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2016/02/16

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(五)

    五

 

 一目小僧の目の在り處に就いても、考へて見れば又考へる餘地がある。通例繪に描くのは前額の正面に羽織の紋などのやうに附いて居り、自分も亦さう思つて居るが、それではあまり人間離れがして、物を言つたとか笑つたとか云ふ話と打合わぬのみならず、第一に眼と言へば眼頭(めがしら)と眼尻(めじり)がある筈であるが、左右どちらを向けて良いかも分らぬ。それだから竝外れて眞圓な眼を畫などには描くのであらうが、其にしても長い舌に始まつて鼻筋の眞通りに、一直線に連なつて居ては顏の恰好を爲さぬ。

[やぶちゃん注:この辺りで、読者の中には、私が早く先天奇形の単眼症(cyclopia:サイクロピア)について語らないか語らないかと待っているフリークス嗜好の異常な諸君もいるかも知れぬが、それは最後の最後にしたい。そもそも柳田國男の論考は糞フリーキーな未確認生物実在の証明なんぞではないからである。それから小児科カラーアトラスで実際の単眼症の画像を見たら、それは軽々に語れるものではないことも言い添えておこう。

「眞圓」全集版では『まんまる』とルビする。]

 近世或は此點を苦にした人もあつたと見える。南路志續編稿草の中に抄錄せられた怪談集と云ふものに、又土佐の人の談として次の如き説がある。山爺と云ふ者は土佐の山中では見た人が多い。形は人に似て長(たけ)三四尺、總身に鼠色の短い毛がある。一眼は甚だ大にして光あり、他の一眼は甚だ小さい。ちよつと見れば一眼とも見える故に、人多くは之を知らずして一眼一足などゝ謂ふのである。至つて齒の強い物で猪猿などの首を人が大根類を喰ふ通りにたべるさうだ。狼は此者を甚だ恐れる故に、獵師は此山爺を懷けて獸の骨などを與へ、小屋に掛けて置く獸の皮を狼が夜分に盜みに來るのを防がせる云々。いくら片方が小さくとも、一寸見ては一目に間違ふと云ふ二目は無いと思ふが、此ならば先づ一目と謂ふは、極めて人間の眇者(すがめ)に近似した者だと云ふことになつてかたが付く。

[やぶちゃん注:「南路志續編稿草」先に注した文化一二(一八一五)年の高知地誌大叢書「南路志」を受けて明治以降に高知県史誌編輯係によって編せられた近代のものと思われる(高知県文化財団埋蔵文化センターの公式報告書の注データから推定)。

「懷けて」「なづけて(なずけて)」と読む。手懐(てなづ)けて。うまく扱ってなつくようにする。

「眇者(すがめ)」この場合は、斜視ではなく、片方の目が極端に細いか、或いは潰れていることを指している。]

 さうして此話は、決していゝ加減に笑つて看過すべき話では無いのである。自分は主として一目の恠が、山奧に於て其威力を逞しくして居る事實に着眼して、實は最初に是と昔の山の神の信仰との關係を、探つて見たいと思つて居る所なのであつた。

 斯く申せば何か神を輕しめて、一方には妖恠に對し寛大に失するやうに評する人があるか知らぬが、何れの民族を問はず、古い信仰が新しい信仰に壓迫せられて敗退する節には

其神はみな零落して妖恠となるものである。妖恠は言はゞ公認せられざる神である。

 この推定を後援する材料は幾つかある。高木誠一君の話によれば、磐城の平町(たひらまち)近傍では斯う云ふ事を言ふ。舊曆九月の廿八日には神々樣が出雲の大社へ行かれるので、此日は朝早く小豆飯を上げて戸を明けはらふ。又十月朔日に御立ちになる神もある。出雲で色々の相談をなされて十月廿八日から霜月朔日までの間にお還りになる。唯其中で山神はかんかちで夷樣は骨無しで、共に外聞が惡いといつて出雲へ行かれぬ故に、十月中に行ふのは山神講と夷講とだけである云々。山神を片目と云ふ説は、自分の知つて居るのはまだ是のみである。

[やぶちゃん注:全集版では最後の一文が『此カンカチは火傷(やけど)の瘢痕(はんこん)のことだと今は解せられて居るが、常陸の方へ來るとかんち即ち片目のことだと云ふ者がある。』(一部の表記を本初版に合わせて恣意的変更した。向後、この注は略す)と変更されており、全集版の方が親切且つ腑に落ちる。これは後に提供者その他から誤りと指摘されての補筆である。「一目小僧」の最後に附された「補遺」で柳田自身が追記しているので、必ず参照のこと。

「高木誠一」(明治二〇(一八八七)年~昭和三〇(一九五五)年)は磐城(現在の福島県浜通り及び福島県中通りの白河郡と宮城県南部に当たる地域の旧称)の郷土史研究家。「いわき Biweekly Review 日々の新聞社」公式サイト内の第九十二号の時代ドキュメントによれば、高木氏はここに出る「平町」、現在の福島県いわき市平(たいら)北神谷(きたかべや)の農家の長男として生まれた。『旧制磐城中に入学したが、「農家の長男に学問はいらない」と』二年で『退学させられ、小学校で代用教員を務めたあと、家業の農業に従事しながら、農政学や民俗学と関わることになる』。『その転機となったのは』明治四〇(一九〇七)年の『柳田国男との出会い』で(高木氏二十歳)、以後、『柳田の薫陶を受け続け』、昭和一〇(一九三五)年には『高校教師の岩崎敏夫、山口弥一郎、甥の和田文夫などとともに「磐城民俗研究会」を立ち上げる。その関係で、渋沢敬三、宮本常一などとも交流し』た。なお、「石城北神谷誌」が『高木自身の手で書かれ、脱稿したのが』大正一五(一九二六)年七月、『その後、岩崎と和田が中心となり、編集・校正をし』たものの、『戦時中という異常事態のなか、思うように作業が進まなかった』。『が、岩崎と和田の「何とか本として出したい」という執念が実を結び』、「磐城北神谷の話」として上梓されたのは実に脱稿から二十九年後の昭和三〇(一九五五)年十二月のことであった。しかし『残念なことに、校正の最終段階に来て高木が病のために床に伏し、仮綴じした校正紙を見ただけで、他界してしまった。高木はそのとき、痩せ衰えた両手を布団の上に合掌して「ありがとうございました、渋沢先生によろしく…」と言ったという。本が完成したのは、死後』三ヶ月後のことであった、とある。執念の史家としてここに特に記しておきたい。]

 次に信州の松本平では、山神を跛者だと言うて居ると云ふ事は、平瀨麥雨君が之を報ぜられた。此地方では何でも物の高低あるものを見ると、之を山の神と呼び、その極端なる適用にしてしかも普通に行はれて居るのは、稻草の成育が肥料の加減などで著しく高低のある場合に、この田はえらく山の神が出來たなどと言ふさうである。此から推測すると、一本ダタラ其他の足一つと云ふことも、眇者を目が一つと云ふほど自然では無いが、やはり亦元は松本地方で考へて居るやうに、眇め者を意味して居たのではなからうか。さうして此地方でも土佐の片足神などゝ同じく、山の神に上げる草履類は常に片足だけださうである。

[やぶちゃん注:「跛者」全集版は『びつこ』とルビを振る。

「平瀨麥雨」歌人として知られる胡桃沢勘内(くるみざわかんない 明治一八(一八八五)年~昭和一五(一九四〇)年)のことと思われる。長野県東筑摩郡島内村下平瀬(現在の松本市島内)生まれ。十八歳で俳句を、二十歳で短歌を伊藤左千夫に師事、以後、「馬酔木」「アララギ」や活躍した。歌集「胡桃沢勘内集」がある。歌人としては平瀬泣崖を名乗ったが、後にこの平瀬麦雨の号で民俗学研究にも力を注ぎ、柳田國男や折口信夫(歌人としての釈迢空としても)とも盛んに交流、「松本と安曇」「福間三九郎の話」などを著わしている。「松本・安曇野・塩尻・木曽をカバーする地域新聞 市民タイムス」公式サイト内の小松芳郎氏の「脚光 歴史を彩った郷土の人々」の第三十一回胡桃沢勘内に詳しい。それによれば、大正三(一九一四)年に『勘内は、柳田国男の雑誌『郷土研究』への投稿』、それが『きっかけで民俗学に惹(ひ)かれてい』くと同時に『柳田の関心を惹き、以後、没年に至るまでの長期にわたり交流を深め』た。『柳田は「文章は平明にして親切、また珍らしくむだが少なかった。かなり正確に、たくさんの土地の事情を記憶していて、ちょうど我々(われわれ)の学問の 世に出るのを待っていてくれたようにも感じられた」と後に記し』ているとある。他にもリンク先の事蹟データは必見。
 
「此地方では何でも物の高低あるものを見ると、之を山の神と呼び」この箇所には平瀬から修正がもたらされる。「一目小僧」最後に附された「補遺」を必ず参考のこと。

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