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2016/02/05

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (39)

 日本から帰国する時、私は支那へ渡り、短期間滞在した後、海岸に沿うて下って安南に寄り、しばらくマライ半島とジャワとにいた。横浜から上海へ行く時、私はマサチユーセッツ州エセックス郡出身の、コンナー船長と一緒になった。下関海峡を通過すると、コンナー船長は、岩の多い、切り立った島を指さして見せ、十一年前、彼と彼の夫人とが、この島で難破した船にのっていたと語った。海は穏だったが、非常な暗夜だった。遭難火箭を打ち上げると、間もなく漁夫が、何事にでも手伝うつもりで、本土のあちらこちらから漕ぎ寄せて来た。船客の所有物は舷ごしにこれ等の救助者に手渡され、救助者達は闇の中に消えて行った。翌朝日本政府の汽船が横に来て、船客と船員とをのせ、遭難現場から百四十マイル離れた長崎へ行って彼等を上陸させた。船客達は彼等の衣服全部その他を含む荷物を、如何にして取り戻すかに就て、いく分不安の念を抱いたが、船の士官は、政府が海沿いの往還に、これ等の荷物をとどける可き場所を書いた告示を出しさえすれば、それ等はすべてまとめられ、そして送られるに違いないと、丁寧にいった。数日以後、カフス釦からよごれた襟に至るまでの、すべての品が長崎へ送られ、紛失品は只の一つもなかった。コンナー船長は、微苦笑を浮べながら、数年前、彼等夫妻が十一月、ニュー・ジャージーの海岸で難船した話をつけ加えた。その時は非常に寒かった。彼等が受けた苛酷な取扱に関しては、彼等があらゆる物を盗まれたことを書く以外、何もいう必要はない。

[やぶちゃん注:モースは明治一六(一八八三)年二月十四日に離日した。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」より引く(注記号は省略した)。前日『十三日、モースは梅若の家に行き、謡の最後の稽古をした。これで日本でのモースの行動はすべて終わった』。

   《引用開始》

 二月十四日午前十時、モースは新橋から汽車に乗った。おそらく、大森駅の手前では、思い出の深い大森貝塚に目をやったことであろう。横浜についたモースは、その日横浜を出る上海行の「東京丸」(二一一九トン、「シティ・オブ・トーキョー」とは別の船)に乗船してヨーロッパに向った。ビゲローは日本に残り、モースの一人旅であった。

 今度の旅行では、日本から帰国するとき、東洋諸国をめぐり、ヨーロッパに立ち寄ることが最初からの予定であった。モースはその計画にそって、上海から香港をまわり、三月七日に広東に到着、そこで数日滞在して製陶所を訪れている。だが、当地での外国人に対する感情はいたって悪く、モースはどこでも敵意をもって迎えられた。しかしモースはいう、「私は気が変になったが、彼らがキリスト教国からどこでも酷い扱いを受けていることを考えれば、少しでも彼らを非難する気にはなれない。まったくのところ、もし私が中国人だったら、同じことをしただろう、しかももっと手ひどくだ」と。

 ついでモースはサイゴン、シンガポール、ジャワに寄ったが、当初予定したインドはコレラが大流行しているので取りやめてヨーロッパに直行し、四月三十日にマルセイユに上陸した。これがモースにとって初めてのヨーロッパ訪問だった。

 フランスには一週間滞在。パリでは、前にアメリカで会ったことのあるオスカー・ワイルドと再会している。

   《引用終了》

その後、イギリスを経て、ニューヨーク到着は同年六月五日のことであった。]

M777

777[やぶちゃん注:これが本書の最後のモースの挿絵である。]

 

 日本人がすべての固信から解放されていることを示す、何よりの実例は、彼等が外国の医術の健全な原理を知り始めるや、漢法を棄てたことである。素速く医学校を建てたことや、米国人がどこへ行って医科教育を終えるかを質問することは、政府の賢明を示していた。我国の有名な医者や外科医が、ベルリンとノルウェーの医科大学や病院で研究したことが知られた。かるが故に、ドイツ人が医科大学の教師として招れ、学生達は入学する迄に充分ドイツ語の基礎を持っていなくてはならなかった。更に横浜には、輸入される薬品全部を検査して、その純粋であることを確めるのを目的とする、化学試験所が建設された。経験のみに依る支那の、莫迦げた薬学は既に放棄された。もっとも田舎へ行くと、天井から乾かした鹿の胎児(図777)や、ひからびた百足その他、支那の、医療物として使用される、怪異な愚劣物が下っているのを、よく見受ける。

[やぶちゃん注:「漢法」はママ。

「鹿の胎児」「鹿のさご」「しかのはらご」「さご」などと呼ぶ。但し、漢方というより、本邦の民間薬のように思われる。ともいう。ウィキの「鹿のさご」によれば、三~四月頃、鹿の胎児は鼠よりも大きく成長して、『その皮膚には鹿の子(かのこ。皮膚の斑点)があらわれようという時期で』この時期の胎児を採り出して、『黒焼きなどにし、薬用とする。殊に山民のなかでは女性の血の道の妙薬として珍重された』とある。

「百足」漢方サイトを見ると、破傷風・小児性急性熱性痙攣・顔面神経麻痺・皮膚潰瘍及び蛇や毒虫の咬傷・切傷・火傷に外用するとある。]

 

 デモ医者は竹〔薮〕医者とよばれる。多分竹が軽くて空虚だからであろう。

[やぶちゃん注:「デモ医者」原文“a quack”。偽せ医者。他に山師・いかさま師の意もある。しかし「デモ」というのは所謂、「医者にでもなろうか」とか、「デモシカ教師」の「でも」であるからちょっと違う気はする。

「竹医者」底本では「竹」の直下に石川氏の『〔藪〕』という注が入っている。私は小学生の時、医者になろうと本気で思っており(就学直前まで結核性カリエスを患い、医師に親しく接していたためである)、そう公言していたので、私の小学生時代の渾名は「藪医者」であった。この語源説は複数あり、もっともらしいのは「野巫(やぶ)医者」「田舎の巫医(ふい)」、所謂、妖しげな呪術を用いて治療するシャーマンを指すとするものであるが、私はどうも後付の気がする。よく聴く「藪井竹庵」という下手な医者の名に由来するというのもまことしやか乍ら、却って落語噺の登場人物っぽい。「野暮な医者」が訛って「やぶ医者」になったとする説もあり、ともかくも「藪」は「田舎」の「怪しげな」の謂いである感じは強い。]

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