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2016/03/25

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(4) 神片目

 

       神片目

 

 眼の左右に大小ある人は固より多いが、それの特に顯著であり又一般的である場合には所謂アヤカリを以て説明せられる。例へば福島縣石城郡大森の庭渡(にはたり)神社などは、以前の本地佛庭渡地藏尊の像、美容にして片目を小さく造つてあつた。それ故に大森の人は皆片目が小さいと謂ひ、しかも美人の生れぬのも鎭守樣が器量よしだからと謂つて居た(一) 自分の生れ在所では村の氏神と隣村の氏神と、谷川を隔てゝ石合戰をなされ、彼方は眼に當つて傷つかれた故に、今でも隣村の人は片目が小さいと謂つたが、しかも此方の社の門客神、所謂矢大臣が亦片目を閉ぢた木像である。幼少の頃から之を不思議に思つて、今も引續いて理由を知りたいと願つて居る。片方の目は一文字に塞いで、他の一方は尋常に見開いて居るのが、二體ある像の向つて右手の年とつた方だけであつたやうに記憶する。今でもまだあらうから確めることは出來る(二) 勿論此彫刻は定まつた樣式に從つた迄で、特に此社のみに限られたことでは無からうが、他の實例はあの地方ではまだ心付かぬ。

[やぶちゃん注:「アヤカリ」平面的には「不思議で怪しいこと」の謂いであろうが、元は動詞の「あやかる」、何らかの(特にこの場合は超自然的霊的ものに)感化されて同様な状態になる、似たような外見になる、という現象を民俗学的に述べている術語であろう。因みに私は、個人的には、柳田や折口が始めた、生物和名みたような民俗学用語のカタカナ表記に対しては、極めて激しい生理的不快感を持っている人間である。

「福島縣石城郡大森の庭渡(にはたり)神社」現在の福島県いわき市四倉町(よつくらまち)大森舘に現存する。

「以前の本地佛庭渡地藏尊」神仏分離によって、現在のいわき市四倉町大森女房作にある浄土宗月田寺に移っている。但し、片目の有意に小さな地蔵尊像が現在もそこに現存するかどうかはネット上では確認出来ない。

「自分の生れ在所」柳田國男の生地は飾磨県(現在の兵庫県)神東(じんとう)郡田原(たわら)村辻川(現在の兵庫県神崎(かんざき)郡福崎町(ふくさきちょう)辻川)である。後の柳田の注によって柳田の村の方は現在の「鈴の森神社」であることが判る。しかし、その神像の記載はない。そればかりか、もう一つの片目の神像が川を隔てて存在し、しかも柳田がかくも特に書いているにも拘わらず、ネット上にはそちらも現存するような記載が、これ、見当たらない。これは私には頗る不審と言わざるを得ない。識者の御教授を乞うものではあるが、地域社会は柳田國男で町興しをするのもいいが、それよりもまずは柳田が研究しようとした伝承や文化財をこそ、まずその地域集団が守らねば全く意味がない、と私は強く思うものである。]

 ところが數百里を隔てた東部日本の田舍に、却つて夙く知られて居た片目の木像がある。例へば福島の市から西の山、信夫の土湯村の太子堂には、太子御自作と稱する本尊がそれであつた。此像もと鳥渡(とりわた)村の松塚といふ地に安置せられたのが、後に自ら飛行して土湯村の澤の間に隱れて居た。一人の獵夫曾て此地を過ぐるとき、我を山上に負ひ行き守護し奉れといふ聲が草の中から聞えたので、驚き覓めて此像を發見した。乃ち恐懼して之を負ひ高原の平地に移したといふのである。それに附け加へた大不可思議は、此際獵人が小角豆(さゝげ)の蔓に蹴躓づき倒れ、胡麻の桿で尊像の眼を突き傷けたといふ古傳であつて、現に近世までも御目から血の流れた痕があり、又當村の人は何れも片目が細かつた。其上に太子の御印判と名けて、村民悉く身體に痣があるとさへ言つたのである(三)是は太子が自ら不具の像を作りたまふといふことが言へない爲に、斯ういふ風に語り傳へることになつたのであらうが、像が傷ついたかはた傷ついた像であつたかは、一見して區別し得た筈である。御目より血流るといヘば、恐らくは眼の部分が破損して居たのでは無く、最初から片目を閉ぢて作られてあつたのを、生人と同じく後に相貌を變じたものゝ如く信じて居たらしいのである。

[やぶちゃん注:「信夫の土湯村」旧福島県信夫(しのぶ)郡土湯(つちゆ)村は、現在は福島市土湯温泉町。

「太子堂」同町内に現存する。現在の堂は享保一一(一七二六)年に再建されたもの。但し、幾つかのネット記載を確認したが、この本尊である聖徳太子自刻像が現在のそれも片目であるという記載は、これまた不思議なことに、ない。

「覓めて」「もとめて」(求めて)。底本では「見」の上は「不」の字体である。

「小角豆」マメ目マメ科ササゲ属ササゲ亜属ササゲ Vigna unguiculata

「桿」「から」と訓じておく。尖った殻(から)。]

 即ち片目の神像は、別に何か其樣に彫刻せらるべき理由があつたのである。上州伊勢崎に近い宮下の五郎宮、一名御靈宮又五料宮とも稱する社の神體は、狩衣風折烏帽子の壯士の像であつて、亦左の一眼を閉ぢて作られてあつた。其理由は甚だ不明で、氏子たちはさう古くからのものとも考へて居なかつたらしいが、一方に賀茂の丹塗矢(にぬりのや)と少し似通うた社傳がある爲に、私に取つて相應に重要な資料である。昔利根川がこの近くを洸れて居た頃一木の箭が流れて來て村の人が之を拾ひ上げた。後に屢々靈異を現じたので、それを祭つて鎭守の神とした。其箭に盜まれて今の木像を安置することになつたといふのだが(四) 二つの出來事の間には今少し深い關係があつたかと思はれる。若しこの御姿が古傳に據つて作られたものならぱ、此箭は亦恐らくは多度の一目龍の熊手に當るものである。

[やぶちゃん注:「上州伊勢崎に近い宮下の五郎宮、一名御靈宮又五料宮とも稱する社」これは現在の群馬県伊勢崎市太田町にある五郎神社であろう。梁瀬氏のブログ「神社ぐだぐだ参拝録」の「五郎神社(太田町)」に、解説版を起こした説明があり、そこに『広瀬川が昔利根川の本流だった頃、上流から一本の朱塗りの矢が流れてきた。村人が拾って家に持ち帰ったところ、その夜夢枕に、風おれ烏帽子に狩衣の、片目の武士が立って、自分は鎌倉権五郎である。お前の拾った矢は自分の仮の姿である。その矢を大切に祭るようにと言うと片目の武士は姿を消した』とある。]

 けだし偶像を以て神體とする慣行が、單なる佛法の模倣とも言はれないのは、それが數多く舊社猷に保存せられて、何か別途の目的に利用せられて居たのでは無いかと、思ふやうな形狀を具へて居るからである。さうして社殿に人形を置くべき必要は色々あり、其人形は同時に靈物であつたから、之を別の處に安置すれば、優に一座の小神として、拜祀するに足りたわけである。御靈が古今を通じて一方には獨立して崇める神、他の一方には大社の主神に臣屬して、統制を受ける神であつたことを考へると、特に木像神體の習はしが、此方面に始まつたことは想像してもよい。單に想像に止まらず、其例證も少しばかりは有るのである。

 諸國に分布する所の澤山の御靈神社が、鎌倉權五郎景政を祀るといふ説は、もと片目の木像の存在によつて其信用を強めたのであるが、既に上州伊勢崎のやうな五郎宮もある以上は、今一度其像の果して彼が傳記に基づいたものか否かを、突止めて置く必要がある。景政年僅かに十六歳にして出陣し、片方の眼を冑の鉢附の板まで射貫かれて、其まゝで答(たふ)の箭に敵を射殺したといふ怖ろしい話を、最初に述べ立てたのは保元物語の大庭兄弟であるが、實際かの兄弟が我先祖の事蹟として、さう信じて居たかどうか。此物語の成立が古くでも鎌倉時代を上らず、今ある各異本の親本が、どれだけの口承變化を經て文字に寫し取られたかも確かで無い以上は、疑ふ餘地は十分にある(五) しかも一方には甫北朝期に出來たといふ後三年合戰記が、大よそ同じ形を以て同じ事を書き記しながら、をかしいことは彼には左の眼、是には右の眼を射られたことになつて居るのである(六)

[やぶちゃん注:「冑の鉢附の板」「かぶとのはちつけのいた」で、兜(かぶと)の鉢に取り付ける錏(しころ)の一枚目の板。頸部の後ろをカバーする部分まで射抜かれたということになろうか。とすれば、物理的には眼窩は勿論のこと、頭蓋骨も貫通したということになろう。]

 京では上下の八所御靈が、主として冤厲祟(たゝり)ど爲す人々を祭つたと認められたに拘らず、錬倉の御靈だけは別に目出たく長命した勇士を祭ると言つたのも隨分古くからの事であるらしい。尊卑分脈に鎌倉權守景成の子同じく權五郎景正、御靈大明神是也とあるのは(七) 事によると後の插入と見た方がよいかも知れぬが、既に鎌倉幕府の初期に於て、景政といふ名前が御靈の社と關聯して、世に知られて居たことは注意に値する。吾妻鏡を見ると、文治二年の夏秋にかけて、頻りに此社の怪異が申告せられ、人心は頗る動搖して居つた。ところが其年も暮に近くなつて、下野の局といふ女房が夢の中に景政と號する老翁來つて將軍に申す。讚岐院天下に崇を成さしめたまふを、我制止し申すと雖も叶はず、若宮の別當に申さるべしと言つた。夢覺めて之を言上するや、武家は若宮別當法眼房に命を下して、國土無爲の祈を行はしめたとあるのである。鎌倉の若宮も諸國の同名の社と同じく、御靈の祟を鎭める爲に、本宮に先だつて鶴ケ岡に祭られた神であつた。さうしてこの老翁の景政は自ら其助手の如き地位に居らうとして居る。それが果して大庭梶原等の先祖であり、又後三年役の武勳者のことであつたか否かは、夢の記事だけに確めやうも無いが、兎に角に其後鎌倉の御靈社を目して、鎌倉權五郎を祀るとした説の、基づく所は久しいのであつた。爰で問題となるは其神の片目は、其傳説の原因であるかはた又結果であるかである。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡を見ると、文治二年の夏秋にかけて、頻りに此社の怪異が申告せられ、人心は頗る動搖して居つた。ところが其年も暮に近くなつて、下野の局といふ女房が夢の中に景政と號する老翁來つて將軍に申す。讚岐院天下に崇を成さしめたまふを、我制止し申すと雖も叶はず、若宮の別當に申さるべしと言つた。夢覺めて之を言上するや、武家は若宮別當法眼房に命を下して、國土無爲の祈を行はしめたとあるのである」柳田國男の誤りで「文治元年」である。これは現行のちくま文庫版でも訂されていない(この誤りが今も続いているのはかなりイタいことである)。前に引いた通り、まずは「吾妻鏡」の文治元年八月二十七日の条に、

   *

○原文

廿七日丁丑。午剋。御靈社鳴動。頗如地震。此事先々爲怪之由。景能驚申之。仍二品參給之處。寳殿左右扉破訖。爲解謝之。被奉納御願書一通之上。巫女等面々有賜物〔各藍摺二段歟〕。被行御神樂之後還御云々。

○やぶちゃんの書き下し文

午の剋、御靈社(ごりやうしや)鳴動す。頗る地震のごとし。此の事、先々怪たるの由、景能之れを申す。仍つて二品(にほん)、參り給ふ所、寶殿の左右の扉、破れたり。是を解謝(げしや)せんが爲め、御願書壹通を奉納せらるるの上、巫女(みこ)等面々に賜物〔各々藍摺(あゐずり)二段(にたん)か。〕有り。神樂(みかぐら)を行はるるの後。還御すと云々。

   *

のを指し、「其年も暮に近くなつて、下野の局といふ女房が……」の箇所も文治元年十二月二十八日の一部で、

   *

○原文

又御臺所御方祗候女房下野局夢。號景政之老翁來申二品云。讚岐院於天下令成祟給。吾雖制止申不叶。可被申若宮別當者。夢覺畢。翌朝申事由。于時雖無被仰之旨。彼是誠可謂天魔之所變。仍專可被致國土無爲御祈之由。被申若宮別當法眼坊。加之以小袖長絹等。給供僧職掌。邦通奉行之。

○やぶちゃんの書き下し文

又、御臺所の御方に祗候(しこう)の女房、下野(しもつけ)の局(つぼね)が夢に、景政と號するの老翁、來たりて、二品に申して云はく、

「讚岐院、天下に於いて祟(たたり)を成さしめ給ふ。吾れ、制止申すと雖も叶はず。若宮別當に申さるるべし。」

てへれば、夢から覺め畢んぬ。翌朝、事の由を申す。時に仰せらるるの旨無しと雖も、彼れ是れ、誠に天魔の所變(しよぺん)を謂つべし。仍つて專ら、國土無爲の御祈を致さるるべきの由、若宮別當法眼坊に申さる。加之(しかのみならず)、小袖・長絹等を以つて、供僧・職掌に給ふ。邦通、之れを奉行す。

   *

を指す。「若宮」とあるのは現在の鶴岡八幡宮をこの新造当時は(海岸近くの由比の若宮から遷座)「鶴岡八幡新宮若宮」と呼称していたことに由る。]

 

(一) 高木誠一君報。「民族」二卷二號、又「土の鈴」一〇號。

(二) 土地を精確に記せば、兵庫驅神崎郡田原村大宇西田原字辻川の鈴の森神社である。

(三) 信達一統誌に信達古語といふ書を引用して、尚此外に鹿落澤・尋澤・鹽野川・荒井川等の地名傅説を記述して居る。太子信仰の聖德太子以前からのものらしいことは、他日片足神の研究の序に之を細説する必要がある。

[やぶちゃん注:「信達一統誌」農民であった志田正徳著になる地誌。福島県立図書館の書誌データによれば、農作業に従事するかたわら、村々を調査、信夫郡のパートを天保一二(一八四一)年に、伊達郡を嘉永六(一八五三)年に纏めている。信夫郡は全村が記述されているが、伊達郡は暮子坊荘と小手荘のみが残されている、とある。

「信達古語」「信達古語名所記」のことか。著者不詳で成立は文化一五(一八一八)年とする。]

(四) 上野誌料集成第一編に載錄した伊勢崎風土記下卷。寛政十年の自序はあるが、其以後の追記も多い。神の箭を盜まれたのは六十餘年前とあるのみで、確かな時は知れない。

[やぶちゃん注:「寛政十年」一七九八年。]

(五) 前太平記の類の演義文學が、保元物語の文辭を踏襲しつゝ、末に「今は神と斎はれたる鎌倉權五郎」の一句を附加して居るのは、物語成長の一實例であらう。保元物語は二條院の御時、多武峯の公喩僧正、因緣舞の兒の爲に作るといふ一説は、固より現存の詞草に筆を下したことを意味しなかつたと思ふ。

[やぶちゃん注:「斎はれたる」「いわはれたる」(祝はれたる)。

「因緣舞」不詳。識者の御教授を乞う。]

(六) 康富記文安元年閏六月二十三日の條を見ると、少なくともあの時の奧州後三年記は内容が現行の後三年記と同一である。池田家には貞和三年の玄慧法師端書ある異本を藏するといふ。それも右の眼を射貫かれたとあるか否かを尋ねて見たい。それより以前にも後三年合戰繪のあつたことは、台記承安四年の條にある。いつ頃から景政眼を射らるゝ話が入つたかが、興昧ある將來の問題である。尚源平盛衰記石橋山の條にも此話があつて、是は右の眼の方に屬して居る。國々の景政木像の片目が右か左か、之を統計して見るのも面白からう。

[やぶちゃん注:「康富記」「やすとみき」と読む。ウィキの「康富記より引く。『室町時代の外記局官人を務めた中原康富の日記』で、記述は応永一五(一四〇八)年(年)から康正元(一四五五)年に『及ぶが、散逸が顕著であり、特に永享年間の記述はほぼ全てが欠落している』。また応永八(一四〇一)年の『日記は康富の経歴、年齢に鑑みると、父・中原英隆が書いたものと考えられる。幕府を始め、武家の動向や、隼人司、主水司、大炊寮の各々の所領の経営について細かく記述され、和歌、連歌、猿楽など文化、芸能に関する記述も豊富』。十五世紀前半の『社会、有職故実を研究する上で有益な情報を提供する貴重な史料である。朝議、除目、叙位については関係文書を貼り継いで補填した箇所も多い』とする。因みに、文安六(一四四九)年五月条には、世間を騒がせた「白比丘尼」という二百余歳の白髪の比丘尼(十三世紀生まれという)が『若狭から上洛した記事があり、この「白比丘尼」は『臥雲日件録』では八百老尼と同じと解されている。この白比丘尼自体は見世物として料金がとられており、八百比丘尼伝説を利用した芸能者であったと考えられている(当時、比丘尼伝説は尼の布教活動に利用されていた)』とある。

「文安元年」一四四四年。

「奧州後三年記」底本は「奧州後三年繪」であるが、おかしい。ちくま文庫版全集によって「記」と訂した。

「台記」「たいき」と読む。保元の乱の首謀者であった宇治左大臣藤原頼長の日記。保延二(一一三六)年から久寿二(一一五五年)までの十九年間に亙る。

「承安四年」一一七四年。]

(七) 績群書類從の系圖部などを見ても、景政の父親の名は家毎に區々である。それから大抵は其子孫の名が見えて居らぬ。注意すべきことである。

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