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2016/02/03

柳田國男 蝸牛考 初版(20) 物の名と智識(Ⅰ)

 

       物の名と智識

 

 この意見をもう少し詳しく説明する爲に、最後に尚一つの小さな問題を振出して置く必要がある。それは九州のツグラメの末の「メ」と、八重山諸島の語の元の形らしきシタダミの「ミ」と、果して關係があるか否かといふことであるか、私は現在はほゞあるといふ方に傾いて居る。其理由は居たつて簡單で、つまりはこの二つの單語以前に、更により古い一語があつたものと、考へて居る結果である。日本南端の平和無爲の島々に於ても、蝸牛の名は少なくとも一度は改まつて居る。さうしてその痕跡が明瞭に今も殘つて居るのである。所謂三十六島の中に於ては、宮古のウムゥナ又はヴゥナのみが、外形は稍似て居るけれども純然たる別系統のものであつた。尤も此群島だけは、過去に種族の盛衰がことに激しかつた爲に、今尚獨立した幾つかの方言團があるさうで、自分はまだ其片端しか知つて居ないのであるが、少なくとも古來ミヤコの中心と目せられた平良五ケ部落に於ては、蝸牛をンムゥナと謂ひ、之に對して蛞蝓をムナンギムシ、若しくはムナヅイムシと謂つて居る。即ち蜷拔蟲若くは蜷取蟲の義であつた。宮良當壯君の採訪語彙稿に、之を「蝸牛を拔居た蟲」と解説して居るのは、同じ意味であらうが甚だ明確を缺いて居る。即ち同君はムナァが卷貝の殼の總稱であることを、まだはつきりと認めて居ないのである。

[やぶちゃん注:「三十六島」林子平の「三國通覧圖説」(天明五(一七八五)年刊)の付図「琉球三省幷三十六島之圖」などに出る琉球の島の名数。

「此群島だけは、過去に種族の盛衰がことに激しかつた」ウィキの「宮古島」の「歴史」の項の「古琉球時代」を見ると、その雰囲気がよく判る。一三四〇年頃(本邦では南北朝期)に複数の豪族が起こって争闘が凡そ半世紀に及んだと始まり、一五〇〇年には前にも注した石垣島の豪族遠弥計赤蜂(おやけあかはち)の乱(宮古の最有力豪族仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)によって八重山は支配されて琉球王国に朝貢していたが、その琉球王国に赤蜂が起こした反乱)があり、一五二二年には与那国島で鬼虎が乱を起こしている(孰れも仲宗根豊見親が鎮圧)。以後、十九世紀の琉球処分までの約三百八十年間、『仲宗根豊見親の子孫・忠導氏(ちゅうどううじ)。知利真良豊見親の子孫・宮金氏(ンミャガーニうじ)。与那覇勢頭豊見親の子孫・白川氏(しらかわうじ)の』三氏族が『門閥を作り、宮古島の頭職をはじめ多くの官職をその子孫達が占めるようになった』が、『仲宗根豊見親の死後、宮古島の頭職を仲宗根豊見親の長男・仲屋金盛(なかやかなもり)豊見親が、継承した』ものの、『人々の名声は現在の城辺町字友利の豪族で勇知に優れ、善政を行った金志川那喜太知(きんすかーなぎたつ)豊見親に集まった』。一五三二年に『金志川への誹謗中傷を信じた仲屋金盛は、金志川那喜太知をだまし討ちに掛け』て殺害するが、『この変を起因として「豊見親」の称号は、琉球国王の令で廃止される。また、仲屋金盛は自殺を命じられた。このとき琉球より任命された平良大首里大屋子(うぷしゅりうぷやぐ・琉球国王の代官)と下地大首里大屋子の二人が頭職として統治を始める(これをもって、宮古・八重山が実質的な琉球の統治下に入ったともされる)』とある。

「今尚獨立した幾つかの方言團がある」ウィキの「宮古方言」によれば、宮古列島(現在の有人島は宮古島・池間島・大神(おおがみ)島・来間(くりま/くれま)島・伊良部(いらぶ)島・下地島(しもじじま:但し、ウィキではこの下地島を独立した方言としては挙げていない)・多良間(たらま)島・水納(みんな)島の八つ)の方言は島によって異なるが、大きく宮古島方言・伊良部島方言・多良間島方言の三つの方言に分けることが出来るとし、また、『宮古島方言は、細かく見ると集落ごとに異なるが、大きく北部と南部に分けられる。各島間の著しい方言差のために、この地域の標準語である宮古島の平良』(ひらら:現行の読み)『方言でさえ、伊良部島や多良間島ではほとんど通じにくい』ともある。

「平良」前注に示した通り、現在は「ひらら」と読む。ウィキの旧「平良市」によれば(現在は平良は宮古市に合併)前に注した長い八重山の豪族抗争の最大の有力者は皆、この平良及びその支配域に居住していたと読め、一六二八年には『島内が平良、砂川、下地の』三つの間切(まぎり:前にも注したが沖繩に於ける大きな地域集団の単位)『に分けられ、この行政区分は明治末期まで続いた。後の平良市域は、大半が平良間切に属していた』とある。

「宮良當壯」(みやながまさもり 明治二六(一八九三)年~昭和三九(一九六四)年)は国語学者。現在の石垣市字大川の生まれ。八重山島高等小学校を卒業後、明治四二(一九〇九)年に十七歳で出郷して那覇に赴き、人力車の後押しなどで旅費を工面して上阪、「帝国吃後矯正会」に入って生来の吃音矯正に努めるかたわら、音声学を学んだ。その後、上京して新聞配達や納豆売などをして明治四四(一九一一)年に郁文館中学校二年に編入学、大正八(一九一九)年に國學院大學に進学して金田一京助や折口信夫に師事し、方言学や民俗学を学んだ 。卒業後はこの柳田國男の推挙によって「宮内省図書寮」に勤務、芳賀矢一・上田萬年・新村出らの推薦によって大正一四(一九二五)年から帝国学士院より研究費補助を受け、実に第二次世界大戦を挟んで延べ十一年、昭和二一(一九四六)年まで国際音声記号を用いて前人未踏の全国方言調査研究に従事した。その間、昭和一八(一九四三)年には図書寮編修官を辞し、「日本方言研究所」を創設、その所長となって方言調査研究に専念した。その研究業績が認められ、昭和二八(一九五三)年に「琉球諸島言語の国語学的研究」で母校の國學院大學から文学博士の学位を受けている。一方で、『琉球文学』を編集発行、戦後の琉球文学研究にも強い影響を与えた。著作に「八重山語彙」「沖繩の人形芝居」など。柳田より十八年下。以上は主に yaeyama-zephyr 氏のサイト「八重山 島旅への誘い」の「石垣島の石碑・説明看板(市街地-2)」にある電子化された碑文を参照させて頂いた。ここに御礼申し上げる。

「採訪語彙稿」「採訪南島語彙稿」が正しい。宮良当壮が大正一五(一九二六)年に東京の郷土研究社刊行した労作。]

 

 蝸牛をミナといふ例は、九州南部には殘つて居る。鹿兒島縣方言集を見ると、何れの土地でとも明示しては無いが、蝸牛には(一)ミナムシ、(二)ムナムシケ、(三)ヤミナ、(四)ユダイクイミナ、(五)カキミナ、(六)チヂミナ等の異名が行はるゝことを示して居る。多分はツグラメと併存して居るか、さうで無ければ同類異種のものに、特に此名を付與して居るのであらう。此中で(一)は僅かにムシの語を添へて海の蜷と區別し、(二)はそれに又貝の字を附加して居る。(三)のヤミナは人家近くに棲む故か、はた又出入りをする殼を家と見たか。何れかは判然しない。(四)のユダイクイミナは蛞蝓のヨダレ蟲と同樣に、涎を垂らすからの名であることは疑ひ無く、(五)は垣蜷であり、(六)のチヂミナは頂蜷であつて、常に樹上に遊ぶことを特徴と認めたものと思ふが、或は尚シジムシといふ土地もあるといふから、別にシタダミ系からの變訛とも考へられぬことは無からう。薩摩川邊郡の知覽郷などでは、現在も蝸牛をヤマミナと謂ふさうである。小野氏の本草啓蒙には同國竹島に於て、尋常の蝸牛の殼厚きものを、ヤマミナと謂ふと誌して居る。山蜷はちやうど陸中平泉のヤマツブなどと對立すべきもので、之に據つて直ちにミナが卷貝の總稱であることを知るのであるが、一方には宮古島の如く、之を以て蝸牛ばかりの名とする例もあるのである。八重山群島の石垣島に於ては、ンナは即ち金字塔貝のことだと宮良君は報じて居る。金字塔貝とは多分高瀨貝であらうが、それならは鹿兒島ではタカシイビナと謂つて居るのである。

[やぶちゃん注:「鹿兒島縣方言集」この書名では昭和五(一九三〇)年以前の著作はヒットしない。識者の御教授を乞う。

「知覧郷」現在の鹿児島県南九州市知覧町(ちらんちょう)。

「竹島」薩摩半島から約五十キロメートル南の海上、大隅半島先端の佐多岬から南西約二十九キロメートルの海上に浮かぶ薩南諸島北部の島。現在は鹿児島県鹿児島郡三島村大字竹島。種子島の北端からは西に約五十九キロメートル、屋久島からは北に凡そ三十九キロメートルほどの位置にある。島名通り、島全体に琉球竹(単子葉植物綱ツユクサ亜綱カヤツリグサ目イネ科メダケ属リュウキュウチク Pleioblastus linearis)が植生する。

「金字塔貝」「金字塔貝とは多分高瀨貝であろう」タカセガイは腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズ超科サザエ科ギンタカハマ属サラサバテイ Tectus niloticus の異名(食用及び貝ボタン加工用の水産商品名)。殻高約十センチメートル・殻径も十二・五センチメートルにも達する甚だ大きい重厚尖塔型円錐を成し(実際に非常に堅い)、殻表は平滑で紅紫色或いは緑色の放射電光模様を持ち、底面は白く螺脈を備え、紅色の斑点を散らし、全体の形状の優美さと色が美しい貝である(但し、自然状態では多くの付着生物によって汚れている)。奄美諸島・小笠原諸島以南の潮間帯上部十~二十メートルに棲息する。沖繩で食したことがあるが、美味い。グーグル画像検索「Tectus niloticusをリンクさせておく。「金字塔貝」の意味がお分かり戴けるものと思う。私もこの標本を持っていたが、昔、教え子にあげてしまった。]

 

 單なる一種の淡水産の卷貝にミナまたはニナの名を付與した例は他の府縣にも多い。倭名妙には河貝子を美奈とありミナ結びニナ結び孰れが正しきかの論は、すでに徒然草にも見えて居るから、相應に夙くからその習はしはあつたのである。海に遠い飛騨の吉城郡では長螺をニラ、丹波の福知山邊ではニナイ、備前の一部ではニダ、佐渡では一般にビンナと謂ふやうだが、單にその土地土地で著名なる一種に、ミナの總稱を寄託したまでで、果して同種であるか否かは檢査の上で無いと決しかねる。併し大體に食用に供せられる爲に、この通り著名になつたものと思はれるから、それが假に一致して居ても、別に不思議では無いわけで、其爲に此貝だけが固有のミナであつたとは言へない。會津の大沼郡の方言集には、ビナとは宮入貝のことだと謂つて居るが、是も亦同じ川螺である。加賀以東の北國各地に於て、ビンロウジと謂ふのも亦ビンナの訛語であるらしい。後にはさらに一轉して、此貝の形に似た尻の尖つた燗德利までを、ビウロウジと名づけて居るゆえに、元の意味が一層不明になつたのである。

[やぶちゃん注:最後の「ビウロウジ」はママ。改訂版も同じであるが、これは如何にも発音し難い。改訂版なら「ビュウロウジ」としてもよいのに、していない。ネットで(燗)徳利の地方名で「びうろうじ」というのを探しても出てこない(但し、徳利自体を「びんろうじ」と称するのもヒットはしない)。しかしどうであろう? ビンロウ(後注)の実の形は徳利に似ていなくはない(よく似て居るとも言えないが)。さて。カタカナの「ン」と「ウ」は似ていなくはない(よく似て居るとも言えないが、見落としそうにはなる程度には似ていると私は思う)。非常に考え難いことではあるが、これは「ビウロウジ」ではなく、単に「ビンロウジ」の誤植が二度もの細かな改訂を経ながらも最後まで(現在の通行本にまで)残ってしまったものではあるまいか? 大方の御叱正を俟つ。要は燗徳利を「びうろうじ」とけったいな言いにくい発音で呼ぶ地域があれば私の推理は誤りであることが簡単に立証されるのである。

「倭名妙には河貝子を美奈とあり」既出の「和名類聚抄」(平安中期に源順(みなもとのしたごう)によって編せられた辞書)には、

   *

河貝子崔禹錫食經云河貝子〔和名美奈俗用蜷字非也音拳連蜷虫屈貌也〕殼上黑小狹長似人身者也

   *

とある。自分勝手訓読をすると、

   *

河貝子(かばいし) 崔禹錫(さいうしやく)が「食經(しよくけい)」に云ふ、『河貝子〔和名は美奈。俗に「蜷」の字を用ふるは非なり。音は「拳(ケん)/連(れン)」、「蜷(ケン)」は虫の屈する貌なり。〕殼上は黑くして小さく、狹長(さなが)。人身(じんしん)に似る者なり。』と。

   *

「崔禹錫」及び「食經」は唐の崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食経」で知られる本草学者。「崔禹錫食経」は「倭名類聚鈔」に多く引用されるが、現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。『音は「拳(ケん)/連(れン)」』は以前に注した反切法により「蜷」の音を示したものと読んだ。さても、代表的な淡水産貝類の「螺」「蜷」に相当する腹足綱吸腔目ニモリガイ上科カワニナ科カワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina を例にとると、貝殻本体の色は実は白いが、表面に橄欖色や淡褐色の厚い殻皮を被っていて個体によっては色帯を持ち、しかも自然状態では普通、水泥中の鉄分の附着によって黒っぽい。確かに「狹長」(通常は音で「けふちやう(きょうちょう)と読むが私はこの音が嫌いであるので「さなが」と訓じた。意味は細長いこと)ではある。しかし乍ら、私はカワニナの形が人間の姿に似ているとは一度として思ったことはない。

「すでに徒然草にも見えて居る」「徒然草」第百五十九段、

   *

「みなむすびと言ふは、絲を結び重ねたるが、蜷(みな)といふ貝に似たれば言ふ」と、あるやんごとなき人仰せられき。「にな」といふはあやまりなり。

   *

という紐の結び方の呼称を云々した章段であるが、この兼好の謂い自体が誤りである。角川文庫版今泉忠義氏(以上の原文はこちらを採用)のそれにも勿論、講談社文庫版川瀬一馬氏の校注にははっきりと『NとMの音が通ずる例はいくらもあり、実は誤りとは言えないのである』と脚注にある。

「飛騨の吉城郡」「よしき」と読み、岐阜県の東北端にあった旧郡。現在の飛騨市の全域と高山市の一部を含む広域に当たる。

「會津の大沼郡」現在の福島県内陸西部に現存する郡。

「宮入貝のことだと謂つて居るが、是も亦同じ川螺である」この柳田の断定の仕方には非常に重大な問題がある。まず、「宮入貝」は「みやいりがひ(かい)」と読むが、これは、

腹足綱盤足目リソツボ上科イツマデガイ科オンコメラニア属 Oncomelania hupensis 亜種ミヤイリガイ Oncomelania hupensis nosophora

という一種を限定的に指すということ、しかもこれは柳田が謂うところの「川螺」の代表種は再掲すると、

腹足綱吸腔目ニモリガイ上科カワニナ科カワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina

であり、見た目は確かによく似ている(私には螺形も色も全然違うと見えるけれども、一般の人にはこんなの同じに見えるというレベルの「似ている」である)が、ご覧の通り、生物学的には目レベルで異なる全然別種の淡水産貝類であることが第一の問題点である。さらに、

ミヤイリガイ Oncomelania hupensis nosophoraは(他に片山貝・七巻貝の異名を持つ)烈しい腹水症状から肝硬変などの重篤な症状を引き起こし、多数感染すると死に至る恐るべき風土病であった日本住血吸虫症の中間宿主であることを柳田は述べていない(一九九六年の山梨県での終息宣言によって本邦でも日本住血吸虫症は撲滅されている。同類種のによる寄生虫感染症を完全に撲滅したのは世界で日本だけである)

点が致命的な第二番目の問題点である。日本住血吸虫の中間宿主が本種ミヤイリガイであることが立証確定されたのは大正二(一九一三)年のことで、柳田が知らなかったでは済まされる問題ではないのである。大正の半ばから官民一体の日本住血吸虫撲滅運動は始まっている。民俗学者だからなどという逃げはここには通用しない。寧ろ、ここで、

――「宮入貝のことだと謂つて居るが(この宮入貝は近年恐るべき日本住血吸虫症の中間宿主であることが分つた)、是も亦同じ川螺の仲間である」――

とすべき義務を私は柳田は負っているとさえ思うのである。ところがあろうことか、柳田はこの直前で「大體に食用に供せられる爲に、この通り著名になつた」とまで言ってしまっている(但し、本宮入貝は一般的には食用とはされておらず、日本住血吸虫のヒトへの感染経路は飲食物経由ではなく、田圃や河川での水を介した皮膚経由の感染であった。しかし、カワニナは古くから食用にされ、しかもそこに宮入貝も混入していた可能性は極めて高かったと私は思っている)。

 なお、カワニナ Semisulcospira libertina の方も肺吸虫(分類は後述)・横川吸虫(吸虫綱二生(二生吸虫)亜綱後睾吸虫目後睾吸虫亜目後睾吸虫上科異形吸虫科 Metagonimus 属ヨコガワキュウチュウ Metagonimus yokogawai )等の第一中間宿主となることが報告されており、十分に熱を通さずに食すことは危険である(貝からヒトへの直接感染は現行では生じないとされている)。横川吸虫は自覚症状がなくまた重症化のケースは知られていないが、カワニナを中間宿主とする吸虫綱二生亜綱斜睾吸虫目住胞吸虫亜目住胞吸虫上科肺吸虫科 Paragonimus属ウェステルマンハイキュウチュウ Paragonimus westermanii(同種の三倍体個体群を生態や感染性の相違から別種のベルツハイキュウチュウ Paragonimus pulmonalis とする説もある)の場合は肺に病巣を作ったり脳への迷走感染をすると、死に至ることもあるので食用にはやはり注意が必要である。そうした既知の食用の危険性を柳田は一切述べていない方言研究と衛生学は別物だなどという弁解はここでは全く通用しない。少なくとも八十六年後の私は、本書の発刊時にタイム・マシンで戻ってでも、柳田を指弾するものである。

「ビンロウジ」柳田はこれを螺=ミナビナビンナビンロウジと変化したものだというのであるが、何故、彼は全く同じ発音の、太平洋・アジアなどで見られる単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ(檳榔)Areca catechu の樽型をした、嗜好品とする種子ビンロウジ(檳榔子)を問題にしないのか? 少なくとも私には全く以って解せない。これが偶然の一致に過ぎず、全く関係がないというのなら、その関係がない決定的証拠をここに示すべきであると私は普通に思う。]

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