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2016/02/16

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(九)

     九

 

 神に祀られた古今の英雄の中でも、殆ど片目を傷ついた爲はかりに祭られるやうになつたかと迄考へられるのは、鎌倉權五郎景政と云ふ武士である。この人の猛勇は自分としてもさらさら疑つては居らぬが、唯その事蹟として生年僅に十六歳の時、鳥海彌三郎なる者に戰場に於て左の目を射貫かれ、其矢も拔かぬうちに答(たう)の矢を射返して相手を殺したことと、之に關聯して友人が顏に足を掛けて目の矢を拔こうとしたのを、怒つたと云ふ話が遺つて居るだけであるのに、九州の南の端から始まつて出羽の奧まで、二所三所づゝこの人を祀つた社の無い國が無い程なのは、全體どうしたわけであらうか。

[やぶちゃん注:「鎌倉權五郎景政」私の大好きな武将である。しかしここはぐっと堪えて取り敢えず、私の――『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社――(鎌倉は坂ノ下にある彼を祀った神社――をリンクさせておこう。

「十六歳」現在鎌倉景政(景正)生没年は不詳であり、これは「奥州後三年記」創作である。

「鳥海彌三郎」以下は「奥州後三年記」の記載に基づくもの。引いて見よう。佐藤弘弥氏の「奥州後三年記」(底本は仙台叢書第一巻奥羽軍記所収の寛文二年印本)に一部に手を加えさせて戴いた。

   *

相模の國の住人、鎌倉權五郎景正といふ者あり、先祖より聞えたかき、つはものなり。年わづかに十六歳にして、大軍の前にありて、命をすゝてたゝかふ間に、征矢(そた)にて右の目を射させつ。首を射つらぬきて。かぶとの鉢付の板に射付られぬ。矢をおりかけて當(たう)の矢を射て敵を射とりつ。さてのち、しりぞき歸りて、かぶとをぬぎて、景正、「手負たり。」とてのけさまにふしぬ。同國のつはもの、三浦の平太郎爲次といふものあり。これも聞えたかき者なり。つらぬきをはきながら、景正が顏をふまへて矢をぬかんとす。景正、ふしながら刀をぬきて、爲次がくさずりを、とらへて、あげさまにつかんとす。爲次、おどろきて、「こはいかに。などかくはするぞ。」といふ。景正がいふよう、「弓箭(きうぜん)にあたりて死するは、つはものゝのぞむところなり。いかでか、生ながら足にて、つらをふまるゝ事はあらん。しかじ、汝をかたきとして、われ、爰にて死なん。」といふ。為次舌をまきていふ事なし。膝をかゝめ頭ををさへて矢をぬきつ。おほくの人、是を見聞、景正がかうみやう、いよゝならびなし。

   *

さて、この「鳥海弥三郎」(てうかいやさぶらう(ちょうかいやさぶろう)」という武士、これがまあ、なんと、あの阿部貞任の弟阿部宗任の弟の別名ともされるのである。彼は宮城県亘理郡の鳥海の浦が生地と比定もされ、それに因んで「鳥海弥三郎宗任」と称しもしたからである(但し、めんどくさいことに矢が刺さったのは鳥海の方で、景政を射殺したとする逆伝承も残るので注意が必要)。文中の「つらぬき」とは毛皮で作った乗馬・狩猟用の浅沓(あさぐつ)で、縁に緒を貫き通して足の甲の上で結ぶようにしたもの。即ち、土足のままで景政の顔を踏んで矢を抜こうとしたのである。]

 其は猶後の問題として、自分が先づ疑ふのは片眼の怪我は神の在世中の出來事なりとする斷定である。是は明らかにすべての神は元皆人であつたと云ふ説から出發して居るが、大いに危ないものである。大蛇を祀つた鳥を祀つたと云ふのは假に無學者どもの造説であるとしても、然らば淵を家とし森を住居としたまふ水神山神は如何か。神代卷の大昔からすでに神の名を以て仰がれて御座つた方々に、其樣な慌だしい人間生活が曾て有つたと見られるか。少なくも後世の者に其樣な事を想像させる餘地が有るか。殊に一柱にして數十の村々に祭られたまふ御神が、只一社に於てのみこの事を傳へられたまふは何と説明するか。其説明ができぬものだから、話の全體を併せて總て虛誕だとい言ひたがる。困つたものである。

 自分等の見る所は至つて簡單である。是はもと祭の折に或一人を定めて神主とし、神の名代として祭の禮を享けさせた時、其人間に就て起つた出來事に他ならぬ。生(なま)の魚鳥や野菜などの、我々風情ですら臺所へ廻して半日も待たねば口にし能はぬやうな品物を、高机に載せてお薦め申すごとき新式の祭典ばかりを見た人には分るまいが、昔は御饌と言へば飯も汁も皆調理がしてあつた。今とても昔風を保ち得る田舍の社ではさうして居る。それを潔齋した淸い童男又は童女が、其日ばかり神になつて神として之を食したのである。尸童(よりまし)を神と見る信仰の堅かつた時代には、同時に色々の願いや問を申して、其口から神意を聞いたのである。神樣が片目を潰されたと云ふ事實は、其御代理の身上にあつたことゝ思ふ。

[やぶちゃん注:遂に柳田國男の「一つ目」の、すこぶる印象的な民俗学的象徴的意義の核心に入る部分である。

「高机」「たかつくえ/たかづくえ」と訓じているか。神道で神饌などを捧げるための八足(はっそく)などと称するテーブル状の高い台を指すのであろう。

「尸童(よりまし)」平凡社「世界大百科事典」には、「依坐」とも書く。『神霊が童子によりついた場合をいう。神霊が樹木や石などによりついたときには依代(よりしろ)という。神霊ではなく死霊がついた場合は尸者(ものまさ)と呼ばれる。神の意志は清純な童子の口をかりて託宣(たくせん)として示される』とあり、『尸は「かたしろ(形代)」。祖先を祭るとき、神霊のかわりに立って祭りを受ける者。これには児童をもってあてられたので尸童と書く』と小学館の「日本大百科全書」にはある。即ち、この「尸」は原義の死骸の謂いではなく、「神の身代わり」の謂いの、極めて特異的限定的意味である。

 第二に問題とすべき點は神の御怪我と云ふことである。神又は行末は神と祀られようと云ふ方々に、此の如き粗相の屢々有り得べからざるは勿論、一日一時の間なりとも身に神の憑(かゝ)つて居る人間にして、到底怪我などが有らうとは考へられぬ。是は未來を洞察したまふ神の御力が曇つたものと解せられて、尊信の念を根底より覆へすべき大事件であるが故に、さう推定するばかりでは無く、偶然の出來事にしては餘りに同じ例が國々に數ある所から先づ疑ふのである。

[やぶちゃん注:「神の憑(かゝ)つて居る」「かゝ」の読みはママ。全集版では『憑(よ)つて』と振られてある。]

 甲地から乙地へ移し又は模倣した證跡が無くして、同じ例が滿々に有れば風習と見るより外は無い。風習は中絶して少しく年を經れば動機が不明になる。原因が不明で事柄のみの記憶が殘れば、時代相應智力相應の説明が案出せられるのは當然である。

 そんなら如何なる風習が昔有つて、其が此の如き奇拔にしてしかも普通なる傳説を生ずるに至つたかと云ふと、是も無造作に失する斷定と評せられるか知らぬが、自分などは或時代迄、祭の日に選ばれて神主となる者が、特に其爲に片目を傷け潰される定めであつた爲で、口碑は即ち其痕跡であらうと思つて居る。

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