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2016/03/25

北條九代記 卷之八 上總權介秀胤自害

      ○上總權介秀胤自害

上総〔の〕權〔の〕介秀胤(ひでたね)は、泰村が妹婿(いもとむこ)にて、總州一の宮大柳の館(たち)にあり。三浦に同意して家人郎從二百韓騎を率して、鎌倉に向ひける所に、三浦は早没落したりと聞えしかば、道より取て返し、我が館に要害を構へ、在々(ざいざい)を掠(かす)め、兵粮を奪ひ、合戰の用意して、向ふ敵を待ち居たり。時賴、聞き給ひ、大須賀(おほすかの)左衞門尉胤氏(たねうぢ)、東(とうの)中務入道素暹(そせん)を兩大將として、二千餘騎を相副へて遣さる。秀胤は豫て期(ご)したることなれば、館の四面に炭(すみ)、薪(たきぎ)を積渡(つみわた)して火を懸けしに、焰(ほのほ)、熾(さかり)に炎々(えんえん)として、人馬を寄すべき路もなし。寄手の軍兵等、轡(くつばみ)を並べ、鬨の聲を作りて、矢を射るより外の事はなし。館の内より郎等三十餘人、馬場の邊より木戸を開きて打て出る。寄手の先陣築木(つゞき)兵庫が郎從五十餘人馳向ひ、火を散して戰ひしが、十七人は討たれて、二十三人、手を負ひければ、捲立(まくりた)てられて、本陣に傾掛(なだれかゝ)る。寄手の軍兵、是を見て、二百餘騎どつと驅寄(かけよ)せ、秀胤が郎從を中に押包(おしつゝ)み、一人も餘さず討取らんとする所に、東小才次(とうのこさいじ)、御厨(みくりの)五郎、葛西(かさいの)中次以下、究竟(くつきやう)の剛者(がうのもの)、四角に割付(わりつ)け、八面に蒐通(かけとほ)り、或は馬の諸膝(もろひざ)薙(な)いで刎落(はねおと)させ、落(おち)るを押へて首を取る。或は引組(ひつくん)で勝負を遂げ、力を限(かぎり)に切立(きりた)てしかば、二百餘人の寄手、立(たつ)足もなくうち立てられ、手負死人を引除(ひきの)くる隙(ひま)もなく、はらはらと引退きたり。城兵も流石に力疲れ、薄手痛手負ひければ、木戸を指して引入たり。小野寺小次郎左衞門尉通業(みちなり)が家子(いへのこ)に、金鞠(かなまりの)藤次行景とて、大力の剛者(がうのもの)、黑革威(くろかはおどし)の鎧に、同じ毛(け)の甲(かぶと)の緒(を)をしめ、八尺計(ばかり)の樫(かし)の棒に、筋鐵(すじかね)入れて、只一騎引入る者共に追縋(おひすが)うて、木戸の内に刎入(はねい)らんとす。胤秀が郎等臼井(うすゐの)平六義成(よしなり)と云ふ者、大長刀を水車に廻して走來(はしりきた)り、行景が木戸を越えんとする所を、石突(いしづき)にて丁(ちやう)と衝(つき)ければ、行員、仰樣(のけざま)に倒れたり。平六、木戸を越えて長刀の鋭(きつさき)を内甲に入れて乘掛る。行景、倒れながら、樫の棒にて打拂ふに、平六、中天に打上られ、岩角に落掛て首を突いて死ににけり。行景も痛手負うて立も上(あが)らず。兩人ながら死にければ、敵も味方も力を落して、惜まぬ者はなかりけり。權〔の〕介秀胤は、「賴み切つたる郎等を討(うた)せて、何時(いつ)迄か此館(たち)にながらへん。四方の火は消方(きえがた)になり、寄手は鬨を作りて押入りたり。郎從家子、或は討たれ或は落殘る者共、痛手薄手負はぬはなし。敵の手に掛り、生捕(いけどり)にせられて恥見るな」とて、嫡子式部大夫時秀、次男修理亮政秀、三男左衞門尉泰秀、四男六郎景秀、心靜に念佛し、數十ヶ所作竝(つくりなら)べし館に火を懸け、烟(けぶり)の中に自害して臥しければ、内外(うちと)の猛火、同時に燃えて、半天に立昇る。寄手も近付得ざりければ、皆悉く焼失せて、一人も首は殘らざりし、志こそ猛(たけ)かりけれ。寄手、勝時、取行ひ、鎌倉にぞ返りける。

[やぶちゃん注「吾妻鏡」巻三十八の宝治元(一二四七)年六月七日の条の他、〉湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、寛永頃(一六二四年~一六四五年)に刊行された「見聞軍抄」(八巻八冊)の巻七「三浦泰村、合戦の事」『には、大須賀左衛門尉胤氏と東の中務入道素暹らが秀胤の館を襲撃する話がある』とあり、それも参照されているとのことである。

「上總權介秀胤」上総千葉氏第二代当主千葉秀胤(?~宝治元年六月七日(一二四七年七月十日))は、本文にある通り、三浦義村の娘を正室としていた。ウィキの「千葉秀胤によれば、仁治元(一二四〇)年に『従五位下上総権介に任ぜられ、将軍・九条頼経の二所参詣に供奉している』。この四年前の寛元元(一二四三)年には『従五位上に叙せられ、翌年には評定衆に加えられるが、千葉氏では唯一の例である』。『幼少の千葉氏宗家当主・千葉亀若丸』(後の千葉氏第八代当主千葉頼胤。時宗の代まで生存し、元軍と戦ったが、そこで手負いを受けて三十七歳で亡くなっている)『を補佐する一方で、対外的には一族の代表者として行動し、北条光時・藤原定員・後藤基綱・三浦光村・藤原為佐・三善康持らとともに九条頼経を押し立てて執権北条経時と対抗した』。寛元四(一二四六)年に『執権経時が死去し、弟の時頼が執権を継承したのを機に勃発した政変(宮騒動)によって名越光時・藤原定員が失脚すると』、六月七日には『千葉秀胤・後藤基綱・藤原為佐・三善康持の』四名の『評定衆が更迭、更に』六日後の十三日には『秀胤は下総埴生西・印西・平塚の所領を奪われ(金沢実時所領となる)、上総国に放逐された(『吾妻鏡』)。ただし上総は秀胤の本国であり、寛大な処分とも言える』。『これは執権になったばかりの時頼が決定的な対立を避けて事態を早く収束させようとしたと見られている』。しかし、この『宝治合戦によって、三浦泰村・光村兄弟が攻め滅ぼされると』、早くも翌日六月六日に『三浦氏の娘婿である秀胤に対しても追討命令が発せられ』、翌七日には『千葉氏一族の大須賀胤氏・東胤行』(本文に出る「素暹」。彼は実は秀胤の三男泰秀の義父でもあった)『らが秀胤の本拠である上総国玉崎荘大柳館(現在の千葉県睦沢町)を攻撃した。追い詰められた秀胤は屋敷の四方に薪炭を積み上げて火を放ち』、四人の『息子をはじめとする一族郎党』百六十三名『とともに自害した。また、秀胤一族以外にも討死したり、所領を失った千葉氏一族が多数いたと言われている』。なお、「吾妻鏡」の同日の条によれば、『その際に以前に兄である秀胤によって不当に所領を奪われて不仲であった弟の』下総次郎時常も『駆けつけて自害しており、「勇士の美談」と称されたという。東胤行が戦功と引き換えに自分の外孫(泰秀の息子)の助命を求めたために、その子を含めた秀胤の子孫の幼児は助命された』『が、これによって上総千葉氏は滅亡した』とある。

「總州一の宮大柳」現在の千葉県長生(ようせい)郡睦沢町(むつみざわまち)北山田字富喜来台(ふきらだい)。余湖氏の城郭サイト内の「千葉県睦沢町」のページにある「富喜楽(ふきら)城・大柳館(睦沢町北山田字富喜来台)」がよい。鳥瞰図や写真で往時の山砦風の館での戦闘の雰囲気を偲ぶことが出来る(但し、注意書きがあって、『実際の所、ここが大柳館の跡であるということが確実に証明されているわけではない。なにしろ鎌倉時代の館の跡なので、遺構の痕跡すら残っていない可能性もあるのである。ここはあくまでも、大柳館跡の候補地の』一つと捉えた方がよい、ともある)。

「四角に割付(わりつ)け、八面に蒐通(かけとほ)り」教育社の増淵勝一氏の訳では、『あちらに突き込み、こちらに駆け通っては』となっている。

「小野寺小次郎左衞門尉通業(みちなり)が家子(いへのこ)に、金鞠(かなまりの)藤次行景」彼らは幕府追討軍方である。

「同じ毛」同じ黒色の縅毛(おどしげ:「縅(おどし)」は、小札(こざね)式の甲冑製造様式の名称であって、小札板(さねいた)を革や糸などの「緒(お)」で上下に結び合わせる方式を指す。この「縅」に使う「緒」のことを「縅毛」と呼ぶ)。

「八尺」二メートル四十二センチ。

「胤秀が郎等」「胤秀」は原典の「秀胤」の錯字。

「石突」この場合は、薙刀の柄の手前(刃でな方)の、地面に突き立てる(接する)部分。一般には補強するために金属で覆ってあり、地面に突き刺さり易く、尖らしてあった。

「長刀の鋭(きつさき)を内甲に入れて乘掛る」平六は格闘するために邪魔になる、抜き身の薙刀の歯の尖端部分を甲の内側に入れたのであったが、それがあだとなり、直後に行景に樫の棒で強打されて、空中に打ち上げられて落下した際、その内甲の刃が禍いして、「首を突いて死」ぬこととなったと読むべきであろう。]

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