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2016/02/21

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(二十)

     二十

 

 御靈が五郎に間違つたのには猶仔細がある。御靈は文字の示す如く、ミタマであつて、人の靈魂を意味して居る。我々の祖先は其中でも若くて不自然に死んだ人のミタマを殊に怖れ、打棄てゝ置くと人間に疫病其他の災害を加へる者と考へ、年々御靈會と云ふ祭をして、成るだけ遠方へ送るやうに努めたが、人の力だけでは十分で無い所から、或種の神樣に御靈の統御と管理とを御依賴申して居つた。後世に至つては祇園の牛頭天王が其方の專門のやうになつてしまはれたが、古くは天神も八幡も、それぞれこの任務の一部分を御引受けなされたのである。

[やぶちゃん注:「祇園の牛頭天王」「祇園」は「ぎをん(ぎおん)」で「祇園信仰」で、牛頭天王(ごづ(ごず)てんのう)及び素戔嗚尊に対する信仰を指す。災厄や疫病をもたらす御霊を慰め遷(うつ)して平安を祈願するもので、古くから主として本邦の都市部で盛んに信仰された。「祇園祭」「天王(てんのう)祭」「蘇民(そみん)祭」などの名で各地で祭りが行われる。牛頭天王は主に祇園社などで祭神とされる。もとインドの雷神インドラ神の化身の一つであったが仏教の守護神に取り入れられ、祇園精舎の守護神とか、薬師如来の化身とも称されるが、本来的には疫病神であって、後には荒ぶる神素戔嗚と習合されて畏敬されるようになった。]

 天神は人も知る如く、御自身が既に御靈の有力なるものであつたから尤もと思ふが、八幡樣の方は今の思想では何故と云ふことが解らない。しかも石淸水の如きは、其京都まで上つて來られた當初の形式が、如何にもよく紫野今宮の御靈の神などと似て居たのみならず、近い頃まで疫神參りと稱して、正月十五日に此山の下の院へ參拜する風があつたのを見ると、何か仔細のあつたことゝ思はれる。又若宮・今宮などと稱して非業に死んだ勇士の靈を八幡に祭つたと云ふ例は往々にあるが、熊野や諏訪や白山などでは其樣な話を聞かぬのを見れば、この神に限つて能く御靈を指導して、内にはやさしく外に對しては烈しく、其厲威を働かしめる御神德を昔は備へられたのであらう。

[やぶちゃん注:「紫野今宮の御靈の神」京都市北区紫野に鎮座する今宮神社のこと。ウィキの「今宮神社」によれば、祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)・事代主命・奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)であるが、『現在の今宮神社がある土地には』、延暦一三(七九四)年の『平安遷都以前から疫神スサノオを祀る社(現在摂社疫神社)があったとされ』、『平安遷都後にはしばしば疫病や災厄が起こり、神泉苑、上御霊神社、下御霊神社、八坂神社などで疫病を鎮めるための御霊会が営まれた』。正暦五(九九四)年にも『都で大規模な疫病がはびこったため、朝廷は神輿』二基を造り、『船岡山に安置し、音楽奉納などを行なった後、疫災を幣帛に依り移らせて難波江に流した』。『民衆主導で行なわれたこの「紫野御霊会」が今宮祭の起源とされ、京都の他の都市祭礼と同じく災厄忌避を祈願する御霊会として始まった』。長保三(一〇〇一)年にも『疫病が流行したことから、朝廷は疫神を船岡山から移し、疫神を祀った社に神殿・玉垣・神輿を造らせて今宮社と名付けた』。この時に初めて前記『三柱の神が創祀された』。『疫病が流行るたびに紫野御霊会が営まれ、やがて今宮社の祭礼(今宮祭)として定着して』行った。『創祀以来、今宮神社に対する朝廷・民衆・武家からの崇敬』が厚い。

「厲威」「れいい」と読む。烈しく強い威厳・威力。]

 若し然りとすれば、鎌倉の權五郎で八幡太郎の家來で左の眼を箭で傷ついたと云ふ話のある人を、鎌倉の御靈で八幡樣の攝社で八幡の統御の下に立つ亡靈を祭つた社の神と間違へても、必ずしも無學の致す所とは言はれず、諸國の同名の社が成程と言つて此説に從つたのも仕方が無かつたと見ねばならぬ。

[やぶちゃん注:ポイントは「五郎」(ごらう)と「御靈」(ごりやう)の音の類似性にある。]

 後三年役の古戰場と主張する羽後仙北郡の金澤においては、流に住む眇の魚を以て權五郎景政が魂を殘したものと傳ふる由、黑甜瑣語と云ふ秋田人の隨筆に見えて居る。伊勢の神戸町の南方矢橋の御地と云ふ池に片目の魚の居たことは前にも述べたが、參宮名所圖會を見ると、此村にも一箇の鎌倉權五郎景政の塚が、田中の森の中に在つたやうに記してあるから、池と塚と恐らくは關係が有つたのであらう。權五郎の塚と云ふのは亦右の羽後金澤にもあつた。東京近くでは品川東海寺の寺中春雨菴にもあつた。今は社を營み氏神の如しと百年前の遊歷雜記にある。昔から戰場で目を射られた武士も隨分多かつたらうに、何が故に景政ばかりが此の如くもて囃されたかと云ふ問には、自慢では無いが自分が答へた以外には、丸々答へ無いと云ふ方法しか有るまいと思ふ。

[やぶちゃん注:「羽後仙北郡の金澤」平安時代頃に現在の秋田県横手市金沢にあった古代の城砦、所謂、金沢柵(かねざわさく/かねざわのき)。朝廷に敵対した清原氏の居城で後三年の役では清原家衡・武衡が籠城、抗戦した。源義家も攻略に手を焼いたが、兵糧攻めによって寛治元(一〇八七)年に落城したウィキの「金沢柵には、『戦果を上げた鎌倉景政が立てた景正功名塚』などが『残っている。また、柵北側の断崖下を流れる厨川に右目が見えない片目カジカが目撃され、敵に右目を射られた後にここで目を洗った景政の武勇を今に伝えるとされている』とある。

「黑甜瑣語」「こくてんさご」と読む。人見蕉雨(藤寧(とうねい))が寛政一〇(一七九八)年に記した随筆。所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で捜したところ、第三編の終りの方に「眇魚」を見出したので当該箇所だけを視認して電子化する(前の部分は前に出た実盛が蝗と化して稲に害するということを北国で語るが、疑問を呈した上で、

   *

仙北金澤の流にある眇魚(すがめうを)も權五郎景正か魂を殘せしと云ふなど堂々たる男兒其冤を蟲魚に訴へんや此等の説華和殊に多し

   *

と述べており、これも実は筆者が批判的な謂いで挙げていることが判る。

「參宮名所圖會」「伊勢参宮名所図会」のことであろう。寛政九(一七九七)年に京都・大阪の版元から刊行された本編五巻(六冊)附録一巻(二冊)計八冊から成る伊勢参宮の決定版とも言える案内書。

「品川東海寺の寺中春雨菴」現在の東京都品川区北品川にある臨済宗万松山(ばんしょうざん)東海寺(とうかいじ)の西南西三百メートルほどのところに位置するかつての東海寺の沢庵宗彭の塔頭であったが、現在は独立した単立(たんりゅう)寺院春雨寺(しゅんぬじ)である。]

 つまり記錄上の御靈には戰場か刑場か牢獄の中で死んだと云ふ人ばかりだが、その今一つ前の時代の文化の劣つた社會では、入用に臨んで特に御靈を製造したらしいことは、片目の突傷と云ふ點からも想像し得られるのである。

 甲州では權五郎の代りに山本勘助をもつて片目神の舊傳を保存させて居た。山梨縣の商業學校で近年生徒に集めさせた口碑集の中に、甲府の北方にある武田家の古城の濠に住む泥鰌は、山本勘助に似て皆片目だと云ふ話が載せてある。久しく甲府に住んで居られた山中笑翁の説に拠依れば、彼地の奧村某と云ふ家は山本勘助の子孫であるさうで、代々の主人必ず片目であるとのことである。

[やぶちゃん注:「山中笑」「笑」は「ゑむ(えむ)」で既注の山中共古(ペンネーム。幼名は平蔵で後に保生)の改名後(明治四(一八七二)年:二十二歳の時)の実名である。]

 此類例には更に二箇の新しい暗示を含んで居る。其一つには山本勘助と云ふ郷士英雄が、單に權五郎の如く一目であつたのみで無く、猶信州松本邊の山の神と同じく、所謂片足であつたことで、自分が解釋が出來ぬものだからそつとして置いた一眼一足の脚の部分に、一道の光を投じて居る。第二の點は虚誕にもせよ片目を世襲して居ると云ふ噂である。

 自分が神主を殺すの目を潰すのと言つた爲に、ぎよつとせられた祠官たちが或は有るか知らぬが、御安心めされ、祠官は多くの場合には神主では無かつた。神主即ち神の依坐(よりまし)となる重い職分は、頭屋(とうや)とも謂ひ或は一年神主とも一時上﨟(ときじやうらふ)とも唱へて、特定の氏子の中から順番に出たり、若しくは卜食(うらはみ)に由つてきめたりするものと、一戸二戸の家筋に限つて出て勤める所謂鍵取りなるものとが有つたのである。さうして山本勘助の後裔と云ふ方はその第二種に屬して居る。

[やぶちゃん注:「卜食(うらはみ)」「うらばみ」とも読み、本来は亀卜(きぼく)の際の割れた裂けた筋目を指す。縦を吉、横を凶とした。ここは広義の占いや籤とととってよい。「鍵取り」「鍵」は神社の入口の扉の鍵で、それを預かって祭りを掌る家筋のこと。]

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