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2016/02/08

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (41) 江木学校講談会

 

 江木氏その他に、日本に於る最初の公開講演に関して質問したが、信頼すべき情報を得ることは困難であった。有名な福沢氏は私に一八七一年、数名の学者が集り、論文や評論を読んだと話してくれた。この会は非公開であった。一八七三七四年には、明六社と称する会が、年長な学者達によって組織された。一般人は彼等の議論を聞くことを許された。解放もまた発行された。一八七四七五年には福地氏と沼間氏とが少数の講演をやり、僅かの入場料を取った。一八七五年の後半期、講談会という名の、講演協会が創立された。福沢、小幡、井上、矢野、江木の諸氏その他の学者が、月に二回集った。講演を聞くのに、少額の入場料を取ったが、最初は、入場料を取ることが、無礼であるのみならず、非常に不適当だというので、会員のある者は大きに反対した。一八七八年には、新講談会として知られる別の会が組織され、一八七八年九月二十二日に最初の会合をひらいた。江木氏は米国風に、公開講演を金の支払われる職業にしようと企てた。が、入場料を取るというので、辞職した会員が又数名あった。講演は日曜日に行われ、毎回四つか五つの講演があり、そのあい間に数分間ずつの休憩時間があった。最初の課程で講演した人々の中には、杉、西、外山、河津、加藤、江木、菊池、沼間、福沢、佐藤、藤田、中村の諸氏、並にメンデンホール、フェノロサ、モースの三米人がいる。講演者は帝国大学の日米教授、政府各部の役人、新聞主筆、仏教僧侶その他の名士であった。講演は大きな会館で行われ、聴衆は平均六百人から八百人で、最後まで数が減じなかった。聴衆が畳を敷いた床の上に、押し合わずに坐り、注意深く、そして見受けるところ熱心に、宗教、天体、動物界等に於る進化に関する講義を了解しようとしている有様は、興味深く見られた。演壇がほんのすこし、畳を敷いた床よりも高い丈である。会場に人工的な暖房装置が無かったことは、いう迄もない。時々、私が厚い冬の長外套を着たままで講演せねばならぬ位、寒かった。私は靴を脱ぐ可く余儀なくされるので、空しく一箇所に立とうと努め、然し講演の終には私の足は非常につめたくなっている。講演が済むと聴衆の多くが、会場の他の場所にいる友人と挨拶を交わす為に、立ち上る。私は太った来聴者の坐っている場所に目をつけ、若し彼が立つと彼が坐っていた跡があたたかいので、そこへ行って次の講演が始る迄、足をあたためたものである。日本に於る私の初期の講演に際して、刀を帯びた巡査が私の横で椅子に坐り、聴衆の方を向いていたことは、奇妙な経験であった。故人になった私の友人江木氏は急進論者として知られており、彼が私の講演を通訳した。彼は、或は私をして、最も騒乱煽動的な文句を吐かしめたかどうか、僅かな日本語と表現としか知らなかった私には、知る由もない。その後講演をしている間に、私は時々通訳者の翻訳の意味をつかみ得る程度の日本語を覚え込んだので、二、三度、私は彼を訂正することを敢てした。私が彼等の言葉を了解し始めたことの実例であるこの事に対して、聴衆が示すうれしそうな、そして同情に富んだ表情は、まことに有難いものであった。

 以下に示すものは、講談会の最初の課程に於る主題の表である。

[やぶちゃん注:ここから以下は本書の最後の言葉の直前までが、以下に注する江木高遠が明治一一(一八七八)年九月二十一日に旗揚げした会費制学術講演会「江木学校講談会」の記録である(時間が二度目の来日時に巻き戻っていることに注意)。

「江木」既注であるが、そのまま再掲しておく。当時東京大学予備門の教諭(教授とは呼ばない)であった江木高遠(えぎたかとお 嘉永二(一八四九)年~明治一三(一八八〇)年)。以下、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載及びウィキの「江木高遠」によって記す。備後福山藩儒官で開国論者であった江木鰐水(がくすい)の第四子として福山に生まれ、安政三(一八五六)年七歳で藩校誠之館に入り、明治元(一八六八)年十九歳の秋には長崎でフルベッキに学んで、翌年、藩の推薦により東京の開成学校に転じた後、明治二(一八六九)年には慶應義塾に入ったが、明治三年二十一で華頂宮博経親王(かちょうのみやひろつねしんのう:伏見宮邦家(くにいえ)親王第十二王子。知恩院門跡から勅命により還俗して華頂宮家を創立。明治三(一八七〇)年に志願して皇族の海外留学第一号となり、アメリカで海軍軍事を学び、帰国後は海軍少将となったが、明治九年二十六歳で夭折した。)の随員の一人としてニューヨークへ渡り、コロンビア法律学校(現在のコロンビア大学)に学んで法学と政治学を修めた(途中、病気の親王と帰国、一八七四年に再渡米して一八七六年に卒業、その間の一八七五年には後の専修大学の母体である日本法律会社の結成にも関わっている)。帰国後、翌明治一〇(一八七七)年に東京英語学校教諭に着任、東大設立後は予備門の英語教諭を勤めたが、外山正一・井上良一両東大教授と並ぶ論客として独自の視点から啓蒙講演会の組織的運営を企画して名声を馳せた。明治一一(一八七八)年六月三十日には「なまいき新聞発刊記念講演」(『なまいき新聞』は、同六月、生意気新聞社が創刊した週刊新聞。同年十月には『芸術叢誌』と改名して美術雑誌となった)と称し、浅草井生村(いぶむら)楼に於いて五百人を超す客を集め、考古学と大森貝塚発掘に関するモースの講演会を開いている。この時は井上がモースを紹介江木が通訳した。これが濫觴となって同年九月二十一日に会費制学術講演会「江木学校講談会」を発足させた。社員(常任講師)として、外山正一・福沢諭吉・西周¥河津祐之(後の東京法学校校長)・藤田茂吉(『生意気新聞』主筆)・モースが名を連ねた。この講談会は明治一二(一八七九)年十月まで三十回近く催され、常任講師のほかにも長谷川泰(日本医科大学の前身「済生学舎」創設者)・沼間守一(自由民権家として知られたジャーナリスト)、トマス・メンデンホール(モースの推薦によって明治十一年に東京帝国大学物理教師となり富士山頂で重力測定や天文気象の観測を行った本邦の地球物理学の租。本郷区本富士町(現在の文京区本郷七丁目)に竣工した東京大学理学部観象台の観測主任ともなった)やアーネスト・フェノロサなども登壇した。この間、江木は明治一一(一八七九)年十二月に東大を去り、元老院大書記官となるも、直ぐに外務省一等書記官に転じた。明治十三年三月、帰任の吉田清成駐米大使に随行してワシントン公使館員として赴任したが、同年六月六日、公使館内に於いてピストル自殺した。享年三十一。自殺の動機については磯野先生によれば、『無関税で工芸品をアメリカに持ち込んだことを、在米日本人業者から糾弾されたためという』とある。

「福沢」福沢諭吉。

「一八七一年」(明治四年)「数名の学者が集り、論文や評論を読んだ」不詳。識者の御教授を乞う。

「一八七三七四年」(明治六~七年)「明六社と称する会が、年長な学者達によって組織された」明治初期の啓蒙思想団体。森有礼の主唱によって西村茂樹・津田真道・西周・中村正直・加藤弘之・福沢諭吉・箕作秋坪・神田孝平らを社員として明治六年に結成。名前は元号年に由来(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ウィキの「明六社」によると、会合は毎月一日と十六日に開かれ、会員は旧幕府官僚で開成所『関係者と慶應義塾門下生の「官民調和」で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派や日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族が入り乱れる日本の錚々たるメンバーが参加した』。翌明治七年三月より機関誌『明六雑誌』の発行も開始され、『開化期の啓蒙に指導的役割を果たしたが』、明治八(一八七五)年に『太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行されたことで機関誌の発行は』第四十三号で中絶、『廃刊に追い込まれ』た。『その後、明六社は明六会となり、福澤諭吉を初代会長とする東京学士会院、帝国学士院を経て、日本学士院へと至る流れの始原でもあった』とある。

「一八七四七五年」(明治七~八年)「福地氏と沼間氏とが少数の講演」「福地」は明六社会員で東京日日新聞主筆であった福地源一郎(天保一二(一八四一)年~明治三九(一九〇六)年)ペン・ネームは桜痴。「沼間」は旧幕臣で元老院大書記官であった、やはり明六社会員沼間守一(ぬま もりかず/しゅいち 天保一四(一八四四)年~明治二三(一八九〇)年)。後の明治一一(一八七八)年には政治結社嚶鳴社(おうめいしゃ)を設立した。

「一八七五年」(明治八年)「の後半期、講談会という名の、講演協会が創立された」不詳。江木が含まれているから、プレ江木学校講演会のようなものか?

「小幡」「学問のすゝめ」初編を福澤と共著した後に第三代慶應義塾塾長となった小幡篤次郎(おばたとくじろう 天保一三(一八四二)年~明治三八(一九〇五)年)か? 旧中津(現在の大分県中津市)藩士。後に初の東京学士会院会員(明治一二(一八七九)年)・貴族院議員。

「井上」「新体詩抄」の哲学者井上哲次郎(安政二(一八五六)年~昭和一九(一九四四)年)か?

「矢野」後のジャーナリストの矢野龍渓(嘉永三(一八五一)年~昭和六(一九三一)年)か?

「新講談会として知られる別の会が組織され、一八七八年」(明治十一年)「九月二十二日に最初の会合をひらいた」学術講演会である新江木学校講談会。

「杉」前出既注の杉亨二。

「西」言わずもがな、明六社社員であった思想家西周(にしあまね 文政一二(一八二九)年~明治三〇(一八九七)年)。

「外山」何度も出た東京大学教授(社会学)外山正一。

「河津」河津祐之(かわづすけゆき 嘉永二(一八四九)年~明治二七(一八九四)年)。当時は元老院書記官。後の大阪控訴院検事長・名古屋控訴裁判所検事長・司法大書記官・司法省刑事局長・逓信次官等を歴任、東京法学校(現法政大学)校長(刑事局長現任で着任)でもあった。

「加藤」複数回既出既注の東京開成学校綜理・東京大学法文理三学部綜理加藤弘之。

「菊池」既出既注の数学者で東京大学理学部教授菊池大麓。福沢諭吉とは盟友。

「佐藤」ウィキの「江木高遠」の記載から、実業家佐藤百太郎(ももたろう 嘉永六(一八五三)年~明治四三(一九一〇)年)であろう。日米貿易の先駆者で本邦の百貨店創始者でもあり、日本領事をも務めた。

「藤田」ジャーナリスト藤田茂吉(嘉永五(一八五二)年~明治二五(一八九二)年)。福沢諭吉の弟子で郵便報知新聞社に入社、同主筆となった。後に衆議院議員。

「中村」ウィキの「江木高遠」の記載から、啓蒙思想家で文学博士中村正直(天保三(一八三二)年~明治二四(一八九一)年)であろう。彼は『明六雑誌』の執筆者でもあった。

「メンデンホール」既出既注のモースが招聘した当時の東京大学理学部物理学教授トマス・メンデンホール(Thomas Corwin Mendenhall 一八四一年~一九二四年)。

 以下、底本では有意に一行空けがある。]

 

 九月二十一日。

  外山氏。 公開演説及び講演に就て。

  河津氏。 代読議会の利害。

  藤田氏。 協同の必要。

  西氏。 祝辞。

  福沢氏。 彼の「国民の権利」に対する批評。

  モース氏。 祝辞。

 十月六日。

  長谷川ドクタア(市病院)。 不潔な水を飲む弊害。

  沼間氏。 内外国法の衝突。

  島地氏。 価値論。

  菊池氏。 太陽系の進化。

  大内氏。 婦人により社会的な権利をゆるす利益。

  メンデンホール氏。 序論。

 十月二十日。

  菊池氏。 太陽系の進化(続)。

  モース氏。 昆虫の生活。

  加藤氏(帝国大学総理)。 本居と平田の説に就て。

[やぶちゃん注: 以下の( )部分は底本では全体が四字下げ。]

(この二人は日本には日本固有の文明があるのだから、支那の文明を棄てねばならぬと信じた、昔の日本の学者である。)

  外山氏。 連想に就て。

  杉氏。 道徳的統計。

 十月二十七、二十八、三十一日及び十一月二日。

  モース氏。 ダーウィニズム四講。動物界の進化。

 十一月十日。

  江木氏。 陸海軍に就て。

  西氏。 練習は完全にする(続)。

  フェノロサ氏。 宗教の進化。

  小野氏。 言論戦(雄弁の説伏力を示す)。

  藤田氏。 四十七浪士に就て。

 十一月十七日。

  福沢氏。 国民の権利(治外法権)。

  菊池氏。 太陽系の将来。

  外山氏。 外国交際に関することは容易に変更し難し。

  フェノロサ氏。 宗教の進化(続)。

 十二月一日。

  河津氏。 社会主義の不条理。

  フェノロサ氏。 宗教の進化(終結)。

  モース氏。 氷河説。

  辻氏。 美術に就て。

 十二月十五日。

  江木氏。 見せかけの美徳に就て。

  菊池氏。 何がよき政府を構成するか。

  藤田氏。 小切手の必要。

  杉氏。 道徳的統計。

 一月五日。

  菊池氏。 広く進化に就て。

  外山氏。 五官の錯覚。

  モース氏。 動物生長の法則。

  中村氏。 社会の善と悪。

  加藤氏。 会員へ数言。

  佐藤氏。 頭脳の涵養。

  江木氏。 密告人に賞を与える弊害に就て。

[やぶちゃん注:「長谷川ドクタア(市病院)」不詳。後段に「市立病院の医師」とあるのみ。

「島地」浄土真宗本願寺派の僧島地黙雷(しまじもくらい 天保九(一八三八)年~明治四四(一九一一)年)。周防国(現在の山口県)和田の生まれ。西本願寺の執行長。ウィキの「島地黙雷」によれば、明治元(一八六八)年に『京都で赤松連城とともに、坊官制の廃止・門末からの人材登用などの、西本願寺の改革を建白』、明治三(一八七〇)年には『西本願寺の参政となった』。明治五(一八七二)年、『西本願寺からの依頼によって左院視察団と同行、ヨーロッパ方面への視察旅行を行なった。エルサレムではキリストの生誕地を訪ね、帰り道のインドでは釈尊の仏跡を礼拝した。その旅行記として『航西日策』が残されている。「三条教則批判」の中で、政教分離、信教の自由を主張、神道の下にあった仏教の再生、大教院からの分離を図った。また、監獄教誨や軍隊布教にも尽力した』とある。明六社会員。

「大内」仏教学者大内青巒(おおうちせいらん 弘化二(一八四五)年~大正七(一九一八)年)仙台出身。ウィキの「大内青巒」によれば、『常陸国水戸で出家して泥牛と号し、その後江戸へ出て仏教の研究を志した。明治維新後は、大洲鉄然の推挙により浄土真宗本願寺派本山本願寺(西本願寺)』第二十一世宗主であった『大谷光尊の侍講をつとめた』。明治七(一八七四)年に雑誌『報四叢談』、翌年には新聞『明教新報』を発刊、『仏教における啓蒙思想家として活動した』。後の明治二二(一八八九)年には『島地黙雷・井上円了らとともに天皇崇拝を中心とする仏教政治運動団体「尊皇奉仏大同団」を結成し』ている。後に東洋大学学長。

「小野」法学者で政治運動家であった小野梓(あずさ 嘉永五(一八五二)年~明治一九(一八八六)年)。ウィキの「小野梓」によれば、土佐国宿毛(高知県宿毛市)出身(男性である)。専門は英米法で、『親友であった大隈重信を助け、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立の事実上の中心者となり早稲田大学建学の母とも言われている。ジェレミー・ベンサムの思想を分析した』とある。

「辻」後段の記載とウィキの「江木高遠」の記載から、文部官僚辻新次(つじしんじ 天保一三(一八四二)年~大正四(一九一五)年)である。旧松本藩士。ウィキの「辻新次」によれば、慶応二(一八六六)年に『開成所化学教授手伝並となり、明治に入ってからは大学助教、次いで大学南校校長となった。また』、明治四(一八七一)年の『文部省出仕以降は、学制取調掛、学校課長、地方学務局長、普通学務局長、初代文部次官を歴任。明治前半期のほとんどの教育制度策定にかかわったため、「文部省の辻か、辻の文部省か」と言われ』、『また「教育社会の第一の元老」、「明治教育界の元勲」などと評された。この間、明六社会員となり、大日本教育会(後に帝国教育会)、仏学会、伊学協会の各会長にも就任している』。明治二五(一八九二)年の『文部省退官後は貴族院勅選議員、高等教育会議議員、教育調査会委員に選ばれたほか、仁寿生命保険、諏訪電気、伊那電車軌道の社長を務めた』とある。

 以下、底本では有意に一行空けがある。]

 

 

 日本人の智的活動に対する内観は、単に日本語に翻訳されて何千と売られる本によってのみならず、これ等の公開講演で取扱われる主題によっても、得ることが出来る。私はボストンに於るローウェル・インスティテュートの無料公開講演【*】のみを恐らくの例外として、それ以外北米合衆国に、これに比較すべき公開講演会のあるのを知らぬ。

 

 

*我国に於る公開講演は、三十年前の高い標準から、幻灯の見世物、音楽の余興等に堕落し、思慮ある、或は科学的な講演は稀にしか無い。

[やぶちゃん注:「ボストンに於るローウェル・インスティテュート」既出既注。]

 

 

 聴衆の智的性格は、彼等が、僅かな休憩時間が間にありはするが、四つか五つの、各一時間かかる講義の間、辛抱強く坐り続けるという事実から判断することが出来る。米国あるいは他の国の、如何なる講演会の聴衆が、かかる試煉に堪え得よう。

 

 この協会の最初の課程で講義した人々のある者の、公人としての位置は以下の如くである。藤田氏は東京の日刊新聞主筆、西氏は以前兵部省の書記官、福沢氏は有名な先生で、新しい地方議会の代議員、長谷川氏は市立病院の医師、沼間氏は元老院書記官、島地氏は仏教の説教師、菊池氏は帝国大学数学教授でケンブリッジ大学数学学位試験一級及第者、大内氏は仏教雑誌の主筆、加藤氏は帝国大学総理で有名な蘭学者、外山氏は哲学の教授でミシガン大学卒業生、杉氏は統計局の長官、河津氏は元老院書記官、江木氏は帝大教授、小野氏は元老院書記官、辻氏は文部省書記官。

[やぶちゃん注:「菊池氏は帝国大学数学教授でケンブリッジ大学数学学位試験一級及第者」既注の菊池大麓は『蕃書調所(東京大学の前身)で英語を学び』、慶応三(一八六七)年と明治三(一八七〇)年の二度に渡って『英国に留学』、二度目の留学時に『ケンブリッジ大学で数学と物理学を学び学位を取得』している(ウィキの「菊池大麓」に拠る)。

「外山氏は哲学の教授でミシガン大学卒業生」外山正一は『勝海舟の推挙により』、慶応二(一八六六)年に、前注した『中村正直らとともに幕府派遣留学生として渡英、イギリスの最新の文化制度を学』んだが、幕府瓦解によって明治二(一八六九)年に帰国、一時、『東京を離れて静岡で学問所に勤めていたが、抜群の語学力を新政府に認められ』、翌明治三年に『外務省弁務少記に任ぜられ』て渡米、翌一八七一年(明治四年)、『現地において外務権大録になる。しかし直ちに辞職し』、『ミシガン州アンポール・ハイスクールを経てミシガン大学に入学。おりしも南北戦争の復興期であったアメリカの地で、哲学と科学を専攻』、明治九(一八七六)年に帰朝している(ウィキの「外山正一」に拠る)。]

 

 一八八二年秋、文部省が各県の主な先生達を東京に招集し、彼等の仕事に関する打合せをさせた。いろいろな質問が起った中に、学校に於る物理教育に関するものがあった。多くの人によって、この目的に使用する器械を購入することは彼等の力以上であり、そしてこれ等の器械が無くては、進歩が更にはかどらぬということが強調された。そこで東京師範学校の生徒達が、これ等の物理教授に必要な器械が、如何に安価に、容易に出来るかを示す目的で、いくつかの装置をつくることを決心した。会議が終る迄に、生徒達は五十六の器械をつくり、それ等を、それ等の構造に要した材料の一覧表と共に、演壇上に陳列した。材料というのが硝子や針金の小片、瓶、コルク、竹等、どこの唐物店ででも手に入れることが出来るような品である。ここにかかげる器械の表に依て、日本人が物理学を覚え込むに適した学徒であるのみならず、彼等がそれを標示するのに使用する道具をつくる上に、非常な巧さを示したことが知られる。私は学生がこのような原始的な器械の構造を研究し極め、そしてそれをつくることによって、どれ程物理学をはっきり会得するであろうかを考えざるを得なかった。このようなお手本は、我国の学生が、北部米国人特有の水兵小刀に対して持つ器用さと巧妙さとにより、更に住宅附近でもより多く手に入れ得る材料を使用して、真似をしても利益あることである。

[やぶちゃん注:以下、底本では有意に一行空けがある。]

 

 

 装置の表

  一 天秤

  二 分銅ある天秤

  三 振子

  四 遠心力磯

  五 斜面路

  六 重力の中心、二重円錐

  七 振子つきの降下秤

  八 重力の中心、平衡

  九 槓杆均衡

 一〇 ヘロス噴水

 一一 吸上喞筒(ポンプ)

 一二 凝集文様

 一三 斜面路あるベーカアの輪機

 一四 押揚喞筒

 一五 気圧の標示

 一六 ガイスラーの空気喞筒

 一七 吸引の標示

 一八 徴圧計のある空気受

 一九 空気受のある気圧計

 二〇 風車

 二一 吸引の標示

 二二 空気喞筒の排気と圧搾

 二三 音叉

 二四 鈴の震動

 二五 二種の共鳴器あるサヴェール器

 二六 弦のあるソノメータア

 二七 波動現象

 二八 共鳴器

 二九 高温計

 三〇 固体の膨張

 三一 角度鏡

 三二 ラムフォードの光度計

 三三 気体の流出

 三四 光線の実験

 三五 暗箱

 三六 光線の連続

 三七 光線の拡散

 三八 空胴角壔

 三九 目盛表示器つき気体の膨張

 四〇 液体の膨張

 四一 寒暖計の図解

 四二 磁針

 四三 磁針と台

 四四 電気振子

 四五 万能放電機

 四六 電気毬

 四七 電振子

 四八 放電機

 四九 絶縁台

 五〇 警鈴

 五一 電輪

 五二 ナイルンの電気器

 五三 ライデン瓶

 五四 検流計

 五五 電鍵

 五六 引力電池

[やぶちゃん注:ここは全原文を示す。原本では標題List, of devicesが中央インデント、各項目が半角十七字下げである。言っておくと、私は理科では唯一、物理が苦手であった。

   *

 

List, of devices

 

1. Balance.

2. Balance with weights.

3. Pendulum.

4. Centrifugal machine.

5. Inclined plane.

6. Centre of gravity, double cone.

7. Dropping-machine with pendulum.

8. Centre of gravity. Equilibrist.

9. Lever balance.

10. Heros fountain.

11. Suction pump.

12. Cohesion figures.

13. Barker's mill, with inclined plane.

14. Forcing pump.

15. Illustrating air pressure.

16. Geissler's air pump.

17. Illustrating suction.

18. Air receiver, with manometer.

19. Baroscope, with air receiver.

20. Windmill.

21. Illustrating suction.

22. Air pump exhausting and condensing.

23. Tuning-fork.

24. Vibration of bell.

25. Savert's apparatus, with two kinds of resonator.

26. Sonometer, with bow.

27. Wave phenomena.

28. Resonator.

29. Pyrometer.

30. Expansion of solid.

31. Angle mirrors.

32. Rumford's photometer.

33. Efflux of gas.

34. Light experiment.

35. Camera obscura.

36. Continuation of light.

37. Diffusion of light.

38. Hollow prism.

39. Expansion of gas, with index.

40. Expansion of liquids.

41. Illustration of thermometer.

42. Magnetic needle.

43. Magnetic needle, with stand.

44. Electric pendulum.

45. Universal discharger.

46. Electro ball.

47. Electro pendulum.

48. Discharger.

49. Insulating stool.

50. Alarum bell.

51. Electro wheel.

52. Nairne's electro machine.

53. Ley den jar.

54. Galvanometer.

55. Galvanic keys.

56. Gravitation battery.

 

   *

 以下、私の想起し難いものを注する。よく判らないが多分あんなもん、こんなもんだろうぐらいな推論が私に出来るものは注さなかった。中には、御大層な名称の割には昔の少年雑誌の付録見たようなものも含まれているやにも思われる。

「五 斜面路」斜面上の運動の模式器械。物理演習でしばしば行われる運動方向と運動方向と垂直な方向に分解する際のモデルとなる単一器械。

「六 重力の中心、二重円錐」ローリング・ダブル・コーン或いは円錐斜面と訳されるモデル機器。グーグル画像検索「DOUBLE CONE AND RAMPをリンクさせておく。

「吊り合わせ機構に振り子を用いた秤(はかり)。傾斜梃子(てこ)式秤の一種。基本的には竿に錘(おもり)を固定して振り子を形成させ、梃子の重点に吊るした物体と振り子の復元力とを吊り合わせておき、その梃子の傾きから重さを読み取るもの。

「九 槓杆均衡」「槓杆」は「こうかん」と読み、単純器械の梃子のこと。

「一〇 ヘロス噴水」ヘロンの噴水(Heron's fountain)。一世紀頃のアレクサンドリアのヘロンが発明した水力装置。『ヘロンは気圧や蒸気を研究し、世界初の蒸気機関(アイオロスの球)などを記録に残している。ヘロンの噴水も同様な玩具であり、水を噴き出させる。ヘロンの噴水を様々に変形させたものが、物理学の授業で水圧や空気圧の原理を示す実演に使われている』とウィキの「ヘロンの噴水」にある。リンク先に図と原理が載る。

「一二 凝集文様」物理の凝集力を示すための模式モデルか?

「一三 斜面路あるベーカアの輪機」「反動水車」或いは「ベーカー(氏)の水車」と呼ばれるもの。明治三八(一九〇五)年刊の関盛治「水力機械学」の国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像(解説と図有り。リンクは図のある頁)を視認されたい。

「一六 ガイスラーの空気喞筒」ドイツの物理学者で真空放電管「ガイスラー管」の発明者として知られるハインリッヒ・ガイスラー(Johann Heinrich Wilhelm Geißler 一八一四年~一八七九年)の水銀を使った真空ポンプのことか。

「一八 微圧計のある空気受」次と並置されているところからは、空気の圧力を知るための、恐らくは実験用のすこぶる簡単な器械であろう。

「一九 空気受のある気圧計」“Baroscope”というのは植村正治氏の論文工部大学校(工学寮)における博物場・器具室と実習用諸器具について(PDF)に「鋭感気圧計」などと訳されているから、本格的な気圧計であろう。

「二五 二種の共鳴器あるサヴェール器」サバー氏応響器と訳されるもの。国外のサイトの写真を見ると、円筒状のものとカップ状のものが並んでいる共鳴実験装置のようである。

「二六 弦のあるソノメータア」ソノメータ。海外サイトの画像を見ると、一弦琴の形状を成し、共鳴箱の上に複数の駒を挟んだが弦があり、弦を錘で調節して音を変化させる装置のようである。

「三一 角度鏡」鏡面の反射実験のための二枚(或いはそれ以上)の鏡を組み合わせたものか。

「三二 ラムフォードの光度計」ランフォード光度計。グーグル画像検索「Rumford's photometerをリンクさせておく。影の濃さで光度を現認する器械らしい。

「三八 空胴角壔」「角壔」は「かくとう」で「角柱」に同じく、二つの合同な多角形が平行し、他の面が総て平行四辺形である多面体を言うが、原文“Hollow prism”で判る通り、光実験などに用いる、透明なガラス板で作られた空洞の三角プリズムのことである。

「四六 電気毬」不詳。摩擦電気を帯びさせる実験用の帯電物質で出来たボールか? 静電発電機として知られるヴァン・デ・グラフ起電機(Van de Graaff generator)の発明はずっと後、四十六年後の一九二九年(昭和四年)であるから、この当時は存在しない。

「四七 電振子」先の「電気振子」が単純な静電気による垂下したものを運動させるものであるのに対し、こちらは本格的な球の振り子を電池によって動かすものであろう。

「五一 電輪」不詳。静電気によって円盤を回転させるものか?

「五二 ナイルンの電気器」イギリスの技師 エドワード・ネアン(Edward Nairne 一七二六年~一八〇六年)が発明した古典的な静電発生装置。ガラス絶縁体に取り付けられたガラス・シリンダーから成る。

「五三 ライデン瓶」静電気を蓄える装置。ウィキの「ライデン瓶」より引く。一七四六年に『オランダのピーテル・ファン・ミュッセンブルーク(ピーター・ヴァン・マッシェンブレーケ)によって発明されたとされるが、このような器具で静電気を溜めることができることは』、その三ヶ月前に遠ポメラニア(ポーランド語:Pomorze Tylne/ドイツ語: Hinterpommern)出身の『牧師エヴァルト・ゲオルク・フォン・クライスト(Ewald Georg von Kleist)が発見している。オランダのライデン大学で発明されたため、「ライデン瓶」の名がある。電気の実験用に広く使われ、ベンジャミン・フランクリンの凧揚げの実験にも使われた』。『ガラス瓶の内側と外側を金属(鉛など)でコーティングしたもので、内側のコーティングは金属製の鎖を通して終端が金属球となっているロッドに接続される。通常、電極とプレートで構成され、これらが二つの電気伝導体となる。これらが誘電体(=絶縁体。例えばガラス)によって切り離され、そこに電圧をかけると電荷が貯まることになる。原理的にはコンデンサと同じである』。『当初は、ガラス瓶の中に電気が溜まると考えられていたが、実際には』『絶縁された二つの導体の表面に溜まっているのであって、その間の空間には電気エネルギーが溜まっていることになる』。『一般に、静電容量は現在の電子回路に使われているコンデンサと比較すると、それほど大きなものではない。しかし、高い電圧を加えることによって多量の電荷を蓄えることが可能で、使い方によっては感電を生じさせるほどの威力を持っている』。『平賀源内が復元したことで知られるエレキテルにも、摩擦で生じた静電気を貯める機構としてライデン瓶が用いられている』とある。

「五五 電鍵」電気信号を断続して出力するための装置。モールス信号器。モールス符号はアメリカの発明家サミュエル・フィンレイ・ブリース・モールスによって一八三七年に実験され、三年後の一八四〇年に特許取得された。

「五六 引力電池」重力電池(gravity cell)のことであろう。サイト「電気の歴史イラスト館」の重力電池」に詳しい(リンク先に図有り)。一八六〇年代に『フランスのCallaudによってダニエル電池の素焼きの容器を使用しない電池』として発明されたもので、『構造はガラス容器の底に銅製の電極が置かれ、上部に亜鉛電極が吊り下げられて、容器の底部には硫酸銅の結晶片が敷き詰められ、ガラス容器は蒸留水で満たされ』る。『この状態で電流が流れると上部に亜鉛硫酸溶液(透明)の層ができ、下部の硫酸銅溶液(青)とは重力によって分離された状態にな』る『動作原理はダニエル電池と同じで』、『この電池の特徴は2種類の電解液が重力によって分離する(たとえば水の上に油が浮かぶように)ことで二つの電解液の混合を防止したことで』、『これによってイオンの移動を妨げる(内部抵抗)ものが無くなり、大きな電流が得られるようにな』ったが、一方で『振動や過大な電流を流すと電解溶液が混ざり合ってしまい』、『電圧が低下する』欠点はあった。『当時の英国や米国で電信の電源に使用され、保守が簡単であったことから、電池の寿命が近づくと電信員が消耗した部品や溶液を容易に取り替えることができる特徴があり、電信や電話の電源として1950年代まで使用され』たとある。

 以下、底本では有意に一行空けがある。]

 

 

 以下は構造に使用した物品の表である。銅・真鍮・鉄の針金、いろいろな形式の竹、糸と紐、大錐、ネジ錐、皿、端書、亜鉛板、鉄葉(ブリキ)、鉛の銃弾、古い腰掛、浅い木造の桶、箱の蓋、独楽、薄い板、葡萄酒の瓶、硝子の管、バケツ、洋灯の火屋、紙、厚紙、皮の切れはし、銅貨、貝殻、葡萄酒杯、水のみ、護謨管、水銀、蠟燭、硝子瓶、護謨毬、各種の縫針、麦藁、婦人用鋏、磁器の鉢、コップ、提灯、算盤玉、紙製の茶入、僧侶の鈴、製図板、鉤針、鏡面用硝子並に普通の板硝子、拡大鏡、羽板、封蠟、硫酸、時計の発条、小瓶、漏斗。

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