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2016/03/05

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第二章 進化論の歷史(2) 二 ラマルク(動物哲學)

     ニ ラマルク(動物哲學)

Lamarck

[ラマルク

(老後盲目になりたり)]

 

 ダーウィン以前に動物進化の理を説いた人々の中で、最も有名なのはフランス國のラマルクである。この人は今より百八十二年前、即ち千七百四十四年に生れ、パリー市の「植物園」といふ動物園で動物學の教授を勤め、一生涯比較的低い位置で終つたが、實は餘程の學者で、特に下等動物の比較解剖、貝類の化石などを深く研究して、之に就いてなかなか大部の著述をした人であるが、自身の研究の結果、その頃世に行われて居た生物種屬不變の説は全く誤であることに心附き、その反對の事實を證據立て、且その理由を説明しようと頻に工夫を凝らした末、遂に千八百九年即ち當人六十五歳の時に「動物哲學」と題する一書を著して、己れの説を世に公にした。この書物は今日我々が讀んで見ると、全く當今の進化論と同じやうな所もあつて、頗る面白く思はれ、その頃にしては誠に珍しい本であるが、かやうにその時世よりは遙に進み過ぎて居たので、世人が之を解することが出來なかつたため、且はその當時この人よりも高い位置にあり、隨つて世間に對して勢力の尚強かつた人等が皆舊式の生物種屬不變の説を持つて居たため、折角苦心して書いたこの書も出版後五十年許の間は全く世に顧みらるるに至らなかつた。ラマルクがこの書で論じたことの大要は略々次の如くである。

 「現在、世の中に生きて居る動物は、孰れの種類を取つて見てもその生活の有樣に適した身體を持つて居ないものはない。例へば蝙蝠に翼のあるのは飛翔に適し、鼹鼠(もぐら)の掌の平たくて鋤の如きは地を掘るに適し、蟷螂(かまきり)の前足の鎌に似たのは蟲を捕へるに都合よく、「ばつた」の後足の太いのは跳(は)ねるのに必要である。語を換へていへば、各動物ともに日々用ゐる部分は皆善く發達して十分その働きをなすに適して居るが、斯く身體の外形は皆その動物の生活の模樣に應じて居るに拘らず、之を解剖してその構造を調べて見ると、蝙蝠と鼹鼠、又は蟷螂と「ばつた」とは實に極めて互に善く似て居て、恰も同一の鑄型(いがた)に入れて造つたものを、單に少しづつ或は延ばしたり、或は縮めたりして造つたかと思はれる程である。かの蝙蝠の翼を見るに、指が五本備はつてある具合(ぐあひ)は丸で我々人間の手の通りであるが、たゞその指が非常に長く延びて、その間に薄い皮が張つて居る。また鼹鼠の掌を見るに、之も指が五本備はつてある具合は我々人間の手に少しも違はぬが、たゞ指の節が皆短くてその代りに爪が大に發達して居る。若しこゝに一人の飴屋があつて、既に飴を以て人間の手の形を造つたと假定したらば、之を直して蝙蝠の翼にするには單に指を引き延ばしてその間に薄い皮を張れば宜しい。また之を直して鼹鼠の掌にするには單に指を押し縮めて爪を太くすれば宜しい。總べて動物の身體はかやうな流儀に出來て居て、數種の動物が皆同一の模型を基とし、各種とも常に用ゐる處だけが特別に發達して、そのため種種の相違が起つた如くに見える場合が頗る多いが、之は若し天地開鬪の際に神が各種の動物を別々に造つたものとしたらば、殆ど譯の解らぬことで、之には何か他に理由がありさうなものである。若し眞に神が初めから別々に造つたものならば、蝙蝠の翼はたゞ飛ぶといふ目的に適ふやうに、また鼹鼠の掌はたゞ地を掘るといふ目的に適ふやうに、各々根本から別の仕組を立てて造りさうなものであるのに、飛ぶための翼も掘るための掌も、同一の模型を多少延ばしたり縮めたりしたかと思はれるやうな形に出來て居るのは、誠に不思議といはざるを得ない。所で、人間などを見ると常に用ゐる部分が特別に發達するやうで、鍛冶屋は常に腕を餘計に働かすから、腕の筋肉・骨骼ともに非常に發達し、車夫は絶えず脚を用ゐるから、脚の筋肉・骨骼ともに著しく大きくなるが、他の動物とても理窟は之と同樣で、やはり常に用ゐる器官は益々發達して大きくなるに違ない。また人間の方では車夫の子孫が必ず皆車夫になるに限らず、鍛冶屋の子孫が必ず皆鍛冶屋になるといふ譯でもないから、皆その當人一代の間に用ゐる器官が少し大きくなるだけであるが、動物の方では親・子・孫と代々略々同じやうな生活をなし、蝙蝠は先祖代々空を飛び、鼹鼠は先祖代々地を掘り、急に習性の變ずることは極めて稀であつて、代々同一の器官ばかりを特別に働かせるから、その結果としてその器官は代を重ねるに隨ひ益々發達して大きくなるであらう。若しさやうであるとしたらば、蝙蝠の指の長いのは代々空を飛ぶために指を延ばした結果、鼹鼠の爪の太いのは代々地を掘るために爪を用ゐた結果ではあるまいか。また蟷螂の前足の太いのは鍛冶屋の腕の太いのと同じく「ばった」の後足の太いのは車夫の脚の太いのと同じで、常に之を働かすから益々發達し、代を重ねるに隨ひ愈々著しくなつて、終に今日見るが如き形に成つたのではあるまいか」。

 「之に反して少しも用ゐぬ器官は次第次第に衰へるもので、怪我などをして久しく臥て居ると、身體には他に何の異狀がなくても、脚は次第に細くなつて、終には全く起きて立つことも出來なくなるが、駝鳥の翼が極めて短くて到底飛ぶ役に立たず、鼹鼠の眼が甚だ小くて到底見る役に立たぬ等は、全く之と同やうな理窟で、久しく少しも用ゐぬから、次第次第に退化して斯くの如くになつたのではなかろうか。常に頸を延ばして水底の餌を探る鶴は頸が非常に長くて鼻は甚だ短いが、鼻で自由自在に物を拾う象は鼻が頗る長くて頸は最も短い。善く飛ぶ鳥は足が弱く、善く走る鳥は翼が小い。總べてこれらの現象は、皆常に用ゐる器官が發達し、常に用ゐぬ器官が衰えた結果とより外に思はれぬ。

 「斯くの如く動物の身體は丁寧に調べて見ると、皆常に用ゐる器官が益々發達し、常に用ゐぬ器官が漸々衰へて、遂に今日の姿になつた如くに見えるが、果してその通りならば、蝙蝠の先祖は決して今日の蝙蝠の如き發達した翼を持つて居なかつたに相違なく、また鼹鼠の先祖は決して今日の鼹鼠の如き發達した爪を持つて居なかつたに相違ない。その先祖は如何なる形のものであつたかは十分に解らぬが、動物は各種類ともに決して今日我々の見る通りの形で、世界開闢の際に突然神によつて造られたものではなく、長い年月の間に少しづゝ變化して今日の如きものとなつたといふことだけは、斷言が出來る。即ち動物の各種類は決して一時の創造によつて急に現れ出たものでなく、一歩一歩の進化によつて長い年月の間に漸々出來上つたものである」。

 ラマルクの考の大體は以上述べた如く、その要點は、第一には動物の各種類は長い年月の間に形狀が次第に變化して今日の有樣になつたといふこと、第二には動物の形狀の漸々變化するは主として各器官の用・不用に基づくとのことであるが、この考を以て種々の動物の形狀を觀察すると、一應尤もに思はれる點が隨分多くあり、今日より見れば甚だ不完全な説明には相違ないが、その時代の考としてはなかなか面白いものであつた。併しその頃フランスにはキュヴィエーといふ博物學の大家があつて、この人が全くリンネー流の生物種屬不變の説を主張したので、ラマルクの説は遂に行はれなかつた。

[やぶちゃん注:「ラマルク」博物学者ジャンバティスト・ピエール・アントワーヌ・ド・モネ、シュヴァリエ・ド・ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck 一七四四年~一八二九年)は「biology」(生物学)という語を真に現代の意味で最初に使用した人物の一人。ウィキの「ジャン=バティスト・ラマルク」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『ラマルクは貧しい下級貴族の家に生まれ、従軍の後に博物学に関心を持ち、フランスの植物相に関する多数の著書を著した。これによって、ビュフォンの関心を引き、フランス自然誌博物館の職に就く事になった』。『一七八九年、フランス革命が起きた際に彼はこれを熱烈に歓迎し、貴族の称号を破り捨てたりした(終生革命の意義を擁護したことから後世の革命思想家に大きな影響を与えた)。一七九九年にフランスの科学アカデミーの会員となり、一七九三年に自然史博物館に入って昆虫などの研究しているうちに無脊椎動物の専門家になった。 一八〇〇年無脊椎動物の分類によって、進化論者たることを宣言した』。『植物研究に専念した後、彼は無脊椎動物(彼が作ったもう一つの言葉である)の管理者となった。彼は一連の公開講座を開いた。一八〇〇年までは、彼は種の不変を信じていた』が、『一八〇一年刊の『無脊椎動物の体系』でキュヴィエの天変地異説を批判』、『一八〇二年に「生物学」(biologie)という用語を作り、脊椎動物と無脊椎動物を初めて区別した』(この時点でリンネの体系を批判的に正しく改良したと言える。パートの「リンネー」の私の注を参照のこと)。『パリの軟体動物に関する研究の後、彼は次第に、長い時間の中で、種が変化するものであるとの確信を持つに至った。彼はその説明を考え、大筋を彼の一八〇九年の著作『動物哲学』の中に記した。彼の進化論は一般に用不用説と呼ばれる』。『ただし、この『動物哲学』は学術書ではなく、啓蒙書・教科書的な書物である。この書の内容は、ラマルクが新しく唱えた説ではなく、当時博物学界で一定の支持を得ていた説であり、彼はそれを大衆に広めたにすぎない。また、この書の主題も用不用説ではなく、もっと広く進化と遺伝全体について論じたものである』。ラマルクは一八二〇年に失明したが、二人の娘に助けられて『無脊椎動物誌』七巻を完成させている』。『彼の研究の重要な成果の一つは、明らかに無脊椎動物の分類体系である。また、彼が進化の考えを得たのもこの研究であるとされる』。『無脊椎動物については、ほとんど手付かずの状況であったらしい。リンネの体系では無脊椎動物門は昆虫類と蠕虫類に分けられていただけであった。一七九七年に発表した体系ではこれを五綱に分け、一八〇一年の「無脊椎動物の体系」では七綱とした。『動物哲学』ではさらに十綱とし、これは現在の体系にかなり近づいている。また、彼はこれらを体制の高度さの順に配置し、進化の考えをそこに見せている』。『ラマルクは、現在では普通、獲得形質の遺伝という不名誉な遺伝の法則に関わって思い出されるだろうが、チャールズ・ダーウィンやそういった人達は、彼のことを進化論の初期の提唱者として知っている。例えば、ダーウィンは一八六一年にこう書いている』。『「ラマルクは、この分野での説が多大な関心の的となった最初の人物である。この正に祝福されるべき博物学者は、彼の考えを一八〇一年に初めて出版した』……『彼は無機的世界だけでなく、生物の世界でもあらゆる物が変化する可能性があり、そこに奇跡が絡む訳ではない事に対し、初めて注意を喚起したという点で、偉大な貢献をした。」』。実は『ラマルクは自然発生説を信じていた』が、しかも『このことが彼の進化論に決定的な意味を持っていた。彼は最古に発生した生物が現在もっとも進化した生物であると考えていたのである。彼の進化論はその信念との整合性のためのものである』。『彼は個々の個体がその生涯に応じて体を変化させ、変化の一部がその個体の子孫に継承されることで生物は進化していくと考えた。子孫はその親より進んだ位置から一生を始められるから、有利な方向へ進化する事が出来る。適応の生じる機構としては、彼は、個々の個体がその種の能力をよく使う事でそれを増加させ、またある物を使わない事でそれを失うと説いた。進化に関するこの考えは、全てが彼独自のものではないが、彼はダーウィン以前の進化論の責任を一人で背負い込む形となっている』。『ラマルクは、二つの法則をまとめている』。

『発達の限界を超えていない動物であれば、如何なるものでも、頻繁かつ持続的に使用する器官は、次第に強壮に、より発達し、より大きくなり、その力はその器官を使用した時間の比率による。これに対して、いかなる器官でも、恒常的な不使用は、僅かずつ弱々しくなり、良くなくなり、次第にその機能上の能力がなくなって、時には消失する場合もある』。

『それぞれの個体で、自然に獲得したものや失ったものの全ては、それがその品種が長い間置かれていた環境の影響によるものであっても、そしてそこから生じた特定器官の優先的な使用や恒常的な不使用の影響によるものであっても、獲得された形質が両性に共通であるか、少なくとも子供を作る個体に共通ならば、それらは、その個体の生殖による新しい個体に保持される。そしてある個体が獲得した形質は、次第に同種の他の個体にも共有される』。

さても、このの『法則が「用不用説」の用不用の部分に』、の『法則が「獲得形質の遺伝」にあたる(下線やぶちゃん)。この二つの仮説と前述の自然発生説によって、同時代に様々な発展段階の生物があることを説明しようと試みた』。『ラマルクは、そのような世代の継承を、前進的なものであると見なし、それにより、単純な生物がより複雑で、ある意味で完全なものへと、時間をかけて(彼のいう仕組みによって)変化するのであると考えた。彼はこのように目的論的(目的に方向を定めた)過程を、生物が進化によって完全なものに成る間に経ると信じていた。彼はその生涯、論争を続けた。古生物学者のジョルジュ・キュビエの反進化論的意見に対する彼の批判の為には孤独である事を厭わなかった』。『今西錦司はラマルクの議論の中に中立的な形質についての議論が欠けていることから批判的』ではあったが、その『獲得形質が同種他個体によって共有されていくという議論をさして、集団遺伝学の萌芽ではないかと』も指摘している。ラマルクを『擁護する者は、今日、彼は不公平な非難を浴びていると考えている。生物の進化に関する何の枠組みも存在しない時代に、彼が生物の進化を認めた事を彼らは強調する。彼はまた、機能が構造より先行するという、当時の進化論者の主張の文を批判している。他方、獲得形質の遺伝に付いては、現在では広く反駁を受けている。ワイスマンはこの説への反証として、ネズミの尻尾を切る実験を行い、負傷が子孫には伝わらない事を示した。ユダヤ人やその他の宗教的集団では、何百世代にも亘って割礼を行って来たが、彼らの子孫に包皮が少なくなったとは聞いていない。しかしながら、ラマルクは負傷や切除を真の獲得形質とは見做して居らず、動物自身の必要性から生まれたもののみが伝わると考えていた』。『今日において、個体がその生涯の間に身に付けた形質が子孫に伝わるとの考えは、部分的に認められている。ごく最近までは、近代の遺伝学的知見に照らして、成立しないと考えられていたが、生殖質と他の性質が分離している動物門はともかく、単細胞生物や他の門において個体の生涯中におきた突然変異などがもとによって獲得された形質は条件によってはその細胞が繁殖すれば遺伝される。また非突然変異であってもエピジェネティクスという遺伝的機構等、幾つかの発見で、それが全く見当外れとは言えなくなった。従って、進化のある局面では、ラマルキズムの出番もあるのかも知れない。他に現代的な見方では、文明の進化に関するミーム』(meme:人々の脳から脳へとコピーされる情報であり、また社会・文化を形成する様々な情報(習慣・技能・知識・物語などの人から人へと転写される情報)として分析される対象体)『の考えは、ラマルク風の非遺伝子的な遺伝形式である』。また、アメリカの古生物学者で科学史家としても知られるスティーヴン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould 一九四一年~二〇〇二年)は、『人間の文化的進化の本性は学んだことを書いたり教えたりすることで次の世代に伝えることができるという点でラマルク的である、と述べ』ている。『彼の進化論の基礎をなす思想として、「生物は前進的に姿を変えてゆく能力がその中に備わっている」という点が上げられる。そこまで言わずとも、生物自身に自分を変える性質を認める立場はラマルキズムと言われる』。『彼の進化論が生まれた背景として、彼が実は新しくなかったからではないか、との見方がある。彼自身は、自然哲学的な思想を背景として持っており、当時次第に明らかとなってきた、科学における実証主義的な傾向を嫌っていたようである。当時、彼のことを「最後の哲学者」ということがあったが、これは当時ですら古くなった彼への揶揄の意が込められていたらしい』。『彼の推論は、多くの事実に基づいてはいるが、それらは彼が無脊椎動物の研究などから着想した前進的進化の存在を前提として配置されているとも取れる。また、彼の進化に関する仮説は、それなりに検証可能な体はなしているが、実際にはそれに関する検証や実験は行われていない。彼においては諸動物の比較検討から、前進的進化があったと判断できれば、それで証拠として十分だったのであろう。むしろ実証主義的な研究を固持したキュヴィエからは、そのような姿勢が納得できなかったということもあるようである』。『ラマルクは進化という概念を支持し人々の関心を呼び起こした、とダーウィンは「種の起源」第三版で彼を讃えた。それだけでなく用不用説を受け入れ、またそれが実際に起こるものだと説明するために、自らのパンゲン説』(パンゲネシス(pangenesis):ダーウィンが唱えた形質遺伝に関する仮説。動植物の体の各部・各器官の細胞には自己増殖性の粒子であるジェミュール(gemmule)なる物質が含まれているとし、この粒子が各部に於いて獲得した形質の情報を内部に溜め込み、その後、それは血管や道管を通して生殖細胞に集まって子孫に伝えられ、子孫においてまた、体の各器官に分散していって親の特徴・形質が伝わるとする説)『を部分的に拡張することまでした。ダーウィンと多くの同時代人もまた獲得形質の遺伝を信じており、その考えは遺伝子伝達の細胞内機構が発見されるまでは、よりもっともらしい仮説だった。(ついでながら、ダーウィンは、遺伝の仕組みが分かっていないことから、自説が不完全なものであることは認識していた。)』とある。

「斯く身體の外形は皆その動物の生活の模樣に應じて居るに拘らず、之を解剖してその構造を調べて見ると、蝙蝠と鼹鼠、又は蟷螂と「ばつた」とは實に極めて互に善く似て居て、恰も同一の鑄型(いがた)に入れて造つたものを、單に少しづつ或は延ばしたり、或は縮めたりして造つたかと思はれる程である」「蝙蝠」は現在、

 脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目 Chiroptera

に属する(因みに近代以前、少なくとも江戸時代の先に出た小野蘭山の「本草綱目啓蒙」などでは「かはほり」として「ムササビ」(哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista)と共に鳥類に分類されてある)。一方、「鼹鼠」(「鼹」は音「エン・オン」で単体で「もぐら」の意)は現在、

 哺乳綱トガリネズミ形目モグラ科 Talpidae

で、他方、「蟷螂」と「ばった」はそれぞれ、

節足動物門昆虫綱カマキリ目 Mantodea

 昆虫綱直翅目バッタ目雑弁(バッタ)亜目 Caelifera

に属するから、孰れの類似性もこれは現在の「平行進化」ではなくて確かに原型は同じである。]

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