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2016/02/16

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(七)

     七

 

 是が米麥の類であつたらそれこそ大事(おほごと)であるが、幸ひにも多くは其以外の農作物で、物堅い氏子の家で今以て栽培を禁じて居るものが各地にある。其理由を聞くと、單に鎭守樣がお嫌ひなさるからと云ふばかりで、どうしてお嫌ひになつたかは忘れてしまつたものも隨分多いが、偶々其わけは斯う斯うと言ふのを聞けば、即ち皆言合せたやうな御眼の怪我である。

 東上總では一帶に小高姓の家で大根を作らなかつたと、房總志料と云ふ書に見えて居り又同續編には夷隅(いすみ)郡小高村の小高明神の氏子、並に同郡東小高村の鎭守大明神の氏子の者悉く大根を作らぬとある。此風習は今日までもずつと繼續して居ると云ふことで、内田醫學士の著はされた南總之俚俗に依れば、其理由と云ふのがやはり略同じであつた。昔小高區の鎭守樣は大根に躓いて轉んで、茶の木で眼を突かれたから、其故に部落中一戸も殘らず、大根は作らぬのみならず、稀に道側に自生して居るものを見付けても大騷ぎで、村中集まつて御祈禱をする位であると書いてある。

[やぶちゃん注:「小高」ここでは後の地名から、取り敢えず「おだか」と訓じておく。

「房總志料」江戸中期の儒者で上総国夷隅郡長者町(旗本領。現在のいすみ市長者町)生まれの中村国香(くにか 宝永六(一七一〇)年~明和六(一七六九)年)が安房・上総の名所・旧跡・伝承を調べ上げた地誌。

「小高村」現在のいすみ市岬町(みさきちょう)東小高(ひがしおだか)。

「小高明神」同地には高市皇子(たけちのみこ)を祭神とする東小高神社現存するが、これが同一のものかどうかは確認出来なかった。識者の御教授を乞う。

「内田醫學士の著はされた南總之俚俗」柳田國男の「日本の昔話」(昭和五(一九三〇)年刊)の上総長生郡の「竃神の起り」について、samatsutei氏のブログ「瑣事加減」の「柳田國男『日本の昔話』の文庫本(09)」に本話の採集元文献として『「南総の俚俗」内田邦彦』とあるのがそれであろう。国立国会図書館の書誌からは、当該書が大正四(一九一五)年桜雪書屋刊であること、内田邦彦なる人物は清楓と号すること、明治一四(一八八一)年生まれで昭和四二(一九六七)年没であること、他に「津軽口碑集」「津軽口碑集」などの民俗資料を著わしていることしか判らなかった。]

 信州の胡麻と胡瓜の類例から推せば、第一にけしからぬのは茶の木で無ければならぬのに、上總では專ら大根の方を責めて居るのはどうしたものであるか。一見して理窟が通らぬやうに思はれるが、そこが又自分等の眼を着ける所で、一眼の恠の同時に一足であつた如く、眼の怪我には又足の失敗を伴なふと云ふ點に、何か共通の理由が潛んで居るのかも知れぬとして考へて見たいのである。

 里内勝治郎氏の通信に依れば、近江栗太郡笠縫村では一村今以て麻を植ゑず、植ゑても生育せぬ。其仔細は大昔この地に二柱の神降臨ありし時、附近に麻があつて神之を以て眼を傷つけたまふ。其よりして此郡の天神宮の御神體も、今に御眼より涙を御出し成されると云ふ。是は甲の神が眼を痛めて乙の神の眼から涙が出た例であるか、はた又神御自身の御怪我が、御靈代たる御像に移つたと云ふのか、今一應尋ねて見なければ精確でない。

[やぶちゃん注:「里内勝治郎」滋賀県南西部の栗太(くりた)郡手原(てはら)村(現在の栗東(りっとう)市手原)で呉服商を営んでいた独学の郷土史家二代目里内勝治郎(明治七(一八七四)年~昭和三一(一九五六)年)。郷土資料の外、江戸の絵図・地球儀・世界図・村地図などの膨大なコレクションを私設の里村文庫として公開していた(明治四一(一九〇八)年開館・昭和二一(一九四六)年閉館)その約二万点に及ぶ資料は現在、栗東歴史民族資料館に収蔵されてある(以上は個人ブログ「ケペル先生のブログ」の「里内勝治郎」を参照した。リンク先には肖像写真や里村文庫の旧写真もあり、必見)。

「笠縫村」「かさぬいむら」と読む。現在の草津市中心部の北西、琵琶湖の沿岸、葉山川の河口域に当たる上笠地区か。

「此郡の天神宮」同定出来ず。識者の御教授を乞う。

「御靈代」「みたましろ」。]

 美濃加茂郡大田町では、五月五日の日に綜(ちまき)を作つてはならぬ風習がある。其由來と云ふのは、今は郷社加茂縣主神社と稱する加茂樣が、大昔騎馬で戰に行かれた時、過つて馬から落ちて、薄の葉で片目を怪我なされた。粽は薄の葉で包む物であるから、それで今に綜をこしらえぬのであると云ふ。怪我をなされた神樣が馬に乘つて居られた一例である。戰といふのは騎馬とあるのから出た話と見るの外は無い。是は林魁一君の報告である。

[やぶちゃん注:「美濃加茂郡大田町」現在の岐阜県美濃加茂市太田町。高山本線美濃太田駅のある木曽川右岸。

「郷社加茂縣主神社」「縣主」(あがたぬし)と読む。旧加茂郡太田町、現在の岐阜県美濃加茂市西町にある神社。彦坐王(ひこいますのみこ/ひこいますのおう:開化天皇の皇子で律令制以前の加茂郡には朝廷の直轄地(県(あがた))が置かれて鴨(かも)県主が治めていたと考えられているが、彦坐王はその祖先に当たり、祈雨に霊験があるとされる。公にはあまり事蹟は伝わっていない)を祭神とする。ここに馬が出るが、参照したウィキ縣主神社美濃加茂市によれば、曾ては九月九日を『例祭日とし、神輿渡御や競馬が行われる盛大なものであった』とある。

「林魁一」(はやし かいち 明治八(一八七五)年~昭和三六(一九六一)年)。岐阜出身の考古学者。岐阜中学卒。坪井正五郎の指導で研究を始め、明治三十年代の初め頃から郷里の美濃東部や飛騨地方を調査して論文を発表、有孔石器・御物石器(ぎょぶつせっき/ごぶつせっき:繩文時代の磨製石器であるが、宮中に献上されたためにこの名を持つ。太い棒状であるが中央よりやや片方寄りに縊れた部分があってそこから細くなっており、全体は鉈のような形状を成す。また、文様も施されている)を発見したことで知られる。著作に「美濃国弥生式土器図集」。]

 遙に懸け離れて伯耆日野郡の印賀(いんが)村では、同じ理由を以て全村竹を栽ゑ無いさうだ。原田翁輔氏の話に、昔此村の樂福(さきふく)神社の祭神、竹で眼を突いて一眼を失われたと云ふ言傳へで、其爲に竹は一切國境を越えて、出雲能義郡の山村から、供給を仰ぐことになつて居ると云ふことである。

[やぶちゃん注:「伯耆日野郡の印賀(いんが)村」現在の鳥取県南西の内陸部にある日野郡日南町(にちなんちょう)印賀。日南町でも最北部にある。曾ては印賀鋼(鉄)の生産地として知られた。

「原田翁輔」不詳。

「樂福(さきふく)神社」少なくとも現行の名称では「樂樂福(さきふく)神社」が正しい。同神社公式サイトの由緒略記によれば、日南町宮内に鎮座(最近まで日野川を隔てて対岸に(西)樂樂福神社が鎮座し、本社と共に二社一対の祭祀が続けられていたが、合祀されて一社となっている)。人皇第七代孝霊天皇を主神とし、皇后・后妃・皇子一族を祀る。創建は千百年以上の昔と伝わる屈指の古社で、古くは鉄生産の守護神として崇敬された日野郡開拓鎮護の総氏神。孝霊天皇が当地を巡幸された折に鬼林山に蟠踞する邪鬼が里人を悩ます由を聞き、一族を従えてその邪鬼を退治したという伝説が伝わる。「中海・宍道湖・大山圏域観光連携事業推進協議会」の公式サイト内の「山陰観光ガイド」の樂樂福神社に『日野郡三楽楽福神社のひとつで、別に伯耆町の楽々福神社、日南町西楽楽福神社がある。孝霊天皇が長年住民を苦しめた鬼退治に成功したという縁起は共通するが、この地域には、祭神が竹で目を突き一眼を失ったので「この土地では竹を植えない」、また御神体が朴(ほう)の木で出来ていることから「朴歯の下駄は履いてはならない」との言い伝えが今もなお残されている』とこの「竹」の話が出る。

「出雲能義郡」「のぎぐん」。現在の島根県安来市。鳥取県日野郡の北に接している。]

 この最後の例で注意すべきことは、樂福神社は日野郡では殆ど各村に祀られたまふ社でしかも印賀村のが其本社と云ふのでは無い。加茂でも天神でも同じことかも知れぬが、一の神樣が五箇所も八箇所にも勸請せられてある場合に、其内の一社でのみ眼を怪我せられたと云ふのは、どう云ふ結果になるのであらうか。

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