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2016/02/20

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十七)

     十七

 

 生牲の鯉・鮒の片目と云ふことが、決して單獨に發明せられたる便法では無くして、前代の神祭に一眼を重んじて居た餘習であるらしいと云ふ説の根據として、此次には蛇の片目の話を一くさり述べて見ようと思ふ。

 德島の人河野芳太郎氏の話に、阿波の富岡町の東に當つて福村と云ふ處に、周囘三十町程の池あり、其池の中に周九丈高さ一丈ばかりの岩があるのを、土地では蛇の枕と呼んで居る。此池の魚族は鯉・鮒はもとより小さな雜魚に至る迄、一尾として兩眼を具へて居るるものは無い。傳へ云ふ昔此池に大蛇の住んで居たのを、月輪(つきのわ)兵部と云ふ勇士狙ひ寄つて放つた箭、その左の眼を射貫いて頭の半分を射碎き、をろちは苦痛に堪へずこの岩の上で悶へ死す。其怨み後に殘つて月輪殿の一家を祟り殺し、其でも足らなかつたか、池の魚までを悉く片目にしてしまつたと言ふさうである。

[やぶちゃん注:「河野芳太郎」不詳であるが、『郷土研究』の複数の投稿に名を見出せる。

「阿波の富岡町の東に當つて福村と云ふ處」「富岡町」は阿南駅のある現在の徳島県阿南市富岡町で、「福村」の方は現在の徳島県阿南市福村町。富岡町の東北東二・五キロメートルの位置にある。

「周囘三十町」三・二七キロメートル。

「池」現在の福村町内には現認出来ない。但し、福村、町に隣接する阿南市畭町(はりちょう)には瓢箪を縦に割ったような不思議な形の池があって、弁天が祀られており、「大池(おいけ)」と呼ぶようであることまでは地図で判った。この池は現在は周囲が七百六十メートルほどしかないが、どうも形がおかしい感じがするから、埋めたてられたもののようにも見える。そこで何となく気になるのでさらに検索を掛けたところ、あった! サイト「妖怪探求」の過去ログにタキタの投稿で「一眼の魚(徳島県・阿南市)」とあり、『徳島県阿南市畭町(はり・ちょう)に大池(おいけ)という池があります。ここの魚は一眼ばかりであると伝承では伝わります。実際にここで魚を捕ったことのある近所の人の話では、「一眼の魚もいる」というのが正確な表現です。一説にはこの池にはゲンゴロウも多くいるのでそれに刺されて片目になるのだといいます』(驚くべきことに(!)この池には実際に片目の魚いる(!)という数少ない報告談(!)であることに着目されたい!)。『伝承にはバリエーションがありますが、この池(大池と書いてオイケと読む)は一説には、地下水脈を通じて香川県の満濃池(弘法大師で有名ですよね!)とつながっています。この大池にはメスの大蛇が住んでおり、これが、ときどき遊びに来る満濃池のオスの大蛇と良い仲になって、満濃池に嫁入りしたというものもあります』。『このメスの大蛇は(たとえば)オスが満濃池に帰ってしまうと淋しくなるのか暴れる。これで近隣の住民が困る。すると、この周囲を当時おさめていた富岡城の城主(一説には新開遠江守)は「不届至極の大蛇! たれかある、早々討ち取って参れ!」と命じる訳です。そこで弓の名手の船越某(または月輪矢部)』(これは「兵部」誤字か誤読のようにも見える)『が出動し、水上に姿を現わした大蛇を弓で射る。その何本かの内の矢が大蛇の左目に刺さり(または射抜き)大蛇は絶命(または、これを機会に満濃池に嫁に行った)。この後、大蛇の呪いにより池の魚が一眼になった(魚としては、とばっちりでたまらん話です)。あるいは、嫁に行く大蛇が超能力で部下である魚達を一眼にして留守を任せた。などなどと諸説あります。いずれにしても、新開氏は長宗我部の四国侵略により滅んでいますので』、四百年ほど『前の話でしょう』。『船越は、近隣の黒津地町の光明寺で、この大蛇退治の一大法要を行い、このときの矢を寺に奉納したと伝わっています』。『残念ながら、この矢の奉納伝承は現在の光明寺には伝わっていません』。昭和二九(一九五四)年『当時の「徳島新聞」記者の調査では、「この矢は同寺に保管してあったが、先々住の時に失くしてしまったと先住が語っていたという」と報告されています。明治から大正の間に紛失したようです』。また、『大蛇の眼を射抜いた矢だったのか? 残った予備の矢であったのかは不明です』。『なお、この大蛇の住む池の脇には「色変わりの松」というのが一本だけあり、大蛇が里帰り中には葉の色が変わるなどというカラータイマーのような役目をしていました』。これは残念なことに昭和四十年代に『松食い虫によって枯れてしまいましたが、江戸時代には徳島城主の蜂須賀が「珍しい!」と徳島城内に植え替えようとしましたが、いわれのあるのを知り植え替えを諦めています』とある。この大池(おいけ)に間違いない! しかも、これは貴重な現在時制の報告である。しかもくどいけれど、実際に隻眼魚の淡水魚がいるという驚天動地の記事なのである!

「周九丈高さ一丈」周囲二十七・二七メートル、高さ三・〇三メートル。航空写真を見ても現在の大池には島はない。

「月輪兵部」専ら、この大蛇伝説でしか検索の網には掛からない。]

 此言傳へを全部誤りの無いものとする爲には、先づ第一に蛇の巨大なものは水の中でも生息し得ると云ふことを認めねばならぬが、其がちよつと困難である。田舍へ出ればきつと聞く古い池沼の主の話は、稀れには牛だ犀だとも言ふが、十中八九まで蛇體と云ふことになつて居る。恐らくは佛教の龍王などから出た想像上の動物で、單に水神の假の形と見て置いてよいであらう。其よりも、爰で問題になるのは、話の中程でもさ程重きを措かれて居らぬ水中の岩である。此類の孤岩は其が水に洗はれて、世の穢から遠ざかつて居るのをめでたものか、殆ど常に祭場に用ゐられて居る。殊に又魚の生牲を供へる場合に斯う云ふ岩の上を使つて居る。備後吉原村の魚ケ石などは多くある例の一つに他ならぬ。さうすると右の月輪兵部の冒險談の如きも、其戲曲的分子を取除けて考察すれば、やはり前に擧げた片目の男女を水に投じた話と共に、魚を一目にしたのは神の意志に基くと言はうか、一目の戸童(よりまし)の託宣に從つたと言はうか、更に今一段の臆測を加味すれば、新たに魚を代用として、人の眼を突く式を罷めたことを暗示して居るとも言はれるのである。

[やぶちゃん注:「犀」柳田の言う、この「犀」とは長野県松本地域や大北地域に伝わる「小泉小太郎」(泉小次郎などとも)伝説に出る角を持った龍、犀龍(さいりゅう)のことであろう(この話は「龍の子太郎」の原話である)。同伝説はウィキの「小泉小太郎伝説」によれば、『かつて湖だった松本盆地を陸地に開拓したというもので』、「信府統記(しんぷとうき)」(信濃国松本藩主の命により編纂された信濃地誌享保九(一七二四)年完成)によれば、景行天皇十二年まで、『松本のあたりは山々から流れてくる水を湛える湖であった。その湖には犀竜が住んでおり、東の高梨の池に住む白竜王との間に一人の子供をもうけた。名前を日光泉小太郎という。しかし小太郎の母である犀竜は、自身の姿を恥じて湖の中に隠れてしまう』。『放光寺で育った小太郎は母の行方を捜し、尾入沢で再会を果たした。そこで犀竜は自身が建御名方神の化身であり、子孫の繁栄を願って顕現したことを明かす。そして、湖の水を流して平地とし、人が住める里にしようと告げた。小太郎は犀竜に乗って山清路の巨岩や久米路橋の岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作った』というものである。]

 蛇の片目の話は又佐渡にもあるが、或は其原因をこの島の歷史中で最も大きな御人、即ち順德天皇の御逸話と結び付けて居る。茅原鐵藏老人が此事を報ぜられた。或時帝金北山へ御參詣の山路に蛇を御覽なされ、此處でも蛇は眼が二つあるかと仰せられた處、其より後此地の蛇は皆片目になつてしまつた。土地の字を御蛇河内(おへびかうち)と謂ふは其爲である云々。即ち亦片目の蛇が徒に片目であるのでは無いことを示し、神に對して極端に從順であつた故に、其蛇にも十分の尊敬を拂ひ來たつたのであることは、地名が之を傳へて居る。

[やぶちゃん注:「茅原鐵藏」(ちはらてつざう(てつぞう) 嘉永二(一八四九)年~昭和六(一九三一)年)は佐渡出身の農事研究家で郷土研究家。個人ブログ「佐渡人名録」のこちら、或いは個人サイト(と思われる)「川上喚涛と歩いた人びと」(川上喚濤(かわかみかんとう 安政三(一八五六)年~昭和九(一九三四)年)は佐渡出身で佐渡に於けるトキ保護の元祖とされるナチュラリストで文人・地方政治家)の「茅原鐵蔵」及び「茅原鉄蔵の年譜」に詳しい。

「金北山」「きんぽくさん」と読む。現在の新潟県佐渡市にある大佐渡山地のほぼ中央に位置する佐渡島最高峰の山(標高千百七十一・九メートル)。但し、名前に「金」がつくのは金山発見後の江戸初期のことで、順徳天皇配流の当時(承久三(一二二一)年七月から在島二十一年後の仁治三(一二四二)年崩御)は単に「北山(ほくさん)」であった。

「御蛇河内」この字名は現存しない模様で、位置も同定出来ない。]

 近頃刊行せられた岐阜縣益田郡志を見ると、飛彈には今一層神に接近した片目の蛇の話が遺つて居る。此郡萩原町の諏訪神社の社地は、中世暫くの間國主金森家の出城になつて居たことがある。金森氏の家臣佐藤六左衞門なる者命を受けて其工事を指揮し、神靈を上村と云ふ處へ遷さんとするに、神輿が重くなつてどうしても動かぬ。仍て形六左衞門梅の枝を以って神輿を打ち、辛うじて遷座を終ることが出來た。又一説には、此時一匹の靑大將が社地に蟠まつて如何にすれども動かぬのを、六左怒つて梅の枝で蛇の頭を打ち、蛇は左の眼を傷ついて終に其地を去つたとも言ふ。其後六左衞門は大阪陣に赴いて討死をした故、村民之を幾として土木を中止し神社を舊の地へ復したが、今に至るまで境内に梅の木成長せず、又時として片目の蛇を見ることがある。是をば諏訪明神の御使として崇敬して居ると云ふ。

[やぶちゃん注:「岐阜縣益田郡志」郡名は「ましたぐん」と読む。大正五(一九一六)年益田郡役所刊。の同郡の地誌。旧郡郡域は現在の下呂市の大部分と高山市の一部が相当。

「萩原町」現在は下呂市萩原町。

「諏訪神社」「岐阜県:歴史・観光・見所」というサイトの以下の頁より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。諏訪神社諏訪神社の創建は嘉暦二(一三二八)年、『真勝寺の鎮守社として諏訪大社上社(上社本宮・上社前宮:長野県諏訪市)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。以来、府中総社として歴代領主から崇敬され、応永十九年(一四一二)には当時の桜洞城主白井俊国が能面を奉納し、永正十一年(一五一四)は領主三木氏に使えた内記新七郎頼定が諏訪大社下社(下社秋宮・下社春宮:長野県下諏訪町)の分霊を勧請合祀しました。天正十四年(一五八六)に三木氏が滅ぶと、金森氏の支配となり、境内には諏訪城が築かれる事となり、上村の大覚寺南東山麓に遷座します。元禄五年(一六九二)、六代藩主金森頼時の代に上山城(山形県上山市)に移封、宝永六年(一七〇九)に旅館(諏訪城)も取り壊しになり、再度社殿を旧地に遷しています。現在の本殿(上社・下社)は明和七年(一七七〇)に再建されたもので一間社、流造り、銅板葺。又、諏訪城を築城していた際、白蛇が出た為、梅の枝追い返そうとしたところ、誤って片目を潰してしまった事から、城内(境内)で梅の花が咲くことが無くなったと伝えられています。民衆は白蛇が諏訪神の使いと悟り信仰するようになったそうです』と本伝説も記す。

「國主金森家の出城」萩原諏訪城。ウィキの「萩原諏訪城」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『天正十三年(一五八五年)に金森長近は三木氏を滅ぼして飛騨国の領主となり、高山城を本城とした。これに加え、支城として増島城と萩原諏訪城を置いている。萩原諏訪城は諏訪神社の跡地に建てられ、近くの桜洞城を廃し、佐藤秀方が城主となった。 元和五年(一六一五年)の一国一城令により廃城となった後も金森氏の旅館が残っていたが、元禄五年(一六九二年)に金森家の転封に伴って破却された。その後、宝永六年(一七〇九年)に諏訪神社が戻ってきて現在に至る』とある。

「佐藤六左衞門」城田ジョウ氏の個人サイト「美濃国城址への案内状」の「萩城」によれば佐藤六左衛門秀方と名が出、彼は実務上の築城者とも考えられおり、以上の奇っ怪な出来事は天正年中(ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦では一五九二年))とする。]

 蛇は固より生牲として神に進ずべきもので無いから、鯉鮒と同列に論ずることは能ぬ。しかも加州横山の賀茂樣の鮒の如く、魚の方にも又神を代表して一目になつて居た例はあるのである。故に其片目を以て一概に熨斗(のし)や水引の意味と見ることは能ぬのである。

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