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2016/02/21

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(二十一)

     二十一

 

 さて自分は不滿足ながら今まで竝べた材料だけで、一目小僧の斷案を下すのである。斷案と言つても勿論反對御勝手次第の假定説である。

 曰く、一目小僧は多くの「おばけ」と同じく、本據を離れ系統を失つた昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなつて、文字通りの一目に畫にかくやうにはなつたが、實は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神樣の眷屬にするつもりで、神樣の祭の日に人を殺す風習があつた。恐らくは最初は逃げてもすぐ捉まるやうに、その候補者の片目を潰し足を一本折つて置いた。さうして非常に其人を優遇し且つ尊敬した。犧牲者の方でも、死んだら神になると云ふ確信が其心を高尚にし、能く神託豫言を宣傳することを得たので勢力を生じ、しかも多分は本能の然らしむる所、殺すには及ばぬと云ふ託宣もしたかも知れぬ。兎に角何時の間にか其が罷むで只目を潰す式だけが遺り、栗の毬や松の葉、さては箭に矧いで左の目を射た麻胡麻その他の草木に忌が掛かり、之を神聖にして手觸るべからざるものと考へた。目を一つにする手續も追々無用とする時代は來たが、人以外の動物に向つては大分後代まで猶行はれ、一方には又以前の御靈の片目であつたことを永く記憶するので、その神が主神の統御を脱して、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいこと此上無しとせざるを得なかつたのである。

[やぶちゃん注:「宣傳」全集版は『宣明(せんみょう)』となっている。]

 右の自分の説に反對して起るべき最大の勁敵は、其樣な事を言つては國の辱だと云ふ名論である。一言だけ豫防線を張つて置きたい。

[やぶちゃん注:「勁敵」「けいてき」「勁」は「強い」であるから、強敵と同じい。

「名論」「めいろん」とは通常は優れた論・立派な議論の謂いであるが、言論統制をだんだんに感じ始めていた柳田にして「ごリッパな論」という痛烈な皮肉である。]

 第一自分は人の殺し方如何と其數量で、文明の深さは測られるとは思はぬ。戰もすれば自殺もする文明人が、此の如き考へを持つ筈が無いと思ふ。併しそれが惡いとしても、人を供へて神を祭つたのは、近年の政治家が責任を負ひ得るやうな時代の事では無い。人も言ふ如く日本國民は色々の分子から成つて居る。千二三百年前まではまだ所謂不順國神(まつろはぬくにつかみ)が多かつた。國神の後裔には分らぬ人も隨分あつたことは、大祓の國津罪の列擧を見ても察せられる。それでも行かぬと云ふなら、この島へは方々の人が後から後から渡つて來て居る。さうして信仰上の記憶は居たつて永く殘るものである。彼等がまだ日本と云ふ國の一部分を爲さぬ前、どこか或地に於ての生活經歷を傳へて居るのだとも見られる。

[やぶちゃん注:「大祓の國津罪」「おほはらへ(おおはらえ)のくにつつみ」と読む。神道における罪の観念の一つで天つ罪(あまつつみ:素戔嗚が高天原で犯した罪を起源とする農耕を妨害する人為的悪行)と並んで、「延喜式」の巻八「祝詞(のりと)」にある「大祓詞(おおはらえのことば)」に対句形式で出る。以下、ウィキの「天つ罪・国つ罪」より引く。『国つ罪は病気・災害を含み、現在の観念では「罪」に当たらないものもある点に特徴があるが、一説に天変地異を人が罪を犯したことによって起こる現象と把え、人間が疵を負ったり疾患を被る(またこれによって死に至る)事や不適切な性的関係を結ぶ事によって、その人物の体から穢れが発生し、ひいては天変地異を引き起こす事になるためであると説明する』(以下、一部の漢字を正字化、一部の数字及び記号を変更追加、一部で改行も行った)。

    《引用開始》

・「生膚斷(いきはだたち)」:生きている人の肌に傷をつけることで、所謂、傷害罪に相当する。

・「死膚斷(しにはだたち」:直接的解釈では、死んだ人の肌に傷をつけることで、現在の死体損壊罪に相当し、その目的は何らかの呪的行為にあるとされるが、また前項の生膚断が肌を傷つけられた被害者がまだ生存しているのに対し、被害者を傷つけて死に至らしめる、所謂、傷害致死罪に相当するとの説もある。

・「白人(しらひと)」:肌の色が白くなる病気で、「白癩(びゃくらい・しらはたけ)」とも呼ばれ、所謂、ハンセン病の一種とされる。

・「胡久美(こくみ)」:背中に大きな瘤ができること(所謂、せむし)。

・「己(おの)が母犯せる罪」:実母との相姦(近親相姦)。

・「己が子犯せる罪 」:実子との相姦。

・「母と子と犯せる罪」:ある女と性交し、その後その娘と相姦すること。

・「子と母と犯せる罪」:ある女と性交し、その後その母と相姦すること。

(以上四罪は『古事記』仲哀天皇段に「上通下通婚(おやこたわけ)」として総括されており、修辞技法として分化されているだけで、意味上の相違はないとの説もある)

・「畜犯せる罪」:獣姦のことで、『古事記』仲哀天皇段には「馬婚(うまたわけ)」・「牛婚(うしたわけ)」・「鶏婚(とりたわけ)」・「犬婚(いぬたわけ)」と細分化されている。

・「昆虫(はうむし)の災」:地面を這う昆虫(毒蛇やムカデ、サソリなど)による災難である。

・「高つ神の災」:落雷などの天災とされる

・「高つ鳥の災」:大殿祭(おおとのほがい)の祝詞には「飛ぶ鳥の災」とあり、猛禽類による家屋損傷などの災難とされる。[やぶちゃん注:「大殿祭」は宮殿の平安を祈願する儀式で大嘗祭他の式典前後に行われる定例のものと、宮殿新築・移転及び斎宮や斎院の卜定(ぼくじょう)の後に行う祭。]

・「畜仆(けものたお)し、蠱物(まじもの)する罪 」:家畜を殺し、その屍体で他人を呪う蠱道(こどう)のことである。

   《引用終了》]

 まだそれでも行かぬとならば是非が無い。どうか此説は採るに足らぬものとして戴きましよう。實は此研究が丸でだめだとしても、自分は猶一つ善い事をして居るのである。即ち民間の俗信と傳説とに對して、最も眞摯で且つ親切な態度を以て臨んで見たのである。是は今日まで他に誰も範を示した人が無かつた。

[やぶちゃん注:柳田の憤懣が頂点に達して、血管が切れそうなまでになっている様が手にとるように判る。]

 先頃此新聞でも各大學の良き靑年に依囑して、地方傳説の蒐集旅行をして貰つた。あれは一寸結構見たいな企てゞあつたが、不幸にして學生諸君がそれぞれ非凡な文才を有つて居られた爲に、大正年代の文藝を以て傳説に念入りの裝飾をしてしまひ、到頭少しばかり傳説の香のする甚だ甘い物に作り上げたことは、恰も柿・葡萄を以て柿羊羹葡萄羊羹を拵へた如くである。傳説と云ふ物はそんな事をして食べるものでは無い。

[やぶちゃん注:ここで語られた「甘い」成果物が何を指すのかは不詳。識者の御教授を乞う。]

 又其ほど無用な物でも無いのである。歷史家が帳面の陰から一歩でも踏出すことをあぶながり、考古學者が塚穴の寸尺に屈託して居るやうな場合に、お手傳ひに出て、無名無傳の前代平民等が目に見えぬ足跡を覓め、彼等何事を怖れ何を患ひ何を考へて居たかを少しでも明らかにするのが、此方面の研究である。兎に角人の作つた習慣俗信傳説であれば、人間的に意味が無ければならぬ。今の人の目に無意味と見えるだけ、其だけ深いものが潛んで居るので、言はゞ我々は得べき知識をまだ得て居らぬのである。昔の人の行爲と考へ方には床しく優しいことが多い。或は又古くなり遠ざかるからさう感ぜられるのかも知れぬ。しかもそれがエチオピヤ人でもなければパタゴニヤ人でも無く、我々が袖を捉へてふるへたいほど懷しく思ふ、亡親(なきおや)の親の親の親の親たちの事では無いか。

[やぶちゃん注:全集版では以下のように複数の改変があって、柳田のキレそうな響きが実に興味深い(下線やぶちゃん)。

「お手傳ひに出て」全集版は『たった一人がお手伝いに出て』。

「覓め」「もとめ」と読む。「求め」に同じい(但し、底本では「見」の上の部分が「不」になった字体である)。

「少しでも明らかにするのが、此方面の研究である」全集版『少しでも明らかにしたのが、自分の研究である』。

「パタゴニヤ」(Patagonia)南アメリカ大陸の南端部、現在のアルゼンチンとチリ両国に跨るコロラド川以南の地域の総称。因みに「パタ」(Pata)とはスペイン・ポルトガル語の「足」の意で、大足の部族パタゴン族の住む土地の意(「ゴン」の意味は不明)である。片足に通底して面白いではないか。]

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