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2016/02/19

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十三)

     十三

 

 我々は沼川を穿鑿して片目の魚の實否を確める前に、先づ土地の人たちがさう云ふ魚に對して、如何なる態度を取つて居たかを見る必要があるやうだ。

 越後では又北魚沼郡堀之内にもこの種の不思議の池があつた。此驛の上手に當つて俗に出入變りの山と呼ぶ山があつた。如何に目標を設けて入つても、どうしても元の路からは出ることが出來ぬと云ふ一種の魔處である。此山の麓に在つて宿の用水の水源を爲して居る古奈和澤の池は、所謂底なし池であつてしかもも此に住む魚類は殘らず片目であつた。捕へて之を殺すときは必ず祟があり、又家へ持つて來て器の中に放して置いても、其晩の中に元の池に還ると云ふことである。さすればめつたに捉へて眼を檢査した者も無いわけである。

[やぶちゃん注:「北魚沼郡堀之内」現在は魚沼市内。旧堀之内町(ほりのうちまち)は広域で下の字名がないと位置を特定出来ない。

「出入變りの山」旧堀之内宿周辺には地図上で見ても幾つものピークがあり、このも同定不能。「古奈和澤の池」は「こなわざは(こなわざわ)」と読んでおく(全集版も同)が、ここから山を逆に特定出来ぬものかと考えたが、この池自体が判らない。実は地図を見ると堀之内周辺には池が驚くほど沢山あって、しかもネット検索でもこの名の「池」を特定出来なかったからである。「宿の用水の水源を爲して居る」というぐらいだから、相応に大きなもので(地図上でそれとなく感じる池はある)、現地ではすぐ判るものとは思うので現地の識者の御教授を乞うものである。ただ、「山」の方は本文が「あつた」と過去形になっているのが気になる。航空写真を見ると、一部の山間部が開拓され有意に平たくなっている箇所が何箇所か見受けられるからである。]

 同國長岡市の神田町民家の北裏手には、もと三盃池と稱する小さな池があつた。サンバイとは多分田の神のことであらう。此池に居た魚鼈もすべて亦片目であつて、食へば毒ありと言ひ傳へて、之を捕へる者が無かつたさうだ。

[やぶちゃん注:「長岡市の神田町」「かんだまち」。現在も同じ。同神田町一丁目に鎮する少彦名(すくなひこな:清音)神社神田囃子保存会公式サイト内の「神田町の紹介」の中に、この近くに永仁年間(一二九三年~一二九八年)『大沼城という城があり、北條仲時の一族の北條丹波左近太夫惟秋』(これあき)『とその子惟明』(これあき)『の二代が居城し、惟明は』元弘三(一三三三)年の鎌倉幕府滅亡の折り、『北條仲時と共に近江国で自害したと言う』とし、この『城の北側(今の安善寺の北側)に大きな池があり大蛇が住んでいて住民に危害を加えた為、山本という槍の名人が退治したと云う伝説(伝説三盃池)がある』とまず記し、後の「神田町にまつわる伝説〔三杯池〕」の項で小山直嗣著「新潟県伝説集成」からの引用として以下の話を載せる(一部にある字空けを総て詰めた)。

   《引用開始》

 昔、神田町は、芦やかつぼが群生する沼地だった。その頃、ここに大きな毒蛇が住んでおり、近くを通る子供達を殺して、生血をすすった。

 人々は恐れて近づかなくなった。するとこんどは夜中に町へ出てきて、人家を襲い家畜などを殺した。困り果てた人々は、「夜もおちおち眠れません。どうぞ毒蛇を退治してください」と長岡藩主に願い出た。

 そこで藩主は、山本某と言う武士に毒蛇退治を命じた。普通の手段では退治出来ないと思った山本は、酒で酔いつぶして退治しようと、毒蛇が通る道に、ふたを開けた三個の酒樽を置き、待機していた。

 すると酒の好きな毒蛇は、そんな企みがあるとは知らず、まず一つ目の酒樽を飲みほし、さらに二つ目も飲乾して、三つ目の酒樽に首を突っ込んだ頃には、酔いが回って動けないようになっていた。

 その機をのがさず山本は、槍をしごいて毒蛇に立ち向かった。数か所に槍傷を受けた毒蛇は、ようやく沼まで逃げ延びたが、ここで毒を吐きながら死んでしまった。

 それからこの沼のそばで、「サンバイ、サンバイ」というと、沼の水が急に波立ち底からぶつぶつと毒気のある泡が湧いてきたという。三杯池とは、これから名づけられたものだが、今では沼の跡形もなく、家並が続いている。

   《引用終了》

なお、文中の「かつぼ」は複数のネット記載から見て、マコモ(被子植物門単子葉植物綱イネ科エールハルタ亜科 Oryzeae 族マコモ属マコモ Zizania latifolia )の別称と思われる。

「サンバイとは多分田の神のことであらう」柳田國男編「民俗学辞典」の「田の神」の項に西日本では田植えの時期に田の神を「サンバイ」という名を以って祭るとし、島根県の田植え歌ではこの田の神としての「サンバイ」の系統的伝承を語っているとあり、また福井県敦賀市西浦では七夕の日に田の神が天に帰るとして、水神と習合した蛇体の「ユウジン」が「サンバイ上りの日に昇天する」と表現、以下、『德島縣祖谷山(いややま)で田植時に蛇を大切にするのもオサンバイの姿と見たからである。サンバイを田で祭るのは水口祭』(みなくちまつり:苗代祭(なわしろまつり)のこと。苗代を作って籾(もみ)をまく日、一年の豊作を祈って田の水口で行う祭り。水口に花を立てて酒や焼き米を供えて人形(ひとがた)を添えて祀る稲作の予祝行事)『と同じ樣式であつた』とある。しかし「サンバイ」の真の語源は明示されてはいない。

「魚鼈」「ぎよべつ(ぎょべつ)」と読む。「鼈」はスッポンを指すが、ここは広義に魚類と亀の謂い。]

 同じく古志郡上組村大字宮内の一王神社でも、社殿の東の方三國街道を少し隔てゝ田の中 に、十坪ばかりの僅かな沼があつた。明治十七八年の頃に開墾せられ、今は全部田に成つてしまつたが、以前は此池の魚もやはり片目と云ふ評判であつた。最後に片付けた人々はこれを確かめたかどうか知らぬ。此地は元來一王神の春秋の祭に、生牲を供へたと云ふ御加持ケ他の跡であつた。以上の三件は何れも明治二十二三年頃に出た温故之栞と云ふ雜誌の中に見えて居る。

[やぶちゃん注:「古志郡上組村大字宮内」「古志(こし)郡上組(かみぐみ)村」と読む。現在は新潟県長岡市宮内町(まち)。

「一王神社」「いちわう(いちおう)」と読む。現在の同宮内地区内にある高彦根(たかひこね)神社。の旧俗称。個人サイト「玄松子の記憶」の「高彦根神社」の「式内社調査報告」からの引用によれば、『頼朝より神領三千貫文の寄進を得た大社で、別当は真言宗多聞寺・正行寺・西福寺・長福寺。神官は荒木玄蕃、朝日左近、永井左京らが祭祀を掌つた』。天正年中(一五七三年~九二年)に『上杉家家督争ひの御館(おたて)の乱に神領地を没収され、社頭も兵火に焼亡し、別当神官ら四散のやむなきに至つたが、永井家のみとどまつて命脈を保つた。元和二年(一六一八)、領主堀直奇』(ほりなおより)『より村高の内、七〇石の寄進をうけ、後牧野家に引継がれて維新に及んだ。神社の近郊に、寺院跡、観音堂、 天神堂、仁王門などの遺跡名をのこしてゐる。社殿の東に一〇坪程の池があり、これは往古、春秋の祭典に生贄を供 した御加持ヶ池の跡(片目の魚棲息)と伝えるが、今は形跡をとどめてゐない』とある(下線やぶちゃん)。

「三國街道」(みくにかいだう)は中山道の高崎(現在の群馬県高崎市)から分かれて北陸街道の寺泊(現在の新潟県長岡市寺泊地域)へ至る街道。同街道の象徴ともいえる三国峠(みくにとうげ:現在の群馬県利根郡みなかみ町と新潟県南魚沼郡湯沢町の上越国境の峠)は関東と越後を結ぶ交通路として極めて古い時代から利用されていたらしい。

「明治二十二三年頃」一八八九~一八九〇年。

「温故之栞」「をんこのしほり(おんこのしおり)」という雑誌は正式タイトル『越後志料温故之栞』で発行者は温故之栞刊行會で、初篇が明治二十三年二月の、最終刊と思われる第三十六篇が明治二六(一八九三)年一月の発行である(CiNiiNII学術情報ナビゲータ(サイニィ))のこちらの書誌データに拠った)。]

 此だけの實例を見ても、片目の魚は噂ばかり高くても、常に捕つてはよく無いと云ふ俗信によつて掩護せられ、十分に正體を現したもので無いことは分る。毒が有るなどと云ふのもつまり神樣と緣が絶えて、何故に惡いかゞ不明になつた結果で、恐らくは皆最初は神物なるが爲に平民に手を着けさせなかつたので、右の如き不確かな説を傳へ始めたものであらう。

[やぶちゃん注:「掩護」「えんご」援護に同じい。]

 上州では北甘樂(かんら)郡富岡町大字曾木に片目の鰻の居るところがあつたことが、山吹日記と云ふ紀行に見えて居る。即ち村の鎭守高垣明神社の境内なる淸水の流れで、僅か一町はど下の方で川に注いで居るが、川に入つてからは一匹も片目のものなどは無く、只この間に住む鰻だけがさうだと言ふことで、しかもこの村の氏子どもは、片目と否とに拘らず、一切鰻を口にしなかつたと云ふ話である。

[やぶちゃん注:「北甘樂(かんら)郡富岡町大字曾木」現在の群馬県富岡市曽木(そぎ)。

「山吹日記」幕臣で塙保己一門の国学者奈佐勝皐(なさ かつたか 延享二(一七四五)年~寛政一一(一七九九)年:国学研究の拠点として塙が幕府に建議して作った和学講談所の初代会頭)が天明六(一七八七)年四月十六日に江戸を出発、五月二十三日まで武蔵・上野・下野の三国を旅し、名所旧跡の見学・探訪・調査を記した日記(この旅部分のデータは個人ブログ「城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行」の箕輪初心奈佐勝皐(かつたか)『山吹日記』武蔵・上野・下野旅行の記載に拠った)。彼には他に「古語拾遺攷異」「疑斎」などがある。

「高垣明神社」不詳。一つの可能性として同地区にある曽木神社が候補となる。深草縁夫(ふかくさへりお)氏のサイト「日本すきま漫遊記」の「曽木神社」を見ると、境内に大きな湧水池があり、これが近くの鏑川(かぶらがわ)に流入しているとあって、本文の記載とよく一致するからである。]

 大田淸君の説に依れば、名古屋市正木町の八幡宮は鎭西八郎爲朝の建立などゝ傳へ、以前は大きな森で森の中に池があり、その池に例の片目の鮒が居た。尾張年中行事抄には、此鮒を請受けて瘧を病む者が呪禁(まじなひ)に用ゐたと記してある。御禮には別に二尾の鮒を持參して此池に放つとあるさうだが、其新參の鮒も、程なく片目に成るのかどうかは明瞭で無い。

[やぶちゃん注:「大田淸」不詳。

「名古屋市正木町」「まさきまち」と読む。現在、愛知県名古屋市中区正木町。

「八幡宮」金山駅の西北七百メートル強のところに鎮座する、若宮八幡宮とも称される闇之森八幡社(くらがりのもりはちまんしゃ)。ウィキの「闇之森八幡社によれば、『かつて神域には大木が鬱蒼と茂り、それは月の光も射さぬと句に詠まれるほどで、いつしか闇の森と呼ばれるようになった。名古屋十名所のひとつ』。『創建は長寛年間。源為朝が石清水八幡宮を勧請したと伝えられる。境内に為朝の甲冑を埋めたといわれる「鎧塚」がある』。祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇。「その他」の項に、『弁財天社のある池のフナはすべて片目で、外から放したフナも片目になるという言い伝えがある』と記す(下線やぶちゃん)。

「尾張年中行事抄」書名に誤りがないとすれば、明和期(一七六四年から一七七一年:第十代将軍は徳川家治、尾張藩は中興の名君と称された第九代藩徳川宗睦(むねちか/むねよし)の治世)の尾張の年中行事の記録を記した「尾張州年中行事鈔」か。

「瘧」数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫Plasmodium sp.で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカAnopheles sp.類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum、三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax、四日熱マラリア原虫Plasmodium malariae、卵形マラリア原虫Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。]

 之を要するに魚も亦片目のものは常に神物である。伊勢では河藝(かはげ)郡矢橋(やばせ)村の御池、備後では世羅郡吉原の魚ケ池など、單に片目の魚が居ると云ふのみで宗教的關係を傳へぬものも、前者は池の名に由つて、後者はその淵が旱魃に雨を禱る靈場であつて、魚ケ石と稱する大きな石の水に臨んで在ると云ふに由つて、神の祭に此生牲を供へた遺跡であることが察せられる。

[やぶちゃん注:「河藝(かはげ)郡矢橋(やばせ)村の御池」三重県鈴鹿市矢橋。「御池」は「みいけ」であろうか。地図やネット検索では池らしいものは現在の同地区に現認出来ない。

「世羅郡吉原の魚ケ池」次注の神社の位置から見て、現在の広島県東広島市豊栄町(ちょさかちょう)吉原(よしわら)と思われる(旧広島県世羅(せら)郡世羅町(ちょう)吉原があるが、ここは前記の地区の北に接している。この地区にも国土地理院の地図を見ると大小五つの池を確認は出来る)。しかも各種地図や航空写真を拡大して調べるうち、世羅町吉原ではなく豊栄町吉原地区に「魚ヶ筒石神社」という名の神社を発見、しかも豊栄町は曾て世羅郡に所属していたことも判った。柳田國男は「宗教的關係を傳へぬ」とするが、或いは本書刊行の昭和九(一九三四)年六月以降に現在の社殿や神社名が作られたものか? ブログ「東広島ファン倶楽部」の江の川の水源 魚ヶ筒石神社 豊栄町吉原の写真を見るとやや社殿は古く見えはするものの、数少ない外のネット画像を見ると社殿は昭和に入ってからという感じがするショットもある。「片目の魚」の話は現在のネット上では確認出来ず、「魚ケ石」という名も検索に掛からないものの、この「魚ヶ筒石神社」という社名は柳田が指摘しているこの池(沼)と同定して間違いあるまい。神社自身がごく小さな池の中にあり、石を伝って参詣出来る構造になっているらしい(ツイッター画像による)。また西南には道を隔てて三倍強の大きさの池(航空写真で見ると、一見やはり浅く、沼のように濁って見える)も確認出来る。

「前者は池の名由つて」「御池」が固有名で「御」と敬称の接頭語が附されれていることを指す。]

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