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2016/03/05

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第二章 進化論の歷史(1) 序・一 リンネー(生物種屬不變の説)

    第二章 進化論の歷史

 

 進化論の大意を話すには、先づ生物進化の考の起つて來た歷史を一通り述べて置いた方が、之を了解する上に都合が宜しいやうに思はれるから、ダーウィンが彼の有名なる「種の起源」といふ書物を公にするに至つたまでの進化論の歷史を、極めて簡單に述べて見よう。尤も進化論の歷史といへば殆ど動物學の歷史といつても宜しいやうなもので、その最も古い所は紀元前三百何十年かのアリストテレス時代から説き起さなければならぬが、こゝではたゞ生物の進化に關する考が如何に時と共に變遷し來つたかを明にするのが主であるから、歷史上の詳細な事蹟は一切省いていはず、人名の如きもたゞその時々の思想の代表者とも見るべき人の名を僅に三つ四つ掲げるだけに止める。

[やぶちゃん注:「アリストテレス」(ラテン語:Aristotelēs 前三八四年~前三二二年)]は古代ギリシャの博物学的哲学者で自然学研究の中では特に生物学、特に動物学に強い興味を示した。ウィキの「アリストテレス」によれば、動物学の『その研究の特徴は系統的かつ網羅的な経験事実の収集である。数百種に亘る生物を詳細に観察し、かなり多くの種の解剖にも着手している。特に、海洋に生息する生物の記述は詳細なものである。また、鶏の受精卵に穴を空け、発生の過程を詳しく観察している。 一切の生物はプシューケー』(和訳では「霊魂」)『を有しており、これを以て無生物と区別されるとした。この場合のプシューケーは生物の形相であり』、『栄養摂取能力、感覚能力、運動能力、思考能力によって規定される』『また、感覚と運動能力をもつ生物を動物、もたない生物を植物に二分する生物の分類法を提示し』、『』人間は理性(作用する理性〔ヌース・ポイエーティコン〕、受動理性〔ヌース・パテーティコン〕)によって現象を認識するので、他の動物とは区別される、としている』(そのために以下に見るように分類学上では「人類」が「胎生四足類」と区別して別立てされてある)。私の所持する岩波書店刊アリストテレス「動物誌上」(島崎三郎訳一九六八年)の「訳者序」によれば、その分類大綱は、

   *

 有血動物(赤い血液を持つ動物。但し、第七章で「総ての有血動物は背骨を持つ」としているので現行の「脊椎動物」と同義的である。彼は分類では四足を限定的に重視した)

  人類

  胎生四足類(被毛類)

  卵生四足類(被甲類(爬虫類)と現行の両生類であるが、後者は記載が少ない)

  鳥類(被羽類)

  魚類(被鱗類)

(中間型として「猿類」(人類に近い胎生四足類)・「鯨類」(胎生肺呼吸であるが魚類に近い)を挙げ、コウモリやダチョウは四足類と鳥類の中間生物、「蛇類」は魚類とともに「無足類」として足のない「蜥蜴類」とした)

 無血動物(赤い血を持たない動物であるが、但し、アリストテレスはそれに代わる体液の存在を認めている。

 ㋐ 軟体動物(頭足類)

 ㋑ 軟殻類/硬皮類(甲殻類)

 ㋒ 有節類(所謂、「虫類」。昆虫類・多足類・蛛形類などの節足動物に、環形動物・扁形動物・円形動物をも含む)

 ㋓ 殻皮類/貝殻類(貝類に加えてウニ類やホヤ類を含む)

 ㋔ 前記に含まれないヒトデ・ナマコ・イソギンチャク・クラゲ・カイメン等の『最下等の、植物に近い動物』(『特に名称はないが、一五五二年にイギリス人ウォットン』固着性水生動物の総称として『Zoophyta(植虫類)と名付けたもの』に近い。引用は島崎氏のそれ)

   *

実にこれらの古典的で見た目だけの杜撰な分類体系は中世まで絶対視され、「無血動物」に至っては、後掲されるラマルクが一七九四年に同動物群の中の『環虫類に赤血を有するものがある、という矛盾から、有血動物を脊椎動物、無血動物を無脊椎動物と呼ぶ』ようになる『まで、実に、二千年以上も』この「無血動物」という術語は用いられてきた(引用は島崎氏のそれ)。]

 凡そ動物でも植物でも親・子・孫といふ樣な近い一代づゝの間には、少しも著しい變化を見ることなく、代々子は全く親の如く、親は全く祖父母の如くであるやうに思はれるから、我々は通常生物は何代歷ても其の形狀・性質ともに少しも變化の起らぬやうな心持ちがして、生物の種類は長い年月の間には進化するものであるや否やといふ疑問が、胸に浮ぶことさへ殆ど決してない。それ故、昔から誰も馬の先祖は何處までも今のと全く同じやうな馬、犬の先祖は何處までも今のと全く同じやうな大であると思つて居て、尚その先の先祖はと尋ねたら、天よりや降りけん、地よりや湧きけんとでも言つて、之を知らぬことを白狀するか、又耶蘇教の人ならば天地開闢の時に神樣がかやうに御造りなされたものぢやと答へるより外には仕方がなかつた。我が國などでは今日と尚かやうな考を持つて居る人が甚だ多いやうであるが、之は決して素人ばかりがさやうであつた譯ではなく、動植物を專門に研究して居た西洋の學者等も昔はやはり皆この通りで、近代分類的博物學の元祖といはれるスウェーデン國のリンネーといふ大家でさへかやうな考を持つて居て、その著書の中に「凡そ地球上にある生物の種類の數は天地開闢の時に天帝が造つただけ有る」と明に書いて置いた。

 

     一 リンネー(生物種屬不變の説)

Rinne

[リンネー]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 リンネーといふ人は、今より二百七年前即ち西暦千七百七年に生れ、中學校で餘り成績が宜しくなかつたため、父親が靴屋へ奉公に遣らうとした所を、或る醫者に助けられて醫科大學に入學したが、生來博物學的の天才があつたものと見え、忽ちその方面に發達して、後にはウプサラ大學の博物學教授となつた人で、我が國でいへば、小野蘭山とか飯沼慾齋とかいふやうな多識家であつた。漸く二十八歳許の時に「システマ、ナツレー」即ち「博物綱目」とでも譯すべき表題の書物を著したが、この書によつて博物學に一大改革が行はれた。それは何かといふに、その頃までは各國ともに動植物の名稱には皆自國の俗語を用ゐ、同じ犬のことでも國々により「ドッグ」とか「シャン」とか「フンド」とか又は「カネ」とか「ぺルロ」とか「サバカ」とか名づけ、其の上、山の犬とか、野の犬とか、耳の長い犬とか、尾の短い犬とかいふやうに、隨意に形容詞などを附けて用ゐて居たから、動植物各種の名稱が實に種々雜多で少しも一定せず、隨つて一疋の蟲一本の草を採つて來ても、是が何といふ蟲か、何といふ草か、探し出すことが殆ど出來なかつた所へ、リンネーは其の頃世の中に知られて居ただけの動植物の種類を悉くこの一册の書物の中に纏めて掲げ、動物界・植物界ともに先づ之を若干の綱に大別し、更に綱を分ちて若干づゝの目とし、各目中に若干の屬を置き、總べての種類を分類して、この中のどこかに編入し、屬・種ともに皆ラテン語の名稱を附け、各種には之を識別するに必要な點だけを短く書き添へて檢索に使にし、また學術上に用ゐる動槇物の名稱は恰も人間に姓は何、名は某と二つ名前がある如くに必ず屬名と種名とを竝べて書くことに定めて、所謂學名の形か一定したが、斯ういふ調法な書物が出來たから、誰でも自分で動物・植物の名稱を探し出すことが極めて容易になり、「システマ、ナツレー」一册さへ持つて居れば、山へ行つても野へ行つても、禽獸草木の名が直に解るやうになつた。植物學で今日でも尚用ゐて居る「林氏綱目」といふのは即ちこの書である。またそのの頃この書で探して見ても到底知れぬ程のものならば、之は無論まだ世に知られて居ない新種であるから、新に名を附け、之にリンネー流の型(かた)に隨つて簡單な特徴を書き添へて公にすれば、世人は皆之を承認した。それ故に新種發見を以て何よりの名譽と心得る人等は誰も彼も皆採集を試み、一つでも餘計に新種を發見して新しい名を附けやうと互に競爭したので、この書の出版になつた後は博物學といへば全く分類・記載だけの學問の如き有樣となり、この書も常に訂正增補せられて終に第十二版まで出來、其の著者なるリンネーは實に斯學の泰斗と仰がれ、非常な大學者として世に尊敬せられるに至つた。斯くの如く著しい勢力の有つたリンネーの著書の中に、動植物の種類は最初神が造つたそのまゝのもので、增(ふ)えもせず減(へ)りもせず、少しも變化したことのないものであると明に書いてあつたから、その頃博物學を修める人々は、之を金科玉條と心得、偶々生物の種類は長い年月の間には多少變化するものであらうといふやうな考を出す人が有つても、誰も之を相手にしない程であつた。併し十八世紀の終より十九世紀の始に至る頃には、實際生物進化の事實に氣が附き、且相當の理論を考へて之を説明しようと試みた學者が全くないことはなかつた。

[やぶちゃん注:「リンネー」「分類学の父」と呼ばれるスウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネ(Carl von Linné /ラテン語名:カロルス・リンナエウス Carolus Linnaeus 一七〇七年~一七七八年)。牧師だった父親はアマチュアの植物学研究家で熱心な園芸愛好家でもあり、若き日の彼は実父から多くの植物の名を教えて貰い、結局その影響を強く受けている(丘先生の叙述は父親の実像をかなり捻じ曲げている)。ウィキの「カール・フォン・リンネ」から引くと、『それまでに知られていた動植物についての情報を整理して分類表を作り』、その著書「自然の体系」(Systema Naturae:一七三五年刊)において、『生物分類を体系化した。その際、それぞれの種の特徴を記述し、類似する生物との相違点を記した。これにより、近代的分類学がはじめて創始された』。『生物の学名を、属名と種小名の』二語の『ラテン語で表す二名法(または二命名法)を体系づけた。ラテン語は「西洋の漢文」であり、生物の学名を』二語の『ラテン語に制限することで、学名が体系化されるとともに、その記述が簡潔になった。現在の生物の学名は』現在も『リンネの考え方に従う形で、国際的な命名規約』『に基づいて決定されている』。『分類の基本単位である種のほかに、綱、目、属という上位の分類単位を設け、それらを階層的に位置づけた。後世の分類学者たちがこの分類階級をさらに発展させ、現代おこなわれているような精緻な階層構造を作り上げた』。また、当時、『火星を表す惑星記号の「」を生物学で雄(オス)を表す記号として使い始めた』のも彼の発案によるものである。但し、「自然の体系」では、特に植物分類法として「雄蕊(おしべ)」の性質で「綱」を分け、「雌蕊(めしべ)」の性質で「目」を分けるという画期的な「雌雄蕊(しゆうずい)分類法」(sexualsystem)によって注目されたものだが、現在の植物分類ではこの分類手法は捨てられており、リンネはクジラを「魚類」に分類する誤りも犯した(実際、リンネは動物分類は苦手であった)。そもそもがリンネの時代には「生物進化」概念が無いことから、彼の分類体系は専ら形態上の見た目の類似異同の差異によるという限界があったのである。以下、「日経ナショナル ジオグラフィック」公式サイト内の「リンネ 植物にかけた情熱の人」に、リンネは『生物の起源については当時の主流だった神による創造説を心から信じ、自然の研究は神が創造した世界の神秘的秩序を明らかにする作業だと考えていた。特別に信心深かったわけではなく、自然界に神の意志以外の力は一つも存在しないと妄信しているわけでもなかった。リンネが今日でも偉大な科学者と尊敬されている理由は、自然の多様性に高い価値を認め、すべてを解明しようとしたからだ。人類は世界中のあらゆる生物を発見し、名前をつけ、数え、理解し、ありがたく鑑賞しなければならないというのが、リンネの信条だった』とある。

「ウプサラ大学」スウェーデンのウプサラ(Uppsala)にある、一四七七年に創設された北欧最古の大学。

「小野蘭山」(享保一四(一七二九)年~文化七(一八一〇)年)本草家。二十五歳で京都丸太町に私塾衆芳軒を開塾、多くの門人を教え、七十一歳にして幕命により江戸に移って医学校教授方となった。享和元(一八〇一)年~文化二(一八〇五) 年にかけ、諸国を巡って植物採集を行い、享和三(一八〇三)年七十五歳の時に自己の研究を纏めた「本草綱目啓蒙」を脱稿した。本草一八八二種を掲げた大著で三年かけて全四十八巻を刊行、日本最大の本草学書になった。衰退していた医学館薬品会を再興、栗本丹洲とともにその鑑定役ともなっており、親しい間柄であった。後にこの本を入手したシーボルトは、蘭山を『東洋のリンネ』と賞讃した(ウィキの「小野蘭山」に拠る)。

「飯沼慾齋」(いひぬま(いいぬま)よくさい 天明二(一七八二)年~慶応元(一八六五)年)医師で本草学者。「リンネ」の植物分類法を最初に採用した草木図説を出版した。伊勢国亀山(現在の三重県亀山市)出身。ウィキの「飯沼慾斎によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『小野蘭山について本草学を学んだ。後、宇田川榛斎に入門し蘭学を修め、大垣に帰り蘭方医を開業し名声を博した、文政十一年(一八二八年)には人体解剖もおこなっており、本業の医家としても先駆者であった。六十歳を過ぎても壮健で知識欲旺盛であり、自ら慾斎と号したことでもその意欲が覗い知ることが出来る。『草木図説』執筆の傍ら六十八歳で自ら種痘を試み、七十歳を越してから門人とともに写真術の研究をはじめ、八十歳では、博物学・医学・本草学の知識を広めようとシーボルトと会見せんとした(シーボルトの帰国で実現しなかった)。最晩年には、足を傷めたが、山駕籠に乗っては深山まで植物採集に出かけたという』。「草木図説」は『草部二十巻・木部十巻・禾本沙草無花部十巻からなり、生前に刊行されたのは、草部二十巻のみであったが、その価値は、時代を経ても色あせることなく海外でも高く評価されていた』。『牧野富太郎も増訂草木図説を昭和に入ってから出版しているほどで、まして木部の刊行は実に死後百二十年たった昭和五十二年(一九七七年)のことであった』とある。

『二十八歳許の時に「システマ、ナツレー」即ち「博物綱目」とでも譯すべき表題の書物を著したが、この書によつて博物學に一大改革が行はれた』言わずもがなかも知れないが、少しく詳しく言うと、この初版によって一気に改革が行われた訳では当然、ない。一七三五年(二十八歳)に動物・植物・鉱物の三界を扱って分類を試みた「自然の体系」(Systema Naturae 第一版)を出版、「動物命名法」の基準はその二十三年後に出た第十版(一七五八年刊)に発表され、他に一七三七年の「植物の属」(Genera Plantarum)、一七五三年の「植物の種」(Species Plantarum:この第一版が「植物命名法」の基準となった)といった刊行と流布の結果の「一大改革」であった。以上のデータは「東京大学農学部図書館」公式サイト内の『東京大学農学部創立125周年記念農学部図書館展示企画 農学部図書館所蔵資料から見る「農学教育の流れ」』にある鈴木和夫氏のCarl von Linne (カール・フォン・リンネ) 1707-1778に拠った。それによれば、「自然の体系」に於いて植物種は七千七百種を定めたとあり、宮内庁公式サイト内にある、現天皇陛下の「リンネ誕生300年記念行事での基調講演」(英国・平成一九(二〇〇七)年五月二十九日・於ロンドン・リンネ協会)の「仮訳)」によれば、他に「植物界」は二十四綱に、「動物界」は「四足動物」・「鳥類」・「両生類」・「魚類」・「昆虫」・「蠕虫」の六綱に、「鉱物界」は「岩石」・「鉱物」「採掘物」の三綱に分類した、とある。

「或る醫者に助けられて」確かに、ウィキの「カール・フォン・リンネ」には、『若い頃には、父親や母方の祖父と同様に聖職者となる予定であった。彼は町の内科医から教えられた植物学に興味を持ち、ルンド大学』(現在のスウェーデン南部のスコーネ県ルンド市にある国立大学。現在のスウェーデン領土内の大学としては二番目に古い)へ入学、一年後にはウプサラ大学へと移ったが、『この間に、リンネは植物の分類の基礎が花のおしべとめしべにあると確信するようになり、短い論文を書いて助教授となった』とはある。但し、前注の私の疑義も参照のこと。

「シャン」シィアン。フランス語の「犬」の意の「chien」。

「フンド」フント。ドイツ語の「犬」の意の「Hund」。

「カネ」カーネ。イタリア語の「犬」の意の「cane」。

「ぺルロ」スペイン語の「犬」の意の「perro」。

「サバカ」サバーカ。ロシア語の「犬」の意の「собака」(ラテン語転写:sobaka)。]

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