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2016/02/10

北條九代記 卷第八 將軍賴嗣御家督

 

鎌倉 北條九代記  卷第八

 

      ○將軍賴嗣御家督

將軍賴嗣公は、賴經の嫡男、母は大納言定能(さだよしの)卿の御孫にて、中納言親能(ちかよしの)卿の御娘、二棟(ふたむねの)御方、又は大宮殿とぞ申しける。延應元年十一月二十一日、鎌倉の施藥院使(せやくいゐんし)良基(よしもとの)朝臣が家にして、御誕生あり。寛元二年四月二十一日、御年六歳にて、御元服ましましけり。御父賴經卿、征夷大將軍の官職を讓り參(まゐら)すべきの由、京都に奏聞(そうもん)あり。勅定に依て、同月二十八日、賴嗣即ち征夷大將軍の宣旨を蒙(かうぶ)り、右近衞少將に任じ、從五位〔の〕上に叙せられたまふ。前武藏守泰時逝去せられしかば、四郎經時を武藏守に補(ふ)せられ、正五位〔の〕下に任じて、鎌倉の執權をぞ致されける。同三年七月に、武藏守經時の妹を、御臺所に定めて、御輿入(おんこしいり)まします。是は泰時の孫にて、修理亮時氏の娘なり。年十六歳とぞ聞えし。容儀美麗の女性にておはしませば、しかるべき御事にて、檜皮姫君(ひはだのひめぎみ)と申しけるが、將軍未だ七歳なり。世の人、似氣(にげ)なくぞ覺えける。如何なる故にや、去ぬる春のころより、鎌倉に、天變地妖多かりければ、將軍賴經、樣々の御祈禱行はれ、この事に倦(うん)じ給ひて、御子息賴嗣に將軍の職を讓りたまふ。然るに賴經卿は二歳の御時、鎌倉に御下向あり。九歳にて征夷大將軍に任ぜられ、在職十八年、御息賴嗣に御讓補(ごじやうふ)あり。是(これ)、天變の御愼(おんつゝしみ)にて、官職(くわんしよく)御辭讓(ごじじやう)ましましけりと、世には傳聞(ちたへきこ)えしかども、實には北條家權威(けんゐ)を縱(ほしいまゝ)にせんとて、御(ご)幼稚の間は崇め奉りけれども、御成長に及びては、政事に付けて、私(わたくし)の計(はからひ)成し難し。是(これ)に依(よつ)て、推(おし)て官職を讓らしめ、幼き賴嗣を將軍に補任(ふにん)して、國政内外の諸事、皆、執權の計(はからひ)なり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十五の寛元二(一二四四)年四月二十一日及び五月五日、寛元三年七月二十六日の記事に基づくが、毎回御世話になっている湯浅佳子氏の論文「『鎌倉北条九代記』の背景 :『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり」の当該項によれば、『頼嗣が当時七歳であったことは『吾妻鏡』にはなく『日本王代一覧』『将軍記』にある。『北条九代記』ではここで頼経が天変地異の祈祷に倦じて譲位したと述べるが、さらに、実は北条家が権力を掌握するために幼少の頼嗣に将軍位を譲らせたとも指摘する。これは『日本王代一覧』に拠ったものである』と注しておられる。この「日本王代一覧」とは、「若狭国小浜藩主酒井忠勝の求めによって林羅山の息子林鵞峯(春斉)によって編纂された、神武天皇から正親町天皇(天正一四(一五八六)年退位)の代までを記す本紀形式の歴史書で慶安五(一六五二)年成立、全七巻。「将軍記」は本「北條九代記」の作者と目される浅井了意の著作とほぼ確定している本邦に於ける鎌倉時代以降から豊臣秀吉までの将軍列伝で、寛永四(一六六四)年版が最も古いものらしい。

 なお、本条は底本では冒頭の「將軍賴嗣公」を「將軍經嗣公」、最終一文中の「官職御辭讓」を「宮職御辭讓」とするが、孰れも誤字で(後者はルビを「くわんしよく」と振る)ので特異的に訂した。

「將軍賴嗣公」鎌倉幕府第五代将軍藤原(九条)頼嗣(延応元(一二三九)年~康元元(一二五六)年)。公式には将軍宣下は寛元二(一二四四)年四月二十九日の征夷大将軍の宣旨(「吾妻鏡」翌五月五日の除目の記載に拠った。この時、未だ満四歳)から宗尊親王を新将軍として迎える建長四(一二五二)年三月まで(了行法師らが起こした謀叛事件に父頼経が関係したとして、連座で将軍を廃された。但し、「吾妻鏡」を見ると幕府による頼嗣の将軍廃任と宗尊下向の奏請は前月二月二十日に進発している。三月のこの時でも、頼嗣は未だ満十二歳であった)。

「大納言定能」(久安四(一一四八)年~承元三(一二〇九)年)は藤原北家道綱流で最終位は正二位・権大納言。「樋口」或いは「二条」と号した。琵琶の名手。

「中納言親能」(嘉応元(一一六九)年~承元元(一二〇七)年)は定能の長男。最終位は従二位・権中納言。

「修理亮時氏」北条時氏(建仁三(一二〇三)年~寛喜二(一二三〇)年)。泰時長男で嫡子であったが病気のために早世したため、執権とはなっていない。

「似氣なくぞ覺えける」いくらなんでも七歳と十六歳では歳が離れ過ぎて夫婦となるに相応しくない、というのである。]

 

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