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2016/02/08

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (42) 最後の一言 / 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 本文全電子化附注完遂!

 

 粗野で侵略的なアングロ・サクソン人種はここ五十年程前までは、日本人に対し最も間違った考を持っていた。男性が紙鳶をあげ、花を生ける方法を学び、庭園をよろこび、扇子を持って歩き、その他女性的な習慣や行為を示す国民は、必然的に弱くて赤坊じみたのであると考えられていた。一八五七年の『大英百科辞典』には「日本人はかつては東方の国民間にあって、胆力と軍隊的の勇気とで評判が高かった。然し現在ではそうでなく、吾人は彼等が本質的に弱々しく、臆病な国民であると見出されるであろうと思う。ゴロウニンによれば彼等は勇気に欠け、戦争の術にかけてはまったく子供である。これは、二世紀以上にわたって、すべての点で、外的と内的の平和をたのしんだ国民にあっては、事実であろうと思われる。苦痛や受難を、勇気深く、辛抱強く堪えること、更に死を軽侮することまでもが、活動的で侵略的な勇気の欠乏と矛盾しないことがあり得るのを、我々は知っている。」と書いてある。だが、こんな以前のことをいう必要はない。カーソン卿は、一八九四年に出版された『極東の問題』と称する興味深い本の中で、日本人の野望に就て、以下の様にいっている。「現に、これ等の頁が印刷所へ行きつつある時、日本が朝鮮の混乱を利用して朝鮮で行いつつある、そしてそれは、支那との実際上の衝突とまでは行かずとも、重大な論争に日本を導く懼れのある、軍隊的の飾示は、同じ性急な盲目愛国主義の、其後の結果である。」更に進んで彼は、これ等の示威運動は「国家的譫妄状態の最も熱情的弁護者の口辺にさえも、微笑を漂わせる」という。最近の出来ごとは、このアングロ・サクソン人の審判が、如何に表面的であったかを示している。

[やぶちゃん注:「アングロ・サクソン人種」今日のイギリス人の根幹をなす民族。人種的にはコーカソイド大人種(白色人種)の北方系に属し、長身・白色の皮膚・碧眼・金髪などの肉体的特徴を持つ。言語学的にはインド・ヨーロッパ語族の西方系の一派のチュートン語族(ゲルマン民族)に属し、低地ドイツ語を発祥とする英語を喋る。北西ドイツを原住地としたサクソン人、ユトランド半島基部に住んだアングル人、同半島に居住したジュート人などの幾つかの部族の混成体であり、ゲルマン民族大移動の一環として五~六世紀に原住地からブリタニアの島に移動、先住民族ブリトン人を駆逐或いは支配して現在のイングランド(「アングル人の地」の意)の地を占拠した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「ここ五十年程前」本書初版刊行の一九一七年(大正六年相当)から五十年前は一八六七年で慶応三年に相当する。

「一八五七年」本邦では安政三年十二月六日から安政四年十一月十六日に相当する。

「大英百科辞典」原文“Encyclopædia Britannica”。「ブリタニカ百科事典」。最古の英語百科事典で、現在もなお製作され続けている。初版は一七六八年から一七七一年にかけてエディンバラで三巻本百科事典として発行された。ここに示されたのは一八五三年から一八六〇年にかけて発行された第八版かと思われる。

「ゴロウニン」ロシア帝国(ロマノフ朝)海軍軍人(最終階級は中将)で探検家であったヴァシーリイ・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニーン(Василий Михайлович ГоловнинVasilii Mikhailovich Golovnin 一七七六年~一八三一年)。ウィキヴァーシリー・ゴローニンによれば、一八〇七年から一八〇九年にかけて軍艦『ディアナ号で世界一周航海に出て、クリル諸島の測量を行なう』。一八一一年(文化八年)、『軍により千島列島の測量を命じられ、自らが艦長を務めるディアナ号で択捉島・国後島を訪れる。しかし国後島にて幕府役人調役奈佐瀬左衛門に捕縛され、箱館で幽閉される。ゴローニンは幽閉中に間宮林蔵に会見し、村上貞助や上原熊次郎にロシア語を教えたりもした』。一八一三年(文化十年)、ディアナ号副艦長ピョートル・リコルドの尽力により、『ロシア側が捕らえた高田屋嘉兵衛らの日本人を解放するのと引き換えにゴローニンは解放され』、帰国後、一八一六年に『日本での幽閉生活を『日本幽囚記』という本にまとめた、この本は欧州広範囲で読まれ』、文政八(一八二五)年には『日本でもオランダ本から訳された「遭厄日本紀」が出版された。同書は、ニコライ・カサートキンが日本への正教伝道を決意するきっかけとなったことが知られる』。一八一七年(文化十四年相当)から一八一九年(文政二年相当)にかけては『カムチャツカ号で再度世界一周航海に出』てもいる。コレラに罹患して死去した。

「カーソン卿」イギリスの政治家で貴族のジョージ・ナサニエル・カーゾン(George Nathaniel Curzon 一八五九年~一九二五年)のこと。保守党に所属し、インド副王兼総督・外務大臣・貴族院院内総務などを歴任した。一般には「カーゾン卿(Lord Curzon)」の呼び名で知られる。参照ウィキジョージ・カーゾン初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵の「初期のキャリア」の項に、一八九一年から一八九二年にかけ『彼はインド省政務次官を務め』、一八九五年から一八九八年までは『外務省政務次官を務めた』。『この時期、カーゾンは世界中を旅行し』日本へも明治二〇(一八八七)年(即ち、モースが永遠に日本を去ってから四年後)と明治二五(一八九二)年の二度、訪れている。その他にも、ロシア・中央アジア・ペルシア・シャム・フランス領インドシナ・朝鮮を訪問、『アフガニスタンとパミールでの大胆な探索活動』(一八九四年)『をも行い、政策的関心と連動している中央アジア、東アジアについて著した数冊の書物を出版した。大胆かつ強迫衝動に悩む旅行者カーゾンは、東洋の生活や地勢に強く魅了されており、アムダリヤ川(オクサス)の水源を探査したことを評価され、王立地理協会から金メダルを贈られている』。『しかし彼の多くの旅行の目的はあくまで政治的な関心のもとになされていた。旅行はイギリス領インドと関連するアジアの諸問題を研究するための包括的な計画の一部をなしていた。同時に、この旅行はまたカーゾン自身の自尊心、大英帝国の帝国としての使命に対する確信を強めることにつながった』とある。

「一八九四年に出版された『極東の問題』カーゾンの書いたProblems of the Far East。黄禍論の代表的な一冊で、「松岡正剛の千夜千冊」のハインツ・ゴルヴィツァー 黄禍論とは何かによれば、この本は、『イギリスこそが世界制覇をめざすというジョンブル魂ムキムキの本で、斯界ではこの手の一級史料になっている』。『カーソンは、イギリスがこれからは世界政策上でロシアと対立するだろうから、その激突の最前線になる極東アジアについての政治的判断を早くするべきだと主張して、それには中国の勢力をなんとかして減じておくことが必要だと説いた。対策は奇怪だが周到なもので、ロシアを抑えるには中国を先に手籠めにしておくべきで、それには日本を東洋のイギリスにして、その日本と中国を戦わせるほうにもっていけば、きっと日本が中国に勝つだろうというものだった。「タイムズ」の編集長のバレンタイン・チロルも『極東問題』を書いて、この路線に乗った』。そうしてまさに『カーソンやチロルの期待と予想は当たった。なんと日清戦争で日本が勝ったのだ』。『しかし、これで問題が広がった。ひょっとしたら中国だけではなく、日本こそが世界の脅威になるのではないか。いや、日本は御しやすい。むしろ中国が戦争に負けたからといって中国の経済力が衰えることはないのではないか』といった『さまざまな憶測が広ま』ることとなった、とある。]

 

 欧洲の恐怖であった二強国、支那とロシアは、両方とも八年以内(一八九四一九〇二年)に、日本によってやっつけられ、艦隊は完全に滅され、償金が支那から現金で、ロシアからは樺太の南半で、取られた。英国は初めて日本を注目の価値ありと認め、同盟を結んだ。まるで鉱夫同志の道徳である!

[やぶちゃん注:「八年以内(一八九四一九〇二年)」明治二十七年から明治三十五年であるが、後がおかしく、ここは「十一年以内」で後は「一九〇五年」でないとおかしい。日清戦争は明治二七(一八九四)年七月(光緒二十年六月)から明治二八(一八九五)年三月(光緒二十一年二月)にかけて行われたから初めはよいものの、日露戦争は明治三七(一九〇四)年二月から明治三八(一九〇五)年の九月五日であるからである。

「償金が支那から現金で」銀で二億両(テール)が賠償金額であった。ネット上のQ&Aサイトの回答に、当時の国際的な銀価格で換算すると、凡そ三億円に相当するとある。

「樺太の南半で、取られた」日露戦争末期に日本軍は和平交渉の進む中で七月に樺太攻略作戦を実施、全島を占領していた。この事実上の占領体制が後のポーツマス講和条約(明治三八(一九〇五)年九月四日(日本時間九月五日十五時四十七分)で南樺太の日本への割譲を齎すこととなり、講和以降の樺太には王子製紙・富士製紙・樺太工業などのパルプ産業企業が進出した。因みに、十八年後、大正一二(一九二三)年七月三十一日から八月十二日にかけて、サガレン(樺太)の王子製紙に勤務している先輩を訪ね、二十六歳の一人の教師が自分の教え子の就職を依頼するために向かっている。宮沢賢治であった。この時、かの絶唱「オホーツク挽歌」詩群が詠まれている。]

 

 最近日本のことを書いたある筆者は、こういっている――「東郷の人々、即ち日本人は、愛国者の民族で、同時にまた勤労者で武士である。彼等の特質は、いまだに西洋の人々に完全に了解されていない。彼等は多数の表面的な観察者によって、独創的な行為がまるで出来ず、只他の人種の最もよき発明を選び、それ等をぶざまな方法で彼等自身の用に立てることしか出来ない、模倣国民であると伝えられた。これ程真実と違った話はない。この地上に、日本人位正確な知識の探求に熱心な国民はいない。この地上に、日本人より、より強い国家的感情に動かされる国民はいない。この地上に、日本人より、一般的な善のために、個人的な犠牲のより大なるものを払い得る国民はいない。この地上に、論理的思考力の明確と複雑とで、日本人に優る国民はいない。」

[やぶちゃん注:「最近日本のことを書いたある筆者」誰かは不詳。識者の御教授を乞う。「最近」というのは本書初版刊行前であるから、一九一七年(大正六年相当)以前ではある。]

 

 終に臨んで一言する。読者は日本人の行為が、しかも屢々我々自身のそれと、対照されたのを読んで、一体私は米国人に対して、どんな態度を取っているのかと不思議に思うかも知れぬ。私は我々が日本の生活から学ぶ可きところの多いことと、我々が我々の弱点のあるものを、正直にいった方が、我々のためになることを信じている。ボストンの警察署長、オーミアラ氏の言葉は、私に深い印象を与えた。彼は我国に対する最大の脅威は、若い男女の無頼漢的の行為であるといった。かるが故に私は対照として、日本人の行為をあげたのである。私の対照は、ひがんだ目で見たものではない。それ等は私が四十年前に見たところのものの、そのままの記述である。我我のこの弱点を感じることは、何も我等を劣等な国民として咎めることにはならず、我々はホール・ケインが『私の物語』に書いたような、米国を真に評価した文章を、誇の感情を以て読み、そして信じるのである。「我々はこの国民を愛する。彼等は世界の他の者が、あたかもひそかにするが如く見える自由を、彼等の権利として要求しているからである。私はこの国民を愛する。彼等がこの世界で、最も勤勉で、熱心で、活動的で、発明の才ある人々であり、そして、何よりも先ず、最も真面目だからである。何故となれば、表面的な観察者の軽薄な審判はともあれ、彼等は国民性に於て最も子供らしく、最も容易に哄笑し、最も容易に涙を流すまで感動し、彼等の衝動に最も絶対的に真実であり、賞讃を与えるに最も大度だからである。私は米国の男性を愛する。彼等の女性に対する挙止は、私がいまだかつて見たものの中で、最も見事に騎士的だからである。私は米国の女性を愛する。彼女等は疑う可くもない純潔さを、あからさまなる、そして不自然ならぬ態度と、性の美事な独立とで保持し得るからである。」

[やぶちゃん注:「ボストンの警察署長、オーミアラ氏」原文“Mr. O'Meara, the Police Commissioner in Boston,”。アメリカ人ネィティヴの発音では「オ・メーラ」、本姓の元(“O’”はゲール語由来で「~の孫」の意の接頭語)とも思われるアイルランドのネィティヴの発音では「オ・マーラ」と聴こえる。

「四十年前」本書初版刊行は一九一七年(大正六年相当)であるから一八七七年で明治十年、モースは最後にちゃんと最初の来日に時間を正確に巻き戻している。それが、モースがこよなく愛した日本の原風景の時空間だからに他ならない。

「ホール・ケインが『私の物語』」原文“Hall Caine, in "My Story,”。トーマス・ヘンリー・ホール・ケイン(Sir Thomas Henry Hall Caine 一八五三年~一九三一年)はイギリスの作家。グレートブリテン島とアイルランド島に囲まれたアイリッシュ海の中央に位置するマン島の生活を書いた小説家として知られ、また、画家で詩人のダンテ・ガブリエル・ロゼッティとは非常に親しい関係にあり、一八八一年から彼が亡くなる翌年まで同居している。My Storyは一九〇六年刊のケインの自叙伝。

「大度」「たいど」と読み、度量の大きいことを指す。]

 

 

                   

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