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2016/02/19

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十五)

     十五

 

 所謂放生會の御式の最も盛んであつたのは、八月十五日の八幡樣の祭であつた。是も男山の社僧たちに言はせると、神が佛教の感化を御受けなされて、慈悲の惠を非類の物に迄及ぼしたまふ也となどゝ説くであらうが、亦明白に中古以來のこぢつけである。まこと其御趣意であつたならば、わざわざ江湖に悠遊して居る物を捉へて來て、窮屈千萬なる小池の中に放せと仰せられる筈が無い。是は疑ひも無く祭に生牲を屠るの行爲のみは僧徒の干渉によつて廢止しても、之に供すべき魚類を一箇年前から用意して置く儀式の方は、害が無いから其儘殘り、後に理由が不明になつて、右の樣に有難がらせようとしたのである。石淸水などでは、此日の祭の行列は喪を送るのによく似た出立ちであつたさうである。ずつと以前に魚よりも一段と重い生牲を捧げた痕跡と見なければ、恐らくは滿足な説明をなし得る者は無いであらう。

[やぶちゃん注:「男山」「をとこやま(おとこやま)」は京都府八幡市にある鳩ヶ峰の別名。標高百四十三メートルで山上にかの石清水八幡宮がある。ここはその八幡社を指す。]

 來年の生牲の片目を拔いて置くと云ふ直接の證據はまだ見出さぬが、之を想像せしむるに十分なる例は有るのである。近江阪田郡入江村大字磯の磯崎大明神では、毎年の例祭卯月八日、網を湖中に下して二尾の鮒を獲て、その一を神饌に供ヘる。他の一尾は片鱗を取つて湖中に放して置くと、翌年の四月七日に網にかゝるものは必然として其鮒であつたと、近江國輿地誌略に載せてある。即ち前年度しるしを附けて置いた分を神に供へると共に、次年度の分をきめて一旦放し飼ひにすると云ふのである。琵琶湖の如き廣い水面に在つても、神德に由つて指定せられた魚は外の用には宛てられなかつたとすれば、僅かばかりの御手洗の池に入れた魚などは、別に一目にして置くにも及ばなかつたらうと思ふ。さうすれば片目も片鱗も、さては又前に擧げた行基弘法の片身の魚なども、要するにみな話であつて、實際其通りであつたか否かを穿鑿する迄の必要は無からう。

[やぶちゃん注:「近江阪田郡入江村大字磯」「阪田郡」は「坂田郡」が正しい(全集版は『』坂田郡)。現在の滋賀県米原市磯。米原駅から東直近の琵琶湖東岸地区。

「磯崎大明神」現在の同地区の湖岸に鎮座する礒崎(いそざき)神社。ここ磯は何と、かの日本武尊が葬られた地或いはここから白鳥となって飛び立ったとも伝える場所である。礒崎大明神とも白鳥明神とも別称する。

「近江國輿地誌略」「近江輿地誌略」(おうみのくによちしりゃく)が正しいと思われる。享保八(一七二三)年に膳所(ぜぜ)藩主本多康敏(ほんだやすとし)の命により同藩士寒川辰清(さむかわとききよ 元禄一〇(一六九七)年〜元文四(一七三九)年)が編纂を始めた近江地誌。享保一九(一七三三)年、全百一巻百冊の大作として完成させた。近江国全域を対象にした初の本格的地誌で圧倒的な情報量を誇る(以上は「滋賀県」公式サイト内の「県指定有形文化財書跡・典籍・古文書の部」の「近江輿地志略」に拠る)。

「御手洗」「みたらひ(みたらい)/みたらし」と読む(全集版は『みたらし』と振る。私も「みたらし」と訓じておく)。狭義には神社社頭にある参拝者が神仏を拝む前に禊として水で手や口を洗い清める所を指すが、ここは神社境内の御手洗(みたらし)の池を指す。]

 魚屬が鱗を剝がれて一年も活きて居られるか否かは先づ大に疑はしい。是は何でも事情のあるべき事で、多分は片身又は片燒の鮒などゝ共に、目では物足らない處からの誇張であらうと思ふ。

[やぶちゃん注:剝すのは全部である必要はない。識別出来るように特定の箇所を複数剝すだけであるならば、大型の鮒ならば一年生きていたとしても生物学的に何ら疑わしいとは私は思わない。

「目では物足らない」全集版は『片目では物たらない』とある。]

 近江には今一つ似たやうな話がある。東淺井郡上草野村大字高山の安明淵(あんめいぶち)と云ふ處では、昔賴朝が此淵において鯉を捕り、其片身の鱗を拭(ふ)いて再び放した故に、今でも草野川の流には一方に麟の無い鯉が住んで居ると云ふことである。此淵の上には何か文字を彫刻した岩があるが、苔既に滑かにして之を讀むことは出來ぬともある。何の爲に賴朝が此樣な川へ來て鯉を取つたかは想像に及ばぬが、祭の行列に出て來る馬に乘つた兒を、誤つて賴朝と呼んで居る村は、近江にも亦他の國にも少なくなかつたのである。

[やぶちゃん注:「東淺井郡上草野村大字高山」「ひがしあさいぐんかみくさのむら」と読む。現在の滋賀県長浜市高山で、長浜市南東部の草野川上流域に相当する。

「安明淵」kagy592氏の個人ブログ「気の向くままに」の『ノート「平治の乱と草野の荘」草野荘の源氏伝説』に写真と解説が出る。そこではブログ主は現在の聴き取りも行っており、非常に興味深い。それによれば、ここは少年の日の頼朝が平治の乱で負けて落ちのびる途中の父義朝らとはぐれてしまって、一時隠れ住んだ地とする伝承があるらしい。『長浜市高山町は、頼朝が浅井郡の北の老夫婦に匿われた場所と云い伝えられている土地である。東俣谷川(深谷)沿いには剣の試し切りで二つに割れた岩や馬の習練で蹄の跡を付けた岩なども残っている』。『また、安明ケ淵と呼ばれる大きな淵も潜伏していた間の遊興で鯉を採っていたと伝わり、千石谷には、頼朝が粥を炊いたところとして粥煮石が有ると伝わっている』。『安明ケ淵と粥煮石の伝承については東浅井郡誌にも書かれているが、古老の皆さんに聞きに回っても判らなくなっている。東俣谷川(深谷)は上流に草野川ダムが造られ流量が少なくなったことや、伊勢湾台風などで河川改修が行われ川の相がかわってしまい忘れ去られたのかもしれない』とあることから、柳田の言っている石はこの「粥煮石」らしい。]

 遠州横須賀の人渡邊三平君の話に依れば、あの地方では御一新前よく天狗樣が出られて夜分は天狗の殺生に出掛けられる火と云ふのを、屢々見たと老人たちは言うて居る。まるで松明のやうであるが、今田圃の上に在るかと思ふと、すぐに大きな松の木に現れるなど出沒自在であつた。其時分には田や溝に片目の泥鰌(どじよう)がいくらも居たもので、それは皆天狗が殺生に出られて、拔取つて行かれるのだと言うて居たさうだ云々。

[やぶちゃん注:「遠州横須賀」現在の静岡県掛川市横須賀。掛川市の南、遠州灘沿岸に近い一帯。

「渡邊三平」『郷土研究』の投稿記事に複数出るが事蹟は不詳。]

 此等の話を考へ合せると、片目の魚の噂の起りは、捉へて檢めた人の報告に基づいて居らぬことは確かである。當初は境内の池の魚は捕つてはならぬと云ふ戒めと、片目の魚は食ふまじきものだと云ふ教へと二つであつたのが、恐らくは緣が近い爲に合併したので、共に生牲を或期間放し飼ひにした慣習の痕跡と見るべきものである。

[やぶちゃん注:「檢めた」「たしかめた」。]

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