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2016/02/01

柳田國男 蝸牛考 初版(18) 東北と西南と(Ⅱ) / 東北と西南と~了

ウロコ 是は魚類の鱗のことでは無くて、フケ即ち人間の頭の垢をさういふのである。宮城縣の北部、ことに登米郡などではフケのことをウロコ又はオロコ、靑森縣東側に於てもウロコと謂ふから、この分布は可なり廣からうと思ふ。沖繩の島ではこれをイリキ、「倭名鈔」にも既に俗に伊呂古と云ふとあるから、若し魚鱗のウロコを保存しようとすれば、是だけの音變化は必要であつたらうが、既に魚類のことをイロクヅとも謂つた例があるから、元は差別が無かつたのである。頭垢をウロコと呼ぶ奧南部などでは、鱗の方はコケと謂ひ、關東でも一般にコケを鱗と苔とに兩用して居るが、伊豫の南端や大分縣の一部では、コケといふのが頭の垢のことであつた。察するにかの伊呂古の「俗語」以前、さらに今一層廣汎なるコケといふ語があつて、それを苔又は茸に專用する爲に、一轉してまたフケといふ語も出來たのであらう。以上二つの方言は沖繩の學者が既に注意したもので、伊波君は尚この以外に、ツビ(尻)・ナイ(地震)・シシ(肉)・ホソ(臍)・ヨム(算へる)・マル(糞ひる)・ナス(産む)・コトイ(犢)・サクリ(噦噎)・エツリ(蘆萑)・ユイマハル(協力する)等の語を拾つて居られるが、此等の方言一致は決して奧羽の一地方には限られて居らぬ故に、玆にはもはや其説を敷衍する必要は無い。私は寧ろ此以外、即ち上代の記錄に是といふ痕跡を留めず、雙方が知らずに自分の土地だけの方言と思つて居るものに、尚色々の共通があるべきことを豫想して居るのである。其二三の著しいものをいへば、

[やぶちゃん注:ここで改行しているのでここに注する。

「奥南部」これは青森県の旧南部藩地区を指す語と思われる。

「犢」「こうし」と読む。仔牛のこと。

「噦噎」これで「さくり」「しやつくり(しゃっくり)」と読む。言わずもがなであるが、横隔膜の不随意性痙攣によって息を吸い込んだ際に声門が反射的に開いて特殊な音声が発生する状態を指す。

「蘆萑」上代語。「えつり」と読み、茅葺・藁葺屋根や土蔵の壁の下地材で葦(よし)や細い竹・板を繩で簀(す)の如く編んだもの。「棧」とも書くが、その場合は前記の葺き草を受けるために垂木の上に並べる棧(さん)の意となる。改訂版では「あし」とルビする。

「ユヒマハル」この「ユヒ」は「結(ゆひ)」(古来より行われた、田植え・屋根の葺き替え・味噌搗(つ)きなどの一時に多くの労働力を要する仕事をする際に集落の構成員がほぼ総出で互いに人手を貸し合った制度)に由来すると考えてよかろう。]

クラ 是は今日の雀のことで、沖繩本島が主として此語を用ゐ、普通此小鳥の啼聲から出たものと想像せられて居る。他の府縣の多くでは、ツバクラ・ツバクロの複合形に存するものゝ外、山がら・四十がらなどの所謂「がらの字」にその聯絡を認めるのみであるが、スズメは本來小鳥の總名であつたらしく、特に今日の軒端の雀を謂ふ場合には、まだ色々の附頭語が殘つて居る。その中で利根川下流にあるジャッチタラはクラの一例であり、又今日では「膨れる」と解し或は頰黑とも解せられるフクラスズメなども、他の一例では無いかと思ふ。それから是は奧羽では無いが、大和の十津川から紀州の熊野、阿波の祖谷山といふが如き非常な山奧だけに、雀をイタクラといふ方言が分布して居るのである。このイタクラのイタは、自分の想像では「語りごと」をすることで、他の南方の島々のヨムンドリと同じ意味かと思ふ。それから今一つ八重山の諸島に、バードリといふ雀の方言があるが、是は羽鳥であつてこの鳥が特に羽ばたきをよくするのを、觀察した者の命名かと思はれる。越中などでは雀をバンドリスズメといふ村がある。バンドリは一種の蓑のことで、人が蓑を着た形に似て居るからと説明して居るが、この説明は逆であらうと考へる。蓑をバンドリとしも名づけたる動機は、むしろそれを着て田の邊に飛びまはる姿が、この羽鳥を聯想させるためであつたらうと思ふ。或は「むさゝび」の一名をバンドリといふから、蓑をさういふことになつたかの如く思つて居る人もあるらしいが、似た點からいへば比べものにならず、又獸の方が遙かに物遠い。是は恐らく一方が單稱であり、雀は其バンドリにスズメを附けて呼ぶ故に、普通の習はしに準じて此方を後の語としたゞけで、むさゝびも却つてもとはバンドリキネズミであつたかも知れぬのである。

[やぶちゃん注:「阿波の祖谷山」「祖谷山」は「いややま」と読み、徳島県西部の祖谷川・松尾川流域の山間部地域を指す。旧美馬(みま)郡(後に三好(みよし)郡)東祖谷山村及び西祖谷山村の地域に相当する。現在は三好市の一部。]

ミザ これは地面を意味する古い日本語であつたかと思はれる。文章語の方では大地をもツチと謂つて居るが、別に地表に當るべき一つの言葉があつてよかつたのである。南の果てに位する多良間の島などでは、今も明瞭に地面をミザと謂つて居るが、沖繩本島ではンジャと變化して居る故に、ふと古くからの一致には心付かなくなつたのである。ミザといふ語の今でも遣つて居るのは、八丈の島と佐渡の島とで、其他にもあるとは思ふがまだ發見せられて居らぬ。他の府縣では通例「地」の漢音と複合して、ヂビタ若しくはヂベタといふ語になつて行はれて居るが、是にへタといふ意味の附くわけの無いことは、誰にでも考へられると思ふ。信州の上水内郡には、地面をツチミザといふ村がある。濕地を意味する所の九州のムダ、それと接續して居る日本海側のウダなどは、隨分古くからではあるが、其分化と見てよからう。ニタ又はヌタといふ東國の方言なども、曾て自分はアイヌ語のニタトの繼承であらうと謂つたが、事によるとやはりミザの同系であつたかも知れぬ。但し東北では濕地はヤチであつて、ミザに該當する語はまだ心付いて居ない。この南北二地の一致は、一方が單に沖繩の群島だけである故に、或はまだ之を信じ得ず、何か事を好む穿鑿の如く見る人もあらうが、是から下に掲げる單語の如きは、もう少し範圍が弘くなるのである。

[やぶちゃん注:「多良間の島」宮古島と石垣島の中間にる多良間島(たらまじま)。現在は全島が沖縄県宮古郡多良間村(そん)。

「上水内郡」「かみみのちぐん」と読む現存する長野県の郡。当時の郡域は現在の同郡を構成する信濃町(しなのまち)・小川村(おがわむら)・飯綱町(いいづなまち)の他に、長野市の一部が含まれた広域である。]

ムゾイ、ムゾカ 是は今日の「可愛い」に當る言葉で、沖繩の島では歌にまで使用せられ、島人は現に自分の地方だけの方言だと思つて居る。ところが此語の行はれる區域は、九州は殆ど一圓であり中間に廣々とした不使用地を隔てゝ、奧羽の各縣でも亦まさしく此通りの語があつたのである。但し東北には今一つメゴイといふ語がまだ殘つて居る爲に、主として之を「ふびんな」の方に向けようとして居るが、それでもまだミジョイとかメジョイとか、少し形を變へて愛らしいといふ意味に使ふ者はある。此風は越後にもあり、又武藏でも秩父郡には、ムジッコイといふ「可愛らしい」がある。九州の方には既にメグシを有せぬ故に、明らかに一箇のムゾを、少しの變化を以て二通りに用ゐて居る。たとへば熊本縣でも南北の端だけはムゾカが「かわいゝ」であるが、城下と其周圍の郡に來るとそれが「かわいさう」の意味に用ゐられ、「かわいゝ」の爲には別にムゾラシがある。さうかと思ふと阿蘇郡はムゾケエ、その東隣の豐後日向ではムゾナキイ、またはムドナキイといふのが「かわいさう」の方である。奧羽の方でも是と同樣で、やはり少しでも定まつた形は無く、單にムゾといふ部分が共通して居るのみである。たとへば仙臺ではムゾイ又はムゾコイ、其附近の郡もモゾイ、南部領内ではムゾヤナ若しくはモゾヤダ、羽後の横手あたりはムゾエ、羽前の瀬見温泉はメゾテエ、同じく莊内はミゾケネエが「かわいさう」である。莊内方言考には、ミジヨケナイは「見ずに置けない」の意だと説いて居るが、さうかと思ふ者などは一人も無い。さうして會津の若松では、ムザウサイが又「慘い」の意味に用ゐられて居るのである。要するに此等は皆可愛らしいと可愛さうとの差別の如きもので、言葉そのものにはそれ迄の内容は無く、たゞ使ふ人の心持の方が變つて來たので、歸する所はカナシといふ語の意味の推移と同じく、愛と憐愍とがもと甚だ近い感覺であつたことを明らかにするまでゞあらう。漢字で無慘などゝ書くムザンといふ日本語も、是から起つたことが想像せられるのみならず、更に一歩を進めると、ムゴイといふ語も亦元はメグシであつたかと思はれる。下總香取郡ではムゴイは「可愛い」であり、上總の長生郡では「可愛がる」をムゴガルといふこと、全然奧羽地方のメンコイ・メゴガルと同じである。福福島縣でも相馬郡のムゴイ・ムゴシイは「可愛い」に該當し、石城郡のムゴイは「可愛さうな」の方であり、阿武隈川流域にはメンゴエの「愛らしい」が盛んに用ゐられて、モゴサイといふ語を以て「可愛さうな」の意味に使つて居る。信州などでも上伊那郡の如く、モゴイ・モゴチネエを憐憫の意に用ゐる處と、東筑摩郡の如く慘いといふことを、モゲエだのモオラシイなどゝいふ土地とがある。近畿以西の府縣にはメグシといふ語既に消えて、只ムゴイといふ破片を留め、其代りに今現れて居るのは、漢語とも日本語ともきまりの付かぬやうな可愛いといふ新語だけである。それが大昔からの存在で無いことは、何人の眼にもわかるのであるが、然らば其一つ前は何と謂つたかといふと、ちよつとは答へられぬやうになつてしまつた。それこそ本當にムゲエコツである。

[やぶちゃん注:「ほんなこつ、むげえこつ!」――柳田先生、結構、オチャメ!

「莊内方言考」明治二四(一八九一)年黒川友恭(遠碧軒)の著わした荘内地方(旧出羽国田川郡庄内。現在の山形県鶴岡市)の方言研究書。以下の柳田に一蹴されている「みじよけない」の記載は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの当該頁の画像によれば、

   *

みじよけないとは見ずに置けないにて憐愍なる有樣の見捨るに忍ばれぬ也

   *

となっている。

「ミジヨケナイ」改訂版では『ミジョケナイ』。

「ムザウサイ」今までも注しておらず、向後もやるつもりはなく、ここだけに留めておくが、改訂版ではこうした方言も現代仮名に消毒されてしまって、『ムゾウサイ』となっている。この変更が正しいとは私は実は微塵も思っていない。

「下總香取郡」香取郡は千葉県北端に現存する郡であるが、当時は遙かに広域。

「上總の長生郡」千葉県中部南岸域に現存するが、当時は茂原(もばら)市全域他を含んだ。

「上伊那郡」長野県南西郡に現存するが、当時は伊那市・駒ヶ根市及び下伊那郡松川町の一部(上片桐)を含んだ遙かに広域で、現在でも「上伊那地域(地区)」と総称される場合には伊那市・駒ヶ根市を含むこともある、とウィキの「上伊那郡にはある。

「東筑摩郡」長野県中央部に飛地化して現存する郡であるが、当時は松本市の一部・塩尻市の一部・安曇野市の一部を含む長野県の中央を占有した広域郡であった。]

タンペ これは唾を意味する古語であつたと思はれて、やはり日本の南北兩端だけに殘つて居る。今日普通に使ふのはツワとツバキで、前者の元の形はツまたはツヅであつた。ツバキは全く是とは別系統で、本來はツバのキ、すなわち唇の液體の意味であつたことは、唇を九州の北部でツバ、南部でスバといふことと、關東以北で唾を別にクタキ即ち口の液と謂ひ、又はシタキす即ち舌の液といふのを見てもわかり、ツバは其ツバキとツワとの一種の混同に過ぎぬといふことは、以前別の論文にこれを説いて居る。ところが東北では秋田市とその近郡でタンペ、盛岡とその下流の各地でタンパ・タンペ・タッペ、米澤とその周圍ではタッペ、福島縣北部でもタンペをシタキと併用して居る。それは痰である又は啖と書くべきだなどゝ、さもさも輸入の物の如く説く者もあるが、實際の話主はまだ唾と同じ意味に、タンペを使ふのだから致し方が無い。或は我々のタンと名づくるものだけにネツペといふ語を用ゐる土地もあり、又は一方をタンペ、他の方をタンパと言はうとする處もあるが、是は全く後世の差別であつて、多分はタンといふ語も斯くの如くして分化したものと思ふ。南の島においては首里・那覇がチンペ、屋良がトンペ、名護と喜界島とがツンペである。九州において筑後三池地方のツルペ、同吉井附近のシンチヤ、ずつと離れた紀州の有田郡にもチヤンペがある。最初は多分唾を吐く音から出た語であつて、ツとは關係がありツバキ・シタキ等とは競爭者であつたのが、後に口から吐くものを二つに言ひ分けるやうになつた爲に、中部日本に於ては割據の狀を呈し、タンはたゞ所謂啖だけに、立て籠るようになつたものと思ふ。

[やぶちゃん注:「以前別の論文」本「蝸牛考」刊行の丁度一年前の昭和四(一九二九)年七月発行の『岡山文化資料』初出の「唾を」である。後に単行本「方言覚書」(昭和一七(一九四二)年創元社刊)に所収された。

「屋良」沖縄本島中部にある中頭(なかがみ)郡の嘉手納(かでな)町屋良(やら)。現在は、かのおぞましき嘉手納基地の北側フェンス外の、非常に狭い地区しか指さない。

「名護」現在の沖縄本島北部にある名護市。

「喜界島」現在、鹿児島県大島郡喜界町である喜界島(きかいじま/きかいがしま)。奄美群島北東部に位置し、奄美大島北部の東直近にある。

「筑後」「吉井」福岡県の旧浮羽(うきは)郡吉井町(よしいまち)。現在の「うきは市」の旧同町町域地区。三池の約四十七キロメートル東北に当たる。

「シンチヤ」改訂版では『シンチャ』。

「紀州の有田郡」「ありだぐん」と読む。和歌山県の北部中域に東西に長く広がる郡。当時は現在の湯浅町(ゆあさちょう)・広川(ひろがわ)町・有田川(ありだがわ)町の他、有田市の大部分を含んだ。

「チヤンペ」改訂版では『チャンペ』。]

アクト 是は漢字の踵を以て宛てられる語で、東京とその四周の平原ではカカト、西京以西の普通語はキビスであるが、アクトの行はれて居る區域も中々廣い。先づ東北の六縣は全部、それから越後信州を通つて、美濃尾張の平野にまで及んで居るのであるが、其中間に少しばかりの變化がある。即ち甲州にはアコイ、伊豆にはアツクイ、駿遠參にはアクツ・アゴトがあつて、再び美濃尾張のアクイ・アクイト等を生じ、近江ではそれがオゴシとなつて居る。カカトは少なくとも是と關係がある語らしいが、今はまだ明らかに説くことが出來ない。南の島々では殆ど全部がアド又はアドゥであつて、唯その兩端にのみ僅かばかりのアクトといふ地がある[やぶちゃん注:この「アクト」は底本では「アド」であるが、それでは意味が通らないので、例外的に誤植と断じて改訂版に基づき「アクト」に訂した。]。九州では肥後の阿蘇小國、筑後の久留米邊にもアドがあるから、搜したら尚幾つかの類例が見出さるゝと思ふ。

[やぶちゃん注:「アツクイ」改訂版では『アックイ』。

「駿遠參」「しゆんとほさん(しゅんとうさん)」或いは「しゆんゑんさん(しゅんえんさん)」と読み、駿河・遠江(とおとうみ)・参州(三河)のことを指す。

「南の島々では殆ど全部がアド又はアドゥであつて、唯その兩端にのみ僅かばかりのアクトといふ地がある」この「アクト」は実は底本では「アド」であるが、それでは意味が通らないので、例外的に誤植と断じ、改訂版に基づいて「アクト」に訂した。

「阿蘇小國」熊本県北東端の大分県に突き出た、九州山地内にある現在の阿蘇郡小国町(おぐにまち)。]

サスガラ 以下は沖繩諸島とは關係が無く、主として九州と奧羽との類似である。虎杖といふ物にはおよそ三通りの古語があつて、それが奇妙に入り交つて居ることは、是も以前に發表したことがあるが、其中でも靑森・秋田の二縣を支配して居るのは、サセドリ又はサシドロなどといふ一語であつた。サセドリは一方に又牛の鼻棒のことをもいふから、覺え易かつたのであらうが、ドリは同時にイタドリの下にも附き、更にサスガラともサシボコとも謂ふ土地があるから、サシといふだけが元の形であつたやうに思はれる。それが九州では阿蘇山脈の兩側、豐後も日向の臼杵郡も、肥後の山村もともに皆サドであり、又はサドガラとも謂つて居るのは、確かに兩端の一致である。但し此語は中央部に於ても伊勢や備中にサジナ・サジッポがある外に、瀨戸内海の島々と沿岸では、或は隣のタヂヒ系と交つて、サイジといふ形が出來たり、又はサイタツマの變化かと思ふサイタナになつたりして居るから、聯絡が全く絶えて居るとも言はれぬ。しかも兩端に於て特に顯著に、この類似が見られるといふのは、少なくとも南北の言語關係が、曾ては今のやうに隔絶したものでなかつたことを、立證するに足ると思ふ。

[やぶちゃん注:「虎杖」「いたどり」と読む。食用とするナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ Fallopia japonica のこと。ここで柳田は述べていないが(恐らく全く歯牙にも掛けないということであろう)、漢方ではイタドリの根を「虎杖根(こじょうこん)」と称し、止血や鎮痛に用いることから、「痛取(イタミドリ)」の意とする説があるようである。

「以前に發表したことがある」昭和三(一九二八)年七月発行の『民族』に発表した「虎杖及び土筆」である。後に単行本「野草雑記」(昭和一五(一九四〇)年甲鳥書林刊)に所収された。そこでは「ドリ」は棒状のものを指すとしている。因みに、イタドリの茎は竹のように中空で、しかも多数の節を持っていて棒状を呈する。

「牛の鼻棒」牛の鼻の両穴を貫く環状の木又は金属製の輪。「鼻輪」「鼻環(はなかん)」「鼻ぐり」(←私はこれが親しい)「鼻がい」等とも呼称する。

「肥後の山村」の「山村」は「さんそん」と読んで一般名詞でとっておく(調べた限りでは熊本県内に現在は「やまむら」という地名は見出し得ない)。]

トゼンナ 是は新語の流通が、存外に足の早いものであつたことを示す例である。トゼンといふ語は徒然の音といふより外に、別の起源を想像し得ないものだが、北九州では稍弘い區域に亙つて、これを單に退屈といふだけで無く、淋しい又は腹がへつたといふ意味に用ゐて、トゼネエなどといふ形容詞が出來て居るが、南秋田の海近くの地に於て、自分は直接にその同じ語の同じ意味に使はれるのを耳にした。但し戸賀や北浦は船着の港だから、或は船人によつて特に運ばれたとも考へられる。實際又彼等が「使ふによい」言葉でもあつた。

[やぶちゃん注:「戸賀」秋田県南秋田郡にあった戸賀港を有する旧戸賀村。現在の男鹿市の西端の戸賀の各町に相当する。

「北浦」秋田県南秋田郡にあった港町北浦町(きたうらまち)。現在の男鹿市の北端、北浦の各町に相当し、畠漁港を有する。孰れも古く北前船の停泊地であったものと思われる。

『實際又彼等が「使ふによい」言葉でもあつた』私が馬鹿なのか、何故、殊更に括弧書きまでして船乗りにとって特別に『「使ふによい」言葉でもあつた』のか、よく判らない。識者の御教授を乞う。退屈で淋しい→どうにも切ねえ→女が欲しい、の隠語か?]

バ これは全國に行き渡つた語であるが、中央の弘い區域では又出刄庖丁とも謂つて、專ら魚を料理する一種の刄物に限つて居る。ところが肥前の五島などでは、デバは即ち小刀のことであり、伊豆の伊東でも伊勢の度會郡でも熊野の南輪内村でも、ともに同じ意味に用ゐて居るのである。是も沖乘の船からとも言はれるが、此方が實は古くからの用法であつて、反齒の鍛冶が打ち始めたからなどゝいふ説は、後に其語をただ一種の刄物のみに、限らうとした者の説かと思ふ。デバは恐らくは右片側に刄を付け、外へ向つて使ふやうにした刀のことで、内の方へ削り込む方の刄物、たとへば椀作りの用具などゝ、區別をする爲の出刄であつたらう。さういふ元の意味が飛離れた邊土だけに殘つて居ることは、單なる運搬とは考へることが出來ぬのである。

[やぶちゃん注:「出刄庖丁」柳田は懐疑的であるが、ウィキ出刃包丁には、『出刃包丁について確認できる最も古い記録は江戸時代の』「堺鑑」(天和四・貞享元(一六八四)年に書かれた大阪堺の地誌)にあり、『「魚肉を料理する庖丁」と紹介されている。その時には既に堺の名品として知られていたらしく、詳細な登場時期や普及過程などは明らかになっていない。『堺鑑』には「その鍛冶、出歯の口もとなる故、人呼んで出歯庖丁と云えり」と記述されているが、これが普及や時間経過とともに「出刃」に変わっていったものと考えられる』とし、俳人文人の菊岡沾凉(せんりょう)が書いた「本朝世事談綺」(享保一九(一七三四)年刊)にも『出歯庖丁について類似の記述がある』という語源説が載る。

「伊勢の度會郡」度会郡(わたらいぐん)。現存する三重県の郡で多気郡南の西方に接する。古くは現在の伊勢市も郡域であった。

「熊野の南輪内村」「みなみわうちむら」と読む。三重県の旧南牟婁郡にあった村で、現在の尾鷲市の南端に相当する。]

ネバシ・ナラシ 最後にもう一つだけ、是も新たに作つたかと思ふ例を擧げる。ネバシは眞綿のことで、奧州の突端と秋田縣の一部とに行はれ、それから南に來れば全然別の語になつて居るのだが、それが九州では壹岐五島、平戸伊萬里から佐賀島原まで、及び鹿兒島縣の一部にも行はれ、豐後の日田ではただネバとも謂つて居る。ネバスの動詞は今日では餘まり聽かぬが、引伸ばすといふことであつたらしい。それを其まゝ物の名にしたのである。ナラシも西國の略同じ區域に於て掛竿衣紋竿衣架の類をさう謂つており、紀州の日高郡や阿波の祖谷山でも其通りであるが、是が東國に來れば東上總では稻を乾す竿、關東の他の地方ではヲダカケともいい、北國その他の廣い區域に於て、ハサ木ともハデともいふものゝ名になつて居る。下總常陸の方ではそれがノロシと變化し、衣架や手拭掛けには別にソゾ若しくはミソゾといふ名があるが、この東西兩端のナラシは、本來一つの言葉であつたことは疑ひが無い。ナラスは普通「平らにする」といふ意味で、又次第にその方に改まらうとして居るけれども、元は農村の作業に屢々用ゐられた語であつたことは、ナルが平地を意味し、ナルイが傾斜の緩なることを、形容して居るのを見てもよくわかる。鮓がなれるといふのは低く平らになることであり、それを又ネマルともスヱルとも謂ふ所から考へると、人に「馴れる」といふ語が出來たのも是と關係があり、漢語とは起原が別であつたやうである。兎に角に動詞の此形を以て、其目的であつた物の名とする風は、以前今よりも遙かに盛んであつた一時代があつたかと思はれるが、其名殘が亦國の兩端のみに留まつて居るので、この例はまだ幾つでも見出されるであらう。米を洗つた白水をニゴシといふなども、近畿では全く耳にせぬ語であり、又我々には耳遠くさへ聽えるが、これも九州の北部と關東・信州との田舍には行はれて居る。斯ういふ明白な後の世の言葉までが、尚かけ離れた二地の類似を見るといふことは、假令一半は偶合の奇に驚くべきものだとしても、少なくとも國中の方言が常に獨立して、自由な誤謬に走つて居たものだとする、空想を破るには足るのである。單に一個のタンマダラ及びツグラメの問題ではなかつたのである。

[やぶちゃん注:「兎に角に動詞の此形を以て」ここは改訂版では『兎に角に動詞の所謂連體形を以て』とある。]

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