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2016/02/09

北條九代記 卷第七 北條泰時逝去 付 左近大夫經時執權

      ○北條泰時逝去  左近大夫經時執權

同六月下旬、右京大夫泰時、不例の氣まします。將軍家を初め奉り、嫡孫左近大夫將監經時以下、一門の輩は云ふに及ばす、勤仕(きんじ)の大名、小名に至る迄、汗を握り、息を呑みて、諸寺の祈禱、諸社の立願、醫師、陰陽師(おんやうじ)は、殿中に伺候して、百計(けい)すれども、效(しるし)を奏せず。遂に限(かぎり)を越え給はず、同十五日に、こと切れさせ給ひけり。惜むべし歎くべし、末世に比(たぐひ)なき、賢者として、國家の棟梁、政務の龜鏡(きけい)、その仁惠(じんけい)は廣く四海に蒙(かうぶ)り、その廉讓(れんじやう)は遍(あまね)く一天にわたりて、德を修め、道を行ひ、靡(なび)かぬ草木もなかりけるに、大年の極(きはま)るところ、六十二歳の春秋、忽に草頭(そうとう)の露とともに落ちて、風前の燈(ともしび)と同じく、消え給ふこそ悲しけれ。去年は、相模守時房卒去あり。今年は又、泰時逝去ありければ、古老の名臣、漸く絶えて、天下の政道、故實を失ふに似たるものか。貴賤多少の歎(なげき)、老若(らうにややく)遠近(ゑんきん)の愁(うれひ)、このとき電光のかけを託(かこ)ち、石火の飛ぶを恨む。山〔の〕内粟舟(あはふね)の御堂の傍に葬り奉り、諸將、挽歌を謠ひ、衆僧、經呪(きやうじゆ)を唱ふ。法名をば歡阿(くわんあ)とぞ號しける。この春、詠み給ひし「花の散りなん」といふ歌は、豫(かね)て是(これ)をや思召しぬらんと、殿中鎌倉近國迄も物の音(ね)をも鳴さず、野も山も、冴返(さえかへ)りたる有樣なり。中陰の御弔(とぶらひ)、結緣参詣(けちえんさんけい)の輩、墓地の邊(あたり)は、晝夜の境もなく、人の立ち止(やむ)時はなし。是(これ)、偏(ひとへ)に御在生の内、邪(よこしま)なく、恩を施したまひける名殘とぞ覺ゆる。仁治四年二月二十六日に、改元ありて、寛元と號せらる。同六月十五日、泰時聖靈(しやうりやう)の一周關(しゆうくわん)の御佛事を粟舟(あはふね)の御堂にしてとり行はる。左近〔の〕大夫將監(しやうげん)經時、舎弟左近將盛時賴以下の一族、のこらず参詣あり。曼荼羅供(まんだらぐ)の法會(ほふゑ)、導師は大阿闍梨信濃法印道禪(だうぜん)、講衆十二口(く)、この供養は、幽儀(いうぎ)御在生(ございしやう)の時、殊に信心を凝(こら)し給ふ。さこそは今も受け悦び給ふらんと、殊勝なる中にも昔を慕(した)ふ涙の雨、何(いづれ)の袖も沾(ぬ)れにけり。左近大夫經時、先に相變らず、執權を勤むべき由、將軍家、殊に仰出(おほせいだ)され、諸事の政務、前右京兆(うけいてう)の式目をぞ守られける。同七月八日、北條左近〔の〕大夫經時を武蔵守に任じ、時房の四男、朝直(あさなほ)を遠江守に任ぜらる。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十四の仁治二(一二四一)年六月二十七日、寛元元(一二四三)年六月十五日、七月十八日に基づくが、「吾妻鏡」は北条泰時の逝去(仁治三(一二四二)年六月十五日)を含む、仁治三年のパートがごっそり欠損している。

「同六月下旬」前が誤っているのでこの「同」は意味を成さない(前が誤って「仁治三年」としている結果、たまたま「同」は正しい年号になるというだけに過ぎない)。また、本文にある通り、六月十五日に泰時は逝去しているので「下旬」も誤りで、「上旬」とすべきところであろう。但し、実は前年の仁治二(一二四一)年六月二十七日に、泰時は体調を崩して祈禱その他が行われているが、この時は凡そ一ヶ月後の七月二十日に回復していることが「吾妻鏡」から判る。この「下旬」はここと混同している可能性が窺える。なお、彼の死因についてウィキ北條泰時には、京の公家の日記「経光卿記抄」の同年六月二十日の条によれば、『日頃の過労に加えて赤痢を併発させ』、六月二十六日の条には『高熱に苦しみ、さながら平清盛の最期のようだったと伝え』るとし、『皇位継承問題が大きな心労になったともされている』ともある。

「右京大夫泰時」前と同じく「左京大夫泰時」の誤り。

「龜鏡(きけい)」「ききやう(ききょう)」とも読む。「亀鑑(きかん)」と同義。手本。模範。「龜」は古代の亀占(きぼく:カメの甲を焼いて吉凶を判断したこと)に由来する。

「廉讓」清廉(心が清らかで私欲がないこと)で、よく人に譲ることを言う。

「六十二歳の春秋」泰時は現行では寿永二(一一八三)年生まれとされるから、享年は五十九である。

「去年は、相模守時房卒」一昨年の誤り。延応二(一二四〇)年一月二十四日逝去。

「石火の飛ぶを恨む」火打ち石の飛ぶ火花が一瞬であるように人の命の短いことを恨む。

「粟舟の御堂」神奈川県鎌倉市大船にある臨済宗建長寺派粟船山(ぞくせんざん)常楽寺。創建時は「粟船御堂(あわふねみどう)」と呼ばれ、北条泰時夫人の母追善供養のために建立されたもので、創建当時は密教系(或いは浄土系とも)の寺であったとも言われる。現在の「大船」の地名はもとはここまで相模湾から粟を積んだ大船が遡上出来たことに由来するこの「粟船」に基づく。

『この春、詠み給ひし「花の散りなん」』「この春」は一昨年の春の誤り。前章参照。

「曼荼羅供」は法要の名。「曼陀羅供」とも書く。略称は「曼供(まんく)」。金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅の絵図を中心に据えた法要で、真言系・天台系諸宗で勤める密教立ての法要の中では最も華やかな法会。大壇(だいだん)を設けてその前の礼盤(らいはん)に導師が登り、この法要独自の修法を行う。職衆(しきしゅう)はその間に声明(しょうみょう)を唱える他、真言系では声を揃えて呪を誦したり、読経を行ったりする(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「北條左近大夫經時」北条泰時嫡男北条時氏の長男北条経時(元仁元(一二二四)年~寛元四(一二四六)年)は、この寛元元(一二四三)年当時は未だ満十九歳であった。

「時房の四男、朝直」北条朝直(建永元(一二〇六)年~文永元(一二六四)年)は初代連署北条時房四男で評定衆の一人。大仏(おさらぎ)流北条氏祖。ウィキの「北条朝直」によれば、『時房の四男であったが長兄時盛は佐介流北条氏を創設し、次兄時村と三兄資時は突然出家したため、時房の嫡男に位置づけられて次々と出世』したが、正室が伊賀光宗の娘で、貞応三(一二二四)年の伊賀氏の変で光宗が流罪となり、嘉禄二(一二二六)年には当時の執権『北条泰時の娘を新たに室に迎えるよう父母から度々勧められ』たものの、二十一で無位無官の朝直は『愛妻との離別を拒み、泰時の娘との結婚を固辞し続け』『翌月になっても、朝直はなおも執権泰時、連署である父時房の意向に逆らい続け、本妻との離別を哀しむあまり出家の支度まで始めるという騒動になっている。その後も抵抗を続けたと見られるが』、五年後の寛喜三(一二三一)年四月には、『朝直の正室である泰時の娘が男子を出産した事が『吾妻鏡』に記されている事から、最終的に朝直は泰時と時房の圧力に屈したと見られ』、『北条泰時から北条政村までの歴代執権に長老格として補佐し続けたが寄合衆にはついに任じられなかった』とある。寛元元(一二四三)年当時は満三十七歳。]

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