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2016/02/18

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十一)

    十一

 

 議論は別席ですることにして早く話に戻らねばならぬが、其前に尚一つだけ言ひたいのは、何が故に祭の中心人物たる神主の眼を、わざわざ手數を掛けて突き潰す必要があつたかと云ふことである。自分とても是を明確に答へることは能ぬ。昔の人の心持にはまだ如何しても解らぬ點が大分有る上に、當人たちにも根本の理由は呑込めずして、昔から斯うだと言つて續けて居た事も少からぬ筈である。片目にしたからとて別に賢くも淨くも畏ろしくも成つたと考へられるわけは無いと思ふが、或は消極的の側から、さうしなければ神樣がその神主の身に御依りなされぬ、即ち一目で無ければ神の代表者たる資格が無いと云ふ風に、信ぜられて居たのかも知れぬ。

 右の如く推定を下して進むと、更に今一つ以前の時代の信仰狀態をも窺ひ得るやうな氣がする。其を至つて淡泊な言葉で言ひ現はすと、ずつと昔の大昔には、祭の度毎に一人づつの神主を殺す風習があつて、其用に宛てらるべき神主は前年度の祭の時から、籖又は神託に由つて定まつて居り、之を常の人と瓣別せしむる爲に、片目だけ傷けて置いたのでは無いか。この神聖なる役を勤める人には、有る眼りの款待と尊敬を盡し、當人も又心が純一になつて居る爲に、よく神意宣傳の任を果し得た所から、人智が進んで殺伐な祭式を廢して後までも、片目にした人でなければ神の靈智を映出し得ぬものゝ如く、見られて居たのでは無いかと云ふのである。

 此推測には或程度までの根據が有るつもりであるが、猶其當否は一通り證據材料を見た上で決せられたい。實はあまり大膽な説であるから、反證が十分有つて打ち消されて見たいやうにも私は思ふのである。

 話は再び神樣の御眼の怪我と云ふ口碑に復るが、此場合には往々にして神が其傷の眼を洗はれたと云ふ話を伴うて居る。例へば野州鞍掛大明神の神は、自害するに先だつて山崎と云ふ地で目を洗つたと言ひ、信州沙田神社の御神も同じくで、其地を今に御目澤と呼ぶさうである。羽前・羽後には鎌倉權五郎目洗ひの故跡と稱する淸水が、幾つか有つたやうに記憶する。

[やぶちゃん注:「御目澤」現認出来ない。従って読みも不祥。取り敢えず「おんめざわ」と訓じておく。]

 此類の多くの例の中で、一つ自分が珍しいと思つて居るものが東京の近くにある。十方庵の遊歷雜記の中に見えて居る。今の埼玉縣南埼玉郡荻島村の大字野島の淨山寺に、慈覺大師一刀三禮(らい)の御作と傳ふる延命地藏尊があつた。信心の者は請狀を入れて、小兒をこの奉公人にして置くと、丈夫に育つと云ふので有名な本尊である。俗に又片目地藏とも御名を申し、或時茶畑に入つて御目を突かせたまひ、之を洗はんとして門外なる池の水を掬びたまひしより、今に至るまで其他に住む魚はすべて片目であると云ふ不思議が語り傳へられて居る。

[やぶちゃん注:「十方庵の遊歷雜記」小石川の隠居僧十方庵(じっぽうあん)敬順が文化年間(一八〇四年~一八一八年)に著わした江戸市中見聞録。以下の話は同書の「二編 卷之上」の十五「野島村淨山寺地藏尊」に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの「江戸叢書」の当該部分画像を視認して、その「片目の魚」の箇所だけを電子化しておく。読点・中黒点を一部に追加し、読み(底本には読みはない)は私が勝手に歴史的仮名遣で附した。

   *

斯(かく)て淨山寺の表門を立出(たちいで)、門前の池水を見る、大(おほい)さ凡そ拾五六間四方もあるらん、水黃(きば)み、濁り、中央に島あり、大さ二三間、筑山(つきやま)の如し、むかし、地藏尊、茶園にて目を突(つき)、此(この)池水にて目を洗ひ賜ひし因緣にや、此池中に出生する鯉・鮒(ふな)・蛙の類(たぐひ)まで片目となん、竹筒(たけづつ)に入(いれ)て加持して與ふる水は即ち、是(これ)也、

   *

池の広さ「五六間」九・一~一〇・九メートル四方というのはかなり大きい。「二三間」は三・七~五・四五メートルで、「筑山」は築山(つきやま)の謂いであろう。しかも柳田の言と相違して、魚どころか蛙まで片目とある!……しかし……(次注末参照のこと)

「埼玉縣南埼玉郡荻島村の大字野島の淨山寺」現在の埼玉県越谷市野島にある曹洞宗野嶋山浄山寺。いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」のこちらに詳しい。それによれば貞観二(八六〇)年に求法遍歴の伝説の名僧慈覚大師(円仁(延暦一三(七九四)年)~貞観六(八六四)年:第三代天台座主)が創建、『天正年間まで天台宗慈福寺と号していましたが、僧明山の代に曹洞宗に改宗、德川家康が鷹狩に来た際寺領』三百石の『御朱印状を与えようとしたところ、時の住職が過分であると断ったため、鼻紙に』三石と『記載した朱印状(鼻紙朱印状)を与えられ、浄山寺と改めたといいます』とあり、また『越谷市仏像調査報告書による浄山寺の紹介』の項には『野嶋山浄山寺は「新編武蔵風土記稿」によると』、浄山寺は「『禅宗曹洞派、足立郡里村法性寺末、野嶋山と號す、當寺は貞観二年慈覚大師の建立にて、本尊延命地蔵の立像四尺餘、則大師の作なりと傳へ云、天正年中迄天台宗にて慈福寺と號す、時の住僧を明山と云、此頃里村法性寺四世震龍當寺に勤学せしが、東照宮越ヶ谷邊御放鷹の時、本尊霊験を聞し召され、寺領三石の御朱印を賜はり、此地霊にして山鬱密として浄しと、上意ありて今の寺號を命ぜらるると云、又僧震龍御帰依あるをもて明日の後住となし、曹洞派に改め中興とす、今本尊を片目地蔵と唱ふ、信仰するもの多し。』」『といわれ、三石の朱印状は俗に鼻紙朱印状とよばれるもので、徳川家康の前で住職が「過分なり」として辞したので、家康は袖の中から鼻紙を出し献香料として三石を賜う由を書いて差し出した、と伝えられている』。『本尊の地蔵菩薩は「片目地蔵」とも呼ばれ、伝説によるとこの地蔵は毎朝未明村内を鉄杖を持って起こして歩いたがある朝茶園で切り株につまづき片目を傷つけてしまった。戻って寺の門前の池で目を洗うと、池の魚はみな片目になってしまった』、と伝え、『以後この村では茶の木は作らなくなったといわれている。古くから信仰のあつかった本尊地蔵菩薩は現在秘仏とされている』とある(下線はやぶちゃん)。個人サイト(と思われる)「越谷市のはなし」の同寺の頁には貴重な本地蔵尊像の写真が載るが、片目ではない(洗って治ったということであろう)。また、同頁内の新聞記事画像の中の昭和二七(一九五二)七月十五日附『埼玉新聞』の記事は、これが「片目地蔵」と呼ばれるようになったのは具体的に天文八(一五三九)年頃とし、しかも驚くべきことに、実にこの頃、本地蔵尊は僧に変じて早朝に周辺の村落を回っては村民を起こして働くよう叱咤した、その途次、茶の木に躓いて片目を怪我し、門前の池で洗って癒やしたという記事が載る。しかもその当時の浄山寺の和尚は、地蔵の行脚逍遙を知り、御尊体に『万一のことがあってはと思い、地蔵の背に釘を打ち、鉄の鎖でつない』だところが、『それからというもの』、『地蔵様は出歩くことをやめたが、不思議なことに和尚さんは病気にかかって、ついに死んでしまった』という驚天動地の話が載っている(下線やぶちゃん。しかし! 地蔵が和尚を殺すかッツ?!?)。但し、『片目の魚の住んでいたという池はいまは埋め立てられて田んぼとなっており、昔の面影をしのぶことができないのは残念なことである』と擱筆しており、最早我々は片目の魚も蛙も見ることは永遠に出来なくなってしまったのである。

「一刀三禮」仏像などを彫る態度が敬虔であること。仏像を彫刻する際に一彫りごとに三度礼拝したことに由来する故事成句。]

 魚の片目と云ふことは動物學者の方では必ず認められぬ話で、現に何處の標本室にも陳列せられて居ることを聞かぬにも拘らず、少々の品こそかはれ、そんな魚の住むと云ふ池川は全國に二ケ所や三ケ所では無い。殊に池中の魚が皆其通りと稱し、右の如き因緣を談ずるに至つては、其説の歸納法に由らざりしものなることは最も明白である。

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