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2016/02/25

生物學講話 丘淺次郎 第十八章 教育(1) 序・「一 教育の目的」・「二 鳥類の教育」

 

    第十八章  教  育

 

 大概の動物では無數の卵を産み放しにするか、または子を保護し養育しさへすれば、子孫の幾分かが必ず生存し得る見込みは立つが、獸類・鳥類などの如き神經系の著しく發達した動物になると、更に子を或る程度まで教育して置かぬと、安心して生存競爭場裡へ手放すことが出來ぬ、敵を防ぐに當つても餌を取るに當つても、敏活な運動が出來ねば競爭に敗ける虞がゐるが、敏活な運動には數多くの神經と筋肉との相調和した働が必要で、それが即座に行はれ得るまでには、多くの練習を要する。しかして練習するに當つて子が獨力で一々實地に就いて練習しては危險が多くて、大部分はその間に命を落すを免れぬ。例へば敵から逃げることの練習をするのに、子が一々實際の敵に遭遇して逃げるとすれば、これは眞劍の勝負であるから、練習中に殺されるものが幾らあるか知れぬ。もしこれに反して親が假想の敵となつて子を追ひかけ子は一生懸命に逃げるとすれぱ、危瞼は少しもなくて同じく練習となり、練習が積んで完全に逃げ得るやうになつてから、これを世間に出せば、子の死ぬ割合は餘程減ずるから、親は子を遺す數が少くても、ほゞ種族繼續の見込みが附いたものと見倣して安心して死ねる。されば生活に必要な働の練習を、子が若いときに獨力でするやうな動物は、餘程多くの子を産まねばならず、また親が手傳うて子に練習させるやうな動物ならば、それだけ子を少く産んでも差支はない。更にこれを裏からいへば、子を多く産む種類は、練習を子の自由に委せて置いても宜しいが、子を少く産む種類では、親が除程熱心に子の練習を助けてやらねば、種族維持の見込みが立たぬといふことになる。

 

 尤も動物の種類によつては、少しも練習を要せずして隨分精巧な仕事をするものがある。蜜蜂が六角の規則正しい部屋を造り、蠶が俵狀の美しい繭を結びなどするのはその例であるが、これは所謂本能によることで、その理由は、恐らく神經系が生まれながらにしてこれらの仕事をなし得る狀態にあるからであらう。即ち始から他の動物が練習によつて達し得る狀態と、同じ狀態にゐるのであらう。そしてまたその源を尋ねれば、先祖代々の經驗の傳はつたものと見倣すの外はないから、やはり今日までの種族發生の歷史中に練習を重ね來つた結果といふことも出來よう。人間でも生まれて直に乳の吸ひ方を心得て居たり、巧に呼吸運動をしたり、咄嵯の間に瞼を閉ぢて眼球を保護したりするのは皆本能の働で、少しも練習を要せぬ。

 

 かやうに數へ上げて見ると、動物のする働の中には、本能によつて先天的にその力の具はつてゐるものと、練習によつて後天的に完成するものとがあり、また練習するに當つては子が獨力で自然に練習を積む場合と、親が子を助けて安全に練習せしめる場合とがある。教育とはすべて後の如き場合に當て嵌めて用うべき言葉であらう。

 

     一 教育の目的

 

 大抵の教科書を開いて見ると、たゞ人間の教育のみに就いて書いてあるから、その目的の如きも、人間だけを標準として至つて狹く論じてある。しかもその書き方が頗る抽象的で摑まへ所を見出すに苦しむやうなものも少くない。今日では比較心理學などの流行し來つた結果、止むを得ず鳥獸にも子を教育するものがあると書いた論文をも往々見掛けるが、少しく古い書物には「教育は人間のみに限る。なぜといふに、精神を有するのは人間のみに限る。なぜといふに、精神を有するものは人間のみである。」などと書いてあつた位で、他の生物に行はれる教育までも、研究の範圍内に入れ、全體を見渡して論を立てる如きことは夢にもなかつた。その有樣は、恰も昔天動説の行はれて居た頃に、地球を以て一種特別のものと考へ、その金星・火星・木星土星などと同格の一遊星なることを知らずに居たのと同じであるが、かやうに根本から考が間違つて居ては、如何に巧に議論しても、到底正しい知識に到著すべき見込みがない。教育の目的を論ずるに當つては、まづかゝる迷ひを捨て、人間も他の動物も一列に竝べて、虛心平氣に考へねばならぬ。

 

 動物の種類を悉く竝べて通覽すると、子を産み放しにして少しも世話せぬ種類が一番多く、子を聊かでも保護する種類はこれに比べると遙に少い。また子を單に保護するだけのものに比べると、親が子に食物を與へて養育するものは遙に少く、子を養ふものに比べると、子を教育するものは更に遙に少い。かくの如く、子を教育する種類は、全動物界中の極めて小部分に過ぎぬが、如何なる僧物が子を教育するかといヘば、これは殆ど悉く獸類・鳥類であつて、その他には恐らく一種もなからう。そしてこれらは解剖學上から見れば、現在生存する動物中、腦の最も大きく發達して居るもの、また地質學上から見れば、諸動物中最後に地球上に現れたもの、習性學上から見れば、他の勤物に比して子を産む數の最も少いものである。獸類も鳥類も共に本能によつて生まれながらなし得ることよりは、練習によつて完成しなければならぬ仕事の方が遙に多いから、教育の多少は直にその種族の存亡に影響し、隨つて教育に力を入れる種類が、代々競爭に打ち勝つて終に今日の有樣までに遂したのであらう。これらの動物が、如何にその子を教育するかは次の節で述べるが、いづれにしても單細胞時代・囊狀時代、もしくは水中を泳いで居た魚形時代の、昔の先祖の頃から已に子を教育したわけではなく、恐らく初は無數の子を産み放した時代があり、次には子の數が漸々減じて親がこれを保護しむ時代があり、次第に進んでこれを養ふやうになり、最後にこれを教へるやうになつたものと思はれる。

[やぶちゃん注:「囊狀時代」原始的な多細胞生物。]

 

 動物の親子の關係に種々程度の異なつたもののゐるのを見、且一歩一歩その關係の親密になり行く狀態を考へると、教育の目的は生殖作用の補肋として、種族の維持を確ならしめるにあることは極めて明である。教育の書物には何と書いてあらうが、生物學上から見れば、教育は種族の維持繼續を目的とする生殖作用の一部であるから、その目的も全く生殖作用の目的と一致して、やはり種族の維持にあることは疑ない。これだけはすべての動物を比較しての結論であるから、いづれの動物にも當て嵌ることで、その中の一例なる人間にも素よりそのままに當て嵌ることと思ふ。但し人間の教育に就いては、更に後の節で述べるから、こゝには省いて置く。

 

     二 鳥類の教育

 

 前にも述べた通り、鳥類の卵から孵つて出る雛は、種類の異なるに隨つて、それぞれ發育の程度が違ふから、これを養ひ教育する親の骨折にも種々難易の相違がある。概していへば、「きじ」雞などの如き平生餘り飛ばぬ烏は比較的大きな卵を産み、それから孵る雛は直に走り得る位までに發育して居る。これに反して、燕や鳩のやうな巧に飛ぶ鳥は小さな卵を産み、それから孵る雛は頗る小さくて弱いから、特に親に保護せられ養はれねば一日も生きては居られぬ。また雛が稍々生長してからも、地上を走る鳥ならば、たゞ親の呼聲を覺えしめ、地上から小さな物を速に啄むことを練習せしめなどすれば、それで宜しいが、常に飛ぶ鳥では雛を教へて、飛翔の術を練習せしめねばならず、なほ飛びながら餌を取る法や、敵から逃れる法を會得せしめねばならず、これにはなかなか容易ならぬ努力を要する。

 

 卵から孵つたばかりの雞の雛は、食物が地上に澤山落ちてあつてもこれを啄むことを知らずに居ることがある。しかるにもし鉛筆かペン軸で地面を敲いて音を立てると、直に啄み始める。これは一種の反射作用であつて、雛に生まれながらこの性質が具はつてあるために、親鳥が地面を敲くと、雛がその音を聞いて直に物を啄む練習を始めるのである。そして、初の間は砂粒でも何でも啄んで口に入れ、食へぬものは再びこれを吐き出すが、後には段々識別の力が進んで、食へるものだけを選んで啄むやうになる。また牝雞が雛を集め、米粒などを態々高くから地面に落して、その躍ね散るのを拾はせて居る所を屢々見るが、これは迅速に且精確に小さな物を啄むことを練習させて居るのであつて、雛に取つては頗る有益な教育である。

[やぶちゃん注:「態々」老婆心乍ら、「わざわざ」と読む。

「躍ね散る」「はねちる」。]

 

 鳥類の多數は飛翔によつて生活して居るが、飛翔はすべての運動中最も困難なもの故、巧になるまでには大に練習を要する。巣の内で育てられた雛が稍々大きくなると、親鳥はこれに飛ぶことを練習させるが、最初は雛は危ながつて、容易に巣から離れようとはせぬ。 これを巣から出して飛ばせるためには、或る種類では親鳥が雛の最も好む餌を銜へて、まづ巣から出て、恰も人間が歩き始めの幼兒に「甘酒進上」といふて、歩行の練習を奬勵する如くに、餌を見せて雛を誘ひ出す。即ち興味を以て導かうとする。また他の種類では、所謂硬教育の流儀で、親鳥が雛を巣から無理に押し出して止むを得ず翼を用ゐさせる。無論初は極めて短距離の處を飛ばせ、次第に距離を增して終に自由自在に飛べるやうになれば、全く親の手から離すのでゐる。南アメリカの「コンドル鷲」の如き大鳥になると、雛が飛翔の練習を卒業して獨立の生活に移るまでには約三年を要する。

[やぶちゃん注:「甘酒進上」講談社学術文庫版では『あまざけしんじょう』とルビを振るが、私は「あまざけしんじよ(まざけしんじょ)」と読みたい。これは所謂、古来、本邦で未だよちよち歩きの幼児を上手に歩かせるようにするため、少し離れた所から呼びかけるところの台詞「処(ここ)までお出で、甘酒進(しん)じょ」(「進じょ」は「進ぜむ進ぜん進ぜう進じよ進じょ」の音変化)であるからである。

「コンドル鷲」タカ目コンドル科 Vultur 属コンドル Vultur gryphus 。]

Wasinooyako

[鷲の親と子]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 餌を巧に捕へるにも餘程の練習を要する。雀などでも雛が飛び得るやうになつた後も、なほ暫くは親が常に迷れ歩いて餌を食はせて居るがどの間に雛は親に見習うて、次第に自分で餌を拾ひ得るやうになり、最早親の補助がなくとも十分に生活が出來るやうになれば、そのとき親と離れてしまふ。鷲・鷹の如き稍々大きな生きた餌を捕へて食ふ猛禽類では、教育が更に順序正しく行はれ、まづ初には兩親が雛を獵に連れて行くが、たゞ見學させるだけで、實際餌を捕へる仕事には加はらしめず次には親が餌を傷け弱らせ置いて雛にこれを捕へ殺させ、次には親と雛と協力して獵をなし、雛の腕前が聊熟達して來ると、終には雛のみで餌を捕へさせ、親はたゞこれを監督し、萬一餌が逃げ去りさうな場合にこれを防ぐだけを務める。即ち「易より人つて難に進む」といふ教授法の原則が、巧に實行せられて居るのである。

 

 水鳥が雛に游泳のの練習をさせたり、魚を捕へる練習をさせたりする方法も、以上とほゞ同樣で、初めはたゞ簡單な游泳の練習のみをさせ、餌は親が直接に食はせてやり、次には親が啄いて少しく弱らせた魚を、雛から三〇糎位の處に放してこれを捕へさせ、これが出來れば次は六〇糎位の處、次には九〇糎位の處といふやうに、順々に距離を增して、速に泳ぐことと巧に捕へることとを兼ねて練習せしめる。かくして雛の技術が進めば親は少しく助けながら、自然のまゝの勢のよい魚を捕へしめ、これが十分に出來るやうになればやがて卒業させる。「あひる」だけは長らく人に飼はれた結果として、雛は肥り翼は短くなり卵は大きく、これから出た雛は直に水面を游ぎ得る程に發育して居るから、少しも教育らしいことをせぬが、これは素より例外であつて、野生の水鳥は大抵皆雛を教育する。雛がまだ泳げぬ間は、これを足の間に挾んで保護したり、恰も人間が子を負ふ如くに自分の背に載せて泳ぐ種類などもあるが、いづれにしても、親が手放す前には必ず獨力で生活の出來る程度までに、泳ぐことと魚を捕へることとの練習が進んで居る。

 

 以上は食ふための教育であるが、鳥類にはなほ結婚して子を遺し得るための教育も行はれる。即ち歌や踊も決して雛が生まれながらに巧に出來るものではなく聞いては眞似し見ては眞似して一歩一歩練習上達して、終に他と競爭し得る程度までに達するのである。尤も歌の大體の形だけは遺傳で傳はり、他の歌ふのを聞かずとも、本能によつて各種類に固有な歌を謠ひ始めるが、それだけでは極めて拙であつて到底他と競爭することは出來ぬ。鶯などもよく鳴かせるむめには歌の巧な鶯の側へ持つて行つて、向ふの歌を聞かせ習はせる必要のあることは、鶯を飼ふ人の誰も知つて居ることであるが、かくの如く聞けば覺えて段々上手になるのは、元來教育せられ得べき素質を具へて居るからであつて、人に飼はれず、野生して居るときにも無論この點に變りはなく、雛のときに拙く鳴き始め、老成者の熟練した歌を眞似て次第に巧になる。藪の中ばかりに居ては到底座敷の鶯の如くに、人間の注文に應じたやうな歌ひ方はせぬであらうが、鶯仲間での競爭に加はり得べき程度までに上達するのは、やはり教育の結果である。

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