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2016/03/06

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第二章 進化論の歷史(4) 四 ライエル(地質學の原理)

     四 ライエル(地質學の原理)

Lyell

[ライエル]

 [やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 然るに同じ千八百三十年にイギリス國の地質學大家サー、チャールス、ライエルといふ人の著した「地質學の原理」と題する有名な書物の第一版が出版になつたが、この書物の弘まるに隨ひ、キュヴィエーの天變地異の説は全くその根抵を失ふに至つた。ライエルが「地質學の原理」の中に説いたことの大要を摘んでいつて見ると、「凡そこの地球の表面には開闢以來隨分大きな變動があつて、山が海になり海が山になつた處もある。高い山の頂上に浪の跡があつたり、また山の中腹から蛤や魚類の化石が出たりするのは、疑もなく昔そこが海岸或は海底であつた證據であるが、かやうに變つたのは、決して一時に急に起つたことではなく、絶えず少しづゝ次第次第に變つて、長い年月を歷て遂に斯く著しい度に達したのであらう。元來カントラプラス等の唱へ始めた霞雲説に隨えば、我が地球の屬する太陽系統は最初は極めて熱度の高い瓦斯の大きな塊であつたのが、次第に凝つて、中心は太陽となり、周邊には大小無數の遊星が出來た。この地球も素よりその一部分であるから、初はやはり熱度の極高い瓦斯の塊、次には岩石を熔かしたやうな極めて熱い液體の塊となり、次にその塊の表面が少し凝固して固形體の薄い地殼が出來たのである。かやうなことは素より實際傍で見て居たものがある譯ではないから、この説は無論假想の説には相違ないが、餘程多くの地質學上の事實はこの説によつて容易に説明することが出來る故、他に尚一層適當な説がない以上は、先づこの説を眞と見倣して置くより外には仕方がない。現今でも處々に火を噴き煙を出す山があること、處々に温泉の湧き出ること、及びどこでも地面を深く掘れば据るほど底が益々温くなつて、平均十六間位を掘る毎に攝氏の一度ずつの割合で温度が昇ることなどから考へて見ると、地球の内部は今でも尚火の塊であるらしく、また表面にある固形の地殼はこの火の塊が漸々冷却した結果として生じたものと思はれるが、總べて何物でも冷えると容積が減ずるものであるから、この地球も追々冷えて行く中に少しづゝ容積が減じて收縮し、收縮すれば表面の地殼には是非とも皺(しわ)が出來る。その有樣は全く林檎の實を長く捨て置くと、水分が蒸發して全體が縮小し、そのため表面に皺が生ずるのと同じ理窟である。我々から見れば、山は頗る高く、海は驚くべく深いが、凡そ一間位の直徑を有する地球の雛形を造つて、その表面に陸と海とを正しい割合に造れば、數千尋の深海も數萬尺の高山も僅に一分に足らぬ凸凹に過ぎぬ。それ故地球の表面にある海陸の凸凹の割合は到底林檎の皮の表面にある凸凹ほどに著しいものではない。このやうな瑣細な凸凹は地球が少し冷えれば直に出來るべき筈で、少しも驚くには當らぬ。」

 「總べて地殼の變化は上述の如く、地球の冷えて行くに隨ひ、何萬億年かの間に表面に皺が生じて、漸々山と海との區別が出來、その區別が追々著しくなることの外には、たゞ風雨の働、河海の働等の如き我々が日夜目の前に見て居るやうな尋常一樣の自然現象の結果として起つたものである。風が吹き雨が降る毎に、山の表面にある岩石は少しづゝ碎けて泥砂となつて谷へ落ち、河の水に流されて海へ出で、河の出口の處に沈澱して年々新しい層を造ることは、我々の現在處々で見る所である。我が國で何々新田といふやうな名の附いてある處は、多くは斯くして出來た地處である。かやうに泥沙の沈澱によつて生じた層は、最初は無論水平に出來るが、地球が少しづゝ冷却して地殼に皺が殖えるに伴なひ、後には褶(ひだ)をなして種々の方向に傾斜し、一部は山の頂となつて現れ、他の部は後の層に理められて深く地面の下に隱れるやうになる。かの高い山の頂上から魚類や貝類の化石の出るのは全く右の如き變動によるので、決して一時に急劇な天變地異があつた結果ではない。尤も先年の西印度の噴火や數年前の櫻島の破裂のやうなこともあるが、之は地球の全面から見れば實に極めて小部分で、大體を論ずる場合には殆ど勘定に入れるに及ばぬ程である。」

 「地球の表面に山が海になつた處、海が山になつた處があるのは、決して變動が劇烈であつた結果ではない。たゞ變動の時が極めて長く續いたからである。現今と雖も、毎日風雨・水流等の働により地球の表面に變動の止む時はないが、その變動が急劇でないから、餘り人の目に立たぬ。併し、實際絶えず行はれてあること故、幾萬年も幾億年も引き續く間には、かの「塵も積れば山」といふ諺の如く、その結果は實に驚くべき程になることは疑ない。地球の表面が今日の有樣になつたのは、全く毎日起る所の普通の變動が積り積つた結果と考えなければならぬ」。

 ライエルが種々の實例を擧げて右の如くに論じたので、キュヴィエーの天變地異の説は全く打ち破られてしまつたが、地球上にある動植物を悉く殺し靈してしまふやうな天變地異が一度も無かつたとすると、化石の動植物と現今生きて居る動植物とはその間に如何なる關係を持つて居るものであるか。古代の動植物と現今の動植物との相異なる[やぶちゃん注:「あひことなる(あいことなる)」と訓じている。丘先生はしばしば使用されるので注意されたい。]所を見ると、或は生物の種屬は時とともに多少變化するものではなからうかとの疑問は、更に改めて研究を要することになつた。

[やぶちゃん注:特に注さないが、ライエルの説の梗概として、鉤括弧で勿体ぶって括ってある中に、「何々新田」とか「櫻島の破裂」とかあるのは、丘先生の御愛嬌というべきものであろう。

「ライエル」スコットランド出身の地質学者で法律家でもあったチャールズ・ライエル(Charles Lyell 一七九七年~一八七五年)。近代的地質学の基礎となる「斉一説」(せいいつせつ uniformitarianism:自然に於いて過去に作用した過程は現在、観察されている過程と同じであろうと想定する考え方)を広めた人物として知られる。チャールズ・ダーウィンの友人でもあり、彼の自然淘汰説の着想にも影響を与えた。以下、参照したィキの「チャールズ・ライエルより引く。父は『植物学をたしなんでおり、幼きライエルに最初に自然の研究というものを示してみせた。ライエルは少年期をイングランドのニューフォレスト (New Forest) のバートリー・ロッジ (Bartley Lodge) で過ごし、自然界に対して大いに興味を抱くことになった』。『オクスフォード大学の Exeter College に通い、地質学と出会い、ウィリアム・バックランドの指導のもと、熱心に打ち込んだ』。一八一六年に卒業、『法律へと仕事を変えたものの、地質学との』「二足の草鞋」を履くことになり、一八二二年には『ライエルの最初の論文 On a Recent Formation of Freshwater Limestone in Forfarshire を発表』、結局、一八二七年頃には『法律の仕事には見切りをつけ、地質学のキャリアの長い道のりへと足を踏み出したのであった』。一八三〇年に『ロンドンのキングズ・カレッジで地質学の教授の職に就いた』。一八三〇年から一八三三年にかけてここで語られている「地質学原理」 Principles of Geology)の初版(全三巻・計約千二百ページもの大著)を出版、『これはライエルの最初の出版物であると同時に最も知られた出版物でもあり、ライエルの地質学理論家としての地位を確立したものである』。この「地質学原理」が、『「斉一説」 uniformitarianism の学説、すなわち、その数十年前にジェームズ・ハットンによって提唱されていたアイディアを、広く世に知らしめることにつながった』。一八四〇年代には『ライエルはアメリカ合衆国とカナダへと旅した。この体験が彼の有名な』、旅行と地質学を結びつけた読み物『を生むことになった』(一八四五年の Travels in North America と一八四九年以降の A Second Visit to the United States)とある。

「カント」かのドイツの哲学者で自然地理学者でもあったエマヌエル・カント(Immanuel Kant 一七二四年~一八〇四年)。

「ラプラス」フランスの数学者で天文学者でもあったピエール・シモン・ラプラス(Pierre Simon Laplace 一七四九年~一八二七年)。数理論を天体力学に適用し、太陽系の起源に関して星雲説(後注参照)を唱えた。解析学を確率論に応用する研究も行い、メートル法制定にも尽力した。

「霞雲説」星雲説。一七五五年にカントが唱え、一七九六年にラプラスが補説した、太陽系の起源についての仮説。緩やかに回転する高温の星雲状のガス塊が冷却収縮するにつれて回転を速めて環を生じ、その環が球状に凝集して各惑星となり、中心に残ったガス体が太陽になったといする説。

「十六間位」約二十九・一メートル。

「一間位」約一・八メートル。

「數千尋」一尋(ひろ)は約一・八メートルであるから、千メートル以上。チャレンジャー海淵は水面下一万九百十一メートルとされるから、この数値はショボ過ぎ。

「數萬尺」一尺は約三十・三センチメートルであるから、一万八千メートル以上。エベレストでも八千八百五十メートルだし、そもそもが地球の半径が六千三百七十一キロメートルだから、この高さは逆に誇大に過ぎる。

「一分」一分(ぶ)は三・〇三ミリメートル。

「先年の西印度の噴火」西インド諸島の中のウィンドワード諸島に属するマルティニーク(Martinique)島にある活火山プレー山(フランス語:Montagne Pelée 。「禿山」の意。マルティニークはは現在もフランスの海外県)。一九〇二年に大噴火を起こし、当時の県庁所在地であったサン・ピエールは全滅、約三万人が死亡、二十世紀に起った火山災害中、最大であったことで知られる(以上はウィキの「プレに拠った。当時の噴火の経過と影響はリンク先に詳細に述べられてある)。

「數年前の櫻島の破裂」大正三(一九一四)年一月十二日に始まった桜島の噴火。凡そ一ヶ月間に亙って、繰り返し、頻繁に爆発が起こり、多量の溶岩が流出した。この一連の噴火による死者五十八名に及んだ。流出した溶岩の体積は約一・五立方キロメートル、溶岩に覆われた面積は約九・二平方キロメートルに及び、『溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡』(最大距離四百メートル・最深部百メートル)『で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになった。また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測され、軽石等を含む降下物の体積は』約〇・六立方キロメートル、『溶岩を含めた噴出物総量は』約二立方キロメートル(約三十二億トンで東京ドーム約千六百個分に相当)『に達した。噴火によって桜島の地盤が最大』約一・五メートル『沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認され』ている、とある(以上はウィキの「桜島」に拠った。当時の噴火の経過と影響はさらにリンク先に詳細に述べられてある)。]

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