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2016/03/03

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(1) 多度の龍神

 目一つ五郎考

  

     多度の龍神

 

 加藤博士の新説に勇氣づけられて、自分のまだ完成せざる小研究を公表する。けだし此假定たるや、將來の事實蒐集者に由つて、段々と支援せられて行く望みがあると共に、たつた一つの反證によつてすら、根こそげ覆へされるかも知れぬ至つて不完全たるものではあるが、既に「民族」誌上の問題となつた以上は、早曉最も正しい解決に導かずには置か

ぬであらう。さうして民俗學の速かなる成長は、自分たちの切たる祈願である故に、之に

向つては如何なる供物でも惜しいとは思はぬのである。

[やぶちゃん注:「加藤博士」宗教学者で文学博士の加藤玄智(げんち 明治六(一八七三)年~昭和四〇(一九六五)年)。陸軍士官学校教授を経て、母校東京帝国大学助教授。後に国学院大教授などを歴任し、宗教学・神道学を講義した。ここは彼の「天目一箇神に関する研究」を指し、金属神の天津麻羅(あまつまら:「古事記」にのみ登場する鍛冶神)を念頭に置いて物を生み出す男性器(マラ)から天目一箇神を一つ目(片目)と見る説を指すようである。ここは新曜社二〇〇一年刊の飯島吉晴著「一つ目小僧と瓢箪――性と犠牲のフォークロア」のレビューを参考にした。]

 上古の神の名に意外の暗示があるといふことは、前代多數の國學者に由つて承認せられて居る。若し他には一つも解説の手掛かりが無いといふ樣な場合には、或は微々たる語音の分析を試みて迄も、所謂言靈(ことだま)の神祕を尋ねる必要があるかも知れぬ。單に古人が謎詞を以て露骨を避けたらうといふ想像だけなら、宗教行爲の自然にも合したことであつて、加藤氏の方法は要領を得て居るのであるらう。たゞ天目一箇命の問題に付ては、別に若干の搜査を費すべき粗雜な資料が保存せられて居る。大正五六年の交、自分は其資料の著明たる一部分を、雜誌と新聞とに陳列して置いたことがある(一) それは何れも有りふれた印刷書に散見したものを、拾ひ上げたゞけの手數に過ぎなかつたが、少なくとも神に目の一つなる神があることを、人が信じて居た時代が久しいといふことだけは、色々の方面から證據立てゝ置いたつもりである。故に例へば播磨風土記の一つの神名を、生殖信仰の暗示とする前か後には、明かに之と兩存し得ない他の多くの言ひ傳へを、一應は始末しなければならなかつたのである。併し忙しい専門家にそんな手數を望むのは無理だ。故に自分の如き前からの行掛かりある者が。料理番給仕人の役目をするのは是非無いことである。

[やぶちゃん注:「謎詞」ちくま文庫全集版では『なぞことば』とルビする。

「天目一箇命」ちくま文庫全集版では『なぞことば』とルビするが、私は先行注に則り、「あめのまひとつのみこと」と訓じておく。]

 出來るだけ單純に物を考へて見ようと力めるのがよいと思ふ。先づ最初に天目一箇神が古今一柱しか無かつたといふ考は、資は根據が無いから止めなければならぬ。時と處とを異にした二つの傳承が、同じ系統の家族に由つて、しかも内容を改めて錄進せられたといふことは、極端に想像し難いことだからである。即ち或種の神樣にはさういふ御名を奉る風、若くは神自らしか名乗りたまふ風が、稍弘く行はれて居たと解すべき史料である。それでは如何たる特徴に基いて、其名が發生したとするかといふと、第一次には此日本語の正面の意味、即ち御目が一つだからマヒトツと稱へたものと解して、それでは理窟に合はぬか否かを、吟味して見るの他はあるまい。我民族には限らぬ話だが、神が一つ目だといふ信仰は、少しづゝ形を變へて今日まで傳はつて居る。信仰そのものを否認せぬ以上、それは珍しくも怪くも無い現象であつた。

[やぶちゃん注:「一柱」ちくま文庫全集版では『ひとはしら』とルビする。

「神自らしか名乗りたまふ風」ママ。「神自らしか名乗りたまはぬ風」の謂いであろう。]

 主として日本の手近の實例を擧げて見るならば、伊勢桑名郡多度山の權現樣、近世江戸人の多くの著述に一目連と記す所の神は、雨を賜ふ靈德今尚最も顯著であつて、正しく御目一箇なるが故に、此名ありと信ぜられて居る。現在は式内多度神社の別宮であるが、曾ては本社の相殿に祭られて、往々にして主神と混同する者があつた。新らしい社傳には祭神を天目一箇命とある。即ち亦神代史の作金者と同一視せんとする例であつて、此推測には些しの根據はあつたが(二)雨乞に參請する近國の農人たちは少なくともさうは考へて居なかつた。神は大蛇である故に之を一目龍と謂ひ(三)昔山崩れがあつた後、熊手の尖が當つて片目龍となり、それから今の權現池に入れ奉つて祭ることになつたなどゝ言ふさうである(四)兎に角に畏こき荒神であつて、大なる火の玉となつて出でゝ遊行し、時としては暴風を起して海陸に災ひした(五)即ち雨師といふよりも元は風伯として、船人たちに崇敬せられて居たらしいのである(六)最初は恐らくは海上を行く者が、遙かに此山の峯に雲のかゝるを眺めて、疾風雷雨を豫知したのに始まり、後次第に平和の目的に利用する樣になつたのであらう。さうすると斯ういふ威力のある神の名を、目一つと呼ぶに至つた理由は、固よりファリシズムでは無かつたのである。

[やぶちゃん注:「多度山」「たどやま/たどさん」で、山としては三重県桑名市と岐阜県海津市に跨る標高 四百三メートルの山を指す。現在の三重県桑名市多度町多度にある多度大社は本来はこの山を御神体とするものであったと考えられている。先行する「一目小僧(十八)」の「一目連の社」の私の注も参照されたい。

「相殿」「あひ(あい)どの/でん」と読み、同じ社殿に二柱以上の神を合わせて祀った、その社殿を指す。

「尖」ちくま文庫全集版では『さき』とルビする。

「畏き」「かしこき」。
 
「ファリシズム」
phallicism。男根崇拝。

 なお、以下の注は底本では全体が概ね二字下げのポイント落ちである。注の総てが私の認知の中にある訳ではないが、注に注すれば芋蔓式になるので、先に注したものは避け、極力、禁欲した。]

(一) 「郷土研究」四卷八號「一眼一足の怪」、同十一號「片目の魚」、同十二號「一つ目小僧」等、竝びに東京日日新聞大正六年八月下旬以後、二十數回に連載した「一目小僧」談の中に、各「目一つ神」の古今幾つかの記事を引用して置いた。

(二) 姓氏錄右京神別下に、桑名首は天津彦根命の男、天久之比命の後也とあるのを、郡名同じきに由つて直ちに此社の神とし、それから轉じて又の御名天目一箇命ともいふのであるが、社家以外の者には諒解し難い理論である。主神を天津彦根命とした最初の事情も明かで無いが、或は古い口傳でもあつたと見るべきであらうか。しかも父子別神といふことすら、山下の民は考へて居ないのである。

[やぶちゃん注:「天久之比命」「あめのくしひのみこと」。

「山下の」「さんかのたみ」と読んでおく。多度山の麓の多度大社を信仰する民草の謂い。]

(三) 市井雜談集上に、此山龍片目の由。依之一目龍といふべきを土俗一目連と呼び來れり云々。

[やぶちゃん注:「市井雜談集」宝暦一四(一七六四)年刊の林自見編著の随筆。]

(四) 民族一巻一一一六頁、澤田四郎作君の報告に依る。

[やぶちゃん注:「澤田四郎作」(明治三二(一八八九)年~昭和四六(一九七一)年)は奈良県生まれ。大正一〇(一九二一)年に東京帝国大学医学部に入学、細菌学を専攻したが、この頃に石神信仰の研究に熱中し、千葉・茨城・山梨・神奈川の近村を歩く。また、この頃、孤高の考古学者森本六爾を訪ねたり、「考古学研究会」に参加、柳田國男に個人雑誌を送り、柳田との交流を始めた。大正一五(一九二六)年に同医学部を卒業後は同大医学部小児科教室に入局、小児科学を研究したが、まさに柳田の本論文が公にされた昭和二(一九二七)年に柳田國男を訪問、これを契機として民俗学を生涯のライフワークに位置づけ、調査・研究に励んだ。昭和五(一九三〇)年には医学博士号を受け、翌年、大阪市西成区に小児科医を開業、休暇をみては、近畿地方を中心に精力的に民俗調査を行った。昭和九(一九三四)年には柳田國男の勧めにより、宮本常一らとともに「大阪民俗談話会」を発足、会長に就任、また、昭和一一(一九三六)年に「京都帝国大学民俗学会」及び「兵庫県民俗研究会」との合同による「近畿民俗学会」が結成されると、その会長に就任した。昭和一六(一九四一)年、応召により満州に駐屯、各地の陸軍病院で勤務したが、敗戦でシベリアに抑留、昭和二二(一九四七)年に帰国後、昭和二四(一九四九)年には「近畿民俗学会」を再開、毎月一回の例会を欠かさず続けて亡くなるまで会長を務めた。澤田の自宅は民俗学の研究集会にも度々利用されて柳田國男・渋沢敬三など多くの民俗学者が寄寓した(はてなキーワード記載に拠った)。]

(五) 上社の扉開くを望んで、一目連の遊行を知るといふ話があり(周遊奇談四)、又は扉は無くして簾のみを懸け、神出遊の際には其簾が飛散るといふ傳へなどもあつた(緘石錄三)。

[やぶちゃん注:「周遊奇談」昌東舎著の文化三(一八〇六)年刊のそれか。

「緘石錄」ちくま文庫全集版では『かんせきろく』とルビする。書誌不詳。江戸時代の随筆か。識者の御教授を乞う。]

(六) 北國地方でも不時の暴風を一目連といふと閑田次筆卷一にあり、市井雜談集には物の一齊に疾く倒るゝを一目連とこいふとある。

[やぶちゃん注:「閑田次筆」文化三(一八〇六)年刊の伴蒿蹊(ばんこうけい)著になる「閑田耕筆」の続編。全四巻。紀実・考古・雑話に分類し、古物・古風俗の図を入れて収めてある。]

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