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2016/03/23

北條九代記 卷之八 由比濱血に變ず 付 大魚死す 竝 黃蝶の怪異

 由比濱血に變ず  大魚死す  黃蝶の怪異

寛元五年二月二十八日に改元ありて、寶治元年とぞ號しける。同三月十一日、由比濱(ゆひのはま)表(おもて)、血に變じて、潮(うしほ)の色、朱(あけ)を湛(たゝ)へたり。夕日に映じて赤きこと、喩へて云はん方なし。諸人集りて是を見る。後に聞えしは、三浦〔の〕五郎左衞門尉、奥州より鎌倉に參りて時賴に語りけるは、「去ぬる三月十一日、陸奥國津輕の浦に、大魚、流寄(ながれよ)る。その形(かたち)、死人の如く、手足ありて、鱗、重(かさな)り、頭(かしら)は魚に相替らず。海水皆血になりて、紅(くれなゐ)の波、岸を洗へば千入(ちしほ)に染むる苔(こけ)の色、藻屑(もくず)に交りて赤き事、錦(にしき)を晒すが如くなり。前代にも例(ためし)なしと、諸人、驚き怪み候」とぞ申されける。古老の衆に尋ねらるゝ所に、「先蹤(せんしよう)、快(こゝろよ)からず。文治五年の夏、此魚あり。泰衡(やすひら)滅亡の事、起れり。建仁三年の夏、秋田の浦に怪魚死して、波に搖られて磯に上(あが)る。源賴家御事まします。建保元年四月に大魚現じて波上に死す。和田義盛滅亡に及ぶ。このたびの魚の怪異も、世の御大事たるべし。その魚の名を知る人なし。御愼あるべし」とぞ申しける。同三月十二日戌刻計(ばかり)に、大流星ありて、艮(うしとら)のかたより、坤(ひつじさる)に向ひて行く。その音、雷(いかづち)のごとく、長(たけ)五丈餘(あまり)なり。空中に耀(かゝや)きて、白晝(はくちう)に異ならず。夥(おびたゞ)しともいふばかりなし。同十七日には、黃蝶(くわうてふ)いくらともなく飛集(とびあつま)り、空の間に翻(ひるがへ)る。廣さ一丈計(ばかり)長(たけ)三段餘にして、黃絹(くわいけん)を引はへたる如くなり。其後はらはらと散別(ちりわか)れ、鎌倉中に飛渡(とびわた)る。昔、朱雀院の御宇、承平の初に、常陸下野兩國に黄蝶飛集り、山野の開に盈塞(みちふさが)り、後には人家に亂入(みだれいり)て、蚋蚊(あぶか)の如くに侍りしが、相馬將門(さうまのまさかど)叛逆(しほんぎやく)て、東國、暫く亂れたり。後冷泉院の御時、天喜三年の春の比、奥羽常野(じやうや)の四ヶ國の間に、黃蝶の怪異あり。阿倍貞任(あべのさだたふ)、逆心(ぎやくしん)して、關東、大に騷動す。今、又、この怪異あり。東國兵亂の兆(きざし)なるべしと、とりどりに沙汰をぞ致しける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十八の宝治元年三月十一日・十二日・十七日、五月二十九日の条に基づく。後に総て引く。

「寛元五年」一二四七年。

「三浦五郎左衞門尉」三浦盛時(生没年未詳)。三浦氏佐原流の出身で佐原義連の孫。ウィキの「三浦盛時」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した。下線はやぶちゃん)。『嘉禄三年(一二二七年)七月、浄土宗多念義派(長楽寺義)の祖隆寛律師(法然の弟子)が奥州に流罪することが決定した際(嘉禄の法難・『円光大師行状絵図翼賛』)、奥州に所領を持つ佐原盛時の預かりとなっている事実から、盛時が宝治の乱以前、すでに会津郡耶麻郡加納庄を領していたことになる。これが史料上の初見となる。仁治二年(一二四一年)、頼経が明王院北斗堂の供養の為に行列を組んだ時は御家人役の一人に名が見える。宝治元年(一二四七年)、宝治合戦後の京都大番役の再編の際には三浦介として御家人役を分担し、建長四年(一二五二年)に宗尊親王が鶴岡八幡宮に参詣した際には後陣の随兵として名が見える』。『母の矢部禅尼は最初北条泰時に嫁いでいたが、離縁して佐原盛連に再縁したという経緯を持つ。両者との間に北条時氏・盛時ら兄弟を儲けており、盛時は時氏と異父兄弟の関係にあった。それゆえ得宗との血縁的な結びつきが強かった』。『そのためか、宝治合戦では嫡流の泰村らとは袂を分かち、佐原流三浦一族を率いて甥の北条時頼に与した合戦に先んじて、時頼は盛時を陸奥国糠部五戸郡の地頭代に任命しており、既に盛時は時頼に懐柔されて得宗被官になっていたという』。『宝治合戦の直前、津軽の海辺に「人間の死骸のような」魚が漂着するという事件があった。盛時はこの顛末を時頼に報告し、更に、奥州合戦の直前にも酷似した現象があったことから、合戦の予兆であるとも指摘した。この話は『吾妻鏡』に収録されており、盛時が宗家の泰村の「征伐」を時頼に教唆したことを示すものではないかとも解釈されている』(!)。『合戦当日、盛時の兄弟を含む佐原一族は時頼の与党と共に時頼の館に結集したが、盛時自身は何らかの事情があって参戦に遅刻したらしい。遅れた盛時は屋敷の塀を乗り越えて時頼の館に到着し、この行動に感嘆した時頼から盛時は鎧を賜っ』ている(!)。『宝治合戦で三浦一族が滅びると、三浦介に任命され、三浦宗家の家督を継承した。盛時は三浦介、三浦家棟梁としての扱いを受ける一方で、将軍の鶴岡八幡宮参詣や放生会などでは随兵の役目しか回されず、宝治合戦で滅びる前、三浦氏がまだ隆盛していた頃の厚遇を受けることはなかった』。『待遇そのものはあくまで佐原氏時代のものが踏襲されたという』ことである。『弘長三年(一二六三年)に時頼が没すると、兄弟の蘆名光盛・会津時連と揃って出家し、浄蓮と号した』。

「大魚、流寄る。その形、死人の如く、手足ありて、鱗、重り、頭は魚に相替らず」前記のウィキペディアにあるように、これが全くの作り話なら考証する必要もないのであるが、そこはそれ、私のこと、まずは事実と仮定してみて(それは充分あり得、それをそれ、絶好の枕として盛時が語ったと考えたって全然おかしくないからである)、「鱗」があり、「頭」部が「魚」そのものであるという点が悩ましいが、よほど「大」きな海棲動物(である可能性が高い)こと、明瞭な「手足」があること、漂着したのが「津輕の浦」であること、「海水皆血になりて、紅の波、岸を洗」うほどの多量の出血となると、超弩級大きいこと、鯨なら見知っているはずであってしかも「手足」があるとは言わぬこと、オットセイやトドも漁師の中には知っている者もあったであろうことなどを考えると、私は何なら「前代にも例なしと、諸人驚き怪」むか? と考えた。考えた結果(鱗や魚は目をつぶって、である)、私はこれは、ベーリング海に棲息していたジュゴン科に属する寒冷地適応型の一種で、体長七~九メートル、最大体重九トンにも及ぶ哺乳綱海牛(ジュゴン)目ダイカイギュウ科ステラーカイギュウ亜科ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas の死亡個体の南下漂着したものではないかと推理する。生物種としては、ロシアのベーリング率いる探検隊の遭難によって一七四二年に発見されているが、彼らは、その温和な性質や傷ついた仲間を守るため寄ってくるという習性から、瞬く間に食用として乱獲され、一七六八年を最後に発見報告が絶えてしまった。近代文明人となった「壊れた種」とも言うべき「ヒト」に知られてから何と、僅か二十七年後の絶滅であった「地球にやさしい」僕らは、欲望の赴くまま、容易に普段の「やさしさ」を放擲して、不敵な笑いを浮かべながら、第二のステラーダイカイギュウの悲劇を他の生物にも向けるであろう点に於いて、何等の進歩もしていない。この頭骨の語りかけてくるものに僕らは今こそ真剣に耳を傾けねばならないのではないか? 自分たちが滅びてしまう前に、である――

「千入」「「しお」は接尾語で、これは、「幾度も染料に浸して染める」作業を指す古語である。しかも「血汐」を直ちに想起させ、それが文字通り、事実、血で染まった「潮」(海水)であり、しかもそれが「一入(ひとしお)」に真っ赤であるという効果も持つように私には思われ、絶妙の用字と思う。

「苔」岩礁に生えたテングサのような紅藻類。死後の膨満によって弱った皮膚が岩に当たって裂け、そこから体外へ凝固しかけた生物体の腐敗しかけた血液が流出、それら紅藻にべっとりと粘着したものであろう。元が赤い上に血液が赤、しかも他の水中の紅藻類の「藻屑」にも絡んで、海水も赤く染まって、粘度が高いために容易に周囲には拡散してゆかないから、まさに大きな「赤き」「錦を晒す」ように海浜に有意に真っ赤な塊り、帯としてあったのである。これは相当に大きな個体でなくてはこうしたシークエンスにはならない。だからこその、ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas の死亡漂着個体、なのである。

「先蹤(せんしよう)」前例。

「快からず」不吉である。その前兆である、というのである。

「文治五年の夏」一一八九年夏。但し、同年夏頃の「吾妻鏡」には記載はない。但し、それに酷似する奥州絡みの予兆なら文治二(一一八六)年五月一日に以下のようにある。

   *

原文

一日戊寅。自去比黄蝶飛行。殊遍滿鶴岳宮。是恠異也。仍今日以奉御供之次。爲邦通奉行。有臨時神樂。此間。大菩薩詑巫女給曰。有反逆者。自西廻南。自南又歸西。自西猶至南。自南又欲到東。日々夜々奉窺二品之運。能崇神與君。申行善政者。兩三年中。彼輩如水沫可消滅云々。依之。被奉進神馬。重有解謝云々。

やぶちゃんの書き下し文

一日戊寅。去ぬる比(ころ)より、黄蝶、飛行す。殊に鶴岳宮に遍滿(へんまん)す。是れ、恠異なり。仍つて今日、御供(ごくう)を奉るの次(つい)でを以つて、邦通を奉行として、臨時の神樂(かぐら)有り。此の間、大菩薩、巫女(みこ)に詑(つ)き給ひて曰はく、

「反逆者有り、西より南に廻り、南より又、西へ歸り、西より猶ほ南へ至り、南より又、東へ到らんと欲す。日々夜々、二品(にほん)の運を窺ひ奉る。能く神と君とを崇め、善政を申し行はば、兩三年中に、彼の輩(やから)、水沫(みなわ)のごとく消え滅ぶべし。」

と云々。

之に依つて、神馬を進め奉らる。重ねて解謝(げしや)有りと云々。

   *

文中の「二品」(律令制位階の「二位」のこと)は頼朝のこと。「解謝」は拝み感謝すること(神を下したのを元通り解き放って謝すの謂いか)。しばしばお世話になっている「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条では、このいかにも奇妙な蝶の動きについて、『これは、意として源九郎義經が京都から熊野水軍と打ち合わせに行き、後白河法皇の元へ挨拶に再び京都へ舞い戻り、もう一度熊野水軍を使って奥州へ行くつもりであろうとの予言。結果、文治五年に源九郎義經も奥州藤原氏も滅んだ。一見、予言どおりのようだが、書かれたのは百年後である』とある。目から黄蝶の解読である。

「泰衡滅亡の事、起れり」同年夏の奥州合戦(文治五年七月~九月)。頼朝自らが率いる鎌倉軍による奥州藤原氏殲滅戦。

「建仁三年の夏」一二〇三年夏。同年夏頃の「吾妻鏡」にはその記載はない。

「源賴家御事」直後の同年秋の比企能員の変(九月二日:頼家の外戚比企能員が北条時政によって謀殺され、比企一族が滅ぼされた)と、その直後の将軍職の実朝への譲位(実質上の剥奪)と出家(これも強制と考えられる)及び修善寺への隠居(これも事実上は配流に等しい)、さらには一年後の頼家の死去(元久元(一二〇四)年七月一八日:実は謀殺)という一連のまさに怪事件を指すのであろう。

「建保元年四月」正しくは改元前であるから建暦三年四月が正しい。一二一三年五月相当(本邦の旧暦五月一日のみが四月三十日)。但し、同年四月の「吾妻鏡」には記載はない。和田合戦後の同年八月二十二日の条に鶴岡八幡宮上宮神殿で大小の黄蝶が飛んだという記事はあるものの、その直後には大きな戦乱は起こっていない。

「和田義盛滅亡」和田合戦は翌月の同年建暦三(一二一三)年五月二日に勃発、三日に和田一族の滅亡を以って収束した。

「戌刻」午後八時頃。

「艮(うしとら)」北東。

「坤(ひつじさる)」南西。

「五丈」約十五メートル。目視の見かけだから、これは恐ろしく長大な尾を引いていたことになる。但し、調べて見たが、日本以外での、この巨大流星の当時の記載はないようである。

「朱雀院の御宇」朱雀天皇の在位は延長八年十一月から承平を経て天慶九(九四六)年まで。「院」ではあるが「御宇」だから問題ない。なお、ウィキの「朱雀天皇によれば、『同母弟成明親王(後の村上天皇)を東宮(皇太弟)とし』、二年後に二十四歳の『若さで譲位した。しかしその後、後悔して復位の祈祷をしたともいう』とある。天暦六(九五二)年に出家して仁和寺に入るも、その年に三十歳の若さで崩御している。

「承平の初」承平は九三一年~九三八年であるが、「初」めというのだから、九三一年から九三三年頃までである。しかし、「相馬將門叛逆」が新皇を名乗って関東全域を手中に収めるのは天慶二(九三九)年十二月以降のことであるから(それ以前の承平五(九三五)年頃に始まる将門の抗争はあくまで平氏一族内での私闘であるので「叛逆」の範疇に入らぬ)、予兆と称するには、これは少々前過ぎるように私は思う。

新皇を称するまでに至った。将門の勢いに恐れをなした諸国の受領を筆頭とする国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国などの国々も従えた。

「後冷泉院の御時」寛徳二(一〇四五)年)四月に即位し、治暦四(一〇六八)年)四月十九日に在位のまま、宝算(天皇の場合の「享年」の尊称)四十四で崩御している。

「天喜三年の春」一〇五五年春。

「奥羽常野(じやうや)の四ヶ國」陸奥国・出羽国・常陸国・下野国のこと。

「阿倍貞任(あべのさだたふ)、逆心(ぎやくしん)して、關東、大に騷動す」前九年の役(永承六(一〇五一)年~康平五(一〇六二)年)の後半戦を指すのであろう。具体的にはこの不吉な出来事の翌年に当たる天喜四(一〇五六)年十二月に発生した、朝廷軍源頼義の部下であった藤原光貞の営舎が夜襲される阿久利(あくと/あくり)川事件による再開戦を指すと私は考える。

 

 以下、当該「吾妻鏡」記事を示す。寳治元(一二四七)年三月から(十六日の条があるが、省略して詰めて電子化した。但し、この十六日の条も怪事であって、午後八時半過ぎ頃から原因不明の騒擾が鎌倉中で起ったが、実際には何事も起らなかったため、翌日の明け方には静まったという記事である。実に怪しい)。

 

原文

十一日甲子。由比濱潮變色。赤而如血。諸人群集見之云々。

十二日乙丑。戌刻。大流星自艮方行坤。有音。長五丈。大如圓座。無比類云々。

十七日庚午。黄蝶群飛〔幅假令一許丈。列三段許〕。凡充滿鎌倉中。是兵革兆也。承平則常陸下野。天喜亦陸奥出羽四箇國之間有其怪。將門貞任等及鬪戰訖。而今此事出來。猶若可有東國兵亂歟之由。古老之所疑也。

やぶちゃんの書き下し文

十一日甲子。由比の濱の潮、色を變じ、赤くして血のごとし。諸人群集して之れを見ると云々。

十二日乙丑。戌刻。大流星、艮(うしとら)の方より坤(ひつじさる)に行く。音有り。長(たけ)五丈。大いさ、圓座のごとし。

十七日庚午。黄蝶、群れ飛び〔幅は假令(およそ)一丈許り。列、三段許り〕、凡そ鎌倉中に充滿す。是れ、兵革の兆(きざ)しなり。承平には則ち常陸・下野、天喜には亦た、陸奥・出羽、四箇國の間に其の怪(け)有り。將門・貞任等(ら)、鬪戰に及び訖んぬ。而るに今、此の事、出來(しつたい)す。猶ほ若(も)し東國に兵亂有るべきかの由、古老の疑ふ所なり。

 

 五月二十九日の条。

 

原文

廿九日辛巳。三浦五郎左衞門尉參左親衞御方。申云。去十一日。陸奥國津輕海邊。大魚流寄。其形偏如死人。先日由比海水赤色事。若此魚死故歟。随而同比。奥州海浦波濤。赤而如紅云々。此事則被尋古老之處。先規不快之由申之。所謂文治五年夏有此魚。同秋泰衡誅戮。建仁三年夏又流來。同秋左金吾有御事。建保元年四月出現。同五月義盛大軍。殆爲世御大事云々。

やぶちゃんの書き下し文

廿九日辛巳。三浦五郎左衞門尉、左親衞(さしんゑい)の御方に參り、申して云はく、

「去ぬる十一日、陸奥國津輕の海邊に、大魚、流れ寄る。其の形、偏(ひと)へに死人(しびと)のごとし。先日、由比の海水、赤色の事、若(も)しは、此の魚の死の故か。随つて、同じ比(ころ)、奥州海浦の波濤も、赤くして紅のごとし。」と云々。

此の事、則ち、古老に尋ねらるるの處、

「先規(せんき)不快の由、之れを申す。所謂、文治五年夏、此の魚、有り、同じき秋、泰衡、誅戮せらる。建仁三年夏、又、流れ來たり、同じき秋、左金吾御事有り。建保元年四月、出現し、同じき五月、義盛が大軍(おほいくさ)たり。殆んど、世の御大事をたり。」

と云々。

・「左親衞」北条時頼のこと。]

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