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2016/02/04

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (36) 明治の江戸近郊の景勝その他

 日本人は睡ている人を起すのに、興味町深い方法を用いる。大声を出したり、荒々しく揺すぶったりする代りに、睡眠中の人の肩を最もやさしく叩き、次第に力を増して行って、ついには力強く引っぱたく。だから睡っていた人は、いささかも衝撃を感じることなしに、一向吃驚しないで目を覚ます。病院の看護婦その他は、この方法を採用すべきである。

 

 日本人の特に著しい性質は、彼等の自然に対する愛情である。彼等は単に自然を、そのすべての形状で楽しむばかりでなく、それを芸術家の眼で楽しむ。この性向は、東京市の案内書が数頁を費して、公園や郊外で、自然が最も見事な有様を示している場所を指示している位強い。以下にあげるものは「東京タイムス」から、これ等の頁を翻訳したものである。

  雪景色――隅田川の岸、小石川、九段、上野、愛宕山。晩冬。

  梅の花――向島、浅草、亀戸。二月下旬。

  桜の花――隅田川の岸、王子、上野、日暮、小金井。四月中旬から。

  桃の花――大沢村。四月中旬から。

  梨の花――生麦村。四月下旬。

  山吹――向島と大森。四月。

  芍薬――染井庭園、寺島、目黒。五月中旬。

  菖蒲――堀切。五月。

  藤――亀戸、目黒、野田。五月下旬。

  朝顔――染井、入谷の庭園。七月中旬から。

  蓮――木母寺、上野、溜池、向島。七月下旬から。

  秋の七草――寺島。八月下旬から。

  萩――寺島の蓮華寺、亀戸。八月下旬から。

  菊――目黒、浅草、染井庭園、巣鴨。十一月。

  紅葉――鴻台、王子、東海寺、海安寺。十一月。

[やぶちゃん注:「東京タイムス」英字新聞Tokio Timesのこと。アメリカ人ジャーナリストであったエドワード・ハウス(Edward H. House 一八三六年~明治三四(一九〇一)年:ボストン生まれ。万延元(一八六〇)年に江戸幕府が通商条約批准のために初めてアメリカに派遣した「遣米使節」の報道を通じて日本に興味を持ち、明治二(一八六九)年の暮れにニューン紙の『ニューヨーク・トリビューン』紙の東京特派員記者として日本に派遣され、長期に渡って日本の教育と外交に貢献、最後は日本で没している)が明治一〇(一八七七)年一月六日から発行を始めた。但し、本シークエンス内時間にあっては既に廃刊されている(廃刊は明治一三(一八八〇)年六月)。彼と同新聞については、中野昌彦氏のサイト「日米交流」の「17、特派員、エドワード・H・ハウス (その1)」から同「(その3)」までに非常に詳しく解説されてある。上記の記載も概ねそちらを参照させて戴いた。

「愛宕山」、東京都港区愛宕にある丘陵。記録上の標高は二十五・七メートルであるが自然の山としては東京二十三区内の最高峰。ウィキの「愛宕山」によれば、『江戸時代から愛宕山は信仰と、山頂からの江戸市街の景観の素晴らしさで有名な場所で』。「鉄道唱歌」第一番にも『「愛宕の山」と歌われている』。後のことになるが、『NHKの前身の一つである社団法人東京放送局(JOAK)は、この愛宕山に放送局を置き』、大正一四(一九二五)年七月の本放送から昭和一三(一九三八)年にNHK東京放送会館へ移転移行する『まで、この愛宕山から発信された』ことで知られる。以下、私がそれだけでは位置を定かに想起出来ない地名その他についてのみ注する。

「大沢村」不詳。原文“Osawa village”。一つの可能性であるが、これは「大沢村」ではなく、「小沢村」ではないか? 現在の東京都杉並区高円寺について調べてみると、旧高円寺村はそれ以前は、小沢村と呼ばれていたことが判る。例えばウィキの「高円寺」の「歴史」の冒頭に、『かつては高円寺村と呼ばれていたが、それより以前の江戸時代初期まで当地は『小沢村』と呼ばれていた』。『徳川三代将軍・徳川家光が鷹狩りでしばしば村内を訪れ、村内にある宿鳳山高円寺』(現在の東京都杉並区高円寺南四丁目にある曹洞宗の寺院)『を度々休憩に利用した。家光はこの寺院が気に入り、ついには境内に仮御殿が作られるようになった。そのような経緯からやがて寺の名前が有名になり、正保年間の頃には当地の地名が小沢村から寺の名前に因み高円寺村に変更され、これが現在の「高円寺」の地名のルーツになった』とあり、また、『かつて寺の周辺に桃の木が多くあり桃園とも言われ、本尊は「桃園観音」、寺は「桃堂」、門前を流れた川は「桃園川」と呼ばれていた』とあるのである。さらに検索をしてみると、kuma さんのブログ「桃園住人の大江戸うろうろ歩き」の「高円寺には高円寺がある」を見ると、『江戸時代初期までは、このあたりは小沢村と呼ばれ』ていたが、『徳川家光が鷹狩の途中に休息のためにこの寺にたびたび立ち寄ったことから、この寺が有名となり、小沢村が高円寺村と言われるようになり、さらに現在の地名となっている』と伝えられ、その頃の『高円寺の境内には桃の木が多く、家光が「桃園と称すべし」と言ったとされ』『それゆえか、ここあたりを散歩していると、「桃園〇〇」という名称の施設・公園をよく見かけ』るともある。但し、現在や明治期に高円寺村(旧小沢村)に桃の花が沢山あって、桃の花見の名所であったと記されたものはない。他に「大沢村」があって桃の名所であることを御存じの方は御教授を乞うものである。

「寺島」かつての東京府南葛飾郡にあった寺島町(てらじままち)であろうか。現在の墨田区の西部に位置する。

「堀切」現在の東京都葛飾区堀切であろう。葛飾区西部の荒川東岸の低地一帯である。

「野田」千葉県最北西部の東葛(とうかつ)地域(旧東葛飾郡)に位置する野田市か?

「入谷」現在の東京都台東区入谷は江戸末期から明治時代に朝顔栽培が盛んになり、やがて入谷朝顔市が開かれる場所として有名になった、とウィキの「入谷」にある。

「木母寺」「もくぼじ」と読む。天台宗梅柳山墨田院木母寺。現在は東京都墨田区にある。この当時は廃仏毀釈によって廃寺であった(明治二一(一八八八)年に復興)。但し、諸資料を見ると位置が微妙に移動している模様で、この当時の指す場所と現在の在地とは異なるように思われる。

「溜池」現在の赤坂見附から虎ノ門に至る「外堀通り」の旧称。

「寺島の蓮華寺」現在の墨田区東向島にある真言宗清瀧山蓮花寺。昭和七(一九三二)年に南葛飾郡全域が東京市に編入した際、寺島町の区域は向島区となっている。

「鴻台」「こうのだい」と読む。下総国の国府が置かれた台地で、現在の千葉県市川市国府台(こうのだい)の古称。

「東海寺」「とうかいじ」と読む。現在の品川区北品川三丁目にある臨済宗万松山東海寺。寛永一六(一六三九)年に第三代将軍徳川家光が但馬国出石(いずし:現在の兵庫県豊岡市出石)の沢庵宗彭(そうほう)を招聘して創建したことで知られる。

「海安寺」これは海晏寺(かいあんじ)の誤訳であろう。現在の東京都品川区南品川五丁目にある曹洞宗補陀落山(ふだらくさん)海晏寺。ウィキの「海晏寺に、江戸時代には「御殿山の桜」と並んで紅葉の名所として知られていた、とある。

 なお、この後には有意に一行空きがあるので二行空けとしておく。]

 

 

 我々はこれに関連して、螢狩には初夏浅草、王子、小石川の水田や、隅田川の岸その他へ行かねばならぬと教えられる。王子と目黒とは同じ季節に、この上なしの、滝で行う釣魚が出来る場所としてある。また「よく鳴く虫」を捕えることが出来る場所も、数個あげられる。

[やぶちゃん注:「滝で行う釣魚が出来る場所」「クリナップ株式会社」公式サイト内の「コラム江戸」の高橋達郎氏の84  「滝浴み」とは、何と風流な納涼だろう。に、江戸時代の滝涼みの場所として『もっともメジャーだったのは、この広重の浮世絵』(リンク先に画像有り)『に描かれた王子界隈の音無川(おとなしがわ)流域である。今では想像もつかないが、地勢的には飛鳥山と王子の台地にはさまれた渓谷で、両岸の断崖からは幾筋もの滝が形成されていたようである。俗に「王子五滝」「王子七滝」と言われたように滝が多く、音無川に滔々と流れ落ち水量も豊富だった』。『なかでも「不動の滝」は有名で、この絵は大げさにも思えるが、広重が残した浮世絵中最大の滝である。滝近くの褌(ふんどし)姿の男、これがまさしく滝浴みをしている光景である。手前には滝を眺めている二人連れの女性、茶屋も出て老婆が客に給仕をしている様子だ。心地よい滝の音や飛沫(しぶき)を感じながら、一時の清涼感につつまれている彼等もまた、滝浴みをしているのである』とあり、また、同じ記事の中に、『江戸の南、目黒不動尊の境内には「独鈷(とっこ)の滝」がある。こちらは、今も滔々と龍の口から勢いよく水が飛び出ている』。千二百年前から『一度も涸れたことがないという湧き水で、以前は不動行者の水垢離(みずこり)の道場として利用されていた滝だという。独鈷とは密教の仏具の一つで、説明板を見ると、開山当初に慈覚大師(じかくだいし)が自分の持っていた独鈷を投げると、そこから滝水が湧き出たという言い伝えが書いてあった。そういえば、目黒不動尊の寺名は泰叡山瀧泉寺(たいえいざんりゅうせんじ)だった』とあるのが、ここであろう。それにしても滝行の側で殺生の釣りをする異国人というのは、ちと、戴けない図では、ある。

「よく鳴く虫」鈴虫か?]

 

 この「思いつき」に関連して現れるもの以外に我我は、菊で有名な団子坂の庭園、桃花の田端、櫻、紅葉、霧島の根津の日暮、滝と松の青山と浅草、あらゆる種類の花の四谷津守、美しい草の渋谷新富士、干潮時に釣の出来る須崎弁天、滝と紅葉の滝野川等があることを教えられる。

[やぶちゃん注:「団子坂」東京都文京区の東端、現在の東京地下鉄千代田線千駄木駅から西へ上る坂。江戸時代には菊作りの植木屋が多くあり、秋には菊人形の見物で知られた。

「霧島の根津」ここは前後から見て、「霧島」はビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属

キリシマツツジ Rhododendron × obtusum のことを指していよう。東京都文京区根津の根津神社は今も「つつじまつり」で知られる躑躅の名所である。

「四谷津守」「よつや/つのかみ」と読む。現在の新宿四谷荒木町。明治維新後で払下げられた松平摂津守(まつだいらせっつのかみ)の屋敷跡に出来た景勝地で、「津守」もそれに由来する。明治時代は庶民の憩いの地として大いに賑わった。後、大正から昭和中期にかけては東京有数の花街として賑わったが、第二次世界大戦の空襲で焼けて後は花街としての賑わいは消えてしまった、とaroma 氏のブログ「東京レトロ散歩」の「花街の面影残す階段の町・四谷荒木町」にある。モースの言う「あらゆる種類の花」は無論、本物のフローラであるが、後の歓楽街の絢爛たる花街に遠く感応して、何だかちょっとほのかな哀感の情を起こさせるではないか。

「渋谷新富士」現在の渋谷区恵比寿南三丁目にある新富士坂及びそこにあった人造の富士山のことであろう。サイト「坂学会」の「新富士坂(しんふじざか)」に電子化されているこの坂のに「目黒の新富士と新富士遺跡」という説明板によれば(コンマを読点に代えた)、『この辺りは、昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られたところ。江戸後期には、えぞ・千島を探検した幕臣近藤重蔵が、この付近の高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造、目切坂上の目黒元富士に対し、こちらは新富士の名で呼ばれ, 大勢の見物人で賑わった』とあり、また、『平成3年秋、この近くで新富士ゆかりの地下式遺構が発見された。 遺構の奥からは石の祠や御神体と思われる大日如来像なども出土。調査の結果、遺構は富士講の信者たちが新富士を模して地下に造った物とわかり「新富士遺跡」と名づけられた。 今は再び埋め戻されて地中に静かに眠る』とある。

「須崎弁天」これは「洲崎」(すさき)であろう。「洲崎」は現在の東京都江東区東陽一丁目の旧町名で同町近隣あるのが「洲崎弁天」である。ウィキの「洲崎」の「洲崎弁天」によれば、『三つ目通りから洲崎方向への途中、閑静な住宅街に鎮座する社。江戸時代からの名刹で、現在の正式名は「洲崎神社」。洲崎の町名の所以となった。当時この付近は海岸であり、元禄時代には時の将軍徳川綱吉の母の守本尊であり、また水にまつわる神仏でもある弁才天が祀られ、海難除けの社として地元漁民の信仰を集めた。歌川広重の浮世絵にも往事の姿が描かれている。当時は海岸から離れた小島に建てられており、人々から「浮き弁天」の名で呼ばれていたが、その後埋め立てが進み、現在では往事の景観を偲ぶすべはない。東京大空襲で壊滅的な被害を受けるが、戦後に現在の姿に復興した。直近の弁天橋脇には、弁天町の住人のほとんどが犠牲となった東京大空襲の遭難者を供養する碑が建つ』とある。

「滝野川」現在の東京都北区滝野川(たきのがわ)。ウィキの「滝野川 東京都北区には、『石神井川が板橋区加賀付近から川底を深くして渓谷状となり、水流も急であったことから「滝野川」と呼んだことに因む』とある。]

 

 

 日本人が、同じ国の住人に忠実であることは、著しいものである。彼等は郷土から来た人は、それが親類であろうと、友人であろうと、あるいは全然知らぬ人であろうと、出来さえすれば、泊めてやり、食事を与える。私の日本人の友人の一人は、このようにして、まるで見たこともない六人の青年をもてなし、彼等を数日間泊めてやったと話した。

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