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2016/03/12

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(3) 一つ目と片目

       一つ目と片目

 

 雷を一つ目と想像した近世の例は、落穗餘談の五の卷に一つある。豐後國の或山村の庄屋、山に人つて獵をする時、山上の小さな水溜まりの端に、年の頃七八歳の小兒の、總身赤くして一眼なる者が五六人居つて、庄屋を見てリウノヒゲの中に隱れた。之を狙ひ擊つに中らず、家に還つて見ると女房に物が憑いて、怖しいことを口走つて狂ひ死んだ。我は雷神である。たまたま出て遊んで居たのに、何として我を擊つぞと謂つたといふことを、其庄屋から聽いた者がある云々。所謂別雷少童の信仰が既に改まつて後に、斯ういふ幻しが尚民間に殘つて居たのは珍らしいが、それが偶然で無かつたといふことを確かめるには、更に他の多くの類例を待たねばならぬのである。

[やぶちゃん注:「珍しいが」底本は「珍しが」。脱字と断じて「い」を補った。ちくま文庫全集版も「い」が入っている。本話は『「一目小僧」(三)』に既出既注。

「別雷少童」「わけいかづちせうどう(しょうどう)」と訓じておく。「別雷」は既注の賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)。「神蛇一目の由來」で既出既注。]

 山に住む神の目一つであつたことだけならば、擧げ切れぬ程の記錄があるのだが、其信仰は夙く壞れてしまつて、之を神話の神々と同一視することを許されなくたつた。しかし單なる妖怪變化とても由緒無しには斯く迄弘く、人心を支配することは出來なかつた筈である。或は外國の空想を借用したかの如く臆斷して居た人も、一たびその類例の多くが山に屬し、久しい變遷を重ねて終始常民の生活と交渉したことを知るたらば、後には態度を改めて彼と是と、曾て何等かの脈絡のあつたことを、考へて見ずには居られまいと思ふ。目一つの鬼の最も古い記事は、出雲風土記の阿用郷の條にあつて、是は田作る人の鬼に食はるゝとて、アヨアヨと叫んだといふ地名説話になつて居る。其次に私の知つて居るのは近江の安義橋で旅人を追つかけたといふ今昔の物語、面は朱の色にて圓座の如く、廣くして目一つあり、長は九尺許にて手の指三つ、爪は五寸ばかりにて云々とあるもの。それから又宇治拾遺の方は、兒童もよく知る瘤取の話の他に、今一つは越前の人伊良緣(いらえ)の世恒、毘沙門を信じて福を得た話がある。神より授かつたる一通の下し文に、米二斗を渡すべしとあるを持つて、教へのまゝに高き峯に登り、大聲にナリタと呼ばはれば、只見る額に角ありて目一つある物、赤き犢鼻褌をして忽然として彼が前に現れ、下し文の面に就いて米の袋を渡す。其袋は所謂取れども盡きぬ寶であつたとある(一) 此祭の化物は常に佛法に疎まれ、光無き谷の奧に押遺られて居たがら、何か人間に奇瑞の必要ある場合ばかり、斯うして傭はれて來て空想の隙間を充たしたので、その物語の如何にも附きが惡く、何か説明の屆かぬやうに見える部分があるのは、恐らくは古い記憶の斷片なるが故であらう。

[やぶちゃん注:「常民」実は、この語は本書ではここが初出である。「大辞泉」には、まず、『普通一般の民。庶民』とした後、二番目に項を起こして、『民俗を伝承し保持している基層文化の担い手としての階層。民俗学者柳田国男が、folkまたは、〈ドイツ〉Volkにあたる語として用いた語』とあり、これは柳田國男監修の「民俗学辞典」と同じであるが、ウィキの「常民」には、『民俗伝承を保持している人々を指す民俗学用語で、最初に使用したのは柳田國男である。「庶民」の意味に近いが定義は一定しない(柳田自身も明確な定義を示さないままであった)。』『現在一般的には使われないが、元来は「山人」に対する「里人」を意味する言葉であった。日本の民俗学の創始者の一人、柳田は、初期の研究においては村などに定住せず山々を巡り歩いた山人を研究していたが、彼ら山人に対して一般の町村に住む人々を指す意味で「常民」を使用した』。『しかし、柳田の研究の対象が里人に移るに至って、この言葉の用法は変わっていった』とある。牛の涎のように文献学的記載が続く退屈で少しも「常民」が見えてこない「アカデミック」な「民俗学辞典」の記載より、こちらの方がズバリ!

「出雲風土記の阿用郷の條」「出雲国風土記」(天平五(七三三)年成立)に以下のように出る(一九三七年岩波文庫刊・武田祐吉編「風土記」に拠る)。

   *

阿用(あよ)の郷(さと) 郡家の東南一十三里八十歩なり。古老傳へて云へらく、昔、或る人、この處の山田(やまだ)を佃(つく)りて守りき。その時、目一(めひとつ)の鬼(おに)來て、佃(たづく)る人の男(をのこ)を食ひき。その時、男(をのこ)の父母、竹原(たけはら)の中に隱(かく)りて居りき。時に、竹の葉動(あよ)けり。その時、食はえし男(をのこ)、「動(あよあよ)」 と云ひき。故(かれ)、阿欲(あよ)といふ。〔神龜三年、字を阿用と改む。〕

   *

ウィキの「阿用郷の鬼によれば、『日本に現存する文献で確認できる最古の鬼の記述とされる』。『阿用郷は、島根県雲南市に阿用の地名が遺るように』、『阿用川流域から赤川南岸にかけて設けられていた』。『阿用郷は大原郡の郡衙』から東南に十三里八十歩(およそ六キロメートル)の『所に位置する。古老の言い伝えでは、昔、ある人がここで山田を耕作して守っていた。その時、目一鬼(まひとつおに)が来て、耕作していた人の男(むすこ)を食った。その男の父母は竹藪の中に隠れ籠り身をひそめていたが、竹の葉がかすかに揺れ動いたため、それを見た鬼に食われている男は父母が自分を見捨てている事を悟り、「動動(あよ、あよ)」と嘆いた。だから阿欲(あよ)の郷と名付けられ、後に』神亀三(七二六)年)に『郷名を「阿用」と改めた』。『阿用の鬼については異種族人の身体的特徴を表現したもので、鍛冶の祖神が天目一箇神とされる事との関連を指摘する説があるが』、『鍛冶に携わる者を異能の民として、その業を畏怖すべき業と認知する風習があり、鍛冶職の職業病として、鍛造する際の炎を見続けることによって、片目を失明してしまう者が多かった事から一つ目を彼等の表象とし、後に天目一箇神に投影させたという研究者もいる』『(古代出雲国が、金属加工が盛んな地域だったことにもよる)』。『一つ目小僧やからかさ小僧など、近世期に登場する多くの一つ目妖怪は、脅かすだけの人畜無害のものが多い中、一つ目人食いの怪物の伝承として、のうまという妖怪がおり、その伝承地は雲南市阿用と地理的には近く、古い伝承と見られる』。『揺れ動くことを古語で「あよぐ」と言ったが』、『ここでは竹の葉のあよぎとそれを見た男の嘆声(あよ)を掛け、それを地名の起源としている』。『古代鍛冶職を鬼と見たとする説から男の鬼と連想されがちではあるが、文法上からは性別は不明である(そもそも性別があるかも分からない)』。二月八日と十二月八日をかつて『「事八日(ことようか)」と言ったが、この日に一つ目の鬼が来るという伝承があり、目一鬼に備えて、竹竿の先に目籠とヒイラギの枝をつけて軒先に飾る習慣があったとされる。これは邪視を除けるためのまじないとも考えられている』とある。

「近江の安義橋で旅人を追つかけたといふ今昔の物語」「今昔物語集」の巻二十七の「近江國の安義の橋の鬼、人を噉(く)らへる語(こと)第十三」を指す。少し長いので、章末に配することとした。「近江の安義橋」は滋賀県中部(湖東地域)を流れる日野川(ひのがわ)に架かる橋。現在の近江八幡市倉橋部町(くらはしべちょう)と蒲生郡竜王町信濃を結ぶ、現在の安吉(あぎ)橋が架橋されている附近(正確には竜王町弓削(ゆげ))。

「長」「たけ」と訓ずる。

「九尺」二メートル七十二・七センチメートル。

「五寸」二十七・二七センチメートル。

「瘤取の話」「宇治拾遺物語」の「卷第一ノ三」「鬼に瘤取らるる事」。人口に膾炙しており、これは掲げるまでもあるまい。

「今一つは越前の人伊良緣(いらえ)の世恒、毘沙門を信じて福を得た話」「宇治拾遺物語」 の「卷第十五ノ七」の「伊良緣野世恒(いらえのよつね)毗沙門(びしやもん)の御下文(おんくだしぶみ)を給はる」。以下に示す(底本は一九五二年岩波文庫刊渡辺綱也校訂に拠ったが、一部の表記を私が正しい(読み易い)と思うものに訂し(その際には昭和六〇(一九八五)年刊新潮日本古典集成大島建彦校注「宇治拾遺物語」で校合した)、記号の一部も変更・追加した。読みは私が歴史的仮名遣で振った)。

   *

 

 伊良緣世恒、毗沙門の御下文を給はる事

 

いまはむかし、越前國に伊良緣の世恒といふ者ありけり。とりわきてつかふまつる毗沙門に、物もくはで、物のほしかりければ、「助(たすけ)給へ」と申(まうし)ける程に、かどにいとをかしげなる女の、「家(いへ)あるじに物いはんとの給(たまふ)」といひければ、「たれにかあらん」とて出(いで)あひたれば、土器(かはらけ)に物をひともり、「これくひ給へ。物ほしとありつるに」とてとらせたれば、よろこびてとりていれて、たゞすこし食(くひ)たれば、やがてあきみちたる心ちして、二三日は物もほしからねば、是(これ)をゝきて、物のほしきおりごとに、すこしづゝくひてありけるほどに、月比(つきごろ)すぎて、この物もうせにけり。「いかゞせんずる」とて、又念じたてまつりければ、またありしやうに人のつげゝれば、始(はじめ)にならひて、まどひ出て見れば、ありし女房の給(たまふ)やう、「これくだし文(ふみ)奉らん、これより北の谷・嶺(みね)、百町をこえて、中にたかき嶺あり。それに立て『なりた』とよばゞ、ものいできなん、それにこのふみを見せて、奉らん物をうけよ」といひていぬ。このくだし文をみれば、「米二斗(とう)わたすべし」とあり。やがてそのまゝ行(ゆき)てみければ、寔(まこと)に高き峯あり。それにて、「なりた」とよべば、おそろしげなるこゑにていらへて、いできたるものあり。みれば、額につのおひて、目一ある物、あかきたうさぎしたる物出來て、ひざまづきてゐたり。「これ御下文也。この米えさせよ」といへば、「さること候(さふらふ)」とて下文をみて、「これは二斗と候へども一斗をたてまつれとなん候(さふらひ)つる也」とて、一斗をぞとらせたりける。そのままにうけとりて、歸(かへり)て、その入(いり)たる袋の米をつかふに、一斗つきせざりけり。千萬石とれども、たゞおなじやうにて、一斗はうせざりけり。これを國守きゝて、此(この)世恒をめして、「その袋、我にえさせよ」といひければ、國のうちにある身なれば、えいなびずして、「米百石の分(ぶん)、奉る」といひて、とらせたり。一斗とれば、又いできいできしければ、『いみじき物まうけたり』と思(おもひ)て、もたりけるほどに、百石とりはてたれば、米、うせにけり。袋ばかりになりぬれば、本意(ほい)なくて、返しとらせたり。世恒がもとにて、また、米一斗、いできにけり。かくて、えもいはぬ長者にてぞありける。

    *

これと酷似した話は「今昔物語集」の「卷十七」の「生江世經(いくえのよつね)吉祥天女(きつしやうてんによ)に仕(つかまつ)りて富(とみ)を得る語(こと) 第四十七」及び「古本説話集」第六十一に出る。前者では、毘沙門天が吉祥天(最初に食い扶持を与えるのが女であるからこれが原型か)であるものの、構造は全く同じであり、出て来るモンストロムも『額に角一つ生(はへ)て、目一つ有る者の、赤き俗衣をしたる鬼也』とある。他にも古典集成の大島氏の注によれば、類話は「元亨釈書」(それも吉祥天)にも載るようである。この無尽蔵の米袋、与えるのが山中の奇怪である点など、例の「遠野物語」の「迷い家(が)」から受ける器物を私は直に連想する。「百町」は百九キロメートル。

「犢鼻褌」原文で判る通り、「たふさぎ(たふさぎ)」と読む(古くは「たふさき」か)。陰部を蔽う布のこと。下袴(したばかま)。褌(ふんどし)。]

 中古以來の百鬼夜行畫卷などは、又是よりも一層自由なる空想の所産であるが、尚且つ暗々裡に之を導いて、大よそ世人の信ぜんとする所に向はしめた何物かゞあつたらしい。中でも目一つは記述描寫が殊に區々であつて、名先づ存して形は後に案じたかと見えるにも拘らす、或種の約束の其行動を限定するものがあつたのである。例へば川童(かはわらは)常に眼が二つであるのに、山童(やまわらは)なると一つに描いて居り(二)阿波土佐其他の山中に於て、山人又は山父と稱し、よく人の意中を知るなどといふ靈物も、一眼にして又一足であると言つて居た(三) 何故に獨り山に住む異形のみが、其樣な特微を以て弘く知られて居たかは、必ずしも氣まぐれなる小さい問題で無い。氣力ある若い學者ならば、幸ひに日本にばかり豐富に殘留した資料を處理して、之に由つて希臘北歐の神話にも共通した、神祕の謎を解き得る望さへあるのである。此希望が有る故に、假に當分は明晰なる結論に達することは出來ずとも、自分だけは今少し辛抱強く考へて行きたいと思ふ。

[やぶちゃん注:「區々」ちくま文庫全集版では「まちまち」とルビする。

「川童」河童。その原型、というか、語源。かはわろ。

「山童」山中に出る一つ目の小童姿の妖怪。やまわろ。河童の強い分布域である九州を始めとする西日本に伝わる山怪で、実際に一部では河(川)童が山中に入って山童となったとする伝承もある。ウィキの「山童」に掲げられた、江戸中期の画家佐脇嵩之(さわきすうし)の「百怪図巻」の「山わらう」(山童(やまわら)ふ)の図や、かの鳥山石燕「画図百鬼夜行」の「山童」の図を参照されたい。一つ目である。

「山人」妖怪名としてならば、「やまひと」「やまびと」と読むのが一般的。

「山父」「やまちち」。山爺(やまじじい)とも。ウィキの「山爺」に掲げられた、「絵本集艸」の「山父」の図や、「土佐お化け草紙」の「山父」の図を見ても、実は「山童」と全く同一様の妖怪であることが納得されるであろう(特に前者は佐脇嵩之(さわきすうし)の「百怪図巻」のそれと完全に相同であると言ってよい)。]

 片眼と片足との關係に就ても、四國の山神は二者を兼ね、東國一帶に於ては主として一本脚のみが傳へられ、又地方には目だけの不具を説いて居る、この地方的變化は確かに比較の價値があると思ふが、それは長くなる故に別に一章に立てた方がよい。差當り自分の些しく研究して見たいのは、目一つが單なる妖怪とまで零落して來た經路である。出雲の阿用郷の鬼の話はあるが、現在でもまだ一般には此化物の害惡といふものが説かれては居らぬ。單に目が一つで怖ろしいからおびえた。何をするか知れぬと思つて遁げたといふ迄で、魔神の段階としては至つて初期に屬するのみならず、尚時としては好人に好意を送り、或は悃請を聽許したといふ例さへある。即ち出現の目的は寧ろ信じ得ざる者を信ぜしめ、禮なき者を威嚇するに在つたと見ても差支無く、曾ては又當然の崇敬を受けて居た時代のあつたことも、略想像し得られるのである。江戸では近世に人つて一つ目小僧と稱し、狸などの變化(へんげ)して暫らく其相を示すやうにいふ人もあつたが、勿論證據を擧げ得べき事柄でも無い。小僧といふと如何にも輕々しいけれども、一つ前には又目一つ坊とも謂つた(四) 奧州ではヒトツマナグ(五) 日向ではメヒトツゴロといふのが同じものである(六) 此最後の名稱は、特に自分の注意して原由を考へんとする所であるが、其分布區域は思ひの外弘く、現に長崎方言集覽にも目一つの怪物む目一つ五郎、肥後でも球麻川水域では、それが山に住み谷の崖路たどに現はれる妖怪の名である(七) 五郎には或は深い意味は無いのかも知れぬ。鹿兒島縣の如きは殊に何にでも五郎を附け、一つ眼をメヒトツゴロ、川童をヘヂゴロと呼ぷ以外に、兎はウサンゴロ、眼玉が大なればメンゴロ、朝寢をすればアサニゴロ、無精者はフユシゴロ、はにかみ屋はイメゴロである(八) 大分縣でもむだ口をシナ、むだ口をきく者をシナゴロといふ土地がある。啞を中國邊でオシゴロ又はウシゴロ、それを單にゴロとのみいふのも、根原は一つらしい。即ち五郎は最も平凡なる男子の通稱であつた故に、斯うして綽名の臺に用ゐたことは、かの助兵衞土左衞門の同類とも考へられる。併しそれにしたところが、之を堂々たる目一つの妖魔に付與するに至つたのは、相應の理由が無くてはならぬ。其上に目一つの神を五郎と呼んだ例は別にまだ色々とあるのである。

[やぶちゃん注:「好人」「かうじん(こうじん)」で、人柄の素直な者。

「悃請」「こんせい」と読む。心を込めて願うことを指す。

「原由」「げんいう(げんゆう)」或いは「げんゆ」と読み、事の起こり・起源・原因の意。

「長崎方言集覽」古賀十二郎編で長崎市編「長崎市史 風俗編」に附録で載る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める(非常に捜しにくいので、同方言集の冒頭頁をリンクしておいた)。

「朝寢をすればアサニゴロ」ちくま文庫全集版では『アサネゴロ』となっている。どうも全集版の方が正しいようである。

「助兵衞土左衞門」ウィキの「助兵衛」によれば、好色な人間を揶揄する「助兵衛」は『本来はあることに非常に強い興味を示すことを指していた。「兵衛」は、「飲み助」「呑兵衛」などに付いている「助」「兵衛」と同じく、動詞や名詞を擬人化する接尾語であり、「助」は元々「好き」であった。しかし、当時は助兵衛が人名としては極めてありふれたものであったため、このように訛ったわけである』とし、用いられ始めたのは江戸時代で、好色の意味に限定されるようになったのは明治末近くとあるものの、この江戸時代と明治の終わりの箇所には出典要請が掛けられており、出典がしめされていないので確かでない。「語源由来辞典」の土左衛門(どざえもん)の項には『語源は、享保年間の力士「成瀬川土左衛門」が、色白で相当太っていたため、体の膨れ上がった水死体をふざけて「土左衛門のようだ」と、喩えて言っていたものが定着していったとされる』が、『この説は、山東京伝の随筆『近世奇跡考(きんせいきせきこう)』によるもの』の、『こじつけとの見方もある』。『その他、肥大漢を「土仏(どぶつ)」と言ったことから、「どざえもん」に転じたとする説』や『水に落ちる「ドブン」という音が「どざえもん」に転じたとする説などあるが、正確な語源は未詳である』とある。Kousyoublog 「ドラえもんと土左衛門(どざえもん)って関係あるのかな」は標題とうって変わった高尚な考証で、「近世奇跡考」も引かれており、それによればこの話、伝聞である上に成瀬川土左衛門は寛延元(一七四八)年に死亡しており、山東京伝はその十三年後の宝暦一一(一七六一)年生まれ、考証随筆「近世奇跡考」は京伝四十三歳の享和四・文化元(一八〇四)年刊行だから、六十年以上前の推測話であって確かにどうも怪しげで信じ難い。]

 それを説くに先つて一言附加して置くことは、化物の目一つは釦の中程に怖しく大きいのが始から一つあり、一方に多度の龍神たどは傷ついて片目になつたのである。二者を混同するのはやはり亦名に囚はれたといふ非難を受けさうであるが、是は想像の成長として説明することが出來ると思つて居る。信州の須阪邊で欅の大木の株から、額に眼の穴一つある髑髏を發掘した話があり(九) 或は稀には畸形兒が生れたといふ話もあるから(一〇) 其樣な想像は強められたかと思ふが、元來姿を人間として眼だけ眞中に一つと考へることは、あまりにも現實から遠くなる。故に土佐の山爺に關しても、或は説明して實は一眼に非ず、たゞ一眼は甚だ大にして光あり、他の一眼は甚だ小さし。故にちよつと見れば一眼と見えるので、人誤つて之を一眼一足と謂ふ也などゝ説明をした者もあつたが(一一) 是も亦よほど六つかしい話であつた。ところが此樣な珍しい考へ方にも尚類型があり又傳統があつた。金田一氏の調べて居らるゝアイヌラツクルの物語の中に、強い神の形容として、一つの目は山椒粒の如く他の一つは皿の如くといふ句が屢々出て來るといふことである。野州足利の鑁阿寺の文書に、此寺の願主足利義兼、臨終に身より血を出して、次のやうな記文を手書したと傳へて居る。曰く予神と成つて此寺の鎭守となるべし、將に一眼を開き一眼を閉ぢんとす。一眼を開くは此寺の繁昌を見んが爲、一眼を閉づるは此寺の衰微を見ざらんが爲云々(一二) 是はよつぽど無茶な理由ではあるが、多分はさういふ面相をした木像などが、永く此寺に傳はつて居たからであらう。どうして又そんな姿を遺したかといふと、自分の假定では、左右兩眼の大さの著しい相異が、神と崇められ若くは大神に奉仕する者の、大大なる要件であつた時代が曾てあつたかと思つて居るのである。其事を出來るならば證明して見たいと思ふ。

[やぶちゃん注:最後から二つ目の一文内の「大さ」はママ。「大(おほき(おおき))さ)さ」である。脱字ではなく、柳田國男はよくこう表記する。ちくま文庫全集版では「き」を送ってある。

「信州の須阪」現在は「すざか」と濁り、表記も「須坂」である(ちくま文庫全集版では『須坂』)。現在の長野県北部の須坂市。

「欅」老婆心乍ら、「けやき」と読む。バラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata

「畸形兒」先天奇形の単眼症(cyclopia:サイクロピア)。手塚治虫の「ブラックジャック」に成長した童子のサイクロピアを、見た目、正常人に形成する手術を施すというエピソードがあったが、私は初読、ちょっと信じ難い気がした(成長した少年であることと、そこで施される形成術自体もである)。また実際のサイクロピアはその殆んどが死産或いは出生直後に死亡し、奇形自体が稀である以上に、成長したとするケース自体を殆ど聴かないからである。参照したウィキの「単眼症」によれば、『視覚は正常に発達せず、また重い知的障害を伴うと考えられるが、単眼症児は生誕しても』、その殆どが一年以内に『死亡するため、詳細はわかっていない』ともある(因みに、通常ならば張るリンクをここでは張らない。当該ウィキにはサイクロピアの子どもの液浸標本写真が掲げてあるからである)。柳田はここで奇形を挙げておきながら、「元來姿を人間として眼だけ眞中に一つと考へることは、あまりにも現實から遠くなる」と述べているが、これは不審である。柳田はサイクロピアの奇形を聴きはしたものの、おぞましく感じてよく調べなかったのではないか? サイクロピアは眼が顔面のまさに中央に一基しか形成されず、しかも多くの場合、その単眼がかなり大きく見える(ネット上で画像を視認すると、中には単眼の中に二つ並んだ虹彩を持つケースもある)。また、同ウィキにある通り(この事実はあまり知られていないと思われる)、通常の『胎児の発生初期には眼胚の上方に鼻胚があり、眼が左右に分離した後に鼻がその間を通って眼の下方に位置するようになるが、単眼症では鼻の移動ができず、単眼の上方(額の部分)に位置するか、あるいは全く形成されずに終わることもある。鼻が形成された場合でも、鼻孔は一つしかなく、親指大の管状になって額に位置し、象鼻と呼ばれる特異な形状を呈する。口や耳は正常に近い形で形成されることが多い』とある。サイクロピアの奇形胎児はかなり印象が強烈なものであって、私は一つ目小僧の濫觴の一つにコノサイクロピアの奇形児の出生や、そうした先天性奇形の子どもを山中に放置遺棄した隠れた習慣があったのではないかと考えている。

「金田一氏」言語学者・民俗学者でアイヌ語の研究で知られた金田一京助(明治一五(一八八二)年~昭和四六(一九七一)年)。

「アイヌラツクル」アイヌ神話に於ける地上及び人の祖神とされる神の一人。ウィキの「イヌラックルより引く。『アイヌ民話における神。地上で誕生した初めての神であり、地上と人間の平和を守る神とされる。オイナカムイ、オキクルミなどの別名でも伝えられている』。『母親は天上から最初に地上に降りた女神、ハルニレの木の精霊でもあるチキサニ姫。父親は天上界で一番の荒神である雷神カンナカムイ。妻は天上の高位の女神である白鳥姫レタッチリ』とあって、日本神話の一つ目関連神である先に出た別雷(わけいかずち)との連関性が認められる。彼の生涯はリンク先を参照されたい。

「強い神の形容として、一つの目は山椒粒の如く他の一つは皿の如くといふ句が屢々出て來る」すわさき氏のサイト内の「かんたん神話学」のこちらのページ内の「アイヌラックル~日の女神を救え」に、魔神が登場するが(アイヌラックルではないので注意)、そこに『この魔神は巌(いわお)の鎧を身につけた、小山に手足の生えたような大怪物でした。トドの皮の』繩『で櫂ほどの太刀を腰に佩き、片目は満月のように巨大で爛々と輝いていましたが、もう片目はゴマ粒のように小さいのです。名を、村滴々国滴々(コタネチクチク・モシリチクチク)と言いました』とあり、こちらのページの「サマイュンクル~カムイコタンの魔神(ニツネカムイ)」の箇所にも、『ところが、カムイコタンに住んでいたのはチョウザメ神と熊神だけではありませんでした。近くの岩山の上に砦を築き、魔神(ニツネカムイ)が住み着いていたのです。その姿はコケの生えた岩のようで、巌の鎧をまとい、櫂のような刀を腰に縛りつけ、ザンバラ髪で、片目は満月のように大きく輝き片目はゴマ粒のように小さいのです。魔神は、いつも人間たちをひどい目に合わせてやろうと考えていました』とある(下線は孰れもやぶちゃん)。

「野州足利の鑁阿寺」寺名は「ばんなじ」と読む。現在の栃木県足利市家富町(いえとみちょう)にある真言宗金剛山仁王院法華坊鑁阿寺。ウィキの「鑁阿寺」によれば、足利氏の氏寺で、元々が足利氏の館(やかた)であり、現在でも四方に門が設けられてあり、寺の境内の周りには土塁と堀が廻って、鎌倉時代前後の武士の館の面影が残されてある。十二世紀中葉に足利氏の祖であった源義康が同地に居館を構え、建久七(一一九六)年に第二代当主足利義兼(後注参照。「鑁阿」は彼の戒名)が理真を招聘して、『自宅である居館に大日如来を奉納した持仏堂、堀内御堂を建立』したとある(次の「足利義兼」の注も必ず参照のこと)。

「足利義兼」(久寿元(一一五四)年?~正治元(一一九九)年)は鎌倉幕府の御家人で足利氏初代義康の子。ウィキの「足利義兼」によれば、『幼い時に父を亡くした義兼は、伯父である源(新田)義重の軍事的庇護を受けていたとされる』。治承四(一一八〇)年に『血縁的に近い源頼朝が以仁王の令旨に応じて伊豆国で挙兵すると、河内源氏の一族であり、また以仁王を養育した暲子内親王(八条院)の蔵人でもあった関係からか、義兼は比較的早い時期から頼朝に従軍していた』。元暦元(一一八四)年五月、『木曽義仲の遺児義高の残党の討伐において戦功を挙げた。その後、源範頼(頼朝の弟)に属して平氏を追討した功績により、頼朝の知行国であった上総国の国司(上総介)に推挙された』。文治五(一一八九)年の『奥州合戦にも従軍』した。建久元(一一九〇)年に『出羽国において奥州藤原氏の残党が挙兵すると(大河兼任の乱)、追討使としてこれを平定している』。文治元(一一八五)年に任ぜられた上総介を四年後の『頼朝の知行国返上まで務めるなど、頼朝の門葉として幕府において高い席次を与えられていた。しかし』、『頼朝の地位が高まっていくと、御家人として幕下に組み込まれることとなった』。建久六(一一九五)年三月に『東大寺で出家し、義称(ぎしょう)と称した。頼朝近親の源氏一族が相次いで粛清されたための処世術であったと言われている。義兼の死後も岳父北条時政の他の娘婿らが畠山重忠の乱に関与した疑いなどで次々と滅ぼされたが、足利氏は幕府内の地位を低下させながらも生き残った。出家後は下野国足利荘の樺崎寺』(かばさきじ:足利市樺崎町にあった。廃仏毀釈により廃寺となった)に隠棲、正治元(一一九九)年三月八日に『同寺において死去した後、同地に葬られた。生入定であったとも伝えられている。現在の樺崎八幡宮本殿は、義兼の廟所である赤御堂である。鑁阿寺は、義兼が居館に建立した持仏堂を義氏の代に整備したものとされる』(下線やぶちゃん)。]

(一) 詳しくは宇治拾遺物語卷一五。この最後の一話の固有名詞には、何か暗示があるらしく思ふが、自分はまだ之を見破るの力が無い。又強ひてさうするにも及ばぬと思ふ。

[やぶちゃん注:「最後の一話の固有名詞」主人公伊良緣世恒のことを指すのであろう。「今昔物語集」では『生江(いくえ)の世經(よつね)』、「古本説話集」では『伊曾(いそ)へ野(の)よつね』、「元亨釈書」では「大江諸世」(おおえのもろよ?)と出る。参照した新潮日本古典集成「宇治拾遺物語」の大島建彦氏の注によると、「今昔物語集」の同話には、『加賀ノ掾(じやう)ニテゾ有ケル』とあるが、伝不詳とする。本文は後掲。]

(二) 日本風俗志上卷に轉載した妖怪古圖などは其一例である。是は但し二手二足で、兩手で樹枝を持つて居る。

[やぶちゃん注:「日本風俗志」既出既注。そこでもリンクを張ったが、同じ絵。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで同書当該頁の画像を視認されたい。]

(三) 是には澤山の實驗談らしきものが記錄せられて居る。日本では奇妙に手のことだけは注意せず、「目一つ足一つ」に手も一本であつたといふ話を聞かぬ。是が西洋のと異つた要點である。

[やぶちゃん注:これは大変面白い着眼点である。手を「四足」と捉えて見て「手がない」と考えて見たとしても、これ、なかなか妖怪になり難い。「手」はまさに物理的にも感覚的にも現実世界に怪異が侵犯して来るに際して、「手」が伸ばせないのは、最も致命的なのかも知れない。実は私は秘かに一つ目小僧の都会的変種が「唐傘小僧」、所謂「からかさおばけ」だと考えているのであるが、あれも実に目一つ足一本であるが、傘から両手が生えている図で描かれることが圧倒的に多い。これはこれで別に考える必要がありそうだ。]

(四) 例へぱ嬉遊笑覽卷三の引用した淨土雙陸の繪など。

[やぶちゃん注:「嬉遊笑覽」「きゆうせうらん(しょうらん)」は喜多村信節(のぶよ)著になる考証随筆。全十二巻・付録一巻。天保元(一八三〇)年刊。

「淨土雙陸」これは「浄土双六」で「じやうどすごろく(じょうどすごろく)」と読む。「嬉遊笑覽」の「卷之三」の「化物繪」の条で、妖怪に対しての命名について、『此奇怪なるものに名のあるは、浄土繪双六など、始めなるべし』と記してあるのを指す。ウィキの「」によれば、『最古のものとされる浄土双六には絵の代わりに仏教の用語や教訓が書かれており、室町時代後期』(十五世紀後半)『には浄土双六が遊ばれていたとされる。なお、その名称や内容から元は浄土宗系統の僧侶によって作られたとも言われ、江戸時代の井原西鶴の作品(『好色一代男』などには)浄土双六がしばしば登場する。文政年間の曲亭馬琴の『耽奇漫録』によれば、当時』の『浄土双六には大きく分けて四種類あったとし、ほぼ同時期に書かれた柳亭種彦の『還魂紙料』には元は天台宗で初学の僧侶の学習のために作成された「仏法双六」が原型であったとする説を伝えている』とある。この場合の浄土双六は教戒性を喪失した子ども向けの妖怪双六と思われる。]

(五) 遠野方言誌。

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年六月郷土研究社刊。著者は人類学者で民俗学者でもあった伊能嘉矩(いのう かのり 慶応三(一八六七)年~大正一四(一九二五)年)は、台湾原住民の研究や、この郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、「遠野民俗学の先駆者」とも呼ばれる。ウィキの「伊能嘉矩」によれば、『横田村(現在の岩手県遠野市東舘町』(ひがしだてちょう)『)に生まれる。父母を早くに亡くしたが、両祖父から漢学・国学・国史などを学び、若くして学才を発揮する』。明治一八(一八八五)年、『上京して斯文黌』(漢学者で歴史学者の内藤耻叟の設立した私学)『に学ぶ。自由民権運動にも参加し、岩手県に戻』って『入学した岩手師範学校では寄宿舎騒動の首謀者とみなされ』て『放校処分を受ける。その後、再び上京、新聞社・出版社勤務を経た後』、明治二六(一八九三)年、『東京帝国大学で坪井正五郎から人類学を学んで、同門の鳥居龍蔵と出会った』。明治二七(一八九三)年十二月より、『鳥居と週一回行う人類学講習会を催した』。明治二八(一八九五)年、『日清戦争の結果、日本に割譲された台湾に』着目、『台湾総督府雇員となって台湾全土にわたる人類学調査に取り掛かった。その調査結果は、『台湾蕃人事情』として台湾総督府民政部文書課から刊行された(粟野伝之丞との共著)』。明治三九(一九〇六)年に帰国、その後は『郷里遠野を中心とした調査・研究を行うようになる。この間の著作に『上閉伊郡志』『岩手県史』『遠野夜話』などがある。研究を通じて柳田國男と交流を持つようになった。郷里の後輩である佐々木喜善とともに柳田の『遠野物語』成立に影響を与えた』が、『台湾滞在中に感染したマラリアが再発』、『思いがけない死を迎えた』。満五十八歳であった。『死後、柳田は伊能の残した台湾研究の遺稿の出版に力を注ぎ、それは』昭和三(一九二八)年に「台湾文化志」として刊行された、とある。]

(六) 民族二卷五九一頁。

(七) 小山勝淸君談。

[やぶちゃん注:小山勝清(おやまかつきよ 明治二九(一八九六)年~昭和四〇(一九六五)年)は熊本県球磨郡四浦村晴山(現在の熊本県球磨郡相良村)出身の作家。ウィキの「小山勝清」によれば、『「小山」の読みを、東京では「こやま」、熊本では「おやま」で通した』。『熊本県立鹿本中学校』(現在の熊本県立鹿本高等学校)を卒業、大正七(一九一八)年に『堺利彦の門下生となる。その後労働運動、農民運動を経て柳田國男に師事し、民俗学に関心を持つ。児童文学の創作で、「少年倶楽部」に『彦一頓知ばなし』でデビューした』。『巌流島の決闘で終わっている吉川英治の『宮本武蔵』に対して『それからの武蔵』を描きこれが広く知られる』とある。]

(八) 鹿兒島方言集に依る。

[やぶちゃん注:「蝸牛考」にも引用書として出るが、不詳。識者の御教授を乞う。]

(九) 信濃奇勝錄卷五。

[やぶちゃん注:「信濃奇勝錄」江戸末期の信濃国佐久郡臼田町(現在は長野県佐久市内)の神官であった井出道貞(いでみちさだ)が信濃国各地を十数年に亙って実地踏査を重ね、その見分した成果を記録した地誌。全五巻。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで当該箇所が読める。この記事、最後にまさに柳田の示した「出雲風土記」の阿用郷の『目一鬼(メヒトツノヲニ)』の摘録記載がある。]

(一〇) 本朝世紀久安六年十一月九日の條に例一つ、宗祇諸國物語卷五にも一つ。

[やぶちゃん注:「本朝世紀」「ほんてう(ほんちょう)せいき」は歴史書。二十巻。藤原通憲(信西)著。平安末の成立。鳥羽法皇の命を受けて「六国史」のあとを継承、宇多天皇から近衛天皇までの事跡を編年体に記したもので、久安六(一一五〇)年から着手したが、完成しないうちに平治の乱で途絶してしまった。

「久安六年」ユリウス暦一一五〇年。

「宗祇諸國物語」西村市郎右衛門著の宗祇の仮託本で、しかも怪奇談仕立てというトンデモ本(だが、私は好き)。貞享二(一六八五)年。同巻五の「千變万化」の一節に、宗祇が越後国に滞在していた折り、野本外記(のもとげき)なる人物が彼に、『此國にもある百姓の娘に目のひとつある者ありといふ。祇、さも有なん東國にて手三つ有男を見し。二つは常のごとく、今一つは背(せな)に有て指のならびは右の手におなし。……』(以下、フリークスのオン・パレード!)の最初の箇所を指す。以上の引用は私の所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を参考に、漢字を正字化し、一部、句読点を恣意的に変更した。]

(一一) 南路誌續篇稿草の卷二三、怪談抄。

[やぶちゃん注:「南路誌續篇稿草」既出既注。]

(一二) 大日本史料四編卷六、正治元年三月八日足利義兼入滅の條。

 

[やぶちゃん補注:以下に「今昔物語集」「卷二十七」「近江國安義橋鬼噉人語 第十三」を電子化しておく。□は欠字を示す。二〇〇一年岩波文庫刊池上洵一編「今昔物語集 本朝部 下」を参考にしたが、恣意的に漢字を正字化し、一部の漢字表記を変更、読点を増やし、ルビは歴史的仮名遣で私が附した。

 

 近江の國の安義(あき)の橋の鬼、人を噉(くら)へる語(こと) 第十三

 

 今昔、近江の守□□の□□と云(いひ)ける人、其の國に有(あり)ける間、館(たち)に若き男共勇(いさみ)たる、數(あまた)居て、昔(むか)し今の物語などして、碁・雙六を打ち、萬(よろづ)の遊をし(あそび)て、物食ひ酒飮(のみ)などしける次(つい)でに、「此の國に安義の橋と云ふ橋は、古へは人行けるを、何(いか)に云ひ傳(つたへ)たるにか、今は行く人過ぎずと云ひ出て、人行く事無し」など、一人が云ければ、おそばえたる者の口聞き鑭々(きらきら)しく、然(さ)る方に思(おぼ)え有けるが者の云(いは)く、彼(か)の安義の橋の事、實(まこと)とも不思(おぼえ)ずや有けむ、「己(おのれ)しも、其の橋は渡(わたり)なむかし。極(いみ)じき鬼也(なり)とも、此の御館(みたち)に有る、一(いち)の鹿毛(かげ)にだに乘(のり)たらば渡なむ」と。

 其の時に、殘(のこり)の者共、皆有限(かぎり)心を一(ひとつ)にして云く、「此れ絲(いと)吉(よ)き事也。直(なほ)く可行(ゆくべ)き道を、此(かか)る事を云ひ出てより横道(よこみち)するに、實(まこと)・虛言(そらごと)も知らむ。亦、此の主の心(ここ)ろの程も見む」と、勵ましければ、此の男、彌(いよい)よ被早(はやされ)て、諍(あらそ)ひ立(たち)にけり。

 此く云ひ立にたる事なれば、互に強く諍ふを、守(かみ)、此の事を聞て、「絲□□く喤(ののしる)は、何事を云ぞ」と問ければ、「然々(しかしか)の事を申す也」と、集(あつまり)て答ければ、守、「絲益無(やくな)き事をも諍ける男かな。馬に於ては早く得よ」と云ければ、此の男、「物狂しき戲事(たはぶれごと)に候(さぶら)ふ。傍痛(かたはらいた)く候ふ」と云ければ、異者(こともの)共集て、「弊々(つたなしつたな)し。弱々(よはしよは)し」と勵ませば、男の云く、「橋を渡らむ事の難きには非ず。御馬を欲(ほし)がる樣なるが傍痛き也」と。異者共、「日高く成ぬ。遲々(おそしおそ)し」と云て、馬に移置(うつしおい)て、引出て取(とら)せたれば、男、胸□□るゝ樣には思ゆれども、云ひ立(たち)にたる事なれば、此の馬の尻の方に油を多く塗て、腹帶強く結(ゆひ)て、鞭(むち)、手に貫(ぬき)れて、裝束、輕びやかにして、馬に乘て行くに、既に橋爪に行懸(ゆきかか)る程、胸□れて心地違(たが)ふ樣に怖しけれども、可立返(たちかへるべ)き事に非ねば、行くに、日も山の葉(は)近く成て、物心細氣也。況や、此る所なれば、人氣(ひとけ)も無く、里も遠く被見遣(みやられ)て、家も遙に、煙(けぶり)幽(かすか)にて、破無(わりな)く思々(おもふおも)ふ行くに、橋の半許(なかばばかり)に、遠くては然(さ)も見えざりつるに、人、居たり。

 此(これ)や鬼ならむと思ふも、靜心無(しづこころな)くて見れば、薄色の衣の□よかなるに、濃き單(ひとへ)、紅(くれなゐ)の袴(はかま)長やかにて、口覆(くちおほひ)して、破無(わりな)く心苦氣なる眼見(まみ)にて、女、居たり。打長(うちなが)めたる氣色も哀氣(あはれげ)也。我れにも非ず、人の落し置たる氣色にて、橋の高欄に押懸りて居たるが、人を見て、恥かし氣なる物から、喜(うれし)と思へる樣也。

 男、此れを見るに、更に來(き)し方行末も不思(おぼ)えず、「搔乘(かきの)せて行(ゆき)なばや」と、落懸(おちかかり)ぬべく哀れに思へども、「此(ここ)に此(かか)る者の有るべき樣(やう)無ければ、此は鬼なむめり」とて、「過ぎなむ」と、偏(ひとへ)に思ひ成して、眼を塞(ふさぎ)て走り打(うち)て通るを、此の女、今や物云ひ懸(かくる)と待けるに、無音(ぶいん)に過(すぐ)れば、「耶(や)、彼(あ)の主、何(な)どか絲(いと)情無(なさけな)くては過ぎ給ふ。奇異(あさまし)く、不思懸(おもひかけ)ぬ所に、人の棄(すて)て行たる也。人郷(ひとざと)まで將御(いておは)せ」と云ふをも不聞畢(ききはて)ず、頭(かしら)・身の毛太る樣に思えければ、馬を搔早めて、飛ぶが如くに行くを、此の女、「穴(あな)、情無(なさけな)」と云ふ音(こゑ)、地を響かす許(ばかり)也。立走(たちはしり)て來れば、「然(さ)ればよ」と思ふに、「觀音助け給へ」と念じて、奇異(あさまし)く駿(はや)き馬を鞭を打(うち)て馳(はす)れば、鬼、走り懸て、馬の尻に手を打懸々々(うちかくうちかく)引(ひか)ふるに、油を塗たれば、引□し引□して、否不捕(えとらへ)ず。

 男、馳て見返(みかへり)て見れば、面(おもて)は朱(しゆ)の色にて圓座(わらふだ)の如く廣くして、目一つ有り。長(たけ)は九尺許(ばかり)にて、手の指(および)三つ有り。爪は五寸許にて刀の樣也。色は綠靑(ろくしやう)の色にて、目は琥珀(こはく)の樣也。頭(かしら)の髮は蓬(よもぎ)の如く亂れて、見るに心・肝(きも)迷(まど)ひ怖しき事、限無し。只、觀音を念じ奉(たてまつり)て馳(は)する氣(け)にや、人郷に馳入(はせいり)ぬ。其の時に、鬼、「吉(よし)や、然(さ)りとも、遂に不會(あは)ざらむやは」と云て、搔消(かきけ)つ樣に失(うせ)ぬ。

 男は、喘々(あへくあへ)く、我れにも非で、彼(あ)れは誰(た)そ時(どき)に館に着(つき)たれば、館の者共、立騷て、「何々(いかにいか)に」と問ふに、只、消(きえ)に消入(きえいり)て、物不云(いは)ず。然れば、集て抑へて、心靜めて、守(かみ)も心もと無(な)がりて問(とひ)ければ、有(あり)つる事を落さず語(かたり)ければ、守、「益無(やくな)き物諍(ものあらそ)ひして、徒(いたづら)に死にすらむに」と云て、馬をば取(とら)せてけり。男、したり顏にて家に返(かへり)にけり。妻子眷屬に向(むかひ)て、此の事を語て恐(おぢ)けり。

 其の後、家に物怪(もつけ)の有ければ、陰陽師に其の祟(たたり)を問ふに、「其の日、重く愼むべし」と卜(うらなひ)たりければ、其の日に成(なり)て、門(かど)を差籠(さしこめ)て、堅く物忌(ものいみ)を爲(す)るに、此の男の同腹(どうふく)の弟、只一人有けるが、陸奧(みちのく)の守(かみ)に付(つき)て行(ゆき)にけるが、其の母をも具して將(いて)下りたりけるに、此の物忌の日しも返來(かへりき)て、門を叩(たたき)けるを、「堅き物忌也。明日を過(すぐ)して對面せむ。其の程は人の家をも借らむ」と云出(いひいで)たれば、弟、「絲(いと)破無(わりな)き事也。日も暮(くれ)にたり。己(おのれ)一人こそ外(ほか)にも罷(まか)らめ、若干(そこばく)の物共をば何(いか)がせむ。日次(ひつい)での惡(あし)く侍れば、今日は態(わざ)と詣來(まうでき)つる也。彼の老人(おいびと)は早う失給(うせたま)ひにしかば、其の事も自(みづか)ら申さむ」と云入れたれば、年來(としごろ)、不審(いぶかし)く悲く思ふ祖(おや)の事を思ふに、胸□れて、「此れを可聞(きくべ)き物忌にこそ有けれ」と云て、「只、疾(と)く開(あけ)よ」とて、泣き悲(かなしみ)て入れつ。

 然れば、庇(ひさし)の方にて、先づ物食(ものくは)せなどして後に、出向(いでむかひ)て、泣々(なくな)く語(かたら)ふに、弟、服(ぶく)、黑くして、泣々く云ひ居たり。兄も泣く。妻(め)は簾(すだれ)の内に居て、此の事共を聞く程に、何(いか)なる事をか云けむ、此の兄と弟と俄(にはか)に取組(とりくみ)て、がらがらと上に成り下に成り爲(す)るを、妻、「此(こ)は何(いか)に々(こはいか)に」と云へば、兄、弟を下に成して、「其の枕なる大刀取て遣(おこ)せよ」と云ふに、妻、「穴(あな)、極(いみ)じ。物に狂ふか。此(かか)る事は爲(す)るぞ」と云て不取(とら)せぬを、「尚、遣(おこ)せよ。然(さ)は、我れ死ねとや」と云ふ程に、下なる弟、押返して、兄を下に押成して、頸(くび)をふつと咋切(くひきり)落して、踊下(をどりおり)て行くとて、妻の方に見返り向(むかひ)て、「喜(うれし)く」と云ふ顏を見れば、彼の「橋にて被追(おはれ)たりき」と語りし鬼の顏にて有り。搔消(かきけ)つ樣に失(うせ)ぬ。其の時に、妻より始めて家の内の物共、皆泣き騷ぎ迷(まど)へども甲斐無くて止(やみ)にけり。

 然れば、女の賢(さかし)きは弊(つたな)き事也けり。若干(そこば)く取置ける物共、馬などと見けるは、萬の物の骨・頭(かしら)などにてぞ有ける。「由無(よしな)き諍(あらそひ)をして遂に命を失ふ、愚(おろか)なる事」とぞ、聞く人、皆、此の男を謗(そしり)ける。

 其の後、樣々(さまざま)の事共をして、鬼も失(うせ)にければ、今は無しとなむ語り傳へたるとや。

   *

 簡単に語注を附しておく。

・「おそばえたる者」「そばふ」は馴れてじゃれる、甘えてふざけるの意で、ここは所謂、お調子者の謂い。

・「鑭々(きらきら)しく」ここは悪い意味で、自己肥大して、如何にも偉そうな感じでの・。「然(さ)る方に思(おぼ)え有けるが者」腕に覚えがある者。武術に自信のある者。

・「鹿毛(かげ)」馬の毛色の名。全体に鹿の毛色のように茶褐色で、鬣(たてがみ)と尾及び四肢の下部が黒色のもの。

・「横道」廻り道。

・「諍(あらそ)ひ立(たち)にけり」周りから囃し立てられた結果、エキサイトして、やっとろうやないかい! てな感じで、さらに声高に騒ぎ出したのである。

・「云ひ立にたる事」(そのお調子者の男にしてみれば、)自分から最初に、渡ってやると言った関係上、(引くに引けず、やったる! やったろうやないか! と)なってしまった事から、「ほんまに渡るんか?」「なんやと?! ほんまや!」と「互に強く諍ふ」ことになり、さらにさらに声がでかくなって、言い争いとなり、それで主人(守)の耳にそれが聴こえてしまうのである。

・「絲□□く」「姦(かし)ましく」であろう。

・「益無(やくな)き」つまらぬこと。

・「馬に於ては早く得よ」馬の方は、望み通り、呉れてやる! 早く受け取れ!

・「傍痛(かたはらいたく)く候ふ」このような、我ら下々の者の下らぬ座興の言い争いに、ご主人さまが御馬を下賜され、それを受け取ると申すは、これ、たいそう気が引けまする。

・「弊々(つたなしつたな)し。弱々(よはしよは)し」池上氏の注には『見苦しいぞ。弱虫め。』とある。

・「胸□るゝ」「胸潰るる」であろう。後の箇所も同じい。

・「此の馬の尻の方に油を多く塗て」伏線。

・「鞭(むち)、手に貫(ぬき)れて」鞭の頭についている紐の輪を左手に手首に通して、危急の際でも鞭を落とさないようにしているのである。

・「山の葉」山の端(は)。

・「煙(けぶり)」民草の家の夕餉のための煙。

・「薄色」現代の薄紫色を指す。

・「衣の□よかなるに」「衣のなよよかなるに」であろう。

・「濃き單(ひとへ)」「薄色」の下に濃い紫色の単衣(ひとえ)を着ているのである。

・「口覆(くちおほひ)」袖で口元を隠す仕草のこと。

・「破無(わりな)く心苦氣なる」如何にも堪えきれぬほどに苦しそうな。

・「人の落し置たる氣色にて」自分でここまで来たのではなく、誰かに牛車か馬で強引に連れて来られて、そのままそこに遺棄されたような雰囲気で。

・「物から」接続助詞で、逆接の確定条件を示す。「~のものの」。

・「更に來(き)し方行末も不思(おぼ)えず」時空間識別も出来ない妖しい恍惚の心理状態に引き込まれ「馬上からかき抱いて馬に乗せ、連れてゆきたい!」などと思うのは、既にして、この女が人間でない証拠である。

・「無音(ぶいん)」声懸けしないこと。無言。

・『此の女、「穴(あな)、情無(なさけな)」と云ふ音(こゑ)、地を響かす許(ばかり)也』怪異のSE(サウンド・エフェクト)が美事。

・「引□し引□して」「引き外し引き外して」であろう。ここで「油」の伏線が鮮やかに生きるのである。

・「圓座(わらふだ)」藁・藺(い)・菅(すげ)などの植物の茎を渦巻状に円く平らく編んで作った板の間で坐る際に敷く敷物。

・「遂に不會(あは)ざらむやは」反語。

・「彼(あ)れは誰(た)そ時(どき)」これで一語。夕暮れ時。黄昏(たそがれ)時。「たそがれ時」はこれをひっくり返した「誰そ彼時」が原義。

・「抑へて」手当(世話)をしてやり。

・「心もと無(な)がりて」帰りが遅いので待ち遠しく思い、同時に気掛かりに思うの意のダブル。

・「徒(いたづら)に死にすらむに」池上氏の注には『あっけなく殺されるところだったぞ。』とある。

・「したり顏」得意顔。

・「物怪(もつけ)」予期しない事態。文脈からは凶事の予兆を感じさせるよくない妖しい出来事であろう。「物の怪」ではないので注意。

・「其の程は人の家をも借らむ」それまでは誰かの屋敷に一日だけ借りて滞在して居てくれ。

・「日次(ひつい)での惡(あし)く侍れば」占ったところが、帰宅は今日以外は良くなかったものですから。

・「彼の老人(おいびと)」二人の実母。

・「胸□れて」ここも「胸潰れて」。

・「此れを可聞(きくべ)き物忌にこそ有けれ」この度の物忌は、実はまさにこの、母の死を弟から聴くために、何もかも遠ざけて、天が采配してくれたところの物忌であったのだ。

・「庇(ひさし)の方」廂の間。寝殿造りなどで御母屋(おもや)の外側に附属された細長い下屋(げや)の部分。その外に簀(す)の子縁(こえん)を設ける。通常、客はここへ通す。

・「がらがらと」どたばたと。

・「ふつと咋切(くひきり)落して」首筋をブッツ! と咬んで、嚙み切り落したのである。強烈!

・『妻の方に見返り向(むかひ)て、「喜(うれし)く」』このアップが凄い!

・「鬼も失(うせ)にければ、今は無し」とは安義橋のこと。]

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