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2016/02/16

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(八)

     八

 

 村の人と云ふ者は、思ひ違いはしても虛誕(うそ)はつかぬ者と自分などは思つて居る。殊に轉んだの目を突いたのと、少々はわが神の御威信にも關わることを、皆が口を揃へて言ふのにはわけが無くてはならぬ。今時の人の空想にてんから浮びさうも無い所謂面白くも無い話を、假に誰かが思ひ付いたとしても、受けられる道理が無い。誤解は必ず有るであらうが、何か基づく所の有つたものと見るのが至當である。

[やぶちゃん注:「虛誕」「うそ」は当て読み。本来は「きよたん(きょたん)」で、根拠のないことを大袈裟にいうこと・出鱈目・法螺の謂い。]

 さうなると今少し細かく此話を分析して見る必要が生じて來る。第一に問題になるのは片目を怪我せられたのは果して神樣かと云ふことである。怪我は人間界の事實で神は超人間であるが、二者は如何にして相結合するのであるか。

 或はこの出來事を以て、神がまだ只の人間として此浮世に生きて御座つた時代に起つたものと解するであらう。其にも都合のよい例は無いでは無い。例へば武州妻沼(めぬま)町の有名な聖天樣は、昔松の葉で眼球を突かれたと云ふので、妻沼十三郷の人民は松を忌むこと甚だしく、庭にも山にも此木を栽ゑぬは勿論、門松の代りには榊を立て、什器衣服の模樣にも一切松を用ゐず、屋號にも人名にも此文字をさへ避けると云ふ。是は足利の丸山瓦全君その他の人の話であるが、又一説には眼を突いた人は御本尊では無くして、此聖天樣を護持佛として居た齋藤別當實盛であるとも言ふ由、三村竹淸氏は語られた。實盛は人も知る如く中世の勇士で、死して後其靈が稻の害蟲となつたと傳へらるゝ人である。白髮を染め錦の直垂を着て、加賀の篠原で討死をした時には、首實檢があつたやうだが、別に眇目の沙汰も無かつたのを見ると全快であらう。妻沼では雉子が來てその眼の傷を嘗めた故に、爾來今に至るまで此鳥を大切にすると云ふ口碑もある。

[やぶちゃん注:「武州妻沼(めぬま)町」妻沼町(めぬままち)は埼玉県北部の旧大里郡にあったが、『新しい熊谷市の一部となって消滅した。町名は中世の女沼が近世になって目沼となり、さらに妻沼となった』とウィキの「妻沼町」にある。

「聖天」埼玉県熊谷市妻沼(めぬま)にある高野山真言宗聖天山歓喜院(かんぎいん)長楽寺。ウィキの「歓喜院(熊谷市)」によれば、『日本三大聖天の一つとされる。一般には「妻沼聖天山(めぬましょうでんざん )」と称されることが多い。「埼玉の小日光」とも呼ばれ(熊谷市の案内では本殿が国宝に指定された頃より「埼玉日光」としている)、参拝客や地元住民からは「(妻沼の)聖天様」などと呼ばれている』。寺伝では治承三(一一七九)年に、後に出る通り、『長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後』、建久八(一一九七)年には斎藤別当実盛の次男である実長が出家の後なった良応僧都が『聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたと』伝える(或いは「眼を突いた」のはこの開山たる良応という可能性はないか?)。

「齋藤別當實盛」以下は私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 66 小松 あなむざんやな甲の下のきりぎりす』の詳細を極めた(つもりである)注を参照されたい。]

 雉子から聯想せられるのは、此地からさほど遠く無い下野安蘇郡戸室の鞍掛大明神は、 足利中宮亮有綱の靈を祀ると傳へられて居る。有綱遺恨の事あつて足利矢田判官と赤見山に戰ひし時、山鳥の羽を矧いだる流失一つ飛び來たつて左の目に中る。有綱は其痛手を忍んで戸室郷まで落延び、山崎と云ふ地でその目の傷を洗ひ、終にそれから二三町西手の處で自害して果てた。然るに此地方でも入彦間(いりひこま)と云ふ村などでは、足利忠綱が山鳥の羽の箭で射られたと稱して、人民が山鳥を食ふことを忌んで居る。この話は安蘇史と云ふ書に出て居る。

[やぶちゃん注:「下野安蘇郡戸室」「しもつけあそぐんとむろ」と読む。栃木県旧安蘇郡田沼町戸室、現在の栃木県佐野市戸室町(ちょう)。

「鞍掛大明神」個人ブログ「神社ぐだぐだ参拝録」の「鞍掛神社」によれば、現在の佐野市戸室町の県道二百一号線沿いにある鞍掛神社である。『一の鳥居には「正一位鞍掛大明神」との額が掛かっている』とある。祭神は神武天皇の父とされる鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)他(リンク先にも出るが、他のサイトでも確認した)。佐野市公式サイト内の「戸室のお宝・自慢」には創建は文治二(一一八六)年とある。他のサイトには同年、ここに出る足利有綱がこの地で没してここに合祀したともある。

「足利中宮亮有綱」「中宮亮」は「ちうぐうのすけ(ちゅうぐうのすけ)」と読む。下野国の住人足利(戸矢子)七郎有綱。藤原姓足利氏で、寿永二(一一八三)年の源頼朝ら幕府軍と頼朝の叔父志田義広らが争った野木宮(のぎみや:現在の栃木県下都賀郡野木町)合戦で志田側についた足利俊綱の異母弟。しかし有綱は子佐野基綱とともに秘かに幕府方小山朝政の陣営に参じている。本文と前の佐野市の公式サイトによるならこの三年後に内輪の私戦によって自死したことになる。この人物、野木宮合戦以降の事蹟がはっきりしないのでこれ以上語れない。

「足利矢田判官」不詳。通称を矢田判官代(やたのはんがんだい)、足利太郎とも呼ばれた源義清(?~寿永二(一一八三)年))がいるが、没年から見て彼ではあり得ない。或いはその子息などの縁者か? 識者の御教授を乞う。どうもこの伝承自体がやや胡散臭い気がなんとなくする。

「赤見山」現在の佐野市西部の赤見町にある東山のことか。

「矧いだる」「はいだる」。鳥の羽根や鏃(やじり)を竹に付けて矢に作る、の意。

「山崎と云ふ地でその目の傷を洗ひ」この目を洗ったとされる井戸が現存する。個人ブログ「BECCAN blog」の御目洗井戸 omedo-ido で画像と地図が見られる。なおこの記載の案内板からという箇所を見ると「足利矢田判官」の本来の姓はやはり「源」らしいように記してある。

「入彦間(いりひこま)と云ふ村」現在の群馬県の桐生川上流域の旧村名か。桐生は群馬県であるが、栃木県足利からは西北直近である。

「足利忠綱」(長寛二(一一六四)年?~?)は前に出した足利俊綱の子。ウィキの「足利忠綱によれば、『鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の嫡流』で、下野国足利荘(現在の栃木県足利市)を本拠とした。『治承・寿永の乱において、平氏方について戦った猛将』。『藤姓足利氏は下野国足利荘を本拠として「数千町」を領掌する郡内の棟梁で、同族である小山氏と勢力を争い「一国之両虎」と称されていた』。治承四(一一八〇)年の『以仁王の挙兵において、小山氏が以仁王の令旨を受けたのに対し、足利氏が受けなかったことを恥辱として平氏方に加わったという。忠綱は』当時未だ十七歳であったとするが、『一門を率いて上洛し、平氏の有力家人・伊藤忠清の軍勢に加わって以仁王と源頼政を追撃した。宇治川の戦いでは先陣で渡河して敵軍を討ち破る大功を立てた』。『忠綱は勧賞として俊綱のかねてからの望みであった上野十六郡の大介任官と新田荘を屋敷所にすることを平清盛に願い出た。しかし他の足利一門が勧賞を平等に配分するよう抗議したため撤回となった』。巳の刻(午前十一時頃)から未の刻(午後一時)までの間の、午の刻の間だけ『上野大介となったことから、「午介」とあだ名されて嘲笑されたと伝えられる(『源平盛衰記』)。藤姓足利氏は足利荘を本拠としながらも本来の地盤は上野であり、一門を束ねる権威として上野大介の地位を望んだと思われるが、この勧賞撤回騒動は藤姓足利一門の内部分裂の萌芽といえる。忠綱は恩賞の不満からか東国に戻り、一時的に源頼朝に帰順していた形跡が見受けられる』。その後、養和元(一一八一)年になると、『現地で競合する足利義兼・新田義重が頼朝に帰順し、一門からは佐貫広綱が頼朝の御家人となり、佐位七郎弘助・那和太郎は木曾義仲に従って横田河原の戦いに参戦するなど結束が崩れ、藤姓足利氏を取り巻く情勢は厳しいものとなっていった』。寿永二(一一八三)年二月、『忠綱は常陸国の志田義広の蜂起に同意して野木宮合戦で頼朝方と戦ったが敗北し、上野国山上郷龍奥に籠もった』。『その後は郎党・桐生六郎のすすめに従い、山陰道を経て西海へ赴いた』後は、消息不明となった。同年九月、『頼朝は和田義茂に俊綱追討を命じ、義茂は三浦義連・葛西清重・宇佐美実政と共に下野国に下った』が、『俊綱は追討軍が到着する前に家人であった桐生六郎に裏切られて殺害され、藤姓足利氏の宗家は滅亡した』とある。「吾妻鏡」では、『忠綱を形容して「末代無双の勇士なり。三事人に越えるなり。所謂一にその力百人に対すなり。二にその声十里に響くなり。三にその歯一寸なり」と記している。なお、忠綱は平氏方として西海に赴いたとされるが、「頼朝に背いた先非を悔い」平氏方に加わるというのは腑に落ちない行為であり、汚名返上のために平氏追討軍に参加したとも考えられる』。「吾妻鏡」の文治元(一一八五)年四月十五日の条は『無断任官者を列記した周知の記事であるが、頼朝に「本領少々返し給うべきの処、任官して、今は相叶うべからず。鳴呼の人かな」と罵倒されている兵衛尉忠綱は境遇が一致しており、足利忠綱の可能性もある』もと記す。

「安蘇史」明治四二(一九〇九)年安蘇郡役所刊荒川宗四郎著か。]

 この郡には今一つ驚くやうな類例がある。其は旗川村大字小中の人丸大明神に關するもので、安蘇史の記す所に依れば、昔柿本人丸と云ふ人、手傷を負うてこの里へ落ちて來て、小中の黍畑に遁げ込んで敵を遣り過し難を免れたが、その節黍殼の尖りで片目を潰し、暫く此地に留つて居たことがある。其緣を以土人人丸の靈を社に祀り、柿本人丸大明神と稱し、以來此村では黍を作るのを禁ずることになつたと云ふ。歌の聖の柿本人丸が目一つであつたと云ふことは他の記錄には無いから、事によると此落人は僞名かも分らぬが、それでも將來に向つて永く作物の制限を命令して居るのである。

[やぶちゃん注:「旗川村大字小中」「旗川村」は「はたがわむら」と読む(旗川は現行では栃木県佐野市を流れる渡良瀬川支流の河川名と同地区名)。現在の栃木県佐野市小中町(こなかちょう)。

「人丸大明神」人丸神社として現存する。歌聖乍ら生涯の不明な謎の柿本人麻呂(平安以降は「人丸」表記が多い)には伝説が日本各地に散在し、彼を祀る社や祠は数多い。]

 斯ういふ話ばかりを見て居ると、神が眼を傷つけたと云ふのも在世中の一の逸話で、人間としてならば氣の毒でこそあれ怪我は恠しむに足らず。猶進んでは其樣な壯烈な傷をした爲に、一段敬慕の情を強めたものと見られぬことはない。

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