸前に、ヨーグルトを食べたことの結果が自分の体にどのように現れたかを調べるよう、友人に依頼したといわれる。「腸のあたりだと思うんだ」が最後の言葉であったと伝えられる。現在ではヨーグルトを経口で摂取しても、胃において乳酸菌は、ほとんど死滅し、腸には到達しない事が判明している(ただし死滅した加熱死菌体も疾病予防効果などを有するので、健康上の効果は存在する)』。更に若き日の私の愛読書であったレフ・『トルストイの小説「イワン・イリイッチの死」のモデルとされる司法官は彼の長兄』であるとある。

「蠶の體の長さが約七六糎を超えず」実は底本では「糎」(センチメートル)ではなく、「粍」(ミリメートル)となっているが、人間が家畜として改良した(品種としては凡そ四百種がいるが、カイコガには野生種はいない)鱗翅(チョウ)目カイコガ科カイコガ亜科カイコガ属カイコガ Bombyx mori の蚕(かいこ)の幼虫の大きさとしては明らかにおかしい。講談社学術文庫版では『蚕(かいこ)の体の長さが約二寸(すん)五分(ぶ)(約七・五センチメートル)』となっているので(括弧内は文庫版編者に拠る割注。正確には七センチ五十七・五七五七ミリメートル)。誤字と断じて、特異的に本文を訂した。調べてみると、

孵化した直後のカイコガの幼虫は二~三ミリメートル

で「蟻蚕(ぎさん)」とも呼び、これが

一齢幼虫として五ミリメートル強(約三日間)

となり、その後、

二齢で八ミリメートル~一センチメートル強

となって休眠し、脱皮(約三日間)

を行い、その後

三齢で一・四センチメートルから二・五センチメートル弱(約四日間)

となって

四齢で二・五センチメートル強から一気に四・五センチメートルを越え(約六日間)

て、最終齢の、

五齢では五・五センチメートルから一度八・五センチメートルをも越える(約八日間)

ものの、

熟蚕(じゅくさん:摂餌をしなくなり、少し小さくなる。糸を吐き始める直前の状態。約二日)になると七センチメートル弱

になる。七センチメートル越えするのは五齢幼虫の後期の僅か数日だけのことで、熟蚕は七センチメートル以下に縮んでしまうから丘先生の謂いは間違っていない。以上は「財団法人 大日本蚕糸会」の公式サイト「カイコからのおくりもの」のカイ育てよう」にある幼虫の各齢でのスケールを視認して測ったものである。

「人間の身長が平均一・六米位に止まる」ヒト(Homo sapiens Linnaeus, 1758)全体の現在の平均身長はで百六十五センチメートルほどで、はそれよりおよそ百五十三・四五センチメートル。]

 

 各種生物の寿命はほゞその種族の維持繼續に最も有利な長さに定まつてあるとすれば、これを更に延すことに努力する必要はない。隨つて壽命を延し得るとの學説を聞いてこれを歡迎することは大きな間違である。まだ壽命の終らぬ年齡の者が非業の死を遂げることは出來るだけ避ける工夫を廻らさねばならぬが、既に壽命を全うした者がその後なほ長く生きて居ることは種族のために損はあつても益はないから、決して願はしいことでない。種族發展の上からいへば、今日必要なことは、已に老いたる老人の命を更に長く延すことではなく、他種族との競爭場裡に立つて勝つ見込みのある有望な後繼者を造るにある。六十歳で已に老耄する人もあれば八十歳になつても矍鑠たる人もあるから、一概には論ぜられぬが、自然の壽命を超えれば身體も精神も著しく衰へるのが常であつて、到底一人前の働は出來ぬ。書畫などにも年齡の書いてあるのは子供か老人に限り、八歳童とか七十八翁などと記してあるが、三十歳・四十歳の人に年齡を書く者は決してない。即ち老人は子供と同じく年に似合はぬ所を誇る積りであらうが、これが已に老耄して居る證據である。人間は頗る大きな團體を造つて生活するから、その中に老耄者が多少混じて居ても、そのために不利益を蒙ることが明に見えぬが、他の動物では種族の生存上かゝることは決して許されぬ。されば一般に通じていへば種族の維持發展の上には、各個體がその死ぬべき適當の時期に必ず死ぬといふことが最も必要である。

[やぶちゃん注:この子どもと老人の年齢揮毫の観点、考えてみたこともなかったが、目から鱗!]

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