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2016/03/07

北條九代記 卷第八 武藏守經時卒去 付 越後守光叛逆流刑

       ○武藏守經時卒去 付 越後守光叛逆流刑

同四年三月二十三日、武藏守經時、病氣、既に危急に及ぶ。去年の冬より、黃疽と云ふ病に罹りて、惱みまうされしかば、諸寺諸社の祈禱・醫療の治術(ぢじゆつ)、樣々なりといヘども、更に效(しるし)を奏する事なし。今は遍身、さながら黄(き)になりて、氣息喘急(きそくぜんきふ)、いとゞ苦しげに見え給ひ、傍(そば)に候ずる人迄も、面の色、黃になりて、中々御命は保つべしとも覺えられず。是(これ)に依(よつ)て、鎌倉の執權をば、今日、舍弟左近〔の〕大夫將監時賴朝臣に讓り申されけり。同四月十九日、經時出家して、法名をば、安樂とぞ號しける。戒師は大藏卿法印良信とぞ聞えし。閏四月一日、入道正五位〔の〕下行(ぎやう)武藏守平朝臣北條經時、卒去あり。年三十三歳なり。翌日、佐々目(さゝめ)山の麓に葬送す。去ぬる仁治三年より、僅(わづか)に五年のうち、鎌倉の執權たり。今、幾程もなく逝去あり。高(たかき)も卑(いやしき)も、歎く色を含みて、打潛(うちひそま)りて物淋し。この由、京都に聞えしかば、六波羅伺候(しこう)の輩(ともがら)、使者の往來、數を知らず。同五月二十四日、鎌倉中俄に物騷しく、町小路の家々、資財雑具(ざふぐ)を持運(もちはこ)び、東西に走り、南北に吟(さまよ)ひ、上を下にもて返す。澁谷(しぶや)の一族等(ら)、左近將監時賴の館(たち)の面中(おもてなか)下馬の橋を警固して、人の往還を留めたり。太宰少貮は、御用に參らんとて、五十餘騎にて行懸(ゆきかゝ)る所に、澁谷が家子金刺(かなざしの)五郎、押留(おしとゞ)めて申しけるは、「御所へ参り給ふ上は、この所をば通し申すまじ。北條殿へ御參(まゐり)の事にて候らはば兎角に及ばず候」と云ふ。少貮聞きて、「子細こそあるらめ。將軍家へ參るべき者を、爰に押留め申されんには、打破りても通り候はん」とて色めき立ちて見えしかば、愈(いよいよ)物騷(ぶつさう)にて、諸軍、峙(そばだ)ちて甲冑を著(ちやく)し、旗を差上げ、北條家に馳せ參ずる者、雲霞の如くなりければ、少貮、是を見て、叶ふまじくや思ひけん、引返し道を替へて、將軍家にぞ奉りける。後に聞えけるは、前〔の〕武藏守泰時の舍弟、名越(なごや)遠江守朝時(ともとき)入道生西(しやうさい)は、去年四月六日に卒(そつ)せらる。行年五十三。この人は若年の時より、文武の才ありて、有道(いうだう)を行はれ、國政(こくせい)の柱とも賴まれけるに、未だ半白(はんぱく)にして、逝去せられ侍りければ、公私の諸人、上下、惜(をし)まぬはなかりけり。その嫡子、越後守光時は、父の遺跡(ゆゐせき)を繼ぎながら、前(さきの)將軍賴經に近習し、時賴を討つて執權を奪ひ、威勢を天下に振はんと企てたり。この事、忽に露顯しけり。左近將監時賴は、用心彌(いよいよ)嚴しく、甲冑の軍士數千騎集(あつま)り、館の四面を警固しけり。翌日、卯刻計(ばかり)に、但馬〔の〕前司定員(さだかず)は、御所の使者とて、參られしを、諏訪(すはの)兵衞入道、尾藤太(びとうだ)平(へいの)三郎左衞門尉等に仰せて、館の内には入れられず。定員、是非なく歸り參る。かゝる所に、越後守光時は、將軍家の御前にありけるを、この曉方(あけがた)、家人(けにん)參りて喚び出し、白地(あからさま)に退出し、逆心(ぎやくしん)を起しけれども、一族兄弟、一人も同意するものなければ、力及ばず、髻(もとゞり)を切りて、髮(たぶさ)を時賴の方に送る。但馬前司定員も、光時に一味しければ、身の科(とが)を遁れん爲(ため)、俄に出家致しけり。秋田(あいだの)城〔の〕介義景に預けられ、前司定員が子息兵衞〔の〕大夫定範(さだのり)共に、一向(ひたすら)、囚人(めしうど)の如くなり。同六月十三日、入道越後守光時、法名蓮智とぞ號しける。越後の國務所帶を沒収(もつしゆ)し、その身をば、伊豆國に流し遣し、そのほか餘黨の輩(ともがら)、皆、流罪にぞ行はれける。光時が舍弟、時章(ときあきら)は、初より野心なき事と諸人も存知する上は、名越(なごや)の家を相續す。時賴、是よりして、威勢高く耀きて、天下の權(けん)を執り治めて、賴嗣を扶翼致されけり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」寛元四(一二四六)年三月二十一日・二十三日、四月十九日、閏四月一日・二日、五月二十四日・二十五日、六月十三日などに基づく。

「同四年三月二十三日、武藏守經時、病氣、既に危急に及ぶ。去年の冬より、黃疽と云ふ病に罹りて、惱みまうされしか」第四代執権北条経時は慢性の肝疾患らしきものを患っていたようで、「去年の冬」よりも前、前年寛元三(一二四五)年五月二十九日の「吾妻鏡」に既に「武州有御不例。令患黃疸給」(武州、御不例有り。黄疸を患はしめ給ふ)と出、九月二十七日には「武州不例再發給之處。今日酉尅俄絶入。鎌倉中驚騷也。」(武州の不例、再發し給ふの處、今日、酉の尅、俄かに絶へ入る。鎌倉中、驚騷(きやうさう)なり。)とあって、一時的な意識喪失さえ起こしている。ここに出る「傍に候ずる人迄も、面の色、黃になりて」というのは筆者の誇張表現と読みめるが(「吾妻鏡」にはない)、しかしこれを事実と仮定すると今一つ、黄疸症状を示す感染症(例えばA型肝炎)なども疑い得る。

「舍弟左近大夫將監時賴」経時は時頼の同母兄である。執権移譲時、時頼は満二十歳であった。

「佐々目山の麓に葬送す」「新編鎌倉志卷之五」の「御所入」の項に、

   *

御所入(ごしよのいり) 此の谷(やつ)の内にあり。古老の云、平の經時の住せし所也と。按ずるに、【光明寺記主の傳】に、平の經時、佐介が谷に隠居し、專修念佛して卒(そつ)すとあり。經時の墓、佐々目の山の麓にあり。此の所より遠からず。

   *

付図(リンク先の「佐介谷」の前に掲げてある)を見る限りでは、現在の銭洗弁天への登り道の下方南の平地であるが、「御所入」とは如何にも奇妙な地名である。通常「御所」は大臣・将軍、親王以上の皇族の居所や本人を指すが、そのような人物が当地に居を構えた記録はない。「鎌倉攬勝考卷之一」の「地名」にある「御所入」の項では、先の「佐介谷」に引用されている北条時盛の屋敷をこことし、寛元四年に、ここに前将軍頼経が入御したことと、更にやはり同所「入道勝圓」の屋敷に文永三年七月、宗尊親王が渡御されたという「吾妻鏡」の記事を引き合いに出して「御所入」を説明しているのだが、どうも説得力に欠くように思われる。これでは市内には無数の「御所入」が出現することになろう。東京堂出版の「鎌倉事典」の「御所入」では、『常盤にある「殿ノ入」「御所之内」などという地名は、執権北条政村邸、浄明寺の「御所ノ内」は足利氏に由来するものであろう』とし、『鎌倉には、ほかにも御所谷などの地名が残されていて、いずれもが有力武将の屋敷跡とされている』と記すのだが、やはり私には目から鱗とはいかない。もっと説得力のある見解を求む。「佐々目の山の麓」とは、甘繩神明社の東の尾根を隔てた佐々目ヶ谷の奥の峰を言うか。そこならば確かにこの御所入からは一キロもなく、遠くない。また、そこに北条経時の墳墓があったことは、「鎌倉攬勝考卷之九」の「北條武藏守平經時墳墓」の記載に明らかである。以下に引用する。

    *

經時は、兼て別業を佐々目谷へ構へ、寛元四年四月十九日、病に依て職を辭し、執權を弟時賴に讓り、落髮し、同年閏四月朔日に卒す。佐々目山の麓に葬り、後此所に梵字を營み、長樂寺と號すとあり。今は其墳墓しれず。

    *

第四代執権北条経時の墓は現在、彼が開基である海岸に近い光明寺のやや高台にある。ところが「新編鎌倉志卷之七」の光明寺の項には経時墓の記載がない。これは一体、何を意味するのであろう。按ずるに、この卷之五の記載によって、「新編鎌倉志」の時代には「攬勝考」の言う長楽寺の跡さえ既になかったが、辛うじて経時の墓はそこにあったことが分かる(『經時の墓、佐々目の山の麓にあり。此の所より遠からず』)。しかし、「攬勝考」の頃にはその墳墓が消失していた(『今は其墳墓しれず』)。しかしそれ以前の何時の頃にか、彼の墓石の一部はこの佐々目ヶ谷から光明寺に移されていた。ところが光明寺開山塔と一緒にそれを置いたがために、「攬勝考」の頃には、少なくとも一般には、それが経時の墓との認識がなされていなかったのではなかろうか。識者の御教授を乞うものである。

「仁治三年」経時は仁治三(一二四二)年六月十五日の泰時の死去に伴い、翌十六日に経時は数え十九歳で執権となっている。

「同五月二十四日、鎌倉中俄に物騷しく」実際には「吾妻鏡」では既にこの前月、経時葬送から十六日後の閏四月十八日の条に、「亥尅。俄鎌倉中物忩。介冑士滿衢云々。及曉更靜謐。旁有巷説等云々。」(亥の尅、俄かに鎌倉中、物忩(ぶつそう)。介冑(かいちゆう)の士、衢(ちまた)に滿つと云々。曉更に及びて靜謐す。旁々(かたがた)巷説等有りと云々。)とあり、翌々日の二十日の条にも、「近國御家人等。馳參不知幾千万。連日騷動不靜謐云々。」(近國御家人等、馳せ參ずること、幾千万を知らず。連日、騷動して靜謐せずと云々。)とあるのが、名越(北条)光時による反乱未遂及び、それに連座して「大殿」、即ち、前(さき)の第四代将軍藤原頼経(頼嗣に譲位させられ、出家した後も彼は鎌倉に留まっていた)が鎌倉から追放された事件、「寛元の乱」或いは「寛元の政変」、所謂、「宮騒動」の始まりである。因みに、私はこの最後の呼称がどうも好きでない。何故、「宮」なのかが不明だからである。ウィキの「宮騒動」にも、『宮騒動と称される理由は『鎌倉年代記裏書』で「宮騒動」と号すとあるためだが、「宮」を用いる由来は不明』で、『事件の背後にいた九条頼経は九条家の一族で「宮」と称されることはあり得ず、結果的にこれより』、この六年後、『摂家将軍の追放と親王将軍の誕生へとつながったためではないかと』はされているとある。

「澁谷の一族」渋谷氏は相模国高座郡(現在の藤沢市と綾瀬市)にあった「渋谷荘」が元(分流が武蔵に移住して東京の渋谷の発祥となった)であったが、和田義盛の乱で和田方につき、一族の多くが殺され、渋谷荘地頭職も失った。しかしこの「寛元の政変」の活躍以降、宝治合戦・霜月騒動と一貫して北条得宗家御家人として活躍することとなる。

「下馬の橋」当時の北条得宗邸の推定位置から見て、二の鳥居付近の扇川に架けられていたという「中の下馬橋」と思われる(因みに、「上の下馬橋」は源平池に架かる橋、現行の知られた下馬四ツ角の橋は「下の下馬橋」と称されていたらしい)。

「太宰少貮」狩野為佐(かのうためすけ 養和元(一一八一)年~弘長三(一二六三)年)ウィキの「狩野為佐」によれば、『為佐の前半生は定かではないが、文暦元』(一二三四)年、五十四歳で『評定衆に任じられてからは昇進を重ねていく』。嘉禎二(一二三六)年に民部小丞、翌同三年には『従五位下に叙爵され、肥後守に任官した。また、この頃に為光から為佐へ改名している』。翌四年に従五位上、延応元(一二三九)年には、大宰少弐、仁治二(一二四一)年に正五位下に任じられたが寛元四(一二四六)年に、この『宮騒動に連座したことで評定衆を解任された』ものの、建長五(一二五三)年には引付衆を務めて返り咲いている。

「名越遠江守朝時入道生西」北条朝時(建久四(一一九三)年~寛元三(一二四五)年)は第二代執権北条義時の次男。名越流北条氏の祖。祖父北条時政の名越邸を継承したことから「名越次郎朝時」とも呼ばれる。参照したウィキの「北条朝時によれば、貞応三(一二二四)年に異母兄泰時(側室の子)が第三代代執権となると、翌嘉禄元(一二二五)年に越後守となり、嘉禎二(一二三六)年九月には『評定衆に加えられるが、初参の』後、即、『辞退しており、幕府中枢から離脱する姿勢を見せている』(それまでの複雑な生活史はリンク先を参照されたい)。六年後の仁治三(一二四二)年五月、『泰時の病による出家に伴い、朝時も翌日に出家して生西と号した。朝時の出家の直接的な理由は不明だが、泰時の死の前後、京では鎌倉で合戦が起こるとの噂が流れ、将軍御所が厳重警護され鎌倉への通路が封鎖された事が伝わっており、朝時を中心とした反執権勢力の暗闘があった事によると見られている』とある。

「半白」白髪かあるが、それが未だ頭髪の半ばであること。中年・初老。

「越後守光時」北条朝時の嫡男名越(北条)光時(生没年未詳)。北条氏名越(なごえ:現行の読み方)流の祖とされる。ウィキの「北条光時」より引くと、「保暦間記」によれば、『光時は時頼の執権就任に対抗し、「我は義時の孫なり。時頼は曾孫なり。」と述べたという。結局頼経派は敗北し、頼経は時頼によって京都へ送還され、光時は出家して弟らと共に時頼に降伏し、所領を没収されて伊豆国江間郷へ配流となった。この得宗家と名越家の対立はその後も続き』、文永九(一二七二)年二月に蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛(二月騒動)では、鎌倉幕府八代執権北条時宗の命によって謀反を企てたとして鎌倉で結局、この時許された朝時の弟の名越時章及びその弟教時が討伐された。

「卯刻」午前六時頃。

「但馬前司定員」藤原定員(生没年未詳)は幕府官僚。第四代将軍九条頼経に京から随従した近臣。将軍御所を奉行したが、ここに出るように、この「寛元の政変」で執権北条時頼の元への弁明の使者となるも失敗、安達義景にお預けとなった後、出家している。

「秋田(あいだの)城介義景」安達義景(承元四(一二一〇)年~建長五(一二五三)年)は安達景盛嫡男で、子に安達泰盛、覚山尼(北条時宗室)がいる。参照したウィキの「安達義景によれば、『義景の「義」の一字は義景が』一五歳の元仁元(一二二四)年に『没した北条氏得宗家当主鎌倉幕府第二代執権『北条義時からの拝領と思われ、義時晩年の頃に元服したと考えられている』。『義時亡き後は、北条泰時(義時の子)から経時と時頼三代の執権を支え、評定衆の一人として重用された。幕府内では北条氏、三浦氏に次ぐ地位にあり』、第四代将軍『藤原頼経にも親しく仕え、将軍御所の和歌会などに加わっている。この頃の将軍家・北条・三浦・安達の関係は微妙であり、三浦氏は親将軍派、反得宗の立場であるのに対し、義景は北条氏縁戚として執権政治を支える立場にあった』。『父・景盛が出家してから』十七年後、『将軍頼経が上洛した年に、義景は』二十九歳で「秋田城介」を継承した(本文の読みの「あいだ」は、「秋田」は古く「あきだ」「あくだ」等とも呼称したので、それが音変化したものか)。仁治三(一二四二)年、『執権・泰時の命を受けて後嵯峨天皇の擁立工作を行ない、新帝推挙の使節となった』。この「寛元の政変」で『執権北条時頼と図って反得宗派の北条光時らの追放に関与した。将軍家を擁する三浦氏と執権北条時頼の対立は、執権北条氏外戚の地位をめぐる三浦泰村と義景の覇権争いでもあ』ったため、宝治元(一二四七)年には『三浦氏との対立に業を煮やして鎌倉に戻った父景盛から厳しく叱咤されている。宝治合戦では嫡子・泰盛と共に先陣を切って戦い、三浦氏を滅亡に追い込んだ』。『時頼の得宗専制体制に尽力した義景は格別の地位を保ち、時頼の嫡子・時宗は義景の姉妹である松下禅尼の邸で誕生している。義景の正室は北条時房の娘で、その妻との間に産まれた娘(覚山尼)は時宗の正室となる。また、長井氏、二階堂氏、武藤氏など有力御家人との間にも幅広い縁戚関係を築いた』とある。]

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