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2016/02/15

59歳紀念プロジェクト 一目小僧その他 柳田國男 附やぶちゃん注 始動 / 自序及び「一目小僧」(一)~(三)

一目小僧その他 柳田國男 附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:本書は昭和九(一九三四)年六月に小山書院より刊行された。底本は国立国会図書館デジタルコレクション(現在、リンク先は「近代デジタルライブラリー」と呼称しているが、本年五月末日を以ってこちらに統合予定であるのでかく呼称する。向後、私のブログでは以上の注記を略す)のこちら画像を視認した。

 踊り字「〱」「〲」は正字化した。「〻」は私が生理的に嫌いなので、概ね「々」とした。傍点はブログでは太字とした。

 注は附け出すときりがないので私が決定的に判らないかやや私の理解に不安な部分のある対象、或いは、当該語句の読みが極度に難しいもの又は誤読される可能性が高いものなどに限って(因みに底本はルビが異様なほど少ない)、ごくストイックに段落後に簡潔に注することとした。どの程度に禁欲的かというと、例えば二段落目の「隱れ里の椀貸しの口碑」とは「迷い家(まよいが:民俗学では「マヨイガ」とカタカナ書きするが、私は沖繩方言をカタカナ表記するのに嫌悪を感じるのとは別な意味で、この明治に始まった似非学術用語表記に嘔吐感を覚える)」のことで、特に「遠野物語」で知られるようになった山中の怪異の一つであるが、私はよく判っているし、これに私の注を附すことになると、私の欲求としては、まずは中国に飛んで道家思想やら桃源郷やらまで遡って始めずにはいられないから注さない、というコンセプトではある。悪しからず。……しかしまあ、私は元が馬鹿であるから、結局は注はそれなりに附さざるを得なかった。

 なお、難読語の読み方については一九八九年ちくま文庫版「柳田國男全集6」に載る同作を参考にしたが、それに無批判に従った訳ではないことを断わっておく(最初の「門客人」の注などを参照されたい)。なお、既に自序の中に表現上の有意な異同があることを発見していることから、ちくま文庫版解題には記されていないものの、どうも初版刊行後にかなりの改訂が施されていることが判った(単なる奥付の改版扱いの中で行われたものかと思われる)。]

 

 

 

柳田國男

 

一目小僧その他

 

        小山書房刊行

 

 

 

  自  序

 

この卷に集めて置く諸篇は、何れも筆者にとつて愛着の深いものばかりである。或題目は既に二十何年も前から興味を抱き始めて、今に半月と之を想ひ起さずに、過ぎたことは無いといふのもあり、或はかの諏訪の出湯の背の高い山伏のように、何を聽いてもとかく其方へばかり、話を持つて行きたくなるものもある。全體に書いて何かに公表した當座が、自分の執心も凝り又畏友だちや讀者の親切もあつて、却つて新しい材料の多く集まつて來るのが、年來の私の經驗であつた。どうしてあの樣に急いで文章にしてしまつたらうかと、いつでも後悔をする例になつて居るが、さりとて今日まで此問題をかゝへ込んで居たならば、果して纏まりがついたらうかといふと、それには自分が先づ勿論とは答へることができない。

 材料は今でもまだ集まつて來る。たとへば目一つ五郎考の中に、郷里のうぶすなの社殿の矢大臣が、片目は絲みたやうに細かつたといふことを書いてしまふと、それからは何處の御宮に參拜しても、きまつて門客人の木像に注意をせずにはいられなくなる。その木像には年を取つた赭ら顏の方の左の眼が、潰れて居るのが多く、又はさうで無いのもある。之を見ると私は非常考へ込むのである。隱れ里の椀貸しの口碑などは、最初は稀々に出逢つて驚く位であつたが、去年南部の八戸に往つて聽くと、あの邊は到る處の川筋に二軒三軒の舊家が、大抵は家の昔として此話を傳へ、又時々は其借りたといふ椀や蓋物を藏して居る。さうして其附近には奇妙にダンズといふ類の地名が多いと小井川君などは言ふのだが、是が又自分をして、佐渡の隱れ里の狸の長老の名が團三郎であつたり、薩摩では狸をダンザといふ方言があつたり、或は曾我の物語に出る鬼王團三郎の兄弟が遁れて來て住んだといふ伊豫土佐その他の深山の遺蹟などを、次々に思ひ出さしめるのである。

[やぶちゃん注:「門客人」「かどまらうど(かどまろうど)」と訓じているものと思われるちくま文庫版もそう訓じてはいる。但し、「もんきやくじん(もんきゃくじん)」「かどきやくじん(かどきゃくじん)」と読んでいる可能性を排除は出来ない。事実、これは「門客神」とも書き、「人」でも「神」でもそうも読むからである。これは神社に於いての本社(主祭神)では無論なく、摂社・末社などで祭祀されている併神でもなく、外からやって来た「客人神(まろうどがみ)」として主社の端に随身(ずいじん)の神の如く、或いは何となく目立たないような場所にみすぼらしく祀られてあったり、ただ置かれてある神体や神像で、通常は独立の祀られる祠(ほこら)を持たない、見た目から判る通りの下級神である。しかしこれこそは実は、本来のその地の古代の地主神(じしゅしん)や主祭神であったものが大方であり、古代に侵入してきた大和朝廷にその土地は彼(現在の客人神)から簒奪され、後からでっち上げられた日本神話の神々と立場を強制的に逆転させられて哀れな客人神とさせられたのであると考えるのが正しい。

「小井川潤次郎」(こいかわじゅんじろう 明治二一(一八八八)年~昭和四九(一九七四)年)は民俗学者。青森県八戸町(現在の八戸市)生まれ。青森県師範学校本科第二部卒。郷里青森県で小学校教員を務めながら民俗学を研究、県下各地の年中行事の事例を収集、大正四(一九一五)年には柳田國男に共鳴して「八戸郷土研究会」を結成、『奥南新報』『民俗展望』『いたどり』などの新聞雑誌を中心に論考を発表した。大正七(一九一八)年に教職を退いて東京に出たが、大正一一(一九二二)年には帰郷、青森県文化財専門委員・八戸市史編纂委員などを歴任した。昭和二(一九二七)年には「日本民俗学会」名誉会員に推された。その研究対象は、青森県の民謡・年中行事・伝統芸能・工芸・えんぶり(初春神事として青森県八戸市一円を中心とする東北各地で広く行われている予祝芸能(門付)の一種)・絵馬など多岐に渡り、民俗学に密接な関係する植物や歴史にも精通した。著書に「八戸郷土叢書」など(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「佐渡の隱れ里の狸の長老の名が團三郎」私の電子テクスト注「耳嚢 巻之三 佐州團三郎狸の事」を参照されたい。

「曾我の物語に出る鬼王團三郎の兄弟」これは原話を知らぬ場合、誤読する者が多い。「鬼王團三郎」は「おにわうだうざぶらう(おにおうどうざぶろう)」で「團」は「だう(どう)」と読むからである。これは「鬼王」(兄)と「團三郎」(弟)で二人の曾我十郎・五郎の従者とされる兄弟の名前である。平凡社の「世界大百科事典」によれば、この鬼王・団三郎という呼称は能や歌舞伎の曾我物に於ける呼称であって、大元の「曾我物語」にあっては鬼王丸と丹三郎(真名本)、鬼王と道三郎(仮名本)である。同作では幼少の頃より曾我兄弟に仕えて片時も離れず付き従っていたとあるものの、実際に同物語中に登場してくるのは後半になってからで、しかも二人の登場自体に不審な点がある。鬼王・団三郎は富士の狩場へ仇討に向かう曾我兄弟に同行、仇討と兄弟の最期を見届けた上、兄弟の形見を曾我の里へ届ける役目をも担った。一般には実在の人物とされ、後に全国を巡って兄弟の菩提をとむらった足跡が各地でみられるともあるが、平凡社の『不審』というのは、「曽我物語」創作過程にあって新たに新キャラクターとして作り出された可能性があるということを匂わせているように読める。実際、私の持つ十二巻本の王堂本「曽我物語」ではまさに討死の巻第九で登場、次の巻第十では曽我に戻って本懐を遂げたことを語った後、自身らの家にも帰ることなく、高野山に登って出家遁世している。確かに不審。]

 橋姫の話は早く書いてみようとしたものだけに、殆ど際限も無いほどの後日譚を導き出して居る。水の女神の「ねたみ」といふことは、以前は凡庸人の近づき侮るを許さぬ意味であつた。それが嫉妬の義に解せられて、二個の女性の對立を説き、山の高さ競べの傳説などゝ、似通うやうになつたのも新しい變化で無い。赤兒を胸にかゝへて行人に喚びかけるということも、山にあつては磐次磐三郎などの兄弟の狩人の物語となり、水の滸に於ては龍宮の嬰兒の昔話に繋がつて居るが、何れも素朴謹直の信者を恩賞する方が主で、たまたま其寵命を輕視した者だけが罰せられたのである。だから豐後の仁聞菩薩の古傳を始として、さういふ遺跡は崇祀せられて居る。それがいつの程にか信仰を零落せしめて、九州の海ではウブメはすでに船幽靈のことにさへ解せられて居るのである。しかし我々の同胞は谷や岬に立ち別れて、それぞれ自分の傳承をもり育てゝ居た。故に其例の多くを比べてみることによつて、進化のあらゆる段階を究め、從つて端と端との聯絡をも明らかにすることが出來るのである。遠江參河の山間の村には、水の神から送られた小さな子が、幽界の財寶を貸しに來る口碑も多い。隱れ里の膳椀はその一部分が、何かの因縁を以て特段に發達したものであつた。鹿の耳を切る近代の風習は、處々の神の他の片目の魚、もしくは神が眼を突いたといふ植物のタブーと共に、生牲の祭儀の名殘であつたことが判つた樣に、橋姫と椀貸しとも元に於ては一つの根ざしであつた。是を木地屋の信仰の基礎になつた小野一族の傳道と、何か關係のあるものの如く推測した自分の一説だけは、あの頃ちやうど此問題に深入りして居た爲の、考へ過ぎであつたやうに今では思つて居る。

[やぶちゃん注:「磐次磐三郎」一般には磐司磐三郎と書き、「ばんじばんざぶらう(ばんじばんざぶろう)」と読む。これも「磐司」(兄)と「磐三郎」(弟)の兄弟の名である(但し、「磐司磐三郎」で一人の狩人の名とする伝承もある)。古えの日本の狩猟の民の先祖とされている伝説の人物。「万次」或いは「万治」と「万三郎」、「大満・小満」(おおまん・こまん)、「大摩」と「小摩」、「大汝・小汝」(おおなんじ・こなんじ)などの表現もある。二人は対立し相争うが、一方が山の神を助けたこと(助産)によってその加護を受けるのに対し、他方は山の神を助けなかったがために山の幸(さち)を受けられなくなるというモチーフで共通する。山の民の典型である狩猟民たちは曾ては全国の山中を漂泊していたものらしく、「磐司磐三郎伝説」はそれらの民や末裔・接触した人々によって全国に分布している。その代表的事例は北関東から東北地方の伝承で、日光権現を助けて赤城明神を矢で射た猟師磐三郎で、彼はそれによって狩猟の権利を神から得たとされてマタギの開祖となる。以上は「朝日日本歴史人物事典」の宮田登氏の解説に主に拠った。

「滸」「ほとり」と読む。「畔」に同じい。

「仁聞菩薩」「にんもんぼさつ」と読む。奈良時代に大分県国東半島の各地に二十八の寺院を開基したと伝えられる伝説的僧(神仏とする説もある)。「人聞菩薩」とも表記する。以下、ウィキの「仁聞」より引く。『六郷満山と呼ばれる国東半島の密教寺院の多くは』、養老二(七一八)年に『仁聞が開基したとの縁起を伝えている。これらの縁起によれば、仁聞は、最初に千燈寺を開基し、その後、国東半島の各地に』計二十八ヶ寺を『開いた後に、最初に開基した千燈寺の奥の院枕の岩屋で入寂したと伝えられる。また、熊野磨崖仏などの国東半島に多く残る磨崖仏も仁聞の作であると伝えられるものが多く』、六万九千体もの『仏像を造ったとされる』が、『今日では、仁聞は実在の人物ではなかったとする説が有力で』、『六郷満山の寺院は、実際には、古来から国東半島にあった山岳信仰の場が、奈良時代末期から平安時代にかけて天台宗の寺院の形態を取るようになったもので、近隣の宇佐神宮を中心とする八幡信仰と融合した結果、神仏習合の独特な山岳仏教文化が形成されたと考えられている。各寺院を開基した人物としては、仁聞の弟子として共に修行を行い、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の別当などを務めたと伝えられる法蓮、華厳、躰能、覚満といった僧侶を挙げる説もある』。『仁聞については、宇佐神宮の祭神である八幡神自身あるいは八幡神に近しい神の仏教的表現であると考えられている。なお、国東六郷満山に数えられる両子寺奥の院においては、仁聞菩薩と八幡大菩薩を併せて「両所権現」として祀っている。これは両子権現とも呼ばれ、同寺や所在する山の名前の由来と思われる』。『奈良時代、仁聞菩薩が訪れた寺院、佐賀県・長崎県・大分県・熊本県の』三十三箇所の『九州西国三十三箇所観音霊場は』現在でも有名である。

「生牲」「いけにへ(いけにえ)」と読む。「生贄」に同じい。]

 流され王の一文はあの當時色々の都合があつて、既に自分の胸に浮かんだゞけの、事實のすべてを敍説することが許されなかつた。それが次々に珍しい新例を追增して來て、しかも今日は率直にその委曲をつくすことが、一段と困難な世柄になつて居るのである。魚の物を謂ひ飯を食つたといふ話なども、氣をつけて居る爲か、尚ぼつぼつと現れて來る。熊谷彌惣左衞門が稻荷として祭られた話の如きも、いつの間にか津輕の御城下まで遠征しており、是と緣があるらしき飛脚狐の記錄に至つては、全國を通計すれば十餘箇處にも及ぶであらう。是等は説き立てるに何の斟酌もいらぬことだが、其代りそれは唯同類の例が、まだ幾つかあるといふだけの話で、自分は兎も角も他の人には少しくうるさい。全日本の巨人が岩や草原の上監過した足跡は、魚にも植木にも見られぬやうな、大小の差異があり、又成長がある。その中でもダイダラボツチの一群だけに、特に奇拔な形容があり又滑稽な誇張があるのは、中世關東人の趣味と氣風とが、もうそろそろと今日の萌しを見せて居たのかも知れない。しかし其御蔭に此口碑などは、盛りが早く過ぎて辛うじて記憶を守るまでになつて居る。之に反して、所謂一つ目小僧樣の方は、今でも年毎に武相の野の村を訪れて居たのであつた。二月と十二月の八日節供の前の晩に、門に目籠を竿高々と掲げて、目の數を以て是と拮抗して見ようとしたり、もしくは茱萸の木を燃やし、下駄を屋外に出して置くことを戒めて、彼にその一つの眼を以て家の内を覗かれるのを避けんとして居る。さうして必ず樣附けを以て之を呼ぶのを見ても、神と名けて居なかつたといふのみで、只の路傍の叢の狸貉などゝ、同一視しなかつたことは明かである。毎日飛行機の唸つて居る我々の靑空も、今尚彼が去來の大道であつたことを、つい近頃になつて私は學び知つたのである。さういふ無知を以てこの長々とした傳記を書いて見ようとしたことは、少なくとも彼一目小僧樣に對して、恐縮の他は無いのである。

[やぶちゃん注:「あの當時色々の都合があつて、既に自分の胸に浮かんだゞけの、事實のすべてを敍説することが許されなかつた。それが次々に珍しい新例を追增して來て、しかも今日は率直にその委曲をつくすことが、一段と困難な世柄になつて居る」とはこれまた意味深長な物謂いであるが、これについては、木村剛久氏が御自身のサイト「海神歴史文学館」の「一目小僧その他」でこの部分について、『本書の「流され王」が雑誌「史林」に掲載されたのは』大正九(一九二〇)年のことで、『貴族院書記官長の辞表を原敬首相に提出したあと、朝日新聞への入社が決まったころ』とされ、『満州国皇帝に溥儀(ふぎ)が就任し、まもなく衆議院で美濃部達吉の天皇機関説が批判されようという時期である』。まさに『その時節に』異国神渡来伝説たる『「流され王」、つまり王の追放と流亡(るぼう)を扱うのは、いかにも刺激が強すぎる。だが、それを取り下げようとはしなかった。思いのまま書けなかったと付記しながら、民間伝説をそのまま紹介したのである』という評で氷解した。

「二月と十二月の八日節供」事八日(ことようか)。本来は旧暦二月八日と十二月八日の年二回行われた行事で、「事」は「小さな祭り」の意(二月と十二月の一方だけを重視する地方もある)。この日は一つ目の怪物が来るとされ、ここに出るようにそれを回避するため、目籠を竿先に掛けて軒先に立ててたりして防衛線とした外、針供養などの行事も行った(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「茱萸」「ぐみ」と読む。バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus 。茎に棘があり、植物体に独特の臭気がある。

「下駄を屋外に出して置くことを戒め」一つ目によってその下駄には印が押されてしまい、翌年にはそれを目印としてその家に流行り病いをもたらすなどと言われた。]

 たゞ幸いなことには自分はまだ、何とも相濟まぬといふ樣な斷定はして居なかつた。この一つ目の一篇には限らず、私の書いたものには悉く結論が缺けて居る。たまには斯うで無いかといふ當て推量を述べて見ても、後ではそれが覆つてしまふほどの、意外な新しい事實の顯はれて來ることを、寧ろ興味を以て待構へて居るのである。しかし實際はさう大した反證といふものが擧らなかつた。曾て私の提出した疑問は、今でもまだ元のまゝに保存せられて居る。二十何年もかゝつてそんな小さな問題が、まだ解け無いとはをかしいといふ人もあらうけれども、小さいといふことゝ問題の難易とは、少しでも關係が有りはしない。それに本當は小さくないのかも知れぬのである。何れにしても私の目的は、是がある人間の半生を費して、尚説明してしまはれない問題だといふことを、報告して置けばそれで達するので、もし尚注文を加ふれば率直に物を訝かる心、今まで講壇の人々に措いて顧みられなかつた社會現象は無數であり、それが悉く何らかの意義を潛めて、來り採る者を待つて居るのだといふ希望、もしくは是を薪とし燈火として、行く行くこの無明世界の片隅を、照らして見ることが出來るといふ樂觀などを、能ふべくは少しでも多くの人に、勸説してみたいと思ふだけである。答も稻妻と雷鳴とのやうに、問との間が遠いものほど、大きからうとさへ考へて居るのである。

[やぶちゃん注:「勸説」「くわんせつ(かんせつ)」で説き勧めること。]

 但し是等の文章を公けにしてから後に、新たに集積した色々の資料だけは、正直のところ如何に始末してよいかに當惑をして居る。何れ索引でも設けて誰にでも利用し得るやうにするの他は無いが、さし當りの方法として、一旦書いてあるものをばらばらに解きほぐし、新舊の材料を併せてもう一度組立ててみてはどうかといふと、それではもう最初の日のやうな樂しみはなくなつてしまふだらう。この始めて旅行をして來た小學生のやうな活潑な話し方を、今頃踏襲して見ることは自分には少し六つかしい。其上にこの各篇の中には、多くの故友のもう逢ふことも出來ぬものが、卓子の向う側に來て元氣よく話をして居る。うちの娘たちも極めて稚ない姿で、眼を圓くして一目小僧の話に聽入つて居る。是に對して居る間は、私などもまだ壯者であり勇者である。それを投棄てて現在の左顧右眄時代に戻つて來ることは、理窟は無しに只惜しいやうな感じがする。だから古い形のまゝでもよいから、纏めて本にして置いたらどうかと勸めてくれる人々は、自分は故郷の隣人のやうになつかしいのである。

  昭和九年五月   柳田國男 識

[やぶちゃん注:先に引いた木村剛久氏の「一目小僧その他」に、『この本は、いまは亡き南方熊楠』(慶応三(一八六七)年~昭和一六(一九四一)年)『や佐々木喜善』(きぜん 明治一九(一八八六)年~昭和八(一九三三)年)、牧師で民俗学者であった『山中共古』(きょうこ 嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年)『などに捧げられたオマージュであり、すでに結婚した娘たちへの思い出の記でもある。そして、左にも右にも気を配りながら、自主規制しながら言論を展開しなければならない時代への頑固な抵抗の書でもあった』とある。柳田國男の長女三穂は明治四二(一九〇九)年、次女千枝は明治四五(一九一二)年で、最初の「一目小僧」の冒頭に「今年九つと六つになる家の娘」とあり、同評論は章末のクレジットから大正六(一九一七)年八月発行の『東京日日新聞』が初出であるから数えでこの三穂と千枝であることが判明した(なお、柳田にはこの他にこの大正六(一九一七)年生まれの三女三千、及び大正八(一九一九)年生まれの四女千津がある)。]

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、目次が入る。各標題下のリーダと頁数字、及び最後の「索引」の柱全体を省略する。]

 

目次

 

自序

 

一目小僧

目一つ五郎考

鹿の耳

橋姫

隱れ里

流され王

魚王行乞譚

物言ふ魚

餅白鳥に化する話

ダイダラ坊の足跡

熊谷彌惣左衞門の話

 

 

 

   一目小僧

 

    一

 

 今まで氣が付かずに居たが、子供の國でも近年著しく文化が進んだやうである。

 自分は東京日日の爲に一目小僧(ヒトツメコゾウ)の話を書きたいと思つて、先づ試みに今年九つと六つになる家の娘に、一目小僧てどんな物か知つてるかと聞いて見た。すると大きいほうは笑ひながら、「眼の一つ有るおばけのこと」と、丸で言海にでも出て居りさうなことを言ふ。小さいのに至つてはその二つの目を圓くするばかりで何も知らず、其おばけは家なんかへも來やしないと尋ねて居る。つまり兩人とも、此怪物の山野に據り路人を刧かす屬性を持つて居たことを、もう知つては居らぬのである。

[やぶちゃん注:「(ヒトツメコゾウ)」はルビではなく本文同ポイントである。

「言海にでも出て居りさうなこと」私の所持する明治二二(一八八九)年刊の大槻文彦の「言海」には「ヒトツメコゾウ」の見出しは残念ながら、ない。癪なので、試みにやはり私の所持する小学館「日本国語大辞典」を引くと、『「ひとつめ-こぞう」【一目小僧】〘名〙小僧の姿で、ひたいに目が一つしかないばけもの。目一つ小僧』とある。千穂ちゃん、よくできました

「來やしない」筑摩版全集では「來やしないか」(恣意的に正字化した、向後、この注は略す)となっている。

「刧かす」「おびやかす」と読む。「脅かす」に同じい。]

 到頭一目小僧が此國から、退散すべき時節が來た。按ずるに「おばけ」は化物の子供語である。化物は古くはまた變化(へんぐゑ)とも唱へ、此世に通力ある妖鬼又は魔神があつて、場所乃至は場合に應じて、自在に其形を變ずるといふ思想に基づいて居る。鬼が幽靈に進化して專ら個人關係を穿鑿し、一般公衆に對して千變萬化の技能を逞うせぬやうになると、化けるのは狐狸と云ふ評判が最も盛になつた。狐狸には素より定見が無いから、續々新手を出して人を驚かすことを力める。從つて記錄あつてより以來終始一箇の眼を標榜し、同じやうな處へ出現して居る此恠物の如きは、嚴重なる「おばけ」の新定義にも合せず、少なくとも舊型に拘泥した、時代の好尚に添はぬ代物といふことになる。家の子供らの消極的賢明の如きも、言はゞ社會の力で、之を家庭教育の功に歸することは難いのである。

[やぶちゃん注:「變化(へんぐゑ)」はルビであるが、ちくま文庫版では『へんぐゑ(變化)』としており、戦後に歴史的仮名遣を廃してしまった結果、こうせざるを得ない掻痒感が膿のように滲み出ていると私は感ずる。全集編者よ、せめて「へんぐゑ」と鍵括弧ぐらいつけてやれや! 却って読み難うなっとるやないかい!

「逞う」「たくましう(たくましゅう)」十読む。

「恠物」「くわいぶつ(かいぶつ)」。「怪物」に同じい。]

 しかし昔は化物までが至つて律儀で、凡そ定まつた形式の中に其行動を自ら制限して居たことも亦事實である。尤も相手を恐怖せしめると云ふ單純な目的から言へば、此方が策の得たるものであつた。無暗に新規な形に出て、空想力の乏しい村の人などに、お前さんは何ですかなどゝ問はれて説明に困るよりは、そりやこそ例のだと言はせた方が確に有效である。つまり妖恠には茶氣は禁物で、手堅くして居らぬと田舍では、斯道でもやはり成立ちにくかつたのである。

[やぶちゃん注:この段、実景を想像すると実に愉快である。「茶氣」(ちやき(ちゃき):悪戯っぽい属性。茶目っ気(け))があるのは寧ろ、柳田センセ!

「斯道」「このみち」と訓じておく(全集版もそう表記を改変している)。]

 自分の實父松岡約齋翁(やくさいおう)は、篤學にして同時に子供のやうな心持ちの人であつた、化物の話をして下さると必ず後で其を繪に描いて見せられた。だから自慢では無いが、自分は今時の子供見たやうに、ただ何とも斯とも言はれぬ怖い物などと云ふ、輪郭の不鮮明な妖恠は一つも知つて居らぬ。一目小僧について思ひ出すのは、大抵は雨のしよぼしよぼと降る晩、竹の子笠を被つた小さい子供が、一人で道を歩いて居るので、おう可愛そうに今頃何處の兒かと追付いて振囘つて見ると、顏には眼がたつた一つで、しかも長い舌を出して見せるの出きやつと謂つて逃げてきたと云ふやうなことである。

[やぶちゃん注:「自分の實父松岡約齋翁」柳田國男の実の父松岡操(みさお)。号は「やくさいをう(やくさいおう)」と読む。柳田國男の前半生は複雑している。彼は明治八(一八七五)年七月三十一日に飾磨(しかま)県(現在の兵庫県)神東(じんとう)郡田原(たわら)村辻川(現在の兵庫県神崎(かんざき)郡福崎町(ふくさきちょう)辻川:ここは河童伝承がある)に儒者で医者であった松岡操と妻たけの男ばかりの八人兄弟の六男として出生した(以下、維新変革後の当生家を襲った貧困と困苦は参考にしたウィキの「柳田國男」を参照されたい)。國男は十一歳で地元辻川の旧家三木家に預けられ、十二の時、医者を開業していた長男の松岡鼎に引き取られ、茨城県と千葉県の境である下総の利根川河畔の布川(現在の利根町)に転住、十六歳になると東京に住んでいた三兄の井上通泰(帝国大学医科大学在学中)と同居、この時この兄の紹介で森鷗外の門を敲いている。その後、一高から東京帝国大学法科大学政治科へ進み、明治三三(一九〇〇)年に卒業すると農商務省入りし、主に東北地方の農村の実態を調査研究する傍ら、早稲田大学で農政学の講義もしている。翌明治三四(一九〇一)年に大審院判事であった柳田直平の養嗣子となって入籍、その三年後の明治三七(一九〇四)年四月に直平の四女孝十九歳と結婚して牛込加賀町に転居した。この実父松岡操(天保三(一八三二)年~明治二九(一八九六)年:元は賢次であったが明治初期の改名の自由が許されるたことにより操に改名した)は祖父の代より医師の家系であった。以下、ウィキの「松岡操」より引く。『姫路藩の儒者角田心蔵の娘婿田島家の弟として一時籍を入れ、田島賢次という名で仁寿山黌や好古堂という学校で修行し、医者となった』。『母小鶴が漢文、フランス語、数学などをよくし、特に漢学の素養が深く文才が豊かであった。小鶴が寺子屋を開いて手習いの子供たちに漢籍を教えていたこともあり、若い頃より学問が好きであった』。柳田國男晩年の回想録である「故郷七十年」によれば、『「父はいつも風呂敷包みをさげて本を借りて来ては読んでゐた」が、それは多分、小さな家を建てるために色んなものを処分したからだろう、と記されている。また、明治維新の大きな変革期にあって種々の悩みからひどい神経衰弱を患い、一時は座敷牢に幽閉されたこともあった。ある夏の夜、座敷牢から出し、蚊帳に寝かせていたところ姿が見えず大騒ぎになるが、裏の竹やぶを隔てた薬師堂の空井戸の中に入っていたのを見つかるという事件もあった』。『一旦は医業を見切り姫路の町学校である熊川(ゆうせん)学舎に招聘され、漢学の師匠となり盛年を過ごすが、その間に本居宣長、平田篤胤に強く惹かれ、國男が生まれた頃には御社の神官をしていた。このことが國男に与えた影響は甚大で、『神道と民俗学』の自序に「私は常に自分の故郷の氏神鈴ヶ森の明神と、山下に年を送った敬虔なる貧しい神道学者、即ち亡き父松岡約斉翁とを念頭に置きつつ、注意深き筆を執ったつもりである」といわしめているように、ことに神道研究の上で大きな影響を落とした。また、國男が戦後の一時期に、神道問題を追究した際に熱心に「新国学」を提唱したのも操の傾倒した本居、平田学派への精神的なつながりを意識してのことだという見方も強い』とある。

「斯とも」「かとも」。

「竹の子笠」竹の皮を裂いて編んだ被り笠。法性寺(ほっしょうじ)笠とも。三度笠に似るが三度笠が頂の部分を尖らしてあるのに対して、画像検索すると竹の子笠は先端が丸い(あるいは少し窪んでいる)ものの方が多いように思われる。]

 此話は多分畿内中國に亙つた廣い地域に行はれて居たものと思ふ。さまで古いころからのことであるまいが、二三の畫工が描き始めた狸の酒買の圖は、之から思ひ付いたものらしい。笠の下から尻尾がちらりと見える形が面白いので持囃され、例へば京の淸水などには、何れの店先にも其燒物を陳べて居る程の流行であるが、流行すればする程、化物としてはちつとも怖くない。是は要するに鳥羽僧正のやうな天才でも、其靈筆を以てして活きたおばけを作り得なかつたのと同じ道理で、如何に變化でも相應の理由が無ければ出ては來ず況んや一人や二人の萬八や見損ひから、此だけ強力なる畏怖をひき起し得るもので無いことを證據立てる。

[やぶちゃん注:「萬八」「万」の中で真実なのは僅か「八」つだけという意で、嘘の多いこと。偽り。大嘘つき。「千三(せんみ)つ」なども同義語。]

 自分が將に亡びんとする一目小僧の傳統を珍重し、出來る限り其由來を辿つて見たいと思ふのも、全く右申すやうな理由からである。

 

 

    二

 

 一目小僧の問題に就て、自分が特に意味が深いと思ふ點は、此妖怪が常に若干の地方的相異を以て、殆ど日本全島に行き亙つて居ることである。是は追々と讀者からの注意によつて分布の狀況を明らかにすることゝ信ずるが、自分の知つて居る限りでも、此物の久しく農民の圍爐裏傍と因緣を有つて居たものであつて、例の物知りや旅僧に由つて、無造作に運搬せられたもので無いことだけは判る。

[やぶちゃん注:「圍爐裏傍」「いろりばた」。]

 例へば飛彈國などには、一目小僧は居らぬが一目入道が居る。高山町の住廣造氏の話に、雪の降る夜の明け方に出るもので、目が一つ足が一本の大入道である。仍て之を雪入道と稱して子供が恐がると云ふ。

[やぶちゃん注:「住廣造」「すみ」が姓で「ひろぞう」が名と思われる。単なる民話被採集者ではないと思われる。ご隠居氏のブログ「隠居の『飛騨の山とある日』」によれば、明治四四(一九一一)年に『飛騨山岳会員住廣造が「飛騨山川」(編集岡村利平)を発刊。このなかに乗鞍岳、白山、御嶽の登山コースが紹介されている』。住廣造は明治四二(一九〇九)年に『「飛州志」をはじめとする飛騨叢書を発刊し、飛騨史談会の機関紙「飛騨史壇」の月刊出版も行っていた』とあるので、れっきとした郷土史家である。]

 一目は兼て足も一本だと云ふことは亦隨分弘く言傳へられて居る。高瀨敏彦氏の話に、紀州伊都郡では雪の降積んだ夜、ユキンボ(雪坊?)と云ふ化物が出て來る。小兒のやうな形をして一本脚で飛んであるくものと傳へられ、雪の朝樹木の下などに圓い窪みの處々にあるのを、ユキンボの足跡と言ふさうである。

[やぶちゃん注:「高瀨敏彦」柳田國男の引用によく出る『郷土研究』四巻一号「紀州伊都郡俗信」などを書いており、和歌山の郷土史家かと思われる。

「紀州伊都郡」「いとぐん」と読む。現存する和歌山県北部の郡。旧郡域は和歌山最北端部全域で、現在の同郡を構成する、かつらぎ町(ちょう)(但し、旧郡では一部を除く)・九度山(くどやま)町・高野(こうや)町の他、橋本市及び紀の川市の一部、更に現在の奈良県五條市の一部(真土村だった部分)を加えた地域を指した。]

 この話では小僧の眼が幾つと言はぬから、普通の數と見るの他は無いが、同じ紀伊國でも熊野の山中に昔住んで居た一踏鞴(ひとたゝら)といふ凶賊の如きは、飛彈の雪入道と同じく、亦一眼一足の恠物であつた。一踏鞴大力無双にして、雲取山に旅人を刧かし、或は妙法山の大釣鐘を奪ひ去りなどした爲に、三山の衆徒大いに苦しみ、狩場刑部左衞門と云ふ勇士を賴んで之を退治して貰つた。色川郷三千町歩の立合山は、其功に由つて刑部に給せられたのが根源であつて、後に此勇士を王子權現と祀つたと紀伊國續風土記に出て居るが、土地の人は狩場刑部左衞門は實は平家の遺臣上總五郎忠光のことで、維盛卿を色川の山中に住ませる爲、恩賞の地を村の持にして置いたのだと云ふ由、新宮町の小野芳彦翁は語られた。

[やぶちゃん注:「一踏鞴(ひとたゝら)」全集版では『一踏鞴(ひとつだたら)』とルビを振る。後者の方が私には馴染む。さらに言えば「一本踏鞴(いっぽんだたら)」である。これが、一つ目で一本足であることは山中の鍛冶精錬の民との関係で、これはすこぶる納得出来る。踏鞴を踏むには片足を常に連続的に酷使しし続けるために、その片足が不自由になることが多いく、また、爐を極めて高温にするが、金属融解の温度は当時、その火の色を見る以外には究められなかったために、常に爐に開けた小さな穴から中の火を凝視し続けねばならず、それによって似たように片目が不自由になるものがやはり多かったと思われる。されば、山中の鉱脈を秘かに探し出し、そこで鍛冶に秘かに従事した(或いは従事させられた)民を隻眼隻脚でシンボライズすることは自然であったと私は思っているからである。そうして、それを見てしまった部外者は口封じされることもなかったとは言われないと推測もするのである。

「雲取山」固有の山名ではなく、熊野那智大社と熊野本宮大社とを結ぶ熊野参詣道の難所の一つ「雲取越え」のことであろう。ウィキの「雲取越え」によれば、『熊野那智大社から、その後背にそびえる那智山を越えて赤木川の河谷に至るまでを大雲取越え(おおぐもとりごえ)、赤木川から熊野本宮大社に至るまでを小雲取越え(こぐもとりごえ)と呼ぶ』とある。

「妙法山」現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある真言宗妙法山弥陀寺。那智山の一角を成る妙法山中腹にある。

「三山」熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の熊野三山のこと。

「狩場刑部左衞門」現在、那智高原公園から熊野古道大雲取越への入口に「狩場刑部左衞門寄附山林」と刻まれた石碑が建つ。これは昭和一〇(一九三五)年に色川村(いろかわむら:和歌山県東牟婁郡にあった旧村で現在の那智勝浦町の北西部に相当する)外、二ヶ所の組合によって建立されたもので、この地の百九十八町歩(約百九十八ヘクタール)の山林が「狩場刑部左衛門」によって古えの色川の村落に寄附されたものであることを顕彰する目的で建てられたものであると、サイト「紀の国風景讃歌」の「狩場刑部左衛門寄附山林碑」にある。そこにはここに記された通り、『中世に熊野の山中から出没した盗賊「ひとつだたら」を退治したという伝説的英雄の伝説上の英雄』ながら、退治の恩賞として三山の一つである那智山から与えられた約三千ヘクタールにも及ぶ山林を総てこの色川十八ヶ村の『郷民に分け与えたことで、長くその恩恵にあずかった旧郷民から今なお尊敬されている人物で』あるとある。

「立合山」これは一般名詞で「たちはひやま(たちあいやま)」と読み、数ヶ村の入会(いりあい)山林のことを指す。

「王子權現」八王子権現のこと。近江国牛尾山(八王子山)の山岳信仰に天台宗と山王神道が習合したもので、一般には日吉山王権現或いは牛頭天王の眷属八神などを祀る。

「紀伊國續風土記」(「續」は「ぞく」とも「しよく(しょく)」とも読む)幕府の命により紀州藩が文化三(一八〇六)年に藩士で儒学者であった仁井田好古を総裁として編纂させた紀伊国の地誌編纂した紀伊国地誌。途中、仁井田の離任による中断などがあって実に三十三年後の天保一〇(一八三九)年に完成した。参照したウィキの「紀伊続風土記」によれば、『編纂にあたっては、編纂者たちが国中を余さず調査したと』され、本編九十七巻の他に「高野山之部」八十一巻・附録の古文書編十七巻と、実に全百九十五巻からなる大著で、『村によって精粗の別はあるとはいえ、近世紀州藩の情勢を知る上で欠かせない基礎史料であり、紀州の近世農村史料を採訪すると、今日もなお紀伊続風土記に収載されたものがしばしば発見され』、『近世に編纂された同種の文書は日本全国に多数あるが、それらの中でもとりわけ秀逸なものの一つである』とある。

「上總五郎忠光」。「平家物語」巻十一の「弓流(ゆみながし)」で源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ)を紙のように素手で引き千切った「錣引き」で知られる、剛腕勇猛の藤原悪七兵衛景清(建久七(一一九六)年)~?)のこと。壇ノ浦の戦いで敗れた後に捕られ、一般には鎌倉に連行され、八田知家の屋敷で絶食し果てたと伝えるが、豪壮な英雄なればこそ各地に生存伝説を残している。

「維盛」平維盛(保元三(一一五八)年~寿永三(一一八四)年)。ィキの「平維盛」によれば、平清盛嫡孫で平重盛嫡男であったが、父の早世もあって平家内部では孤立気味であった。寿永二(一一八三)年五月の倶利伽羅峠の戦いで総大将であったが義仲軍に大敗を喫した上、同年七月の平氏都落ちに際しても嫡男六代を都に残した上に妻子との名残を惜しんで遅れるなど、一族から不審を抱かれるようになる。寿永三(一一八四)年二月の一ノ谷の戦いの前後に密かに陣中から逃亡、「玉葉」によれば、三十艘ばかりの船を率いて南海に向かったとされる。後に高野山に登って出家、熊野三山を参詣した後同年三月末には『船で那智の沖の山成島』(勝浦湾の湾口周囲約十七キロメートルに点在する大小百三十余りの「紀(き)の松島(まつしま)」の島や岩礁の内で最大の島)『に渡り、松の木に清盛・重盛と自らの名籍を書き付けたのち、沖に漕ぎだして補陀落渡海(入水自殺)した』と「平家物語」』は記す(享年二十七)。補陀落寺の墓を私も参ったが、悲劇の貴種流離譚よろしく、こちらも生存説が各地に残り、例えば古道の爺氏のブログ「熊野古道 今日の続きは また明日」の「平維盛 入水の島 山成島」によれば(写真豊富なれば必見。引用に際して空欄を埋めたり句読点を打たせて戴いた)、『維盛は、死んだと見せかけて、太地に上陸し、山伝いに色川に落ちのびた、との説もある。この為、色川郷の色川氏は維盛を匿った嫌疑で鎌倉に呼び出され、三年近く、取り調べを受けている。色川は平家の落ち武者伝説が語り継がれている集落である』と書いておられる。

「小野芳彦」(万延元(一八六〇)年~昭和七(一九三二)年)は和歌山県の教育者で郷土史家。ウィキの「小野芳彦」によれば、『旧制和歌山県立新宮中学校(現・和歌山県立新宮高等学校)で長きにわたって教壇に立ち、当地での尊敬の念を集めた。郷土史家としては、熊野新宮の本願庵主梅本家に秘伝であった編年体の記録を発掘し『熊野年代記』としてまとめたほか、没後に刊行された遺稿集『小野翁遺稿熊野史』(以下、『熊野史』)は、熊野の歴史と信仰の近代的研究の方向性を示したものとして評価されている』とある。

 續風土記の記事だけでは、一踏鞴は單に或時代に出て來た強い盜賊と云ふ迄である。併し熊野の山中には今でも一本ダヽラと云ふ恠物が居ると云ふのを見れば、之を普通の歷史として取扱ふことは出來ぬ。是は南方熊楠氏に聞いた話であるが、一本ダヽラは誰も其形を見た者は無いが、屢々積雪の上に幅一尺ばかりもある大足跡を一足づゝ、印して行つた跡を見るさうだ。

[やぶちゃん注:「續風土記」先の「紀伊國續風土記」のこと。

「南方熊楠氏に聞いた話」南方熊楠は「十二支考」の「鶏に関する伝説」のなかで、熊野の妖怪「一ツタタラ」を記している(底本は一九八四年平凡社刊「南方熊楠選集2」に拠る)。

   *

 熊野地方の伝説に、那智の妖怪一ツタタラはいつも寺僧を取り食らう。刑部左衛門これを討つ時、この怪鐘を頭に冒(かぶ)り戦うゆえ矢中(あた)あたらず、わずかに一筋を余す。刑部左衛門もはや矢尽きたりと言うて弓を抛げ出すと、鐘を脱ぎ捨て飛びかかるを、残る一箭で射殪(いたお)した。この妖怪いつも山茶(つばき)の木製の槌と、三足の鶏を使うた、と。

   *

「一尺」三〇・三センチメートル。]

 つまり一本脚と云ふことは、雪の上に足跡を留めたに依つて之を知り、其姿は見た者が無いところから、眼の一つであつたか否かは之を論議する折を得なかつたので、是から自分の列擧せんとする各地の例から類推すれば、何れも一目小僧の系統に屬せしむべき恠物であつたかと考へられる。

 土佐では香美(かゞみ)高岡等の諸郡の山奧に一つ足といふ恠物の居たことが、土佐海と云ふ書の續編に見えて居る。文政の頃藩命に由つて高岡郡大野見郷島ノ川の山中に香茸を養殖して居た者、往々にして雪の上にその一つの足跡を見たと云ふ。或は一二間を隔てゝ左足の跡ばかり長く續いて居ることがあれば、或は右の足ばかりで歩いて居るのもあつたと云ふ。

[やぶちゃん注:「香美(かゞみ)」全集版も「かがみ」とルビを振るが、現行ではこの高知県の旧郡名は「かみ」と読む。旧香美郡の郡域は現在の香南市の全域・香美市の大部分・安芸市と南国市と安芸郡芸西村の一部に相当する。高知県東部中央域に沿岸から徳島県県境まで帯状にあった。

「高岡」高知県に現存する郡。旧郡域は現在の同郡の中土佐町(なかとさちょう)・佐川(さかわ)町・越知(おち)町・檮原(ゆすはら)町・日高村・津野(つの)町・四万十(しまんと)町の他、須崎市・中土佐町・佐川町・檮原町・日高村・津野町の全域、土佐市の大部分、越知町と吾川郡いの町と吾川郡仁淀川町の一部を含み、高知県西部中央を殆んどカバーしていた。

「大野見郷島ノ川」四万十川上流部にある台地の一角にあった旧大見野村周辺。現在は中土佐町内。

「香茸」「かうたけ(こうたけ)」と読む。菌界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱イボタケ目イボタケ科コウタケ属コウタケ Sarcodon aspratus 。サイト「きのこ図鑑」の「コウタケ」には、『干すと良い香りがするのがコウタケの特徴で、味も良いとされるキノコなので調理法を知っている人達の間では人気のあるキノコ』とあるがしかし、『コウタケは乾燥させてから調理するのが一般的で、生で食べると吐き気をもよおすなどの中毒症状が出る事がある為、食べ方を知らない人には食用としてはすすめられ』ないとあるので、要注意!

「一二間」一・八~三・六メートル。次の項でも柳田は問題にしているが、これが片足の歩幅とするならば、恐ろしい巨体であることが推定される。]

 

 

  三

 

 深山雪中の出て來る恠物の足が一本であつたことを、其足跡だけを見て推測することは實は困難である。彼等は何かの都合上、ちんちんもがもがをして飛んで居たので無いとは斷言が出來ない。併し一方には又現に之を見たと云ふ者が、幾人も有るのだから是非に及ばぬ。

[やぶちゃん注:「ちんちんもがもが」遊邑舎&北條敏彰氏のサイト「遊び学事典」の「【ち】」の「チンチンモグモグ[ちんちんもぐもぐ]」に、『片足跳びあそびの古称。江戸時代に、幼児が「チンチンモグモグ、オヒャリコ、ヒャーリコ」と歌いながらあそんだと言われている。時代や地域の違いにより、チンガラモンガラ、チンチンモガモガなどの、呼び名のバラエティーが生まれた』とある。小学館の「日本国語大辞典」の「ちんちんもがもが」の項には、『片足を少し上げ、一方の片方で軽くはねる動作。片足跳びをいう。けんけん。ちんがらもんがら。ちんちんもんがら。ちんちんもがら。ちんちんもぐら。ちんちんもぐらこ。ちんちんが。ちんちん』とある。老婆心乍ら、男女が性行為をすることを指す隠語の「とんちんかもかも」とは違う(意味上は。語源上の類縁関係は知らない)ので要注意。]

 土佐の山村では山鬼(えき)又は山父(やまちゝ)といふ物、眼一つ足一つであると傳へられて居る。山父は又山爺(やまぢい)とも謂ふ。即ち他の府縣に所謂山男と同じ物である。

 寶曆元年に年四十歳でこの國土佐郡本川郷(ほんかはがう)に在勤して居つた藩の御山方の役人春木次郎八と云ふ人は、其著寺川郷談に次の如く記して居る。曰く山父は獸の類で變化の物では無い形は七十ばかりの老人のやうでよく人に似て居る、身には蓑のやうな物を着し眼一つ足一つである。常は人の目に掛ることは無いが、大雪の時道路の上に其通つた跡を見ることがある。足跡は六七尺に一足づゝあつて、圓い徑四寸ばかりの、恰も杵を以て押したやうな凹みが飛び飛びについて居る、越裏門(えりもん)村の忠右衞門と云ふ者の母は之に行き逢つたと云ふ。晝間のことであつたが向から人のやうにたこりて來た。行き違つて振り回つて見ると早其姿は見えなかつた。あまり膽を潰し家へ立還り行く所へ行かず止めたり。何事も無し。昨日の事と語りしまゝに書付け置く也とある。

[やぶちゃん注:「寶曆元年」西暦一七五一年。第九代将軍徳川家重の治世。

「本川郷」全集版は「ほんかわ」とルビするが、平凡社「世界大百科事典」によれば(以下はそれを参照した)、「ほんがわ」が正しいようである。高知県中央北部にある土佐郡の村。吉野川源流域に位置しており、北部には石鎚山脈の筒上山(つつじょうざん/やま:標高一八五九メートル)・瓶ヶ森(かめがもり:一八九七メートル)・寒風山(かんぷうざん:一七六三メートル)・笹ヶ峰(一八六〇メートル)などの峨々たる高峰が聳えて愛媛県とを境する。曾て当村から東隣りの大川村を含む一帯は「本川郷」と呼ばれ、周囲から隔絶した山間地帯で、中世には「本川五党」と称する五人の土豪が支配していた。現在の高知県吾川(あがわ)郡いの町寺川は石鎚山(いしづちさん:別称「伊予ノ高嶺」と称し、愛媛県中部にある石鎚山脈の主峰にして一九八二メートルの西日本最高峰でもある霊峰)への登山口でもあるが、江戸中期に同地に駐在した土佐藩山廻役春木氏の記した「寺川郷談」は、焼畑や狩猟など当時の生活や習慣をよく物語る、とさても注要らずにしてくれた。ありがたい。

「六七尺」一・八一~二・一二メートル。

「徑四寸ばかり」直径約十二センチメートル。

「越裏門(えりもん)村」四国山脈を形成する石鎚山系の東側に当たる吉野川の最上流部に位置する、 海抜七百メートルほどの旧本川村越裏門、現在の吾川郡いの町越裏門。S. Miyoshi 氏の「越裏門の地蔵堂と鰐口」が位置と歴史を知るに頗るよい。

たこりて」「日本国語大辞典」に「たごる」があり、方言で風邪などをひいて咳をすることとあり、採集地に高知県が挙げられてある。これか?]

 どうして飛んだにしても、一足に六七尺づゝでは相應な大軀(おほがら)でなければならぬが、他の書には又、形人に似て長(たけ)三四尺ともあつて、少し一致せぬ。

[やぶちゃん注:「三四尺」九十一センチメートルから一メートル二十二センチメートル弱。]

 或は又眼は一箇にして足の方は常體であつたやうな記事も往々にしてある。例へば阿波の山奧に於て、柚の居る小屋へ遣つて來て、よく世間に語り傳へて居るやうに、人の心の中を洞察したと云ふ山父の如きも、其眼が一つであつたと阿州奇事雜話に記して居る。

[やぶちゃん注:「阿州奇事雜話」横井希純(事蹟不詳)が寛政年間(一七八九年~一八〇一年)に記した百七条から成る阿波国の奇譚集。ウィキの「山爺」には同書などに、『夜の山小屋に木こりがいたところに山父が現れ、木こりが恐れたり、いっそ殺してしまおうかと考えると、山父がその考えを読んで次々に言い当てたが、焚き火の木が山父に弾け飛んだところ、山父は自分が読み取れなかった出来事が起きたことに驚いて逃げ出したという』とあると記すが、この話、我々のような怪奇談蒐集家には超弩級に知られた奇談の一つなである。]

 豐後の或山村の庄屋、山中に狩する時、山上二三尺の窪たまりの池の端に、七八歳ばかりの小兒總身赤くして一眼なる者五六人居て、庄屋を見て龍(りう)の髭の中に隱る。之を狙ひ擊つに中らず、家に歸れば妻に物憑きて狂死す。我は雷神なり、たまたま遊びに出でたるに何として打ちけるぞと云ひけり。之を本人より聞きたる者話すと云へり。是は落穗餘談と云ふ書の中に錄せられたる記事で、今から約二百年も前頃の話である。

[やぶちゃん注:「二三尺」六〇・六~九〇・九センチメートル。

「龍(りう)の髭」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科 Ophiopogonae 連ジャノヒゲ属ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus の別名。ただ、本種の草高は十センチメートル程しかないからそこに「隱れる」というのは、書いてないが、この全身が真っ赤な五、六人小児(これは実は中国で火難を予兆する妖怪に同様の者がいる)というのは実は異様に小さな小人であったと読める。

「狂死」といっても死んだのではなく、失神したのであろう。後の台詞はその直前に憑依した神霊或いは物の怪が語った内容と思われる。

「落穗餘談」不詳。但し、「続国史大系」第九巻の引用書目中に書名は見出せ、国立国会図書館の書誌データにも三巻本とは出る。

「今から約二百年も前頃」単純に初出執筆時大正六(一九一七)年から遡ると、享保二(一七一七)年になる。]

 又國は何處であるか知らぬが、有馬左衞門佐殿領分の山には、セコ子といふ物が住んで居た。三四尺程にて眼は顏の眞中に只一つある。其他は皆人と同じ。身に毛も無く何も着ず。二三十づゝ程連れ立ちありく。人之に逢へども害を爲さず。大工の墨壺を事の外欲しがれども、遣れば惡しとて遣らずと杣共は語りけり。言葉は聞えず聲はヒウヒウと高くひびく由なりと、觀惠交話と云ふ書に出て居る。是も同じ時代の事である。

[やぶちゃん注:「有馬左衞門佐殿」「ありまさゑもんのすけどの」と読む。不詳。

「セコ子」「せここ」と読むようだ。それにしても、ウィキもたいしたもんだ。柳田が「國は何處であるか知らぬ」とうっちゃらかしたものが、ちゃんと判る。ウィキセコから引く。「セコ」とは二、三歳ほどの『子供の妖怪で、河童が山に登ったものとされ』、『鹿児島県以外の九州地方と島根県隠岐郡に伝わっている』。『外観は一般には、頭を芥子坊主にした子供のようだとも、猫のような動物とも、姿が見えないともいう。島根の隠岐諸島では』一歳ほどの『赤ん坊のような姿で、一本足ともいう。古書『観恵交話』では、一つ目で体毛がないが、それ以外は人間そっくりとされる。但し民間伝承上においては、セコが一つ目という伝承は見受けられない』。『妖怪漫画家・水木しげるによる妖怪画では、一つ目と二つ目のものが存在する。夜中に、山を歩いていると、楽しそうな声や音が聞こえるのは、このセコによるものとされる。夜は木の周りで踊っているという』(以下注記号を省略した)。『人に対して様々な悪戯を働くともいう。島根県では石を割る音や岩を転がす音をたてるという。宮崎県では山中で山鳴りや木の倒れる音をさせたり、山小屋を揺すったりするという。大分県では山道を歩く人の手や足をつかんでからかう、牛馬に憑く、人をだまして道に迷わせる、怪我を負わせる、人が山に入るときに懐に焼き餅を入れていると、それを欲しがるなどといわれる』。前述の観恵交話では二十~三十人ほどで『連れ立ち、大工の墨壺を欲しがるという。基本的にこちらから手を出さない限り直接的な害はないが、悪戯を受けた際は鉄砲を鳴らす、経を読む、「今夜は俺が悪かった」などと言い訳をするなどの方法が良いという。セコはイワシが嫌いなため「イワシをやるぞ」と言うのも効果があるという』。『山と川を移動するとき「ヒョウヒョウ」「キチキチ」「ホイホイ」などと鳴くという。この「ホイホイ」は、狩猟で獲物を刈り出す勢子(せこ)の掛け声「ほーい ほーい」を真似ており、セコの名はこの勢子が由来とされる。大分では日和の変わり目に群れをなして「カッカ」と鳴きながら山を登るといい、セコが通る道に家を建てると、家の中には入ってこないがその家が揺すられたり、石を投げつけられたりするという』。『熊本県では、セコは老人のような声から子供のような声まで出し、木こりはその声によってセコの機嫌を知るという』。『島根県隠岐諸島では、セコはカワコ(河童)が秋の彼岸に山に入ったものとされる。「ヨイヨイ」「ホイホイ」「ショイショイ」などと鳴き、イタチのように身が軽いので、こちらで鳴き声が聞こえたかと思えば、すぐに別のほうからも鳴き声が聞こえるという。足跡は』一歳ほどの『赤ん坊のものに似ているという。また、セコは年老いた河童のことで、川や溝を一本足で歩くともいわれる』とある。この一歳児の足跡というのは「座敷童子(ざしきわらし)」との連関性を私は強く感じる。

「墨壺」私は一つ目の顔と墨壺の形は類似しており、これはフレーザーの言う一種の類感呪術のシンボライズであるように思われる。なお、それを手に入れれば不吉なことが起こるというのなら、或いはプラグマティクには片目では真っ直ぐに歩くことが困難であることから、それを欲しがり、それを手に入れると跳梁跋扈するということか? こういうアイテムをこそ立ち止まって考えてみたくなるのが、僕の、悪い癖。

「ヒウヒウ」全集版では『ヒユウフユウ』(元は拗音表記)。

「觀惠交話」詳細不詳。検索を掛けると上巻があることから二巻以上はあることは判る。]

 是だけ詳しく見た人が何とも言はぬのだから、足の方はちやんとして居たことであらう。日東本草圖彙と云ふ書には畫を添へて又斯んな話が出て居る。上州草津の温泉は毎年十月八日になると小屋を片付けて里へ下る習であつた。或年仕舞ひおくれて二三人跡に殘つた者、夜中酒を買ひに里へ下るとて温泉傍を通ると、湯瀧の瀧壺の中に白髮は銀の如き老女が居て、何處へ行くか己も行かうと言ふのをよく見ると、顏の眞中に一つしか眼が無くて、其眼が的然と照り輝いて居たので、小屋へ飛んで還つて氣絶した云々。此婆さんなどは湯に入つて居たのだから、足の報告に及ばなかつたのは尤もである。

[やぶちゃん注:「日東本草圖彙」詳細書誌不詳。識者の御教授を乞う。

「湯瀧」草津温泉の湯畑にある現在では樋で引いてあるものを指すのであろう。]

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