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2016/03/18

戲戀ⅩⅩ倶樂部 原民喜

  戲戀ⅩⅩ倶樂部 糸川旅夫

 

 ミツセ曰く『戀は戲れでない』と。しかし糸川絹子曰く(絹子は僕の妹だ)『戀は戲れですわよ』と。

 床の間に鶴の掛繪がある。二匹居る。鳥を數へるのに二匹とは云はないがそこがダダだ。鶴は夫婦である。哲學者は是を見て叫んだ『死よ死よ死よ死よ死よ』と。何の事でせうか。

 とにかく僕は少し齒が痛くてメランコリーである。ベランボーめ。らんばうをしやあがんな。えつとしんさない。ありきしよ。アルツウル、ランボーは詩人で御座る。アフリカ征伐をして將軍となつた。自分もランボーの樣に勳章が欲しい。ところで此處に戲戀ⅩⅩ倶樂部を組織しようとするんだぞよ。會則に曰く一つ人間は忠孝を基とすべし。一つ人間は禮儀を正しくすべし。しかししたくなけらねばしなくてもよし。會費はみなさんいくらにしまほか。會長は觀音樣です。觀音樣は尊(たつと)き女性におわします。そして淺草の觀音樣は地震のときで燒けなんだ。なまんだぶアーメン。會場は何と云つても巴里のコスモポリタン、ハウスの○○室です。地下室では、阿片も飮まします。中田信雄がコンダクターですかね。金のなる木は此の世にないが癪にさわればゲンゴツぞ。イブセンの人形の家は燒けた。ナジモバは婆になつた粉毒だ。彼の女も入會を申し込まんとしつゝある。ところで本會の主旨は度々申しあげる通りてえ今晩は、電燈を消して下さい。××××です。

 (以下抹消)

 諸君諸君 山本宣治學士は(タダシアメリカ製)新マルマル主義の技師である。本會の顧問也。先生曰く『若き男の性生活は××××巡査が怒るから言へない。聞きたくば僕の所に申し込むべし』近頃、僕の叔母さんのジヤンヌダルクのお君(この女はマルビルの大將タイピストです)僕の處に相談に來た。『だつて、松井スマ子さんだつて、首を釣つて死んだのでしよねえ、ⅩⅩ倶樂部の會歌は首釣りの歌がいいわよ』と。最後に本會の歌を示す。

 (作曲は死んだシヨパンがします)

 ガタガタガタガタピー

 イタイタイ

 首ガモゲル

 モルヒネモルヒネ

   コロリンシャン

 

[やぶちゃん注:「戲戀ⅩⅩ倶樂部」の「倶樂部」のポイント落ちはママ。「おわします」「ゲンゴツ」「通りてえ」はママ。

 初出は大正一四(一九二五)年一月二十二日発行の『藝備日々新聞』。

「ミツセ曰く『戀は戲れでない』」「ミツセ」はフランスのロマン主義の作家アルフレッド・ルイ・シャルル・ド・ミュッセ(Alfred Louis Charles de Musset 一八一〇年~一八五七年)。詩・小説・戯曲などを広く手がけた。恋多きファム・ファータルであった作家ジョルジュ・サンドとの恋愛でも知られる。「戀は戲れでない」というのは実は彼が一八三四年発表した、レーゼ・ドラマ「戯れに恋はすまじ」(On ne badine pas avec l'amour)の題名から引き出したもののように思われる。ウィキの「戯れに恋はすまじによれば、『ジョルジュ・サンドとの恋が終わった後に書かれた。箴言喜劇と呼ばれた。小粋な恋愛喜劇仕立てだが、かなり辛い風刺が効いている』とある。昔、読んだはずなのに、すっかり忘れている。再読する気も起らぬ。私は喜劇嫌いなので、仕方がない。

 
「糸川絹子曰く(絹子は僕の妹だ)」原民喜の妹には「千鶴子」と「恭子」はいるが、「絹子」という妹はいない。因みに、姉は長女が「操」、次女が「ツル」、三女「千代」である。次の段落で二羽の鶴の絵が出るのは無意識の連関か。

「えつとしんさない。ありきしよ。」意味不明。ダダ詩としても、ここにだけ無意味な文字列を示したとも思われない。広島弁か? 識者の御教授を乞う。

「中田信雄」前の詩にも出たが、不詳。

「ナジモバ」アラ・ナジモヴァ(Алла НазимоваAlla Nazimova 一八七九年~一九四五年)はロシア出身の女優・脚本家・プロデューサー。その美貌と独特の個性でサイレント期最大の女優(特に悲劇での)と言われている。参照したウィキの「アラ・ナジモヴァによれば、一九二二年に「人形の家」で主演を演じ、一九一八年には『自分のプロダクションを設立し映画製作に乗り出す。彼女はオスカー・ワイルドやイプセンの作品を翻案してゆくが、大衆には受け入れられずに巨額の資金を失ってしまう結果になった』とある。『彼女によるイプセンの翻案は当時受け入れられなかったが、現在では高い評価を得ている』ともあって、直前で「人形の家」が出ていることと連関することが判る。この当時四十六歳。

「粉毒」「ふんどく」と読んでおく。ナジモヴァは女優であるから、旧来の白粉に含まれていた鉛の中毒のことを指すのであろう。因みに関係があるかないかは分らないが、彼女は乳癌に罹患している(これは後に克服。彼女の死因は心臓発作とされる)。

「山本宣治」(明治二二(一八八九)年~昭和四(一九二九)年)は生物学者で政治家。京都生まれ。東京帝国大学理学部動物学科卒。さらに明治四〇(一九〇七)年からカナダのバンクーバーへ五年間、園芸学で留学、現地の小学校・高等学校に通って大学進学を目指した(父が病を患ったとの報が入ったので志半ばで帰国)。この間、「共産党宣言」「種の起源」「進化論」などを学び、人道主義者やキリスト教社会主義者と交流を深めた。大正一一(一九二二)年三月、訪日していたアメリカの女性産児調節運動家マーガレット・サンガーに通訳として面会、彼女の影響を受け、性教育啓蒙及び産児制限運動に従事することとなる。その後、社会主義運動に近づき、第一回普通選挙で労働農民党から出馬して当選、治安維持法の改悪に反対して活動中、右翼に暗殺された。著書に「性教育」「恋愛革命」などがある(以上は複数の記載を参考にした)。

「アメリカ製」彼の勉学地はカナダであってアメリカではないが、恐らくは直近の影響を受けたマーガレット・サンガーがアメリカ人であったことからかく言ったものであろう。

「マルマル主義」これは伏字制度を逆手に取った遊びで、音が似る「マルクス主義」をも匂わせている(山本宣治は社会主義のシンパであり、労農党から立候補した際には、非公式ながら、共産党(当時は非合法政党)推薦候補でもあった)。

「若き男の性生活は××××ウィキの「山本宣治によれば、彼は『性教育啓発家としての立場から当時「手淫」などと呼ばれ卑しむべき行為とされてきたオナニーの有害性を否定した。小倉清三郎とともにオナニーの訳語を「自慰」という言葉に置き換えることを提唱し普及させた』とある。但し、『当時産児制限運動の支持者の中には、優生学をその根拠に置き、人間の遺伝形質の改良を訴える者が少なくなかったなかで、「種馬、種牛の様に人を産児の器械と見做して居る」と優生学を正面から批判した数少ない科学者であった。また、大正時代に厨川白村が主張した恋愛至上主義に対し疑問を呈してもいる』とあり、さて、かの山宣(ヤマセン)が実際、果たして「戲戀ⅩⅩ倶樂部」の顧問になって呉れるかどうかは甚だ疑問ではある。

「松井スマ子」新劇女優松井須磨子(明治一九(一八八六)年~大正八(一九一九)年)。明治四四(一九一一)年、『人形の家』の主人公ノラを演じて認められ、大正二(一九一三)年には島村抱月とともに「藝術座」を旗揚げ、トルストイ原作で抱月訳の「復活」のカチューシャ役が大当たりして人気女優となった。しかし、大正七(一九一八)年十一月に抱月(彼は妻子持ちで須磨子とは不倫関係)がスペイン風邪によって病死、二ヶ月後の一月五日に東京市牛込区横寺町(現在の東京都新宿区横寺町)にあった「藝術倶樂部」の道具部屋にて縊死自殺した(以上はウィキの「松井須磨子に拠る)。]

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