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2016/02/19

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十四)

     十四

 

 片目の魚の由來に付ては、更に一箇の奇拔なる口碑が傳へられて居る。伊豫の松山の七不思議の一つに、山越の片目の鮒と云ふことがある。昔弘法大師諸國遍歷の時に、此地に來て法施を求められた處、里人に貧困にして志深き者あつて、我が食事の爲に支度した一尾の鮒の、片身だけ燒きかけたものを取つて御僧に進らせた。大師其志をめで受けて傍なる井手に放されると、鮒は忽ち蘇生して泳ぎ去り、それよりして此水に棲む鮒は今に至るまでみな片目である云々。

[やぶちゃん注:「いせきこたろう氏のサイト「こたろう博物学研究所」内の「カテゴリ別情報庫 伊予の伝説(愛媛全般)」の「伊予松山の七不思議(愛媛新聞者報道二部撰)」に「片目鮒」とあって『紫井戸の近くにあった池の鮒はすべて片目しかない』と記す。この「紫井戸」で調べると、個人サイトと思われる「こんなことが あったか 松山 松山むかし話」内の「片目鮒(かためぶな)」に以下のようにある(本シチュエーションとは少し異なる)。愛媛県松山市木屋町(きやちょう)四丁目の『個人住宅敷地内にある、「片目鮒=かためぶな=の井戸」にまつわる伝説』で、『お百姓さんの午前中の仕事も一段落した昼時、昼飯のおかずは、近くの井戸にいる鮒でも焼いて食うことにしようと、鮒を焼き始めた。そこへ托鉢姿で修行中の弘法大師が通りかかり、「哀れなことじゃ、焼かれながら鮒が暴れている。鮒を譲ってください。」と頼んだ。お百姓は、「片目はもう焼かれとるぞな。ほじゃけん、もう助けることはないじゃろう。」と返答したが、弘法大師は、哀れに思い片側の焼けた鮒を譲り受け、井戸に投げ込み、念仏を唱えると生き返ったという。以来、この井戸には片目の鮒が、水路でつながっていた紫井戸とともに行き来していたと伝えられている。(今は、両井戸ともに水は涸れているが、昔日の井戸は残っている)』とある(リンク先には井戸の画像もある)。こちらの方が話柄内の理路が通ていて柳田の荒っぽい引用よりよほど自然な話柄となっている。

「法施」「はうせ(ほうせ)」。狭義には神仏に対して経を読んで法文(ほうもん)を唱えることを指すが、ここは財施と同じで、金品食事の布施の僧が在家の者に求めることを指す。「ほっせ」とも発音する。

「井手」は前注の同話のヴァリエーションから早合点して「井戸」の誤字などと思ってはいけない(全集版も「井手」のままである)。「ゐで(いで)」で、田に水を引き入れるために川の流れをせき止めてある所、井堰(いせき)のことをかく呼称する。四国に多く分布する灌漑用貯水池のことである。]

 折角法力で助けられた動物が、目に限つて快復し能はず、しかも累を子孫に及ぼすと云ふのは七不思議以上であるが、是が又とんだ類例の多い出來事であつた。例へば攝陽群談等の書に、昆陽池に片目の金魚あつて古來有名なりとある。行基菩薩曾て此地に來つて病者の魚を欲するを憐れと見たまひ、自ら長洲濱に出でゝ魚を求め、之を料理して其病者に食はしめ、殘つた半分を池の水に投ぜられると、忽ちにして化して目一つの金魚となつた云々。金魚とはあるが實はやはり鮒であつた。濱で買つて來たというからには海魚らしいが、池に放されて繁殖したので、仕方無しに「化して」などゝ傳へたのであらう。是も食ふと癩病になると云ふわけで、土人此池に釣もせず網もせぬと述べて居る。

[やぶちゃん注:「攝陽群談」大坂の岡田溪志(おかだけいし:事蹟不詳)が伝承や古文献を参照に元禄一一(一六九八)年から編纂を開始し、同一四(一七〇一)年に完成した、全十七巻から成る摂津国(現在の大阪府北中部の殆んどと兵庫県南東部に相当)に関する詳細を極めた地誌。

「昆陽池」「こやいけ」と読む。兵庫県伊丹市昆陽池に現存。天平三(七三一)年に行基の指導により農業用のため池として作られたとされる。現在は公園化されており、池の中ほどに日本列島を模した人工島があることで知られる。参照したウィキの「昆陽池公園」の画像を見られたい。

「長洲濱」現在の尼崎にあった浜。「尼崎市」公式サイトの『「あまがさき」の由来』に、『長洲浜というのは、当時の猪名(いな)川・神崎川の河口に近い場所で、奈良の東大寺や京の鴨社の荘園があ』り、『大物や尼崎は、その長洲浜のさらに南に形成された砂州が陸地化し、港町となっていった場所で』あると記す。

「食ふと癩病になる」罰として生きながらに地獄の業火に焼かれているとされて差別された「癩病」(らいびょう:ハンセン病)に罹患するなどとというはこれ、行基も悲しむと私は思う。]

 行基はまたその故郷なる和泉國家原寺(えはらじ)の放生池に、殆ど是と同種類の魚の種を殘された。或時此村の若者ども、池の堤に集まつて魚を捕へ、これを肴に酒盛をして居る處へ、ちやうど行基菩薩が還つて御座つたので、戲れに魚の膾を此高僧に強ひた所が、拒みもせずにむしやむしやと食つてしまひ、後で池に向つてこれを吐き出すと、その膾は皆小魚となつて水の上に遊びたり。其よりして今に此池には片目の魚ありと、和泉名所圖會の中に見えて居る。池の名の放生池は生けるを放つであるから、膾を吐いたのでは少々理窟が惡いが、まあざつと是ほど迄に偉い坊樣であつたのである。

最初の一文中の「殆ど」はちくま文庫版全集では大呆けの『ほとんと』になっている(この誤植は複数個所見られる)。これが「全集」を名打つそれの恥ずかしい実態である。「全集」の看板を信ずるなかれ。

「和泉國家原寺の放生池」現在の大阪府堺市西区家原寺町にある高野山真言宗別格本山一乗山清涼院家原寺。ウィキの「家原寺」によれば、『本尊は文殊菩薩。地元では「智恵の文殊さん」として親しまれている』。寺伝によれば、慶雲元(七〇四)年に『行基が生家を寺に改めたのに始まるとされる』。この「放生池」(はうじやういけ(ほうじょういけ))は寺内に現存し、片目の鮒は「行基鮒」と呼ばれているらしい。但し、実際に現在も隻眼の鮒がいるという情報は確認出来なかった。

「膾」「なます」。これには魚貝や獣の生肉をただ細かく切ったものを指し、またそれを調味して酢にひたした料理の謂いである。柳田先生ならずとも、こりゃ、片目じゃなくて、せめて半身の魚として蘇るのでないとおかしいと思う。少なくとも何で「片目」なのかの説明にならんがね。]

 所が又越後の方には斯んな話もある。中蒲原郡曾野木村大字合子(がふし)ケ作(さく)は、舊名は「合子ケ酒」である。その昔親鸞上人此地御通行の折しも、里人其德を慕つて家々より手製の酒を持參し、村の山王神社の境内に於て、之を合せて上人に薦めたによつて此の名がある。其時酒の肴に取添へた燒鮒を、親鸞は少しばかり食べて餘りを社頭の池の中に投ぜられた。その結果として今でも山王樣の古池に住む鮒は、殘らず腹に燒焦げの痕がある。それのみならず池の傍なる上人法衣掛の榎と云ふ古木は、伐つてみると木目に必ず鮒の形が現れると云ふので、此地を親鸞上人燒鮒の舊跡と名づけ、永く信徒に隨喜の涙を揮はしめて居る。

[やぶちゃん注:「中蒲原郡曾野木村大字合子(がふし)ケ作」この地区は行政区分が区レベルで分かれるなど大きく変化しているが、ここは諸データから現在の新潟県新潟市新潟市西区山田であることが判明した(後の引用部も参照のこと)。以下の伝承は「真宗大谷派(東本願寺)越後三条教区ねっと」の「山田の焼鮒 由緒沿革」に詳しい。それによれば、建永二(一二〇七)年二月に後鳥羽上皇の怒りに触れて専修念仏停止(ちょうじ)と浄土宗僧四名死罪、その師法然及び親鸞を含む七名の法然弟子が流罪に処せられ(承元の法難或いは建永の法難と呼ぶ)、親鸞は僧籍を剥奪されて「藤井善信」(ふじいよしざね)の還俗名を与えられた上で越後国国府(現在の新潟県上越市)に配流された(法然は「藤井元彦」の還俗名で土佐国(実際には讃岐国、現在の香川県)配流)。親鸞は国府から移って約三年間、鳥屋野(新潟県新潟市中央区内)に逗留していたが、建暦元(一二一一)年十一月十七日に赦免の沙汰が国府で下るということになり、『村人たちが山王権現の社に集まって別れの宴をした』。『各々が携えた手作りの酒を聖人はひとつの器に移して召し上がられたので、この地はその言い伝えに因んで「合子ケ酒」(ごうしがさけ)とつけられ、後に「合子ケ作」となり、黒崎村と』昭和二三年に『合併して、現在の山田という地名になる』。『そのお別れの宴に、ある村人が持ってきた焼鮒を聖人は御洗水(みたらし)池のほとりの榎に袈裟をかけ、「我が真宗の御法、仏意にかない、念仏往生間違いなくんば此の鮒、必ず生るべし」と南無阿弥陀仏と言いながら、池に放つとその鮒は生き返ったという言い伝えが残っている』。『聖人はお念仏の尊さが後世の人々にも伝わるように、袈裟を掛けた榎にわが心を残すと言われ、国府に発たれた』。『村人たちは、この榎を「お別れの袈裟かけの榎」と名付け、大切に守ってきたが』、寛政八(一七九六)年に『台風で倒れてしまった』。すると、『その二股に分かれた幹の切り口からお念仏をされる聖人様の姿が現れた』ため、『驚いてもう片方を挽き割わると、お別れに差し上げた鮒が木の芯のどこを切っても中心に現れた』と記す。リンク先では木の年輪に出たという親鸞も御影や焼鮒の刻印の写真も見られる。なお、この「焼鮒」は親鸞の伝説に関わる「越後七不思議」の一つに数えられており、神社近くを走っていた新潟交通電車線(一九九九年全線廃線)には、この伝説に因んだ「焼鮒駅」があった、とウィキの「越後七不思議」にある。]

 片目とは言はない此方の話が、比較的尤もらしいやうに一寸見えるが、考へて見るとちつともさうで無い。元來この種の因緣話は親鸞上人では左程で無いが、戒律の正しかつた如法僧としては、どうしても斯うしても殺生戒を破らせられることが出來なかつたと云ふ結論に導く積りであらう。併し其程の親切があるなら眼はどうしたものか、腹の痣はどうしたものぞ。殊に其鮒の何十代かの後裔にまで難澁を遺傳させるのは、其こそ生殺しでは無いか。其と云ふのが其邊に有合せの口碑を無暗に取込んで、我寺の緣起にしようとするから木に竹の不手際になるので、寧ろ先輩の德を害し、しかも山王樣始め多くの社の傳説を紊して居る。

[やぶちゃん注:「如法僧」「によほふさう(にょほうそう)」は仏の教法にかなった、戒律を厳しく遵守している僧侶。

「紊して」「みだして」と読む。「亂(乱)す」に同じい。]

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