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2016/03/02

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(6) 五 さて人間は如何 /「生物學講話」本文終了

     五 さて人間は如何

 

 今日地球上に全盛を極めて居る動物種族はいふまでもなく人間である。嘗て地質時代に全盛を極めた各種族はいづれも一時代限りで絶滅し、次の時代には全く影を隱したが、現今全盛を極めて居る人間種族は將來如何に成り行くであらうか。著者の見る所によれば、かやうな種族は皆初め他種族に打ち勝つときに有効であつた武器が、その後過度に發達して、そのため終に滅亡したのであるが、人間には決してこれに類することは起らぬであらうか。未來を論ずることは本書の目的でもなく、また著者のよくする所でもないが、人間社會の現在の狀態を見ると一度全盛を極めた動物種族の末路に似た所が明にあるやうに思はれるから、次に聊かそれらの點を列擧して讀者の參考に供する。

 

 人間が悉く他の動物種族に打ち勝つて向ふ處敵なきに至つたのは如何なる武器を用ゐたに因るかといふに、これは誰も知る通り、物の理窟を考へ得る腦と、道具を造つて使用し得る手とである。もしも人間の腦が小さくて物を工夫する力がなかつたならば、到底今日の如き勢を得ることは不可能であつたに違ない。またもしも人間の手が馬の足の如くに大きな蹄で包まれて、物を握ることが出來なかつたならば、決して他の種族に打ち勝ち得なかつたことは明である。されば腦と手とは人間の最も大切な武器であるが、手の働と腦の働とは實は相關連したもので、腦で工夫した道具を手で造り、手で道具を使うて腦に經驗を溜め、兩方が相助けて兩方の働が進歩する。如何に腦で考へてもこれを實行する手がなければ何の役にも立たず、如何に手を働かさうとしても、豫め設計する腦がなかつたならば何を始めることも出來ぬ。矢を放ち、槍で突き、網を張り、落し穴を掘りなどするのは、皆腦と手との聯合した働であるが、かゝることをなし得る動物が地球上に現れた以上は、他の動物種族は到底これに勝てる見込みがなく、力は何倍も強く牙は何倍も鋭くとも終に悉く人間に征服せられて、人問に對抗し得る敵は一種もなくなつた。かくして人間は益々勢を增し全盛を極めるに至つたが、その後はたゞ種族内に激しい競爭が行はれ、腦と手との働の優つた者は絶えず腦と手との働の劣つたものを壓迫して攻め亡し、その結果としてこれらの働は日を追うて上達し、研究はどこまでも深く、道具はどこまでも精巧にならねば止まぬ有樣となつた。人はこれを文明開化と稱へて現代を謳歌して居るが、誰も知らぬ間に人間の身體や社會的生活狀態に、次に述べる種族の生存上頗る面白からぬ變化が生じた。

 

 まづ身體に關する方面から始めるに、腦と手との働が進歩してさまざまのものを工夫し製作することが出來るやうになれば、寒いときには獸の皮を剝ぎ草の纎維を編みなどして衣服を纒ひ始めるであらうが、皮膚は保護せられるとそれだけ柔弱になり、僅の寒氣にも堪へ得ぬやうになれば更に衣服を重ね、頭の上から足の先まで完全に被ひ包むから、終には一寸帽子を取つても靴下を脱いでも風を引く程に身體が弱くなつてしまふ。また人間が自由に火を用ゐ始めたことは、すべて他の動物に打ち勝ち得た主な原因であるが、食物を煮て食ふやうになつてからは齒と腸胃とが著しく弱くなつた。野生の獅子や虎には決してない齲齒が段々出來始め、生活が文明的に進むに隨うてその數が殖えた。どこの國でも下層の人民に比べると、貴族や金持には齲齒の數が何層倍も多い。嗜好はとかく極端に走り易いもので、冬は沸き立つやうな汁を吹きながら吸ひ、夏は口の痛むやうな氷菓子を我慢して食ふ。盬や砂糖を純粹に製し得てからは、或は鹹過ぎる程に鹽を入れ、或は甘過ぎる程に砂糖を加へる。これらのことや運動の不足やなほその他の種々の事情で胃腸の働は次第に衰へ、蟲樣垂炎なども頻繁に起り、胃が惡いといはねば殆ど大金持らしく聞えぬやうになつた。住宅も衣服と同じく益々完全になつて、夏は電氣扇で冷風を送り冬は曖房管で室内を温めるやうになると、常にこれに慣れて寒暑に對する抵抗力が次第に減じ、少しでも荒い風に觸れると忽ち健康を害するやうな弱い身體となり終るが、これらはすべて腦と手との働が進んだ結果である。

[やぶちゃん注:「齲齒」「うし」と読んでいようが、正確には「くし」が正しい読み方。虫歯のこと。「齲」一字でも「むしば」と訓ずる。

「蟲樣垂炎」虫垂(突起)炎。確かに、進化の過程の中で肉食動物が摂餌対象の変化によって盲腸が退化したことは事実であるが、文明化して贅沢をしたり運動しなくなったりした結果として虫垂炎が多発するようになったという丘先生の謂いは、ちょっと説得力を欠くように思われる。なお、「盲腸炎」という謂い方は誤りで、盲腸は右下腹部の上行結腸(大腸)の一番下窪んだ箇所の名称で、その盲腸の端から細長く飛び出しているのが「虫垂」である。その昔、診断の遅れなどから開腹手術した際、既に虫垂が化膿や壊死を起こして盲腸に癒着していて、見た目が盲腸自身の炎症疾患のように見えた誤認からの呼称である。]

 

 智力が進めば、病を治し健康を保つことにもさまざまの工夫を凝らし、病原黴菌に對する抵抗力の弱い者には人工的に抗毒血淸を注射してこれを助け、消化液分泌の不足する者には人造のヂヤスターゼやペプシネを飮ませてこれを補ふが、自然に任せて置けば死ぬべき筈の弱いい者を人工で助け生かせるとすれば、人間生來の健康の平均が少しづつ降るは勿論である。醫學が進歩すれば一人一人の患者の生命を何日か延し得る場合は多少增すであらうが、それだけ種族全體の健康狀態がいつとはなく惡くなるを免れぬ。文明人の身體が少しづつ退化するのは素より他に多くの原因があつて、決して醫術の進歩のみに因るのではないが、智力を用ゐて出來るだけ身體を鄭重に保護し助けることは確にその一原因であらう。身體が弱くなれば病に罹る者も殖え、統計を取つて見ると、何病の患者でも年々著しく數が增して行くことがわかる。

[やぶちゃん注:「ペプシネ」脊椎動物の胃に存在する蛋白質分解酵素(プロテアーゼ)であるペプシン(pepsin)の服用薬であろうが、実は読者は恐らく、明治一一(一八七八)年から資生堂が売り出した「健胃強壮」を謳った怪しげな「ペプシネ飴」のことを想起したのではあるまいか? 「ペプシネ飴」の成分や薬効は早稲田大学図書館公式サイト内の「古典籍総合データベース」の画像で読める。御関心のある向きはお読みあれ。]

 

 他種族を壓倒して自分らだけの世の中とすれば、安全に子孫を育てることが出來るために、人口が盛に殖えて忽ち劇しい生活難が生ずる。狹い土地に多數の人が押し合うて住めば、油斷しては直に落伍者となる虞があるから、相手に負けぬやうに絶えず新しい工夫を凝らし、新しい道具を造つて働かねばならず、そのため、腦と手とは殆ど休まるときがない。その上智力が進めば如何なる仕事をするにも大仕掛けの器械を用ゐるから、その運轉する響と振動とが日夜神經を惱ませる。かくて神經系は過度の刺戟のために次第に衰弱して病的に鋭敏となり、些細なことにも忽ち興奮して、輕々しく自殺したり他を殺したりする者が續々と生ずる。神經衰弱症は野蠻時代には決してなかつたもので、全く文明の進んだために起つた特殊の病氣に相違ないから、これを「文明病」と名づけるのは直に理に適うた呼び方である。

[やぶちゃん注:「神經衰弱症」という疾患(病態)自体は現在、精神疾患の名称として用いられていない。以下、ウィキの「神経衰弱」から引用する。神経衰弱(しんけいすいじゃく、英: Neurasthenia)は、一八八〇年に『米国の医師であるベアードが命名した精神疾患の一種である』。『症状として精神的努力の後に極度の疲労が持続する、あるいは身体的な衰弱や消耗についての持続的な症状が出ることで、具体的症状としては、めまい、筋緊張性頭痛、睡眠障害、くつろげない感じ、いらいら感、消化不良など出る。当時のアメリカでは都市化や工業化が進んだ結果、労働者の間で、この状態が多発していたことから病名が生まれた。戦前の経済成長期の日本でも同じような状況が発生したことから病名が輸入され日本でも有名になった』。『病気として症状が不明瞭で自律神経失調症や神経症などとの区別も曖昧であるため、現在では病名としては使われていない』のである。ここで着目してよいのは、その当時であっても具体的症状として眩暈・筋緊張性頭痛・睡眠障害・消化不良といった身体症状が挙げられ、それに付随する形で強迫感や焦燥感を伴う不定愁訴がある、即ち、現在の心身症とほぼ同等のものを念頭に置いてよいということである。丘先生はしかし、当時の一般的な感覚からは恐らくは、もっと重い自律神経失調症や神経症的病態、即ち、真正の神経症や精神病をも包含して述べていると見て良かろう。但し、その場合、必ずしもそれは「文明病」ではなく、原始社会や近世以前にも幾らもあったことは述べておかねばならない。問題は近代よりも前やもっと古えにあってはそれらを必ずしも「病い」と分類していたわけではないのであるが、それはここで注すべきことではないので、以上の注で留めおくこととする。]

 

 競爭の勞苦を慰めるむめの娯樂も、腦の働が進むと單純なものでは滿足が出來ぬやうになり、種々工夫を凝らして濃厚な劇烈なものを造るが、これがまた強く神經を剌戟する。芝居や活動寫眞などはその著しい例であるが、眞實の生存競爭の勞苦の餘暇を以て、假想人物の生存競爭の勞苦を我が身に引き受けて感ずるのであるから、無論神經系を安息せしむべき道ではない。また人間は勞苦を忘れるために、酒・煙草・阿片などの如きものを造つて用ゐるがどれは種族生存のためには素より有害である。およそ娯樂にはすべて忘れるといふことが要素の一つであつて、芝居でも活動寫眞でもこれを見て喜んで居る間は自分の住する現實の世界を暫時忘れて居るのであるが、酒や煙草の類は實際の勞苦を忘れることを唯一の目的とし、煙草には「忘れ草」といふ名前さへ附けてある。そしてかく忘れさせる働を有するものはいづれも劇毒であるから、常にこれを用ゐ續ければ當人にも、子孫にも身體精神ともに害を受けるを免れぬ。阿片の如きは少時これを用ゐただけでも中毒の症狀が頗る著しく現れる。酒の有害であることは誰が考ヘても明であるから、各國ともに禁酒の運動が盛に行はれるが、暫くなりとも現實の世界から逃れて夢幻の世界に遊ぶことが何よりの樂みである今日の社會に於ては、飯を減らし著物を脱いでも、酒や煙草を止められぬ人間が、いつまでも澤山にあつて、その害も長く絶えぬであらう。そしてこれらは他の動物種族では決して見られぬ現象である。

[やぶちゃん注:『煙草には「忘れ草」といふ名前さへ附けてある』嫌煙運動の盛んになった現今では最早、死後であるが、煙草は別名で「相思草(そうしそう)」とか「返魂草(はんごんそう」、「忘れ草」とか「思い草」という別名を持っていた。]

 

 なほ生活難が增すに隨ひ、結婚して家庭を造るだけの資力が容易には得られぬから、自然晩婚の風が生じ、一生獨身で暮す男女も出來るが、かくては勢ひ風儀も亂れ、賣笑婦の數が年々增加し、これらが日々多數の客に接すれば痳病や梅毒は忽ち世間一體に蔓延して、その一代の人間の健康を害ふのみならず、子供は生まれたときから既に病に罹つたものが澤山になる。その他、智力によつて工夫した避姙の方法が下層の人民にまで普く知れ渡れば、性慾を滿足せしめながら子の生まれぬことを望む場合には盛にこれを實行するであらうから、教育が進めば自然子の生まれる數が減ずるが、蕃殖力の減退することは種族の生存からいふと最も由々しき大事である。子の生まれる數が減れば生活難が減じて、却つて結構であると考へるかも知れぬが、なかなかさやうにはならぬ。なぜといふに珊瑚や苔蟲の群體ならば百疋の蟲に對して百疋分の食物さへあれば、いづれも滿腹するが、人間は千人に對して千五百人分の食物があつても、その多數は餓を忍ばねばならぬやうな特殊の事情が存するから、人數は殖えずとも競爭は相變らず劇しく、體質は以上述べた如くに次第に惡くなり行くであらう。

[やぶちゃん注:「賣笑婦」本書初版は大正五(一九一六)年刊。売春防止法の施行は昭和三二(一九五七)年四月一日で猶予期間を経て、完全施行は翌昭和三十三年四月一日附。

「痳病」真正細菌プロテオバクテリア門βプロテオバクテリア綱ナイセリア目ナイセリア科ナイセリア属淋菌 Neisseria gonorrhoeae に感染することによって発症する性行為感染症(STD)の淋病のこと。ウィキの「淋病」によれば、「淋」とは『「淋しい」という意味ではなく、雨の林の中で木々の葉からポタポタと雨がしたたり落ちるイメージを表現したものである。淋菌性尿道炎は尿道の強い炎症のために、尿道内腔が狭くなり痛みと同時に尿の勢いが低下する。その時の排尿がポタポタとしか出ないので、この表現が病名として使用されたものと思われる』とあり、感染した女性が妊娠出産する場合、その『新生児は出産時に母体から感染する。両眼が侵されることが多く、早く治療しないと失明するおそれがある』とある。

「梅毒」真正細菌スピロヘータ門スピロヘータ綱スピロヘータ目スピロヘータ科トレポネーマ属梅毒トレポネーマ Treponema pallidum に感染することによって発症するSTD。ウィキの「梅毒」の「先天性梅毒」の項によれば、『妊娠中、または出産時に感染する症例である。感染した幼児の』三分の二は『症状が表れない状態で生まれてくる。生後数年で、一般的に、肝臓、脾臓の増大、発疹、発熱、神経梅毒、肺炎といった症状が表れる。治療がなされない場合、鞍鼻変形、ヒグメナキス徴候、剣状脛、クラットン関節と言われる後期先天性梅毒の症状が表れる』とある。医学書によると、胎児の経胎盤感染の全リスクは凡そ六十から八十%とある。]

 

 次に道德の方面に就いて考へるに、これまた腦と手との働の進むに隨ひ段々退歩すべき理由がある。智力のまだ進まぬ野蠻時代には通信や運輸の方法が極めて幼稚であるから、戰爭するに當つて一群となる團體は頗る小さからざるを得なかつた。隊長の命令の聞える處、相圖の旗の見える處より外へ出ては仲間との一致の行動が取れぬから、その位の廣さの處に集まり得るだけの人數が一團を造つて、各々競爭の單位となつたが、かゝる小團體の内では、各人の行動がその團體に及ぼす結果は誰にも明瞭に知れ渡り、團體の生存に有利な行爲は必ず善として賞せられ、團體の生存に有害な行爲は必ず惡として罰せられ、善の隱れて賞せられず、惡の顯れずして罰を免れる如きことは決してなく、善のなすべき所以、惡のなすべからざる所以が極めて確に了解せられる。且かゝる小團體が數多く相對立して劇しく競爭すれば、惡の行はれることの多い團體は必ず戰に敗けて、その中の個體は殺されるか食はれるかして全部が滅亡し、善の行はれることの多い團體のみが勝つて生き殘り、それに屬する個體のみが子孫を遺すから、もしもそのまゝに進んだならば、自然淘汰の結果として終には蟻や蜂の如き完全な社會的生活を營む動物となつたかも知れぬ。しかるに腦の働と手の働とが進歩したために、通信や運輸の方法が速に發達し、これに伴うて競爭の單位となる團體は次第に大きくなり、電話や電信で命令を傳へ、汽車や自動車で兵糧を運搬するやうになれば、幾百萬の兵隊をも一人の指揮官で動かすことが出來るために、いつの間にか相争ふ團體の數が減じて各團體は非常に大きなものとなつた。所で團體が非常に大きくなり、その中の人數が非常に多數になると、一人づつの行動が全團體に及ぽす結果は殆どわからぬ程の微弱なものとなり、一人が善を行うてもそのため急に團體の勢がよくなるわけでもなく、一人が惡を行うてもそのため遽に團體が衰へるわけでもなく、隨つて善が隱れて賞せられねことも屢々あれば、惡が免れて罰せられぬことも屢々あり、時としては惡を行うた者が善の假面を彼つて賞に與ることもある。かやうな狀態に立ち至れば、善は何故になさねばならぬか、惡は何故になしてはならぬかといふ理窟が頗る曖昧になつて來る。小さな團體の内では惡は必ず顯れて嚴しく罰せられるから、潜に惡を行うたものは日夜劇しく良心の苛責を受けるが、團體が大きくなつて惡の必ずしも罰せられぬ實例が澤山目の前に竝ぶと、勢ひ良心の刄は鈍くならざるを得ない。また團體が大きくなるに隨ひ、團體間の競爭に於ける勝負の決するのに甚しく時間が取れ、競爭は絶えず行はれながら、一方が全滅して跡を止めぬまでには至らぬ。即ち敗けても兵士の一部が死ぬだけで、他は依然として生存するから、團體を單位とした自然淘汰は行はれず、その結果として團體生活に適する性質は次第に退化する。大きな團體の内では、各個人の直接に感ずるのは各自一個の生存の要求であつて、國運の消長の如きは衣食足つて後でなければ考へて居る餘裕がない。そして個人を單位とする生存競爭が劇しくなれば、自然淘汰の結果として益々單獨生活に適する性質が發達し、自分さへ宜しければ同僚はどうなつても構はぬといふやうになり、かゝる者の間に立つては良心などを持ち合さぬ者の方が却つて成功する割合が多くなる。各個人がかくの如く利己的になつては、如何に立派な制度を設け、如何に結構な規約を結んでも、到底完全な團體生活が行はれるべき望はない。團體的生活を營む動物でありながら、追々團體生活に適せぬ方向に進み行くことは、種族の生存に取つては極めて不利益なことであるが、その原因は全く團體をして過度に大ならざるを得ざらしめた腦と手との働にある。

 

 更に財産に關する方面を見るに、手を以て道具を用ゐる以上は何事をなすにも道具と人とが揃はねばならず、人だけがあつても道具がなくては殆ど何も出來ぬ。「かはをそ」ならば自分の足で水中を游ぎ、自分の目で魚を捕へるが、人間は船に乘り櫓を漕ぎ、網で掬ひ、龍に入れるのであるから、この中の一品が缺けても漁には出られぬ。僅に櫓に掛ける一本の短い綱が見付からなくても岸を離れることが出來ぬ。かゝる場合には、取れた魚の一部を與へる約定で隣の人からあいて居る櫓や綱を借りるであらうが、これが私有財産を貸して利子を取る制度の始まりである。そして物を貸して利子を取る制度が開かれると、道具を造つて貸すことを專門とする者と、これを借りて働くことを專門とするものとが生ずるが、腦と手との働が進んで次第に精巧な器械を造るやうになると共に、器械の價は益々高く勞働の價は益々安く、器械を所有する者は法外の收入を得るに反し、器械を借りる者は牛馬の如くに働かねばならぬやうになる。共同の生活を營む社會の中に、一方に何もせずに贅澤に暮すものがあり、他方には終日汗を流しても食ヘ者がゐるといふのは、決して團體生活の健全な狀態とは考へられぬ。蒸氣機關でも機織り器械でも發電機でも化學工業でも、著しい發明のある毎に富者は益々富み貧者は益々貧しくなつた所から見れば、今後も恐らく文明の進むに隨ひ最少數の極富者と大多數の極貧者とに分れ行く傾が止まぬであらうが、それが社會生活の各方面に絶えず影響を及ぼし、身體にも精神にも著しい喫化を引き起す。しかもそれがいづれも種族生存の上に不利益なことばかりである。

 

 前に健康や道德に關して今日の人間が如何なる方面に進みつゝあるかを述べたが、貧富の懸隔が甚しくなればすべてこれらの方面にも直接に影響する。極富者と極貧者とが相隣して生活すれば、男女間の風儀なども直に亂れるのは當然で、餓に迫つた女が富者に媚びて婬を責るのを防ぐことは出來ず、貧者は最も安價に性慾の滿足を求めようとするから、それに應ずる職業の女も殖え、世間一般に品行が亂脈になれば花柳病が盛に蔓延して終には殆ど一人も殘らずその害毒を被るであらう。その他富者は飽いて病を得、貧者は餓えるえて健康を保ち得ず、いづれも體質が次第に下落する。現に文明諸國の貧民には榮養不良のために抵抗力が弱くなつて、些細な病にも堪へ得ぬものが夥しくゐる。また富者は金を與へて如何なることをも敢へてし、貧者は金を得んがために如何なることをも忍ばざるを得ぬから、その事柄の善か惡かを問ふ暇はなく、道德の觀念は漸々薄らいで、大概の惡事は日常のこととして人が注意せぬやうになつてしまふが、これでは到底協力一致を旨とする團體生活には適せぬ。

 

 國内の人民が少數の富者と多數の貧者とに分れ、富者は金の力によつて自分らのみに都合のよいことを行へば、貧者はこれを見て決し默つては居ず、富者を敵として憎み、あらゆる方法を講じてこれを倒さうと試み、貧者と富者との間に妥協の餘地のない劇しい爭鬪が始まる。教育が進めば貧者と雖も智力に於ては決して富者に劣らぬから、自分の境遇と富者の境遇とを比較して、なぜかくまで相違するかと考へては不滿の念に堪へず、現今の社會の制度を悉く富者のみに有利な不都合千萬なものと思ひ込み、全部これを覆さうと企てる者も大勢出て來る。今日社會問題と名づけるものにはさまざまの種類があるが、その根本はいづれも經濟の問題であるから、貧富の懇隔が益々甚しくなる傾のある間は到底滿足に解決せられる見込みはなからう。かくの如く、一團體の内が更に幾つもの組に分れて互に相憎み相鬪ふことは、團體生活を營む種族の生存に取つては頗る有害でゐるが、その根源を質せば皆初め手を以て道具を用ゐたのに基づくことである。

 

 要するに、今日の人間は最初他の動物種族を征服するときに有効であつた武器なる腦と手の働が、その後種族内の競爭のためにどこまでも進歩し、そのため身體は弱くなり、道德は衰へ、共同生活が困難になり、貧富の懸隔が甚しくなつて、不平を抱き同僚を呪ふ者が數多く生じ、日々團體的動物の健全なる生活狀態から遠ざかり行くやうに見受ける。これらのことの實例を擧げるのは煩しいから省くが、毎日の新聞紙上に幾らでも掲げてあるから、この點に於ては世界中の新聞紙を本章の附錄と見倣しても差支はない。今日地球上の人間は幾つかの民族に分れ、民族の間にも個人の間にも腦と手とによる劇しい競爭が行はれて居るから、今後もなほ智力は益々進み器械は益々精巧にならうが、この競爭に一歩でも負けた民族は忽ち相手の民族から劇しい壓迫を蒙り極めて苦しい位置に立たねばならぬから、自己の民族の維持繼續を圖るには是非とも腦と手とを働かせ、發明と勤勉とによつて敵なる民族に優ることを努めねばならぬ。かく互に相勵めば所謂文明はなほ一層進むであらうが、その結果は如何といふに、たゞ民族と民族、個人と個人とが競爭するに用ゐる武器が精鋭になるだけで、前に述べた如き人間種族全體に現れる缺陷を救ふためには何の役にも立たぬであらう。人間の身體や精神が漸々退化する傾のゐることに氣の附いた學者は既に大勢あつて、人種改善とか種族の衞生とかいふことが、今日では盛に唱へられて居るが、以上述べた如き缺陷はいづれも腦と手との働が進んだむめに當然生じたもの故、同じ腦と手との働によつて今更これを救はうとするのは、恰も火を以て火事を消し、水を以て洪水を防がうとするのと同じやうで、結局は到底その目的を達し得ぬであらう。「知つて居ることは何の役にも立たず、役に立つやうなことは何も知らぬ」といふたファウストの歎息はそのま々人種改良學者らの最後の歎息となるであらうと想像する。但し、幾多の民族が相睨み合うて居る現代に於ては少しでも相手の民族よりも速く退化するやうなことがあつては、忽ち敵の迫害のために極めて苦しい地位に陷らざるを得ぬから一方腦と手との力によつて相手と競爭しながら、他方にはまた腦の働、手の働の結果として當然生ずべき缺陷を出來るだけ防ぐやうに努めることが目下の急務でゐる。いづれの民族も結局は、腦の過度に發達したために益々生存に不適當な狀態に赴くことを避けられぬであらうが、いま敵よりも先に退化しては、直に敵のために攻められ苦められるべきは明でゐるから、その苦みを免れようとするには是非とも、更に腦と手とを動かせ、工夫を凝らし力を盡して、身體・精神ともになるべく長く健全ならしめることを圖らねばならぬ。人間全體が終には如何になり行くかといふやうな遠い將來の問題よりも、如何にして我が民族を維持すべきかといふ問題の方が目前に迫つて居るから、應急の手段としては、やはり入種改善や種族衞生を學術的に深く研究して、出來る限りの良法を實地に試みるの外はない。かくして、一方に於ては智力によつて、軍事・殖産等の方面を進歩せしめ、他方に於ては同じく智力によつて生活狀態の退化を防ぐことを努めたならば、遽に他の民族のために亡される運命には恐らく遇はぬであらう。

[やぶちゃん注:哀しいことであるが、この時代の発言としては、この最後の謂いは仕方のないもの、寧ろ、削ごく当然のものと勘案せねばなるまい。

『「知つて居ることは何の役にも立たず、役に立つやうなことは何も知らぬ」といふたファウストの歎息』ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe  一七四九年~一八三二年)の戯曲「ファウスト」(Faust)の第一部(一八〇八年発表)に出るファウスト自身の台詞の一節(第一〇六五節)。森鷗外訳で台詞全体を示し、当該箇所に私が下線を引いた(底本は昭和三(一九二八)岩波文庫版を用いた。節番号は省略した。踊り字「〱」は正字化した)。

   *

ファウスト いや。この迷の海から浮き上がることがあらうと、

まだ望んでゐることの出來るものは、爲合(しあはせ)だ。

なんでも用に立つ事は知ることが出來ず、

知つてゐる事は用に立たぬ。

併しこんな面白くない事を思つて、

お互に此刹那の美しい幸福を縮(ちぢ)めるには及ばぬ。

あの靑い烟に取り卷かれている百姓家が、

夕日の光を受けてかゞやいているのを御覽。

日は段々ゐざつて逃げる。けふ一日ももう過去に葬られ掛かる。

日はあそこを驅けて行つて、又新しい生活を促すのだ。

己の此體に羽が生えて、あの跡を

どこまでも追つて行かれたら好からう。

さうしたら永遠なる夕映(ゆふばえ)の中に、

靜かな世界が脚下に横はり、

高い所は皆紅に燃え、谷は皆靜まり返つて、

白銀(しろかね)の小川が黃金(こがね)の江に流れ入るのが見えよう。

さうしたら深い谷々を藏(ざう)してゐる荒山(あらやま)も、

神々に似た己の歩(あゆみ)を礙げることは出來まい。

己の驚いて睜つた目の前に、潮の温まつた

幾つかの入江をなした海原が、早くも廣げられよう。

それでもとうとう女神は沈んでしまふだらう。

只新しい願望が目醒める。

女神の永遠なる光が飮みたさに、

夜(よる)を背(せ)にし晝を面(おもて)にし、

空を負ひ波に俯して、己は驅ける。

あゝ。美しい夢だ。しかし夢は消え失せる。

幻に見る己の翼に、眞實の翼が出來て

出合ふと云ふことは容易ではない。

兎に角この頭の上で、蒼々とした空間に隱れて、

告天子が人を煽動するやうな歌を歌ふとき、

樅の木の茂つてゐる、險しい巓の上の空に、

鷲が翼をひろげて漂ってゐるとき、

廣野の上、海原の上を渡つて

鴻雁が故郷へ還るとき、

感情が上の方へ、前の方へと

推し進められるのは、人間の生附(うまれつき)だ。

   *

幾つか「・」で注しておく。

・「礙げる」「さまたげる」と読む。

・「睜つた」「みはつた(みはった)」と読む。「瞠る」に同じい。

・「とうとう」はママ。但し、後半は底本では踊り字「〱」である。「到頭」であるから、本来、歴史的仮名遣では「たうとう」であって、踊り字の使用は出来ない箇所である。

・「告天子」「かうてんし(こうてんし)」と読む。雲雀(ひばり)の別名。

・「巓」「いただき」。

・「鴻雁」野生の雁(がん)、或いは、「鴻」が大きな雁(がん)で「雁」は小さな雁を指すとも、或いは種としては鳥綱カモ目カモ科 Branta 属カナダガン Branta Canadensis を指したりするようであるが、そもそもが英訳や高橋義孝氏の訳(新潮文庫版)を見る限り、ここは鶴(ツル)である。]

 

 以上の如く考へて後に更に現今の人間を眺めると、その身體には明に過度に發達した部分のあることに氣附かざるを得ない。前に鹿の或る種類ではその滅亡する前に角が大きくなり過ぎ、虎の或る種類では同じく牙が大きくなり過ぎことを述べたが、人間の身體では腦が確に大きくなり過ぎて居る。人間はいつも自分を標準として物を判斷し、人體の美を論ずるに當つても斷金法などと稱する勝手な法則を定めどれに適うたものを圓滿な體格と見倣すが、虛心平氣に考へて見ると、重さ四五瓩、長さ一・六米の身體に重さ一・三五瓩、直徑一七糎餘もあるやうな大きな腦が具はり、これを包むために、顏面部よりも遙に大きな頭蓋骨の發達して居る有樣は、前に述べた鹿の角や虎の牙と相似たもので、いづれも、ほゞ極端に達して居る。もしも彼の鹿が、角の大き過ぎるために滅亡し、彼の虎が牙の長過ぎるために滅亡したものとすれば、人間は今後或は腦が大きくなり過ぎたために滅亡するのではなからうかとの感じが自然に浮ぶが、これは強ち根據のない杞憂でもなからう。已に現今でも胎兒の頭が大きいために難産の場合が澤山にあり、出産の際に命を失ふ者さへ相應にゐる位故、萬一この上に人間の腦が發達して胎兒の頭が大きくなつたならば、それだけでも出産に伴ふ苦痛と危險とが非常に增し、自然の難産と人工的の避妊とのために生殖の率が著しく減ずるに違ない。母が子を産むのは生理的に當然のことで、本來は何の故障もなしに行はるべき筈のものであるのに人間だけは、例外として非常な危險がこれに伴ふのは、確に人間が種族の生存上不利益な方向に進み來つた證據と考へねばならぬ。本書の始にもいうた通り、およそ物は見やうによつて種々に異なつて見えるもので、同一の物に對しても觀察する人の立つ場處を換へると全く別の感じが起る。人間種族の將來に關してもその通りで、人間のみを見るのと、古今の諸動物に比較して見るのとでは大に趣が違ひ、また同じく生物學的に論じても一人一人に考へ方は著しく異なるであらう。それで他の人々が如何に考へるかは知らぬが、著者一人の見る所は、まづ以上略述した如くである。              (をはり)

[やぶちゃん注:「斷金法」不詳乍ら、恐らくは例の古代ギリシャ以来最も調和的で美しい比とされた「黄金分割」に基づくような、怪しげな美的身体比説であろうと思われる。]

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