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2016/03/29

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(5) 御靈の後裔

       御靈の後裔

 

 何人も今まで深く注意したかつたことは、御靈景政説が錬倉の本元に於て、却つて必ずしも強く主張せられないことである。從つて諸國の御靈社の、現に鎌倉から勸請したと稱するものも、尚意外なる色々の由緒を存し、更に又其外にも之と獨立して、珍しい信仰と傳説とがある。之を悉く曾て鎌倉に始まつて遠く流布したものと見ることは困難なやうである。そこで實地の比較を試みると、地方によつて無論若干の異同はあるが、大體次の如き諸點は、今日の社記や口碑の特徴として算へられる。さうして其大部分は鎌倉の本社の與り知らなかつたことであるらしい。

 第一には主として奧羽地方でいふ片目淸水、勿ち權五部が戰場からの歸途に靈泉に浴して箭の疵を治したといふ傳説である。例へば羽前東村山郡高櫤(たかたま)の八幡神社にも、景政の來り浴したといふ淸池があり、其折鎌倉より奉じ末つた八幡の鑄像を、岸の樛木(ヌルデ?)に掛けて置いたら、靈異があつたので此社を建立したと稱し、今も境内社の一つに御靈社がある(一) 羽後の飽海郡平田村の矢流川も、景政射られたる片目を此水に洗ふと稱して八幡の社がある。川に住む黃顙魚(かじか)は之に由つて皆片目なりと謂つて居る(二) 同じ山形縣の名所の山寺にも景政堂があつた。土地の蟲追祭に此堂から鉦太鼓を鳴らして追へば、蟲忽ち去ると謂つたのは正しく惡靈退治の信仰だが、玆にも景政の目洗ひ池片目の魚の話があり、此山即ち烏海の柵址とさへ言ふ者があつた(三) それから嶺を越えて福島の平野に下ると、城下の近くの信夫郡矢野目村は、景政眼の創を洗つて平癒した故に村の名が出來たといひ南矢野目には亦片目淸水がある。後世池中の小魚悉く左の目眇であるのは、疵の血が流れて此淸水にまじつたからといふさうである(四) 宮城縣では亘理郡田澤村柳澤といふ處に、景政を祭るといふ五郎宮一名五郎權現があつた。柳澤本來は矢抽澤(やぬきさは)であり、祭神が鏃を拔き棄てた故に此名があると説明せられた(五) 斯ういふ實例は多くなる程證據としては弱くなるが、それでもまだ奧州路ならば、爰だけは本物とも強辯することが出來る。よくよく説明の六つかしいのは、信州伊那の雲彩寺などの、やはり權五郎來つて眼の疵を洗つたと傳ふる故迹である。池の名を恨の池と呼んで居るのは、恐らくは別に同名の異人があつて、其記憶を誤つたことを意味するかと思ふが、玆でも其水に居る榮螈(いもり)は、今に至るまで左の眼が潰れて居ると謂つて居る(六) 要するに傅説の景政は單に超人的勇猛を以て世を驚かすのみで滿足せず、一應は必ず靈泉の滸に來て、神德を魚蟲の生活に裏書することになつて居たのである(七) 之に基づく信仰が一轉して眼病の祈願となり、例へば武州橘樹郡芝生村の洪福寺に、景政の守り本尊、聖德太子の御作といふ藥師坐像を、目洗ひ藥師と名けて崇敬したなどといふのは、至つて自然なる推移であつた。

[やぶちゃん注:「羽前東村山郡高櫤(たかたま)の八幡神社」ちくま文庫版や多くの記載では「たかだま」と濁る(しかし旧同村内にある山形県天童市大字長岡。現在の奥羽本線の「高擶駅」は「たかたまえき」と清音である)。しかし、ウィキの「高擶駅」によれば、『駅名は開業当初、当駅が所属していた高擶村(たかだまむら)からとられているが、読みが異なる。駅東に残る高擶の地名も「たかだま」と読んでいる。周辺の道路標識には「Takadama」とローマ字で綴られているが、JR東日本では「Takatama」としている。しかし駅の利用者や車掌の大部分は「たかだま」と呼んでいる』。『「擶」は非常に珍しい漢字であるが、音は「セン」、訓は「ただす」で』、『「擶」は、俗称「タモ」と呼ばれる「楡(ニレ)」の木に由来している』とあるから、村名としては濁音の「たかだま」が正しいようである。この神社は現在の山形県天童市清池(しょうげ)にある清池八幡神社である。この神社は寛治六(一〇六二)年に『源義家の家臣鎌倉権五郎景政が創建。本殿の背後には、目を射られた景政が矢を抜き取り、目を洗ったと伝える御手洗池がある。この伝承が清池の地名の由来である』旨と、天童市教育委員会の設置した案内板にあると、。個人サイト「全国巨樹探訪記」の「清池八幡神社のケヤキ」にある。

「樛木」この「樛」は狭義には「つが」で、裸子植物門マツ綱マツ目マツ科ツガ属ツガ Tsuga sieboldii であるが、本種はウィキの「ツガ」によれば、『日本の本州中部から屋久島にかけてと韓国の鬱陵島に分布する。暖温帯(照葉樹林)から冷温帯(落葉広葉樹林)の中間地帯(中間温帯林)に主に分布する』とあって山形はやや無理があるか? 他に一般名詞(「キュウボク」と音読み)すると、「枝が曲がり下がった木」の意を持ち、鋳造した八幡像を掛けるというのであれば、これは相応しいとも言えるか?

「ヌルデ」被子植物綱ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis であるが柳田自身「?」を附しており、「樛」がヌルデを指すという事実も見当たらないので、これは考証するだけ無駄である気もする。

「羽後の飽海郡平田村の矢流川も、景政射られたる片目を此水に洗ふと稱して八幡の社がある」現在の山形県酒田市内。地図を検索した結果、山形県酒田市生石矢流川という行政地名が現存し、ここは西で東平田地区と接しており、矢流川の北端には八幡神社があるので、ここと推定される。

「黃顙魚(かじか)」条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux 及びその同属種。ゴリ・ドンコとも呼ばれる。

「山形縣の名所の山寺にも景政堂があつた」山形県山形市の天台宗宝珠山立石寺(りっしゃくじ)であるが、私は三度行ったが、記憶の中に「景政堂」はない。公式サイトの地図にも見当たらない。本文が「あつた」と過去形になっているのが気になる。識者の御教授を乞う。

「蟲追祭」虫送り。稲の虫害を防ぐための民間祭事。多くは五~八月頃に行われ、藁人形を中心に松明を連ね、鉦・太鼓で囃し立てながら田の畦をねり歩き、最後に人形は海や村境の川に流すか焼き捨てる。

「信夫郡矢野目村は、景政眼の創を洗つて平癒した故に村の名が出來たといひ南矢野目には亦片目淸水がある」現在の福島県福島市にある矢野目地区(行政地名では北矢野目と南矢野目がある)で、現在、この清水は「片目清水公園」(片目清水・めっこ清水)となって、湧水が保全されている。個人サイトと思われる「福島の歴史あっちこっち」のこちらを参照されたい。

「亘理郡田澤村柳澤といふ處に、景政を祭るといふ五郎宮一名五郎權現があつた」現在の宮城県亘理(わたり)郡亘理町逢隈田沢(おおくまたざわ)附近かと思われるが、権現は確認出来ない。ウェブサイト「いざ鎌倉」の「武士列伝鎌倉景政」に『矢抜沢(亘理町逢隈田沢字柳沢)という地名があり、矢抜沢のほとりに「権五郎矢抜石」という石があ』ると記す。この石については、現在は、『耕地整理のために』『逢隈田沢地区の民家入り口にあ』るとして、こちらの Nachtigall Blaue の写真で現認出来る。

「信州伊那の雲彩寺」現在の長野県飯田市上郷飯沼にある曹洞宗白雉山雲彩寺。この寺は境内にある前方後円墳で知られるが、その北東の端に宝篋印塔と五輪塔(二基)が造立されており、これを権五郎景政の墓と伝承する。

「池の名を恨の池と呼んで居る」個人サイト「戦国時代の城」の「景政と神社」に、この雲彩寺について、雲彩寺境内にある「うらみ池」を挙げ、ここの『清水のいもりは左の眼が潰れているという。うらみのわけはわからない。 権五郎景政はしばらくこの寺にいたという』と記す。

「武州橘樹郡芝生村の洪福寺に、景政の守り本尊、聖德太子の御作といふ藥師坐像を、目洗ひ藥師と名けて崇敬」現在の神奈川県横浜市西区浅間町にある臨済宗海東山洪福寺。いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」のこちらに詳しい。それによれば、「新編武蔵風土記稿」に、『今の客殿七間に五間ここに安せし薬師は、鎌倉権五郎景政が守り本尊にて、目洗薬師と云坐像丈三寸五分聖徳太子の作なり』とある由の記載がある。]

 第二の特微として注意すべきは、景政が神を祭り佛堂を建立し神木を栽ゑ又塚を築いたといふ口碑が、北は奧羽から南は九州にも及んで居ることである。即ち此人の神に祀られるに至つた主たる理由は、自身が先づ非常に信心深く、より大なる神に事へて最も敬虔であつた故に、其餘德を以て配祀を受けたといふものの多いことである。是にも澤山の例を擧げ得るが、先を急ぐから省略する。奧羽の方面の例は前に述べたが、九州に於てもやはり主神を八幡とし、男山石淸水を勸請したといふ場合が多く、大抵今は相殿の一座を占めさうで無ければ境内の主要なる一社であることが、若宮と八幡との關係によく似て居る(八) 十六歳の時に眼を射られて全治したと言ふ以外に、是といふ逸話もなかつた權五郎としては、實際主人の八幡太郎と緣の深かつた八幡神の關係を除いては、斯樣に弘く祭られる理由は考へやうが無いわけである。

[やぶちゃん注:「男山石淸水」京の石清水八幡宮は旧称「男山八幡宮」と称した。

「若宮と八幡との關係」この二語はしばしば同義としても用いられるが、ここで柳田國男は明らかに異なったものとして述べている。「若宮」は神道の祭祀に於いては、「主祭神である親神に対して御子(みこ)神とその社」を指す他、「本宮を他所に移して勧請して祀った社」の謂いであり、特に後者には特に、「祟りをなす御霊として怖れられた霊を祀る社及びその神」を含んだ。一方八幡神は最も早い神仏習合神で、参照した「大辞林」によれば、『本来は豊前国(大分県)宇佐地方で信仰されていた農業神とされ』、宝亀一二・天応元(七八一)年に『仏教保護・護国の神として大菩薩の号を贈られ』、以後、『寺院の鎮守に勧請されることが多くなった。また』、『八幡神を応神天皇とその母神功皇后とする信仰や』、平安末期以降は、『源氏の氏神とする信仰が生まれ』、『武神・軍神としての性格を強めた』とある。柳田の謂わんとするところは、強いパワー(言っておくが祟りだけではない)を持つ御霊神と武芸神である神仏習合の八幡菩薩神との宗教学的民俗学的関係という謂いで採る。]

 第三の特徴は、此神が常に託宣に依つて、神德を發揮したらしきことである。品川の東海寺に在る鎭守の御靈社は、長一尺四寸幅三寸餘の板を神體とするが、是は曾て當寺門前の海岸に漂著したものであつた。これを祀つた小丘を景政塚といひ、景政の塚は是だと謂つて居たが(九) 突然にそんな事の知れたのは神の告でおつたらう。告を信じたのは祟があつたからかと思ふ。もつと明白なのは福島郡仁井田の滑川(なめかは)神社の御靈である。景政征奧の途次此地に於て水難に遭ひ、村の人に助けられて謝禮の歌を短册に書いて殘したといふものが、四百十餘年後の文明三年に、始めて神體として此地に祭られたのである。それから又九十年後にも、領主の滑川修理が新館を築く際に託宣があつて、舊恩を謝する爲に此地に鎭護せんと告げた。さうして今日まで八幡天神と合祀せられて居るのである(一〇)斯ういふ隱れたる事由が無かつたなら、多くの御靈杜の口碑は實は虛妄になるのであつた。記錄の證跡は無くとも由來談は自由に成長して、聽く人の之を疑ひ得なかつたといふのは信仰である。最初至つて不明であつた權五郎の事蹟が、世を逐うて次第に精しくなつたのは此結果と見るの他は無い。從つて古くは吾妻鏡に記す所の、鎌倉の女房の夢に見えた景政なども、或は間接に今日の御靈社社傳に參與して居るのかも知らぬ。たゞ問題は如何にして其樣な夢が、語られることになつたかに歸著するのである。

[やぶちゃん注:「品川の東海寺に在る鎭守の御靈社」「これを祀つた小丘を景政塚」既出既注

「長一尺四寸幅三寸」全長四十二・四二センチメートル、幅九・〇九センチメートル・

「福島郡仁井田の滑川(なめかは)神社」現在の福島県須賀川市宮の杜にある滑川神社。

「文明三年」室町末期の一四七一年。

「それから又九十年後」戦国時代の永禄四(一五六一)年。]

 最後に一番重要なる特徴は、諸國に景政の後裔の段々に顯れて來たことである。その中で目ぼしきものは上州白井の長尾氏、是は系圖にも景政の後と書いて、熱信に御靈を祀つて居た[やぶちゃん字注:「熱信」はママ。](一一)信州南安曇の温(ゆたか)村にも其一派が居住し、後に越後に移つて謙信を出したのである(一二)奧州二本松領の多田野村に於て、御靈を祀つたのも長尾氏であつた。只野油井などの苗字に分れて、今も彼地方に榮えて居る。子孫五流ありといふ説なども彼等から出たのである(一三)長州藩の名家香川氏も亦景政の後といひ、其郷里安藝の沼田郡八木村には景政社があつた。近世改修して眇目の木像が神體として安置せられてあつた(一四)野州芳賀郡七井村大澤の御靈神杜なども、神主の大澤氏はもと別當山伏であつて、寺を景政寺と稱し梶原景時の裔と言つて居た。景時此地を領する時に建立したと傳へるが、社は八幡三所を主神として之に權五郎を配し、更に今では日本武尊の御事蹟を語る所から、其從臣の大伴武日尊をさへ合祀して居るのである(一五)其他能登では鳳至郡谷内(やち)村、打越の與兵衞といふ百姓が、鎌倉權五郎の子孫であり(一六)東國にもたしか同じ言ひ傳へを持つ農民があつた。

[やぶちゃん注:「上州白井の長尾氏」南北朝時代の山内上杉憲顕の有力家臣であった長尾景忠が始祖とされる上野(こうずけ)長尾氏。憲顕が越後国及び上野国の守護に補任され、その下で守護代を務めてそこに地盤を固めた。

「信州南安曇の温(ゆたか)村」現在の安曇野市三郷温(みさとゆたか)。

「謙信」彼の旧名は長尾景虎。

「奧州二本松領の多田野村」現在の福島県郡山市逢瀬町多田野附近。後注に出るように旧安積(あさか)郡。

「只野」ウィキの「鎌倉氏」を見ると、『景正の嫡子の鎌倉景継が後を継ぎ、さらにその息子の義景が三浦郡長江村にて長江氏を称し、義景の弟である重時は板倉重家の跡を継いで板倉氏を称した。景正の息子景門は安積氏を称し、その末裔は只野氏(多田野氏)を称した』とある。

「子孫五流あり」ウィキの「鎌倉氏」を見ると、支流・分家として、板倉氏・安積氏・只野氏・香川氏・古屋氏・梶原氏・酒匂氏・大庭氏・長尾氏・長江氏が挙げられてある。

「長州藩の名家香川氏」ウィキの「香川氏」によれば、『相模国を本貫地とする一族で、鎌倉景政より四代の孫にあたる鎌倉景高が相模国高座郡香河(現在の神奈川県茅ヶ崎市周辺)を支配して以降、香川氏を称したのに始まる』とある。

「安藝の沼田郡八木村には景政社があつた」現在の広島県広島市安佐南区八木。ウィキの「八木(広島市」に「権五郎神社」として、『八木城主香川氏の祖先「鎌倉権五郎景正」を祀る。香川家七代目の景光が八木城築城と共に景正の霊を勧請し、子孫が代々祭ってきた』とあるから、現存する。

「野州芳賀郡七井村大澤の御靈神杜なども、神主の大澤氏はもと別當山伏であつて、寺を景政寺と稱し梶原景時の裔と言つて居た」現在の栃木県芳賀郡益子町大沢にある御霊(みたま)神社のことと思われる。

「大伴武日尊」「おほとものたけひのみこと」と読む。「日本書紀」等に出る人物。大伴連(大伴氏)の遠祖とされ、ここに出るように、日本武尊東征の際の従者の一人。

「鳳至郡谷内(やち)村」「鳳至」は「ふげし」と読む。現在の石川県輪島市或いは鳳珠(ほうす)郡穴水町或いは鳳珠郡能登町内のどこかでは、ある(「谷内」という地名は字まで含めると複数あり、特定出来なかった)。]

 自分は今に及んで彼等が系譜の眞僞を鑑定せんとするやうな、念の入り過ぎた史學には左袒する氣は無い。眞にせよ僞にせよ、はた巫覡の夢語りにせよ、何故に當初斯樣な事を信ずべき必要があり、それが又地を隔てゝ此通り一致したか、別の言葉で言へば、景政を先祖に有つといふことの意義如何。所領相傳の證據にもならず、乃至は血筋の尊貴を誇るべき動機でも無しに、尚此類の由緒を大切にした所以のものは、別に何か目の一つしか無い人の子孫であることが、特に神寵を專らにすべき隱れたる法則があつたのでは無いか。陸前小野郷の永江氏の如きは、鬱然たる一郡の巨姓であつて、必すしも御靈の信仰に衣食した者で無いにも拘らず、寺を興し社を崇敬して、頗るかの地方の景政遺迹を、史實化した形がある。白井の長尾氏、藝州の香川氏なども其通りで、是は寧ろ家の祖先の言ひ傳への中に、偶然に眼を傷けたる物語が保存せられて居た爲に、進んで解釋を著名の勇士に近づけた結果かも知れぬ。さうすれば又源に遡つて、鎌倉の御靈に奉仕した梶原其他の近郷の名族が、却つて今ある保元物語の奇談の種を、世上に供給するに至つた事情もわかるのである(一七)但し如何なる場合にも、傳説の原因は單純で無いのが常である。殊に其發生が古ければ、一層之を分析することが面倒である。長たらしくなるが此序で無いと、こんな問題を取扱ふことは出來ぬ故に、今少しく辛抱して神と片目との關係を考へて行かうと思ふ。

[やぶちゃん注:「左袒」「さたん」と読む。「袒」は衣を脱いで肩を露わにする意で、前漢の功臣周勃(しゅうぼつ)が呂氏(りょし)の乱を鎮定しようとした際、呂氏に味方する者は右袒せよ、劉氏(りゅうし:漢の皇室一族)に味方する者は左袒せよ、と軍中に申し渡したところ、全軍が左袒したという「史記」呂后本紀の故事に拠る。味方すること。

「巫覡」「ふげき」既出既注

「陸前小野郷現在の宮城県東松島市内か。

「永江氏」柳田は「鬱然たる」(勢いよく盛んなる)「巨姓」(一大豪族の氏の姓(せい))と述べているが、私には不詳。識者の御教授を乞うものである。]

(一)明治神社誌料に依る。

(二)莊内可成談。和漢三才圖會卷六五に、烏海山の麓の某川とあるのも同じ處のことらしい。

[やぶちゃん注:「莊内可成談」は「しやうないなるべしだん(しょうないなるべしだん)」と読む(ちくま文庫版全集に拠る)。井上円了の「妖怪学講義」にも引かれる著作ながら、詳細は不明。所持する二〇〇一年柏書房刊「井上円了妖怪学全集」(東洋大学井上円了記念学術センター編)第六巻にある、編者による「妖怪学参考図書解題」にも未詳とするが、円了の引用内容から、『荘内地方記の奇聞・怪異などの話を集めた図書と思われ』、「図書総目録」にある「庄内可成談抄」『(随筆・写本・東大〔大泉叢誌一八〕の記述があり、同一本と思われる』とある。

「和漢三才圖會卷六五に、烏海山の麓の某川とある」「和漢三才圖會」は江戸中期の大坂の医師寺島(てらじま)良安によって、明の王圻(おうき)の撰になる「三才圖會」に倣って編せられた百科事典。全百五巻八十一冊、約三十年の歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃(自序のクレジットから推測)完成、大坂杏林堂から出版されたもの。その地誌相当部の「出羽」の「鳥海山權現」の条の条に以下のようにある(やや長いが、非常に興味深いので引く。電子化は原文を私が視認し、私がオリジナルに書き下したものである。「祭神」以下は原本では全体が一字下げである)。

   *

原文(【 】は二行割注)

鳥海山權現 在鳥海山

祭神 未詳

慈覺大師始登山【云云】最髙山常有雪潔齋六七月可登而山頂無寺社唯見奇磐窟也麓有社俗傳曰鳥海彌三郎靈祠也有川鎌倉權五郎景政與鳥海彌三郎戰被射右眼放答矢射殺敵後後拔鏃到此川洗眼【云云】此川有黃顙魚一眼眇也

陸奥話記云安東太郎賴時自稱安倍將軍押領奥羽二州有四男一女嫡子盲目二男安東太郎良宗三男厨川次郎貞任四男鳥海彌三郎宗任也【天喜五年九月】源賴義奉勅攻賴時於是賴時中矢死貞任力戰而賴義同義家敗軍【康平五年】復征伐遂討貞任虜宗任【二男良宗降免罪去女子爲義家之妾】自此鳥海彌三郎爲義家之臣而後【寛治五年】義家征伐武衡家衡時鎌倉權五郎景政【生年十六】合戰所射右眼【自康平五年三十年以後】以之考則其射者非鳥海彌三郎明矣但其戰塲乃此鳥海邊乎舊彌三郎所領也故以鳥海爲稱號然不知祭其靈所以爲神也

やぶちゃんの書き下し文(原文の訓点はカタカナ。〔 〕は私の補填。一部の略字や歴史的仮名遣の誤りを訂し、一部の清音を濁音化した)

鳥海山權現 鳥海山に在り。

祭神 未だ詳らかならず。

慈覺大師、始めて登山すと【云々】。最も髙山にして、常に、雪、有り。潔齋して、六・七月、登るべし。而〔れども〕山頂に、寺、無く、社、唯だ、奇(あや)しき磐窟(いはや)見るのみ。麓に社有り、俗に傳へて曰く、鳥の海の彌三郎の靈祠なりと。川有り、鎌倉權五郎景政、鳥の海彌三郎と戰ひて、右の眼を射〔らるるも〕、答(たふ)の矢を放(はな)ち、敵を射殺して後に、鏃(やじり)を拔き、此の川に到り、眼を洗ふと【云々】。此の川に黃顙魚(かじか)有り、一眼は眇(すがめ)なり。

「陸奥話記」に云ふ。安東太郎賴時と云ふもの、自(おのづか)ら「安倍將軍」と稱(なの)り、奥羽二州を押領す。四男一女有り、嫡子(ちやくし)は盲目なり。二男は安東太郎良宗、三男は厨川(くりやかは)の次郎貞任(さだとふ)、四男鳥海彌三郎宗任なり。【天喜五年九月、】源賴義、勅を奉じて、賴時を攻む。是に於いて、賴時、矢に中りて、死す。貞任、力戰して賴義と同じく義家、敗軍す。【康平五年、】復た征伐して遂に貞任を討ち、宗任を虜(いけど)る。【二男良宗、降りて罪を免かれ、去る。女子は義家の妾と爲る。】此れより、鳥海彌三郎義家の臣と爲る。而して後、【寛治五年、】義家、武衡・家衡を征伐の時、鎌倉の權五郎景政【生年十六。】、合戰し、右(めて)の眼を射らる【康平五年より三十年以後。】。之れを以つて考へれば、則ち、其の射たる者は鳥海彌三郎に非ざること、明なり。但し、其の戰塲は乃ち此の鳥海の邊ならんか。舊(もと)彌三郎が所領なり。故に鳥海を以つて稱號と爲す。然れども、其の靈を祭りて神と爲る所以を知らざるなり。

   *

以上の引用に就いて禁欲的に注する。「鳥の海の彌三郎」が安倍「宗任」(長元五(一〇三二)年~嘉承三(一一〇八)年)の別名で、同一人物であるというのは既に既注であるが、例えばウィキの「安倍宗任によれば、『奥州奥六郡(岩手県内陸部)を基盤とし、父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦う(前九年の役)。一族は奮戦し、貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害されるが、宗任らは降服し一命をとりとめ、源義家に都へ連行された。その際、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、梅の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて都人を驚かせたという』(『平家物語』剣巻)。その後、彼は『四国の伊予国に流され、現在の今治市の富田地区に』三年住んだが、その後、『少しずつ勢力をつけたため』、治暦三(一〇六七)年に『九州の筑前国宗像郡の筑前大島に再配流された。その後、宗像の大名である宗像氏によって、日朝・日宋貿易の際に重要な役割を果たしたと考えられる。また、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建て』、嘉承三年二月四日に七十七歳で亡くなったとあるのを見ても、この景政武勇伝がデッチアゲ(少なくとも景政を射たのは鳥海弥三郎安倍宗任なんかではない)ということがお分かり戴けよう。但し、実在した鎌倉景政(景正)(延久元(一〇六九)年~?)と同時代人ではある(但し、宗任の方が三十七も年上で、実在の景政十六の砌りとしたら、宗任は実に五十三歳である。絵にならない)。

・「鳥海山權現」「麓に社有り」現在の山形県飽海(あくみ)郡遊佐町(ゆさまち)にある鳥海山大物忌(ちょうかいさんおおものいみ)神社を指し、これは鳥海山頂(標高二二三六メートル)の本社、麓にある吹浦(ふくら)と蕨岡(わらびおか)の二か所の口之宮(里宮)の総称。鳥海山そのものを神体山とする。寺島は「祭神 未だ詳らかならず」と言っているが、現在でもその祭神とする大物忌神(おおものいみのかみ)はここ鳥海山に宿るとされる神とばかりで、よく判っていない。恐らくは活火山としてたびたび噴火したことから、火山の噴火を神の怒りとした、非常に古い(恐らくは大和朝廷以前)山岳信仰に基づくものと思われ、また、ウィキの「鳥海山」には、『秋田県の郷土史家田牧久穂は、大物忌神は大和朝廷による蝦夷征服の歴史を反映し、蝦夷の怨霊を鎮める意味の神名だと述べている』ともあって、大和朝廷嫌いの私にとっては非常に興味深い。本話から考えると、川が近くなくてはならないので、ここで寺島が言うのは蕨岡の方かと推測される。

・「慈覺大師」遣唐僧で第三代天台座主として関東以北に驚くべき数の寺を建立したとされる伝説の名僧円仁(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年)。

・「陸奥話記」「前九年の役」を主題とした軍記物。一巻。「将門記」とともに軍記物のはしりで、十一世紀後半の成立とされる。作者は未詳ながら、後冷泉天皇朝にあって文章博士や大学頭を歴任した、「本朝文粋(もんずい)」の作者として知られる儒学者で文人の藤原明衡(あきひら 永祚元(九八九)年?~治暦二(一〇六六)年)はとする説が有力。

・「安東太郎賴時」(?~天喜五(一〇五六)年)は陸奥国奥六郡を治めた俘囚の長(おさ)(俘囚は陸奥・出羽の蝦夷の中で朝廷の支配に属するようになったもの)。ウィキの「安倍頼時によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『孫に奥州藤原氏の初代藤原清衡がいる』。『安倍氏は奥六郡に族長制の半独立勢力を形成しており、十一世紀の半ばには安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態となった。永承六年(一〇五一年)には、陸奥守・藤原登任が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試みたため、頼良(のちの頼時)は俘囚らを動員して衣川を越えて国衙領へ侵攻し、鬼切部の戦いにおいて国府側を撃破した(前九年の役)。朝廷では源氏の源頼義を新たに陸奥守に任命して派遣するが、頼義が陸奥に赴任した翌永承七年(一〇五二年)春、朝廷において上東門院藤原彰子の病気快癒祈願のために安倍氏に大赦が出され、頼良も朝廷に逆らった罪を赦されることとなった。頼良は頼義と名の読みが同じことを遠慮して「頼時」と改名した』。『天喜四年(一〇五六年)、頼義が任期満了で陸奥守を辞める直前、多賀城へ帰還中の頼義軍の部下の営所を何者かが夜襲したとされ、その嫌疑人として頼義が頼時の嫡子・貞任の身柄を要求した(阿久利川事件)。頼時は頼義の要求を拒絶して挙兵し、頼義に頼時追討の宣旨が下った』。『天喜五年(一〇五七年)七月、反旗を翻した一族と見られる豪族・安倍富忠を説得するために頼時は北上したが、仁土呂志辺においてに富忠勢に奇襲を受け、流れ矢を受けて深手を負った。重傷の身で鳥海柵まで退却したが、本拠地の衣川を目前に鳥海柵で没し、貞任が頼時の跡を継いだ』とある。これに従うなら、彼に矢を射たのは裏切った同族の者であって、寺島が記すような「源賴義」が「賴時を攻」めて、その戦さの最中に「矢に中りて、死」んだのでさえない、ということになる。

「安東太郎良宗」不詳。安東姓は安倍の別称。

「厨川の次郎貞任」安倍氏の棟梁となった安倍貞任(寛仁三(一〇一九)年?~康平五(一〇六二)年)。ウィキの「安倍貞任によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『永承六年(一〇五一年)に、安倍氏と京都の朝廷から派遣されていた陸奥守・藤原登任との争いに端を発して、以降十二年間にわたって続いた前九年の役において、東北各地に善戦する。登任の後任として源頼義が翌永承七年(一〇五二年)に赴任すると、後冷泉天皇祖母・上東門院(藤原彰子)の病気快癒祈願のために大赦が行われ、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなったが、天喜四年(一〇五六年)に、阿久利川において藤原光貞の営舎が襲撃される阿久利川事件が起こると、頼義は事件の張本人と断定された貞任の身柄を要求し、父の頼時がこれを拒絶して再び開戦となる。天喜五年(一〇五七年)、安倍頼時が戦死したため貞任が跡を継ぎ、弟の宗任とともに一族を率いて戦いを続けた』。『同年十一月には河崎柵に拠って黄海(きのみ、岩手県一関市藤沢町)の戦いで陸奥守・源頼義勢に大勝している。以後、衣川以南にも進出して、勢威を振るったが、康平五年(一〇六二年)七月、国府側に清原氏が頼義側に加勢したので形勢逆転で劣勢となり、安倍氏の拠点であった小松柵、・衣川柵・島海柵が次々と落とされ、九月十七日には厨川柵の戦いで貞任は敗れて討たれた。深手を負って捕らえられた貞任は、巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取ったという。享年四十四、もしくは三十四』ともされる。『その首は丸太に釘で打ち付けられ、朝廷に送られた(この故事に倣い、後年源頼朝によって藤原泰衡』『の首も同様の措置がされた。平泉の中尊寺に現存する泰衡の首には、釘の跡が残っている)。なお、弟の宗任は投降し、同七年三月に伊予国に配流され、さらに治暦三(一〇六七)年太宰府に移された』。『背丈は六尺を越え、腰回りは七尺四寸という容貌魁偉な色白の肥満体であった(『陸奥話記』による記述)。衣川柵の戦いにおいては、源義家と和歌の問答歌をしたとされる逸話も知られる』とする。なお、「今昔物語集」には、『安倍頼時(貞任の父)は陸奥国の奥に住む「夷」と同心したため』、『源頼義に攻められ、貞任・宗任兄弟らは一族とともに「海の北」(北海道)に船で渡り』、『河の上流を三十日余り遡った当たりで「湖国の人」の軍勢に遭遇した、と伝えられている』とし、また後の『津軽地方の豪族・安東氏(のち秋田氏)は貞任の子、高星の後裔を称した』ともある。……そうして同ウィキには……かのおぞましき、戦争大好き天皇(すめらみこと)軽視の、アメリカの犬である現内閣総理大臣『安倍晋三も末裔であると』『語ったとされ、また第二十三回参議院議員通常選挙に向けて北上市で遊説を行った際、「貞任の末裔が私となっている。ルーツは岩手県。その岩手県に帰ってきた」と聴衆に語りかけた』という貞任が聴いたら絶対に怒るに違いないことが書かれてあった……

「天喜五年」一〇五七年。

「康平五年」一〇六二年。

「此れより、鳥海彌三郎義家の臣と爲る」先の記述を参照。配流されており、義家の家臣なんぞにはなっていない。

「寛治五年」これは寛治元年(一〇八七年)の誤り。

「其の戰塲は乃ち此の鳥海の邊ならんか」前に引用した「奥州後三年記」(現在は平安後期の院政期初期の成立と推定)のかの景正の武勇伝は(引用前の箇所から)「金澤柵」(かねさわのさく)とされる。現在、同柵は場所が同定されていないが、秋田県横手市金沢が比定地としてして有力であり、「奥州後三年記」が正しいとすれば、この戦場比定の寺島の謂いについてはハズレとなる。

「舊(もと)彌三郎が所領なり。故に鳥海を以つて稱號と爲す。然れども、其の靈を祭りて神と爲る所以を知らざるなり」秋田県由利本荘(ゆりほんじょう)市矢島町(やしままち)総合支所振興課の公式サイト内の「鳥海の山名由来」に以下のようにある(例外的に全文を引用するが、これ自体が「矢島の歴史」なる書籍らしきものからの引用である)。

   《引用開始》

 鳥海の山名がどういう関係でつけられたかは、この山の変遷をたどる上で、見のがすことができない。鳥海という山名が記録の上に現れたのは、和論語の中に鳥海山大明神とあることに始まるとされている。

 鳥海山の号は国史に見る所なし。和論語に鳥海山大明神と出づ。三代実録には飽海の山とありて山名を記さず。(大日本地名辞書)

 和論語が作られたのは、丁度頼朝の時代で、鳥海の山名はこの時までには、すでに一般から呼ばれていたと思われる。

 この山について変遷を考えると、古くは大物忌の神山、北山、飽海の山とか呼ばれていたようで、鳥海と呼んだのはその後のことであった。飽海の山というのは、由利郡にはまだ設置されず、飽海郡内の山であったからそのように呼ばれたのであるが、後世長く呼ばれた鳥海の山名は、どうしてできたのであろうか。結論からすると、安倍氏の全盛時代安倍宗任(むねとう)の所領がこの方面にあったことによるものとするのである。なぜかといえば安倍宗任を鳥海弥三郎宗任と称したことである。そのわけを調べると、宮城県亘理郡に鳥海の浦という所があって、ここが宗任の誕生地であるところから、その生地にちなんで鳥海弥三郎と称したと推定される。

 その後安倍氏の発展に伴い、岩手県方面に中心を移したのであるが、その地域に鳥海の地名が今に残っている。磐井郡の鳥海、胆沢郡の鳥海の柵等は、いずれも鳥海弥三郎に関係ある旧跡とされている。

 わが出羽方面にも宗任の所領があったかどうか明記されたものはないが、矢島方面には鳥海山の外に、相庭館附近に鳥の海の地名のあることや、子吉川を古くは安倍川と呼んだという古伝、さらに九日町村の修験永泉宗隆世氏の覚書の中に、天喜3年鳥海弥三郎宗任殿より御寄附三石有之由とか、笹子村流東寺の記録にも天喜年中、鳥海弥三郎より云々の文字があることからみて、由利郡全部が宗任の勢力下にあったと考えられるのである。

 今一つは、酒田方面と宗任との関係である。かの有名な藤原秀衡の母は宗任の息女で徳尼公と呼ばれた人である。その人は藤原氏滅亡の際、十六人衆と呼ばれる家来と共に酒田に逃れてきたと伝えている。現に酒田市の泉竜寺に徳尼公廟があり、また十六人衆の中の何軒かは今に残っているとのことである。

 以上のことから推定すると、由利郡を含めた飽海郡一帯にわたって、宗任の領地があったことを語るものでなかろうか。かかる関係から、鳥海氏領内の山として、鳥海の山名を生じたと考えるのである。

 その後安倍氏、清原氏、藤原氏とあいついで滅びたが、南北朝時代になると、由利鳥海両氏の対立が見られるのは、鳥海宗任の子孫が残存して一勢力をなしたものであろう。このように鎌倉時代以前、由利郡が鳥海弥三郎宗任と関係があり、鳥海の山名を生じたとするのである。

   《引用終了》

と、まさに寺島の説を立証するような内容で書かれてはある(なお、文中に出る「和論語」(「わろんご」と読む)は天皇・公卿・僧侶・武将などの金言や善行を集録し、それを「論語」に擬した書で、鎌倉時代の儒者清原良業(よしなり)が後鳥羽院の命で編述と伝えられるが、後人の偽作ともされる。寛文九(一六六九)年刊、全十巻)。しかしこれは、「鳥海」という語自体に古い(或いはアイヌの言葉かも知れぬ)地名意義があるのではないかと私は秘かに思ってはいるのである。]

(三)行脚隨筆上卷。

[やぶちゃん注:恐らく、江戸中期の曹洞宗の僧である泰亮愚海(たいりょうぐかい 生没年未詳:越後高田の林泉寺・長命寺、上野(こうずけ)沼田の岳林寺などの住持を勤めた)の著になる(文化年間(一八〇四年~一八一八年)刊か)随筆と思われる。]

(四)信達二郡村誌卷一〇下。及び信達一統誌卷六。

[やぶちゃん注:「信達二郡村誌」これは下に記された、先に注した農民であった志田正徳著になる地誌「信達一統誌」を補完する、明治三六(一九〇三)年に出版された中川英右編・佐沢広胖訂になる地誌と推定される(書誌は国立国会図書館のデータに拠る)。]

(五)封内名蹟誌卷五。封内風土記卷八。

[やぶちゃん注:「封内名蹟誌」「封内」は「ほうない」と読む(次も同じ。これは一般名詞で、「領土の内」の意この場合は仙台藩内を指す)。仙台藩士佐藤信要(のぶあき)が寛保元(一七四一)年に完成させた藩内の名蹟を纏めた地誌。全二十一巻。

「封内風土記」仙台藩第七代藩主伊達重村の命により、同藩の儒学者田辺希文(まれふみ)が明和九(一七七二)年に完成させた藩内の地誌。全二十二巻。以上の前注とこの注は、「仙台市都市整備局都市開発部富沢駅周辺開発事務所」発行の「富沢駅周辺地区 まちづくりニュース」第百三十号(ワード文書でダウン・ロード可能)のコラム記事に載るデータを参照させて戴いた。]

(六)岩崎淸美君編「傳説の下伊那」。

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションの画像に発見(当該箇所へリンクさせた)。]

(七)獨り魚やいもりだけで無く、安積郡の多田野村などでは、村に御靈社がある爲に、此地に生れた者は一方の目が少しく眇すとさへ言はれて居る。

(八)「民族」二卷一號「人を神に祀る風習」を參照せられたし。

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十一月発行のそれに載った柳田國男の論文。ちくま文庫版全集では後に「序」を附したものが第十三巻に載る。]

(九)新編武藏風土記稿卷四六。

[やぶちゃん注:文化・文政期(一八〇四年~一八二九年)に昌平坂学問所地理局によって幕府の公事業として編纂された武蔵国地誌。]

(一〇)北野誌首卷附錄二八三頁。

[やぶちゃん注:「北野誌」は北野神社社務所編で、明四三(一九一〇)年刊。現在の京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町にある北野天満宮の社史。「北野神社」は同神社の旧称(同社は明治四(一八七一)年に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名、「宮」を名乗れなかったのは、当時のその条件が、祭神が基本的に皇族であること(同社の祭神は菅原道真)、尚且つ、勅許が必要であったことによる。古くより親しまれた旧称「北野天満宮」の呼称が復活したのは、実は戦後の神道国家管理を脱した後のことであった。この部分はウィキの「北野天満宮」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら当該箇所リンク)の画像で視認出来る。]

(一一)上毛傳説雑記卷九に御靈宮緣起を傳へ、此神九歳の時力成人に超え、十歳よる戰場に出たなどと述べて居る。即ち亦神自らの言葉を書き留めたものであらう。

[やぶちゃん注:「上毛傳説雑記」は先に「行脚随筆」の作者として推定した泰亮愚海が古老の伝説を聴き取り、古記録を集め、安永三(一七七四)年に刊行した伝承採録記である。

「此神九歳の時力成人に超え」読み難い。「此の神、九歳の時、力(ちから)、成人に超え」である。]

(一二)南安曇郡誌に依る。

[やぶちゃん注:「南安曇郡誌」(みなみあづみぐんし)は長野県の旧南安曇郡(現在の安曇野市の大部分と松本市の一部)の地誌。長野県南安曇郡編纂で発行所は南安曇郡教育会。発行は大正一二(一九二三)年。]

(一三)相生集卷二、卷一〇など。

[やぶちゃん注:陸奥国南部の安達郡(岩代国)にあった二本松藩(現在の福島県二本松市郭内(かくない))の地誌。著者は藩士大鐘義鳴(おおがねよしなり)。全二十巻で天保一二(一八四一)年完成。]

(一四)藝藩通志卷七、陰德太平記の著者香川宣阿。歌人香川景樹の家なども此一門の末で、御靈は鎌倉のを拜むべき人々であつた。

[やぶちゃん注:「芸藝藩通志」広島藩地誌。先行する「芸備国郡志」を改訂増補して文政八(一八二五)年に完成。主著者である広島藩士頼杏坪(らいきょうへい)は頼山陽の叔父。

「陰德太平記の著者香川宣阿」「宣阿」は武士で歌人香川景継(正保四(一六四七)年~享保二〇(一七三五)年)で、彼の著作として最も知られる軍記物が「陰德太平記」。但し、正確には彼の父岩国藩家老香川正矩によって編纂されたものを二男であった景継が補足したもので、享保二(一七一七)年刊。全八十一巻及び「陰徳記序及び目録」一冊から成り、戦国時代の山陰・山陽を中心に、室町幕府第十二代将軍足利義稙の時代から、慶長の役まで(永正八(一五〇七)年頃から慶長三(一五九八)年頃までの約九十年間を対象とする(主にウィキの「陰徳太平記」に拠った)。香川氏が鎌倉氏の支流を名乗っていることは既出既注。]

(一五)下野神社沿革誌卷六。

[やぶちゃん注:風山広雄編。明三五(一九〇二)年~明治三六(一九〇三)年。出版地は栃木県芳賀郡逆川(さかがわ)村(現在の芳賀郡茂木町の南部)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める(リンク先は当該箇所)。]

(一六)能登國名跡志上卷。

[やぶちゃん注:「太田頼資著、安永六(一七七七)年記。「大日本地誌大系」の北陸の部に収録されている。同書は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来るが、当該箇所がなかなか見つからない。どなたかお探しあれ(ちょっと探すのに疲れました)。その画像のURLをメールで下さると、恩幸これに過ぎたるはない。そうすると、本文注で特定出来なかった場所をはっきりと限定出来るものと思われるからである。]

(一七)權五郎景政が信心の士であつたことは、吾妻鏡卷一五、建久六年十一月十九日の條に見えて居る。後世彼の一門を御靈社と結び付ける力にはなつて居たかと思ふ。言はゞ彼は我々の立場から見ても、尚其片目を傷けらるゝに足る人であつた。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の同箇所の原文は既に「神片目」の注で示した。]

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