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2016/02/25

生物學講話 丘淺次郎 第十八章 教育(3) 四 人間の教育

 

     四 人間の教育

 

 以上述べた通り、鳥類にも獸順にも子を教育するものは幾らもあり、その方法の如きも一定の規則に從うて居るが、人間の教育に比べては素より簡單極まるものである。しからば人間に於てのみ、教育が他に飛び離れて複雜になつたのは何故かと尋ねると、その原因はいふまでもなく言語と文字との發達にある。音によつて互に通信することは動物界に決して珍しくはないが、人間の如くに音を組み合せて一々特殊の意味を表すやうな言葉を用ゐるものは他にはないから、「人は言語を有する動物なり」と、いひ放つても敢へて誤りではなからう。しかも言語のみがあつてまだ文字がなかつたならば、子を教育するに當つても、先祖からのいひ傳へを親が記憶して置いて子に傳へるといふことが、他の動物に異なるだけで、それ以外に多くの相違はない。現に文字を知らぬ野蠻人が、子を教育する程度は猫や虎に比べて著しくは違はぬ。しかるに一旦文字なるものが發明せられると、その後は子の受くべき教育の分量はたゞ增す一方で、殆どその止まる處を知らず、終には一生涯の大部分をもそのために費さざるを得ぬやうになつて、人間の教育と他の動物の教育との間に、甚しい懸隔を生ずるのである。

 

 抑々文字は腦髓の記憶力を助けるための補助器官である。初は繩に結び玉を造り、棒に切れ目を附けたたりしただけであつたのが、段々進歩して今日見る如き便利なものまでになつたが、かく便利な文字が出來た以上は、これを用ゐて無限に物を記憶することが出來る。腦髓ばかりで記憶して居た頃は、恰も猿が食物を頰の囊に貯へる如くで、身體の一隅に溜め込むだけであるから、その量にも素より狹い際限があつたが、文字を用ゐて、腦髓以外に記憶し得るやうになると、丁度畑鼠が米や麥の穗を自分の巣の内に貯藏すると同じ理窟で、孔さへ廣く掘れば幾らでも限なく溜めることが出來る。かやうな次第で、人間は文字の發明以來、日々の經驗によつて獲た新な知識を文字に收めて貯へ來つたが、人間の生存競爭に於ては知識が最も有效な武器であるから、敵に負けぬためには子を戰場に立たせる前に、これに十分の知識を授けて置かねばならぬ。敵に比べて知育が著しく劣つて居ては、その民族は平時にも戰時にも競爭に勝つ見込みが立たぬから、常々子弟に十分な知識を與へて置かぬと親は安心して死なれぬ。さらば、今日の文明國に於ける教育の狀態を見ると、傳來の迷信のために隨分無駄なことをして居る部分もあるが、大體は、敵に負けぬだけの知識を授けることを務めて居る。そしてその知識は文字によつて腦髓以外に貯藏せられ、蓄積せられ得べきものである 人間の教育が他の動物の教育と異なる所は主としてかゝる種類の知識を子弟に授ける點に存する。

 

 世間には單に理論の上から教育を三分して、知育・德育・體育とし、いづれにも偏せぬやうに平等に力を盡すがよいと説く人もあるが、以上述べた所から考へると、この三種の教育は決して對等の性質のものではなく、且如何に平等に取扱うても、その效果は頗る不平等なるを免れぬであらう。人間の教育に就いて詳しく述べることは、本書の趣意でもなく、また門外漢なる著者の能くする所でもないから、他はすべて略して、こゝには以上の三育の效果の相異ならざるべからざる理由を一言するだけに止める。

 

 知育は特に人間に取つて大切な教育でゐつて、且その效果も頗る著しく現れる。學校の課程を見ても、その大部分は知育に屬するもので、生徒の知識が如何に一年毎に進み行くかは誰の目にも明に知れる。試に學校を踏んで來た子供と、學校へ行つたことのない子供とを比べたら、その知識の相違は非常なもので、今日の社會では「いろは」も讀めぬやうな者は殆ど用ゐ途がない。即ち知育は行へば行うただけ效果の擧るもので、異民族が互に競爭する場合には相手に負けぬために出來るだけ程度を高めることが必要であり、また高めれば必ずそれだけの效果がある。されば今後は各民族は競うて知育の程度を高めるであらうが程度を高めればそれだけ教育の年限が長くなるを免れぬ。新な知識は年と共に積るばかりであるが、舊い知識がそのため不用になるわけでもないから、授くべき教材は年々多くならざるを得ない。エッキス光線・無線電信・飛行機・潛航艇のことを追加して教へるからというて、その代りに物理學教科書の最初の數頁を破り捨てるわけには行かぬから、いづれの學科に於ても、やはり「いろは」から始めて最新の發見まで授けることとなり、これを滿足に教へるには次第次第に教育の年數を增さねばならぬ。如何に教授法が巧になつても、教材が無限に殖えては、時間を延長するより外に途はない。しかし教育の年限をどこまでも延すことは、無論出來ぬことであつて、人間僅か五十年の中、二十歳で丁年に達しながら四十歳まで學校に通ふやうでは、到底教育費と生産力との釣合が取れぬ。それ故、もし各民族がどこまでも競うて知育を高めたならば、今日大砲や軍艦の大きさ、飛行機や潛航艇の數を競爭して互に困つて居る如くに、知育の競爭に行き詰つて、互に閉口する時節が早晩來るであらう。

[やぶちゃん注:本書は大正五(一九一六)年刊である。丘先生の警鐘は今もそのままに新しい、いや、寧ろ、より深刻――ヒトという種の滅亡を間近に感ずる現在という点に於いて――な様相を呈しているではないか。

「用ゐ途がない」学術文庫版では『用(もち)いる途(みち)がない』とある。確かに「る」脱字が疑われはするが、暫くママとする。

「エッキス光線」エックス線。レントゲン線のこと。]

 

 徳育は知育と違うて、骨を折る割合に效果が擧るか否か頗る疑はしい。團體生活を營む動物が互に競爭するに當つて最も大切なことは協力一致・義勇奉公の精神であるが、この精神は如何にして養成せられるかといふに、數多の小團體が絶えず劇烈に競爭して勝つた團體のみが生き殘り、敗けた團體が亡び失せるによるの外はない。かくすれば、一代毎に必ず少しづつ、義勇奉公といふ如き團體的競爭に勝つべき性質が進歩して、終に今日の蜜蜂や蟻に見る如き程度までに發達する。しかるに近世の人間は、民族間に絶えず紛議があるに拘らず、敗けた團體が全部亡びるといふ如きことは決してなく、生まれながら義勇奉公の念の稍々僅い者も稍々弱い者も均しく生存の機會を得るから、この精神の進歩すべき望がなくなつた。その上、團體内に於ける個人間の競爭では、義勇奉公の念の薄い者の方が勝つやうな事情も生じて、この精神は寧ろ漸々滅び行くものの如くに見える。教育者は往々、教育の力によつて如何なる性質の人間をも、注文に應じて隨意に造り得るかの如くにいふが、實際は決して人形師が人形を造るやうには行かず、各個人の性質は先祖及び父母からの遺傳によつて、生まれたとき既に大體は定まり教育者は僅ばかりこれを變更し得るに過ぎぬ。教育の力によつて、手の指を一本殖やすことも減らすことも出來ぬと同じく、腦髓の細胞を竝べ直して、義勇奉公の念を自然に強くすることは到底出來ぬであらう。かやうな次第であるから、德育は今後如何に力を盡しても、決して知育に於ける如き目覺しい效果の擧らぬのみならず、知育が進めば惡事も益々巧にするやうになるから、これに對抗するだけでもなかなか容易ではなからうと思はれる。

[やぶちゃん注:私にはこの「團體」という熟語が「國體」に見える。]

 

 しからば體育は如何といふに、これまた十分に效果の擧らぬ事情がある。一體ならば子供を學校などへやらずに、自由自在に「鬼ごと」・「木登り」・「水泳ぎ」・「角力取り」などさせて置くのが、體育のためには最も善いのであるが、種族生存の必要上、知育を盛にせねばならず、そのためには、動きたがる子供等を強ひて靜に坐らせ、勉強させるのであるから、體育の方からいふと知育は無論有害である。しかるに知育はこれを減ずることが出來ぬのみならず、今後は他民族との競爭上益々增進する必要があり、なるべく短い時間になるべく多くの知識を授けようとすれば、勢ひ體育の方はそれだけ迫害せられるを免れぬ。小學校の一年から六年まで、中學校の一年から五年までと級が進むに隨つて、一年增しに毎日坐らせられ俯向かせられる時間が長くなつて、身體の自然の發育は次第に妨げられるが、これも種族の維持繼續の上に必要であるとすれば、止むを得ぬこととして忍ぶの外はない。なほその他にも今日の人間の身體を少しづつ弱くする原因が澤山にある。されば體育は今後如何に力を盡しても、知育を暫時廢止せぬ以上は、たゞ知育のために受ける身體上の損害を幾分か取り消し得るのが關の山で、到底進んで身體を昔の野蠻時代以上に健康にすることは出來ぬであらう。

[やぶちゃん注:「鬼ごと」鬼ごっこ。

「中學校の一年から五年」旧制中学校は五年制。本書の刊行は大正五(一九一六)年(なお、昭和一九(一九四四)年四月一日からは、前年に閣議決定された「教育ニ關スル戰時非常措置方策」によって修業年限四年変更の前倒しが行われ、この時に四年となった者(昭和一六(一九四一)年入学生)から適用されたが、翌昭和二〇(一九四五)年三月には「決戰教育措置要綱」が閣議決定されて昭和二十年度(同年四月から翌昭和二一年三月末迄)授業が停止されることなり、更に同年五月二十二日には「戰時教育令」が公布されて授業は無期限停止が法制化されている。その後、敗戦の翌月八月二十一日、文部省により、「戰時教育令」廃止が決定されて同年九月から授業が再開されることとなった。翌昭和二一(一九四六)年には修業年限が元の五年に戻ったが、その翌年昭和二二(一九四七)年四月一日附を以って学制改革(六・三制の実施と新制中学校の発足)で旧制中学校は消滅した(以上はウィキの「旧制中学校に拠る)。]

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